「ニュー・メタフィジックス」(new Meta-Physics)
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はじめに Foreword
本書では様々な概念を皆さんと分かち合いながら見ていきますが、その中で次のようなテーマを扱っています。
(順序は異なるかもしれません)
・哲学
・宗教
・精神世界
・科学
・創造性
・地球外文明と意識
・過去世
・未来世
・同一次元内の平行自己
・多次元的自己
・時間と空間
その他にも、「鋳型の超物理学(テンプレート・メタフィジックス)」の超物理的そして物理的側面に
関しての概念は、特別に章を設けて話します。また、量子論や宇宙旅行についてもいくつか話します。
これらとはまったく別に「性格」についても話をします。これらより皆さんが心理学と呼んでいる
分野の様々な考え方に触れます。
質疑応答や単なるおしゃべりをする機会も設けます。
心理学と性格の個所では、チャネリングや冷媒(ミディアムシップ)と呼ばれる概念、
また意識全体に関しての幅広い見方についても話します。
これらに先立ち、まず、次の表を示しておきます。
これは上に行くほど高い次元ということになります。
それでは皆さんが哲学と呼ぶ概念についての話から始めましょう。皆さんが哲学と呼んでいるものは、
本質的には「事故や現実に関してのいろいろな見方」もしくは「異なる方法論や考え方の立場から眺めた
単なる概念」だということを理解できるでしょう。ここでは、これらの「見解」もしくは「ものの見方」
を創造している母体となるものについて見ていきます。
いわゆる「存在」に初めも終わりもありません。皆さんの概念における「初め」から「存在」はありました。
ここで理解してほしいのは、「存在」とは本質的にそれ自体が完全な定義づけになっているということです。
時間または空間のどの任意の点から見ても、常にそれ自身の定義となります。
すなわち「存在は存在する」というだけなのです。
これでは少し単純化しすぎだと思うかもしれません。でも、私達は物事を単純に見ることから
始めようとしていることに気づいてください。
存在から派生したすべての概念、そしてそれらの概念から生まれたすべての行動が分化していた
様子を追っていきます。そして最後に、存在自信の単純さへと戻っていきます。
存在から始まり存在で終わるわけです。この初めと終わりの中間にあるもの、
すへての存在自体の内部で起こっている相互作用と見ることができます。
それらの相互作用のたどるすべての道はゼロから始まりゼロで終わり、存在自体がもつサイクルと
円の性質を完結します。それでいて存在自体には始まりも終わりもありません。
存在は常に存在していました。これからも存在し続けるのです。
存在から最初に分化または派生するのは「知恵」、すなわち自己に対すする気づき、
自分自身が大いなる全てであるという気づきです。これが「存在」から派生する第一番目のものです。
気がついてほしいのは、ここでは目的が必ずしも必要ではないということです。
皆さんは以前とか以後という言葉を使いますが、目的という概念が創られた以前にも
存在は存在していました。目的という概念は存在中で創られたのです。すなわち、目的という
概念ができる以前からあったものは、別の目的がなくでも存在し続けることができるというわけです。
単純に考えてみてください。「存在」が「存在」というひとつの概念に変化したのは、
だだ単に「存在」にはそうする能力があったということです。存在が起こしえることは起きます。
皆さんの文明ではこの考え方を「創造のそれ自体が禁じないものを要求する」と表現します。
ですからどのようなものでも、存在すると思えるものはすべてどこかの次元に必ず存在します。
何が存在し何が存在し何が存在しないかという基準になるのは、ただ単に、存在しないものは
創造することすら不可能だということです。皆さんの想像、すなわちイマジネーションは
すべてひとつの波動です。エネルギーが形となったもので、ある瞬間に時間と空間を有し、
エネルギーと位置、場所、実体をもち、フォーカスすることによって知覚される形となる力を持っています。
このようにして皆さんが想像するものは、必ずどこかの次元で存在しています。
存在しないものは想像すらできないのです。
皆さんの社会でも「異なる結果を生じないものは同一物である」ということがいろいろな言い方で
表現されています。これが皆さんの文明で「相対性」と呼ばれる考え方のすべての基礎を物語っています。
別の言い方をすれば、「もし存在しない状態を体験したとしても、その体験を知る由がない」とも言えます。
