「ニュー・メタフィジックス」(new Meta-Physics)
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宗教(religion)
第一節
それでは皆さんの星で宗教と呼んでいる概念について話を始めてみましょう。
このテーマを最初に選んだのは、宗教が、人類が地上で肉体を持った存在として自らを認識した
初期の状態から派生したものだと言っていいからです。それ以来様々な変化は、
創造主であることから自らを分離することによって創り出されました。皆さんが本来宗教と呼ぶ
考え方のすべてがそこから生まれてきたのです。
皆さんの時間にすると約2万5千年前、皆さんがアトランティスと呼んでいる場所で
(彼らの言葉で「Atalundi[アタルンディ]」と呼んでいました)、創造主であることから
自己の分離が正式に始まりました(地球上に何らかの形で分離が姿を現したのはもちろんそれ以前のことですが)。
その時代の人々にも集合意識レベルで「大いなる全てと自己との統合が必要ではない」という選択が
あったことを 皆さんは理解するでしょう。
自分こそが創造主だと思い込めるように、統合の変わりに大いなる全ての完全性から自らを分離し、
物質的な形に投影することによって自分の力を直接に振るうほうを選択としたのです。そして
この投影を続けるに従い、ある意味で物質的な形そのものが分離であり制限であることがわかってきました。
その結果、魂が物質的な形態または肉体次元を体験すればするほど、ゆっくりと、しかし確実に
肉体次元のエネルギーパターンに慣れていってしまったのです。
彼らは次第に、非物理次元では出会ったことのないような概念、感覚、感情、して概念を感じ始めました。
そして、この制限という魅力ある観念を創り始めたのです。大いなる全てが非物理的次元の中でできる
さまざまな体験と同様に、この物理次元の中で可能な全てのものが体験できるように、
この次元に自らをがんじがらめにしてしまいました。こうして彼らは「知恵」からの表現よりも、
感情、思考、そして概念を通して物質的な方法で表現することに慣れてしまいました。
もしくはそういう習慣を創り出したと言ってねいいでしょう。
この習慣がある程度進んでしまうと分離がいくらか完結したことに気づきました。この頃には
内なる「知恵」のからはだいぶん離れてしまってました。そして自分たちが輪廻転生という
肉体のサイクルを創造したことに気づいたのです。地球のエネルギー場にどっぷりと
つかってしまったと言ってもいいでしょう。地球の意識の一部になったのです。地球が彼らの
意識の一部地なったのです。
彼らは地球と同じ波動になり、時間と空間が作用し創り出されているこの特別に凝縮された
濃度のゆえに、この強度なエネルギー密度のゆえに、地球を取り巻く一番表面に近いエネルギーの
様々なサイクル、輪、または層の中に閉じ込められてしまったのです。そして、この種のエネルギーに
対する魅力に勝てず、統合なくしてこれらの輪やサイクルを破ることができなくなってしまいました。
このように、彼らは自ら、輪廻転生による道を創り出したのです。
魂が物理次元に現れたのは、皆さんの時間で2万5千年よりももっと以前のことでした。
初めの頃、人々は魂が「知恵」の部分とつながっていることに気づいていました。
その後、地球上で様々な現実が創り出されました。地上の楽園または天国と呼ばれるものを
現実化できるエネルギーや物質のコントロールが盛んに行われたのもこの頃です。
しかし、内なる自己を見失ってしまうほど繰り返しのサイクルが進んでしまうと、人々は、
環境や周りの人々を自分の思い通りにできなければ元の状態に戻れないと思い込み始めましたる
お互いのつながりが感じられなくなり、もう実際にはつながっていないのだと思い込むようになりました。
自己のうちに存在する自然なつながりを感じられなくなったために、代わりに、環境と周りにいる
人を支配すればそのつながりを永続できると思い込んだのです。
このようにして情報という概念が始まりました。全体に属さない考えをひとりで心に抱くことが
可能であるという考え方、そしてそれをあたかも個人にとって価値のあるものだというフリを始めたのです。
