2010-04-07 グローバリゼーションの意味 
近ごろ日本企業の課題としてよく指摘されるのが、「グローバル企業への脱皮」だ。素材メーカー、電子デバイスなど部品メーカー、さらに、工作機械、自動車や電気製品メーカーなどを中心に、日本企業には世界中に商品を輸出し、売上の半分が海外という企業も少なくない。
しかし、これらの企業が“グローバル企業”か?と問われた時、自信をもって「もちろんさ」と言える状態にはない。なぜだろう?なぜ海外でも名の通った有名大企業さえ、世界からグローバル企業として認識されないのか?
それは、グローバル化しているのが「技術と商品」だけだから。反対にいえば「組織と人」が全くグローバル化していないからだ。
日本人男性だけで構成される役員会、日本人で固めた世界各地の現地法人の責任者、日本の本社だけで行われる企業研修、日本人だけに適用される給与テーブルや退職金制度・・・
たとえ世界中で商品を売っていても、たとえ技術が世界中で賞賛されていても、組織はかたくなに「日本人(の男性)だけ」で運営される。これを“グローバル企業”と呼ぶ人はいない。
これらの会社が世界市場に進出する時の方法と、欧米企業が世界に進出する時の方法は大きく違う。
欧米企業は自社内に、世界各国にルーツをもつ社員を抱えている。なぜなら、まず社会全体が移民や留学生を大量に受け入れており、様々な国の人材が多く暮らし学んでいる。企業は優秀でさえあれば彼らを雇う。ビザの問題などハンディを抱えながら欧米企業に雇われる移民や留学生は、普通のアメリカ人学生と比べてもとびきり優秀な場合が多い。
彼らは必ずしも“海外要員”として雇われるわけではない。その企業の基幹社員として雇われ様々な経験を積む。そしてある日、その企業が海外進出を検討した際には、極めて質の高い現地インテリジェンスを提供できるし、実際に祖国での市場開拓の仕事に志願する人もいるだろう。
欧米企業は、世界各国で育った社員=当然に現地語が話せ、現地の慣習に無理なく溶け込める仲間を最初から組織の中に持っているのだ。もしくは、進出にあたって現地の人に事業を任せるべく、外部から適任者を探してきて雇う場合もある。
一方の日本企業はどうか?
彼らは世界のどこに行くにも“自分達で出て行く”。自分達とは日本人男性のことだ。北米に、欧州に、中国に、中東に、まずは“臨時事務所”を開き、次第に大きくして“駐在員事務所”とし、さらに数年を経て“支店”や“現地法人”にしていく。時には10年、20年をかけて、海外に(日本人による)拠点を築く。もちろん相当の規模になるまで、それらの拠点のトップはすべて日本人だ。
現法が大きくなると若手社員を送り込む。彼らももちろん“日本人男性”だ。若手に海外で働く体験をさせ、時には半年から一年間、現地で語学学校に通わせる。日本企業にとって「世界に進出する」とは、「日本人男性を外国に送り込むこと」を意味している。
ところがこの方法はお金がかかる。自社商品を買ってくれる国が10カ国あれば、それぞれの国に事務所が必要だ。相当の大企業でさえ、アフリカの各国に自前の事務所を置くのは容易ではない。
というわけで日本には“総合商社”という業態が発展した。各メーカーが皆それぞれにバンコクやジャカルタやマニラに人を送り込むのは効率が悪い。じゃあ、○○物産や△△商事が、これらの都市に事務所を開き、各企業はそこを通して商売すればよい。
つまり総合商社は、「輸出メーカーの合同・海外営業事務所」であり、「輸入企業の共同買い付け事務所」である。彼等は、日本企業から“海外支店機能のアウトソーシング”を請け負って大きくなったのだ。
欧米には日本の総合商社のような業態は発達していない。そりゃあそうだ。彼らはアフリカにでるならアフリカ人を雇い、インドネシアにでるならインドネシア人を雇い、彼らにビジネスを“任せよう”と考える。けれども日本企業には“日本人以外は信じない”という大方針があるから、下っ端のスタッフは現地人を雇ってもいいが、責任者は日本人でなければならない。したがって、自社で出られないなら、別の日本企業に委託するしかない。それが商社だ。