「知覚できる体験」という概念自体に正当性がなくなります。ですから哲学には、
体験できるもの、想像できるもの、そして考えることのできるものはすべては存在自身の一部であり、
実際に存在するといえます。思考も存在します。様々な概念も存在します。存在も存在します。
皆さんの文明において、いわゆる本当の現実だと信じられているものすべては、根本の「存在」から
「知恵」が、「知恵」から「概念」が、「概念」から「感情」が、そして「感情」から「知性」が生まれるのです。
これは「存在」の中に存在する分割することのできない創造の完全性から、
皆さんが物理的現実と呼ぶ次元へのエネルギーの移動、多様化、そして特殊化についての話をしています。
皆さんが思考とか知性と呼ぶものは、この物理的現実から創り出されるものです。
非物質的な世界において知性というものはありません。意識はあります。概念もあります。
そして非物質的な世界では、皆さんは概念そのものだということに気づくでしょう。
(これについては後ほど触れます)。
この物質世界においてでさえ、、皆さんは概念そのものなのです。知性を持っているという概念、
物理的現実とは何であるかを定義づけしたり、実際にこの物理的現実を創造することは、
本質的な存在そのものであることや概念そのものであることからの分離を意味しています。
そして結局、存在そのものの中で「自分とは時間と空間の中に存在する何かである」という観点を創り出します。
皆さんはこの物理的現実という観点を、大いなるすべてが自らを映し出すための様々な
方法を加えるもうひとつの手段として創り出しました。ただ単にそのような見方を
創り出すことも可能だというだけで・・・・。
皆さんの社会におけるすべての行動、すべての人間関係、仕事や遊び、思考や観念などは
単なるひとつの見方です。。皆さんの科学さえも、皆さんが現実ををどのようなものであると
信じているかを説明する単なる見方に過ぎません。科学をこのように捉えてみるのは大切なことです。
科学は現実そのものを表しているのではなく、人間の知性が現実はこうであると信じるものを
定義付けしているのに過ぎないことを、地球の科学者でさえさまざま方法で認識しています。
存在そのものを説明するのは不可能です。それは説明という定義付けをすること自体が、
すでに特殊化したり意識の焦点を絞ることになり、存在の完全性という全体像に比べて、
常に小さいものとなってしまうからです。かくして皆さんの様々な考え方(例えば皆さんが宗教と呼ぶもの)
に基づくどんな定義付けも、いかなる方法に姿を変えようとも、それらは単に全体の中の
ひとつの考え方、ひとつの見方に過ぎずほかのものとの差別化であり特殊化にすきません。
地球の科学者は「存在」を説明し表現できると思っているようです。しかし「存在」の完全性
そのものを体験することは可能であるにもかかわらず、それを説明することは、多くの場合、
本質的に出来ないものなのです。
存在を象徴的に「シンボルとして」表現し、それらのシンボルを知的に理解することは可能です。
しかし、存在をどれだけ完璧にシンボルとして表せたからといって、存在そのものを
体験することとはまったく異なります。物理的現実の中にあるものすべて、そして、ちょうど皆さんの夢が、
表層意識が集めたシンボルの集合体であるように、皆さんが物理的現実の中で行うことすべては、
単なるシンボルでしかありえないのです。夢の中のシンボルは、夢の状態で皆さんが体験していることを
一番よく表すように表層意識、すなわち、肉体を持った自我の意識によって選択され視覚化されたものです。
夢として記憶している出来事は、実際に起きた事柄を小著陽的に反映することはありますが、
実際に起きたそのものとは異なります。皆さんの記憶が創り出す夢そのものは、皆さんという存在が
純粋に体験したことに対して、意識が納得するように創り出している解釈の連続であることが分かるでしょう。
これも「知恵」のレベルにおける大検であり、体験するためには観念や感情そして知性の部分は必要ありません
(ただ、夢の記憶として描写されるシンボルは、観念、感情、そして知性の三つの分野から選び出されます)。
夢の実現そのものは、「存在むのすぐ下の「知恵むのれベルにおいて起きます。これは物理次元の上部
(観念までが物理次元に属します)にあり非物理次元に属します。このような考え方を皆さんの
物理次元に取り入れていくことは出来ます。後の章でも知恵のレベルにおける実現化についての話をします。