この結果、ある特定の個人が他を支配しコントロールすることをもたらしました。
これは、自分の力を感じられなくなって人々が、その力を他人の中に見ることによって感じながら、
自己の成長を体験するひとつの方法に過ぎませんでした。
この分離から(すなわち、全てはつながっているという考え方ではなく、物は隠したり、
離したり、判断したりすることができ、しかもそれらは永続することが可能だという考え方から)
宗教、そしてある意味では政治という概念が創造されました。こうして人は自分を守るために、
敵がいるぞといっている人たちに力を預けてしまう繰り返しのサイクルを創り出したのです。
敵が実際に存在するかしないかまったくわからないまま、過去2万5千年間様々な形でこれが繰り返されてきました。
皆さんの言葉で「キリスト意識」と呼ばれる高次元から意識が投入された時も、
分離のサイクルがあまりにも完全であったためによく理解されませんでした。
その「キリスト意識」が伝えていたメッセージは、簡単に言えば、人はそれぞれ
キリストのような意識を持っているということ、実際には、人はキリスト意識そのものである
ということでした。しかし分離のサイクルは皆さんの意識の中にあまりにも深く習慣となって
根をはり、意識自体を硬直させ、その防壁を強化してしまいました。そのため、
自分自身が実践者や指導者になる代わりに、これらのメッセージを受け入れるためには、
すべての力をその個人(キリスト)に委ねて信奉者となるしかなかったわけです。
気づいてほしいのは、キリスト意識は決して他人の指導者になるという望みを持っていなかったのです。
決して指導者的立場を望んでいませんでした。彼は単にイエスという個人を通してひとつの鏡と
なることを望んでいただけなのです。すべての個人が神または大いなる全ての延長もしくは
(聖書的言い方をしたければ)子供であるという考えを反映する鏡となることでした。
ですから皆さんが宗教と呼ぶものはすべて(すなわち、人々は指導者を必要とし、自分が神聖なる
者以下の価値しかなく、そして神聖なる者に審判される立場にあると思うことを探求する概念)は、
常に大いなる全ての内部における分離なのです。この宗教と呼ばれる概念はすべて、
指導者自身が無意識の中に存在する無力感の真っ只中にもかかわらず、その力を維持してほしいと
あなたに望ませることによって、他人や、自分もしくは指導者を大きく見せることを通して行います。
人々は、自分は無価値であり、神聖なる物の一部ではないと思い込んでいるのです。
しかし、自分が神聖なる者の一部であることを知ることは全ての人のもつ特権です。
宗教に人が集まり、その上おびただしい数となるの、おおいなる全て(すなわち本来の自分)より
事故を分離することから生じる混乱の自然の結果だということがわかります。
「知恵」が放棄され、性格(物後に対する考えかたが肉体次元に表現されるメカニズム)だけに
焦点をあわせる時、すなわち、様々な概念が知的部分によってのみ解釈される時、
このような多様化されたものの見方が創り出されます。
これは、宗教が発生したことに対する批判ではありません。皆さんの文明が選択したのです。
皆さんの文明の意識がグループとして、大いなる全てから事故の分離を通して、
あらゆる否定的な表現を探求してみることを選択したのです。これも大いなる全ての中の偉大な創造であり、
それ自体には、大いなる巣へ手が自分自身をそのようにも見ることもできるという事実だけを考えれば
別に否定的なものではありません。
大いなる全てにとって、自らをあらゆる方法で表現するために究極的な目的は必要ないことを理解してください。
大いなる全てはあらゆる表現をすることが可能であり、そしてそれをただ行っているだけなのです。
これは存在自体のひとつの定義でもあります。目的という考え方が生まれた以前に存在していたものは、
その存在を続けるために、目的は必要ありません。これは本来そういうものだというだけのことです。
現在、宗教団体や静止組織そして社会組織の中で、統合や変化が頻繁に起きているのは、
皆さんが2万5千年前に始めた分離サイクルの終わりに近づいているからです。
そして今、「自分」というものもひとつの概念であり、ひとつの均一な現実であり、