先日紹介した二冊の本、“グラミンフォンの奇跡”と“ブルーセーター”
の話をしたい。
バングラディッシュでグラミンフォンをたちあげたのは、アメリカに留学しそのままアメリカで働いていたバングラディッシュ人だ。一方のブルーセーターの主人公はアメリカ生まれ、育ちの白人アメリカ女性である。
後者の本には、彼女がアフリカ人に受け入れてもらうまでの苦労、彼女自身がアフリカ人や社会を理解することの難しさの記述に大量のページが割かれている。彼女の苦労の3分の1から半分は、彼女がアフリカ出身の黒人であれば経験することはなかったものだろう。一方、自らの祖国でグラミンフォンを創設したバングラディッシュ人の起業家は、少なくともそのタイプの困難には直面していない。
この差が、海外に進出しようとする欧米企業と日本企業の間にも存在する。現地人のリーダーに任せればごくごく容易にできることでも、日本から行った日本人がやろうとすると桁違いのコストや時間がかかることがいくらでもある。
日本の総合商社には、一流大学をでて厳しい就職戦線を勝ち残った精鋭達が集まっているのだろう。しかし今や“海外市場”とはアメリカやイギリスの事ではない。それは中東でありアフリカであり中国でありインドでありブラジルだ。
30歳に近くなってから、言語も文化も全く異なる国に送り込まれ、そこからえっちらおっちら“海外市場を勉強しています”的な“日本人駐在員”の出る幕が本当にあるのか?しかも、欧米ならともかく、アフリカの国に10年単位で居住する(家族は??)覚悟が彼らにあるだろうか?数年単位で交代などさせていたら、それこそ全くモノにならない。
「世界で格闘する日本人ビジネスマン」的なドキュメンタリー番組を作るなら悪くない材料だろうが、その企業の海外進出において、それが本当に最も適切な方法なのか、よく考えてみればいい。
現地で生まれ育った上で、欧米先進国で高等教育と実務経験を積んだスタッフと、30台半ばからその国に駐在する日本の商社マンでは、「その国でのビジネスポテンシャルを判断するタイミング」において、また「何かトラブルが起ったり、引き際を検討する際の判断」において、大きな(時に致命的な)差が出やしないか?
もうずっと昔にアジアや南米、アフリカを旅した時、モロッコの迷路の奥にある薄暗い小売店でニベアやネスレの商品を見つけて驚いた。南米のジャングルの中の国境事務所脇にある売店の棚に、ユニリーバやコダックの商品を見つけた時も同様だ。「こんなところにまで商品を届けるなんてすごすぎる・・」と思った。しかもそれらの商品のメーカーはいつも同じなのだ。
今から考えればよくわかる。こういった企業は、そもそも自分の国(欧米)に留学してきた人、移民でやってきた人の二世や三世を、自分の国の人と同じように雇用し、訓練し、彼等に事業を任せている。
だから、アフリカの○○という国がそろそろ経済的に商売になるレベルになってきたとか、どこどこの国はまだ内戦中ではあるけど、こういう商品へのニーズがすごく高まってるとか、そういう情報がいち早く手に入るし、じゃあ実際に行ってみるかとなった際にも、「アメリカ生まれ・アメリカ育ちのアメリカ人」を送り込んで市場調査をやるよりよほど迅速に、正確に、リスクをとった判断ができるわけだ。
★★★
3月9日の日経トップ記事は、“日本の電機メーカーがアフリカ市場を開拓する”という内容だった。3月15日には、来年の新卒採用についての記事があり、“中国市場の拡大のために人員拡充の動きもある”と書いてあった。ところが一方で、必ずしも外国籍の人材採用に積極的とは言えない企業の姿勢についても書かれており、正直ちょっと驚いた。
海外市場が大事だと(海外市場しかないと)わかっているのに、外国籍社員を増やさないってどういうことだろう。しかも日本語もできる留学生の採用を増やさない?もしかして未だに、日本人をイチから海外駐在員に育てて、世界で勝負できると思っている?相変わらず“新卒採用する基幹社員は日本人だけでいい”と考えてたりする?