私達が哲学と呼でいるすべての概念は、物理的現実以前にある「知恵」のレベルにおいて創造されています。
そして、物理的現実の世界で皆さんが哲学と呼んでいるものは、「知恵」のレベルにおいて
同意した事柄や決断、ものの見方から直接持ち込まれたものです。「知恵」の中でどのような
物理的現実の世界を生きていくかということに関するすべての観念を、物理的現実が存在する以前に
選択したものです。
私達の文明における哲学は、物理的現実に実現化しているもの、もしくは、実現しえるものです。
でも、私達から見ると、皆さんの文明では哲学が、物理的現実とは異なるところから別のものだと
考えられているようです。科学だとか経済だとか宗教というように、皆さんは哲学を物理次元において
おきていることを見るひとつの方法だと考えています。
確かに宗教は哲学の考え方を多く含んでいますが、それでも根本的に純粋な哲学ではありません。
実際には大きく異なっていて、まったく異なる概念が物理次元に表されたものです。
こについても後に触れますが、ここで理解してほしいのは、私達が哲学と呼ぶものがすべての概念を
本質的に内包し、何者からも分離し得ないものだというとです。これに対して皆さんが
哲学とみなしているものは、現実世界に本当の影響を及ぼしていないという意味で、
何かしら浮いたものとなってしまっています。
こうして見れば、皆さんの科学の一分野である物理学の中に、なぜ哲学の概念がすでに
組み込まれ始めているのかがわかるでしょう。この本に書かれた精神世界と物理学、
そして最後の「鋳型の超物理学(テンプレート・メタフィジックス)」の話を終わる頃には、
哲学がいかに地球の文明のあらゆる分野と絡み合っているかを見ることができるでしょう。
そして、皆さんの物理学がある意味で究極の哲学となること、またそれが矛盾なく他のすべての考えを
その中に内包することが見えてくるでしょう。皆さんの物理学が、存在そのものの哲学的探求であることを
理解してください。そうすれば、実態がないと思われている哲学が、実は物理学から分離不可能な
ものであるとがわかるでしょう。
物理学において皆さんが物理的な現実だとみなしている「すべての場の統一理論」の中に、
存在そのものの基礎を形作る物理的現実の「鋳型(テンプレート)」が含まれています。
(これらの鋳型は非物質宇宙において生じます)。そして、これらの「鋳型(テンプレート)」
から皆さんが哲学的観点と呼ぶ「知恵」が発生かるのです。
哲学とは単に「知恵」の部分から創造された異なるすべての観点であり、そこから物理的現実世界の
さまざまな分野が生じてくるわけです。
これらが皆さんを駆り立てるエネルギーであり、意識の力であり、この異なる観点を使って皆さんは、
物理的現実と呼ぶ世界において創造性を探求するための道具を創り出しているのです。
今回この本が完成する頃には、このプロジェクトにかかわった人すべてが(自分自身のエネルギーの
統合を自分に許すことによって)、私達が「鋳型(テンプレート)」と呼んでいる概念を十分に理解できるでしょう。
そして、物理的現実の中で「鋳型(テンプレート)」の形、働き、そして効果を駆使できる
皆さん自身に能力に気づくでしょう。
ここで私達は再び、この本を作ろうとしている皆さんの意志に感謝したいと思います。
皆さんの創造のサポート、そして、皆さん同士や私達との大いなるすべての内に存在するすべての
意識との共同創造サポートとなるように、皆さんのひとりひとりに「存在むの部分から無条件の愛を送ります。
(休憩)
それでは再び始めます。この章のしめくくりにあたって、こり本の後のほうでふれる様々な
話題の基礎とる話をしたいと思います。
これまで皆さんが哲学と呼んでいるものがひとつの観点や見方以外の何ものでもなく、
そして、これが地球上で知られているすべての分野の基礎を成しているということについて
話してきました。ここでは、これらの観点を物理的現実の中に、または肉体次元において、
形を持ったものとして実現化する「性格」と呼ばれるメカニズムについてお話しましょう。
まず、知ってほしいのは、「性格=あなた自身」ではないということです。性格とは物理次元において、
思考、分析、理論化、判断などの知性と呼ばれる部分をもつことを可能にし、表現することを
可能にするために創られた人工的なメカニズムであり、否定的な意味ではなく単なる
見かけ上の仮面のようなものだといえます。
この「性格」という道具を使って、 意識のものの見方やや考え方の上に、
自分なりの道や仕組みを創り上げていることに気がつくでしょう。そして、自分の持っている