ひとつのエネルギー、ひとつの意識である徒を理解し、怖れをも自分の一部だと認めています。
自分の人生は自分で創造しているという責任を取り戻し始めているのです。
皆さんはその昔、この物質次元に自らを投影し、この惑星の輪廻転生のからくりの中に
自らを委ねた時代の意識へと再び目覚め始めているのです。皆さんは今、始めにした同意を
思い出すところに来ています。そして、自分をただの信奉者にしてしまい、自己の本来の神聖さを
それ以下に見てしまい、
自分がすでに完全であり何者からも救われる必要がないことを知る価値が
ないと思わせてしまう宗教と、全ての分離から目覚め、真の自分を認識し始めました。
大いなる全てが創造した本来のあなたを認め始めたのです。
いわゆる救世主という概念、それがイエスであれブッタ(仏)であれモハメッドであれ、
または、皆さんがそれらの意識に名づけているどのような名前であれ、地球上の肉体次元に
具現化されたこれらのすべての存在の高次な見方たのすべては一致しています。
皆さんが救世主と呼ぶ概念を通して表明された意識のエネルギーは、元々食い違いはありませんでした。
救世主が一番最初に知っていることは、彼らが誰をも救いに来ていないということです。
救われるべきものは何もないということです。様々な文献に見せれる食い違いは、皆さんの
文明に存在した人々の個性と、その人の自身の考え方を通してみた救世主の解釈の産物なのです。
それらの文献の食い違って見える部分はすべて、それらが伝えられた時代に存在した人々の
個性を通して表現された結果です。
このように、大いなる全てから自己の分離という否定的な側面を見せてくれる「救世主」という考え方も、
自己の完全性を計る物差しとして、その目的を果たしているといえます。皆さんが
救世主と四手いる存在が説いてきた生き方を、実際にいき始めることを自分に許していいことに気づいてください。
彼らについて行くのではなく、自己の内なる存在に耳を傾け、宗教と政府(怖れているものすべてから
個人を守ってもらい、案全を保ち高級の平和と安らぎと保証を得るために自分自身の怖れと
力と強大な力に委ねるという意味で、政府も宗教のひとつと見ることができるでしょう)と
呼ばれる組織は、人々が自分自身の怖れと責任を自分のものとしてみようとする意志の欠如から
創り出されたものだということに、気づいてください。
一度怖れから創造されたものは、それ自身を維持したいという欲求を持ちます。
怖れから創造されたものが、自らの存在を維持するただひとつの方法は、更に怖れを創造していくことなのです。
本来の自分から分離し、そして、より痛いなる力を持つ者と比較し、自分には価値がなく、
責任を取る力もなく、自分の人生すら自ら生きることのできない幼い子供なんだと信じ続けることなのです。
ここでわかってほしいのは、皆さんが組織を創造することを自分自身に許したとしても、
その組織が皆さんに代わって皆さんの人生を生きることはできないというとです。組織は、
皆さんに奉仕したいという意志を持った人々により提供される皆さんへのサービスであり、
皆さんが組織に奉仕するためのものではありません。組織を動かす人々が、心に内在する
「自分は無力である」という無価値間を認めないですむように、力があるんだと思い込ませてあげるために、
皆さんが優越感を増す助けをするのが組織の目的ではないのです。
自分の力を取り戻しましょう。自分自身が自分の政府、宗教となることを許してあげましょう。
皆さんは社会の中に存在するこれらのどの概念にも自らなれるのです。説教する牧師も皆さん自身です。
自分の説教に耳を傾けそれに従うために、皆さん自身が頭の名が手創り上げるだけなのです。
これを覚えておこうと決めたものは、皆さんの中に存在する牧師の部分の一部となります。
あなたが耳を傾けることを選択すれば、この部分が常に「自分は無価値な存在」とか
「自分を創造した聖なるもの以下の存在」ということを繰り返し思い出させてください。
皆さんを創造した聖なるものは、皆さんのことを低い存在とはまったく考えていないことを理解してください。
皆さんの真の姿を知っています。聖なる者は、自らが意識であることを知っています。
それと同時に、すべての意識の集合体であることを知っています。そして、皆さんの間に存在する