哲学を表現するために創り出した自分固有の性格や知性によって、自分にしかできないユニークな
方法やカラーをつけて表現することになります。
性格はプリズムにたとえられます。白色光がプリズムを通り抜ける時、可視光と呼ばれる光の帯(スペクトラム)
に分解されます。同様に性格は、完全ですべてを含む分割されていない意識を、
その性格の見せる様々な側面に分解します。それを使って自分の現実(皆さんの日常の体験と
呼んでそこに花映されている物理的現象)を生じ、そして創造しているのです。
性格のプリズムは観念、感情、そして知性(または思考)の三つの頂点からできていることを
覚えておいてください。
ここで「存在」から、物理的現実までの五つの波動のレベルについて話しましょう。
一番初めは「存在」そのものです。そして二番目は「知恵」でか。「知恵」が「存在」からの
最初の変化、すなわち派生物となります。純粋で均一な「存在」が自分自身を知った時、
「存在」はすでに分離を始めたことになります。最初の分離、最初の分化は「知ること」なのです。
「知恵」は、完全な意識から生まれた非物理的な産物です。「知恵」の下には「観念」、
その下には「感情」、そして「知性または思考」がきます。ですから、この中には、
最後の三つが物理的現実という幻想を創造するために使われることになります。
このように「知恵」は「観念」以前にあり、「間念」は「感情」以前にあり、「感情」は「思考」の
前にあることを理解してください。そして、皆さんの「知っている状態にある自己、大いなる自己、
または非物理次元の自己」は、常に物理次元における性格の中で探求している様々な考え方を
すべて完全に認識していることに気がついてください。
皆さんはどのような目的があってか、この物理次元における性格の中で自分自身に制限を課しています。
しかし皆さんの「知っている状態」にある大いなる自己は、常にこれらの制限に縛られないところにあるのです。
ですから、地球上で「性格」を通して創造された哲学は、簡単に言ってしまえば、すべてある程度の
制限を当に免れません。この本ではみなさんの「知恵」と性格の統合、そして「知恵」、
「観念」、「感情」、それに「思考」を分離している壁を取り除くことを試みます。
そして地球上の様々な分野において、まったく新しい見方を紹介し、存在としての自己という考え方に話を進めます。
皆さんの性格は、もともと人工的なものであり、ゆえに変えることが可能です。実際、性格は
常に変化しています。たいていは時間的にスムーズに変化するので気づきませんが、時には非常に急激に変化します。
天啓をうけた時や自己の気づきや瞑想を通じても、それがよく起こります。皆さんが乙込みと呼んでいる
状態(否定的な判断を与えなければ、それ自体は本来否定的なものではないのですが)を通じても変化します。
落ち込みとは、常にひとつの形の瞑想でしかありません。自分の求めている答えが外には見出せないと知って、
自己のうちへと目を向けている状態です。あなたがこれを行っている時には、
自分していることがわかっています。それが否定的なものとなるのは、この状態を非社交的だと
判断した場合(「自分の問題に直面しようとせずに逃げている」などと少尉の判断を受け入れてしまった時)です。
こういう自分に自分を置く時、あなたは自分で何をしているかを知っています。
あなたはウチへと入っていっているだけなのです。自分の観念や感情などによって創り上げている
性格を構成し直しているのです。そして再び浮上してくる時には、あなたは文字通り
新しい性格と物の見方を持った新しい人となります。
皆さんの性格はこのように柔軟で、「知っている部分」がわざわざ肉体を選んだその瞬間瞬間の
目的に応じて、どのような形にも変化できます。
このように、哲学を通してのものの見方という考え方、そしてその見方を通して
皆さんの物理的現実世界に表現される性格とメカニズムを理解することができるでしょう。
同様に、これらの様々な異なるものを溶け合わせる融合の方式を使うことによって、
地球に存在する様々なものがいかに創り出されてきたかを見ることができるでしょう。
これを各章の前半で行います。そして後半では、皆さんの「知恵」または意識レベルと正確全体との
融合により、今までまったく異なる分野とみなされていたものが、
いかに関連しているかを理解できるようにフォーカスします。
これで、この章を終わりにしたいと思います。私達に分かち合わせてくれた皆さんに感謝します。
それではおやすみなさい。
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