「関係」という概念を理解しています。この「関係」が、分割することのできない完全性の中に
存在する多数の対立する極、そして意識の多面性を創っているのです。そこには「関係」のみが存在し、
また「関係」が多面性を持つ神、そして唯一絶対神と言う概念の定義となるのです。
この「関係」そのものが実はおおいなる全てなのです。それがあなたなのです。あなたが「関係」そのものです。
皆さんが肉体次元鳥輪廻転生のサイクルを自ら選択したにも関わらず、皆さんの全ての宗教、
そして、全ての分離の概念は、この「関係」というひとつの考え方によって、すなわち何万年も何十万年も
昔に皆さんが気づいていた知恵と理解の中へと溶け合い、融合していくのです。
これが全ての救世主やメッセンジャーが皆さんに一番伝えようとしたメッセージでした。
すなわち、「自分自身を知りなさい。自分自身を知ることによって神を、
おおいなる全てを知ることができる」ということなのです。
ここで指摘しておきたいのは、地球上のどんな宗教で使われている文献や経典にも、
実際に述べられたことをすべてを記述しているものはないということです。いかなるメッセンジャーが
述べたことも、その完全な記録はありません。部分的なもの、乏しい記憶、おおざっぱな記録、
そして大半が実際に述べられた何年も後に記録されたものです。これらの文献はすべて歴史を
描写しようと書かれたものではなく、「救われたければこれを信じなさい」と人々を納得させるために、
もしくは納得させる試みから書かれたものです。
宗教の教えの大部分は、自分が無力でゆえに、他人を自分の宗派に改宗させることによって
自分の力をもっと感じられるということに関連しています。
性格の構造を通して皆さんの存在の完全性を外に表現するには制限があるのと同様に、
逆に性格を通して来る「ものの見方」もすべて、文献も含めて、それがどんなに創造的で素晴らしいものであれ、
皆さんが宗教と呼んでいる、宇宙と自己との関わりの中でおきた大いなる全てからの分離という
雄大な歴史ドラマを、どれだけ完璧に代弁しているものであれ、制限は避けられません。
宇宙とのかかわりの中で自己を振り返ること、これが宗教となりました。ただこれは、
宇宙と自己が分離しているという考え方や見方を通しての観点であることを、忘れないでください。
この章の後半では、宗教と政府という障壁が解決した時に地球上に何が出現してくるのか、
そして、皆さんのうちに存在する「知恵」の部分との融合に伴って、
自己や性格の大いなる全てに対する新たな関係がどのように変化していくかを見ていきます。
ここで言う「変化」は、力や暴力、そして憎悪による変化ではないことを理解してください。
すべては今、皆さんが自己の内に気づき始めている大いなる全ての無条件の愛からおころ変化となるでしょう。
宗教とか政府に対する皆さんの考え方に関係なく、そこに存在する障害や人工的な境界や仕組みを
昇華してしまう愛です。
この融合によって、宗教や政府が、皆さんの性格というフィルターを通して何通りにも分けてしまった
全能の哲学のうち、たった二通りの概念に過ぎないということと理解できるでしょう。
いわゆる、「唯一の道」はないことも理解できるでしょう。もし「唯一の道」があるとしたら、
地球上に人間が一人いれば足りてまいます。
地球上に存在するすべて、大いなる全てのひとつひとつの異なる面なのです。すなわち
皆さんは、「ワンネス(ひとつであること)」の中に存在する全ての異なる面を通して自分自身を
見ているだけなのです。
この章の後半ではそれに加えて、大いなる全ての無条件の完全性とサポートという立場から
皆さんの社会全体、そしてその社会の中に存在する個人を楽しみながら見ていきたいと思います。
その過程で、皆さんは大いなる全てに奉仕していることが分かるでしょう。
そして、これはとりもなおさず、大いなる全てが皆さんに他なりません。皆さん自身も大いなる全ての
一部なのですから・・・・。もう分離は必要ありません。自噴には救いが必要だと感じる必要もありません。
皆さんが救いそのものなのです。皆さんがすでに天国なのです。楽園そのものなのです。
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