これからのグローバル競争の時代、「すべての重要なビジネス判断は日本人で行う。そのために英語ができる人材を採用する。採用した人に海外経験を積ませる」などと悠長なことを言っている間は、日本企業が“グローバル企業”と認知されることはないだろう。
グローバリゼーションとは、日本人に英語を習わせることではない。それは、世界の人を受け入れること。世界の多様性を受け入れることを言うのだ。
消費財メーカーが世界にでていきたいのなら、“世界の消費人口と同じ割合”で社員を雇う必要がある。その社員は、権限ももたず出世の可能性もない“現地担当者”ではない。経営とビジネスのリーダーシップ・シェア、マネジメント・シェアを、世界の消費人口と同じ割合にする必要があるってことだ。
日本企業がグローバル企業に脱皮できない理由は語学力ではなく、「自分達とちょっとでも違う者は意思決定グループメンバーには入れたくない」というその偏狭さにある。
日本企業はよく、“自分が主人、外人は使用人”という形の現地採用をやっているが、“使用人になりたいと思う優秀な人”は世の中にいない。
また、せっかく外国籍社員を雇っても彼らの価値感は一切受け入れず、日本的年功序列や賃金カープを押しつけ「いやならでていけ」とか「郷にいれば俺たちのルールに従え」とか言ってるあほらしさが、わかってるのだろうか。「自分達と同化する気がないなら、仲間には入れない!」という宣言は、まさに「多様性の拒絶」に他ならない。
結局のところ、多様性を受け入れるのは、彼等のためではなく自分のためであり、そのために努力する必要があるのは自分の方なのだということが理解できていない。多様性を受け入れる理由は人権問題でもボランディアでもない。それは成長のために必要不可欠な戦略なのだ。
社員の英語研修なんていくらやってもグローバル企業にはなれないよん。
「多様な価値観、自分達とは異なる思考や経験をもつ人を、意思決定や組織運営を共に行う仲間として迎え入れること」
それができないかぎり無理ざんす。
そんじゃーね
<お知らせ>
本日のエントリは、先日書いた“レシピ 今日の料理は“ちきりんブログ”で紹介した材料を調理して書かれたものです。合せて読むと、ちきりんがどのようにエントリに書く内容を組み立てているかが分かります。ただし今回はおちゃらけスパイスを振りかけるのを忘れていますが・・
古い体制は早急に検討し直すべきでしょうね。
日本人を優遇することが必ずしも自国の利益になるとは限らないのに。
ちきりんさんの文章は、とてもわかりやすく読んでいて気持ちが良いです。
いつも楽しみにして読んでいます。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=2871
番組によると、韓国の方は着々と「グローバル化」を進めているという印象でした。
また、以前「BABEL」という映画を見た事があるのですが、その映画の中でも、アメリカ人や日本人がアフリカをどう見ているかが分かります。お勧めです。これを見たら、日本式のグローバリゼーションもそんなに悪くないと思いました。
確かに、日本企業の進出先としては最も環境の整った上海においても、私の知る限りちきりんさんの言っているようなグローバル化ができている大企業さんはないですねぇ。ただ、最近は名も知れぬ中小も進出してきており、どちらかというとそっちの方が腹を据えて現地化に取り組んでるかも。何といっても余裕ないですからね。高価な駐在員なんて何人も食わさせられません。切羽詰まっているからこそ、リスクを抱えてでも現地社員に権限を渡して仕事を回しています。そういった中小企業のほうが、結果的にはグローバル化が早いのでは、なんてことを思いました。
>海外市場が大事だと(海外市場しかないと)わかっているのに、外国籍社員を増やさないってどういうことだろう。しかも日本語もできる留学生の採用を増やさない?もしかして未だに、日本人をイチから海外駐在員に育てて、世界で勝負できると思っているんだろうか。相変わらず“新卒採用する基幹社員は日本人だけでいい”と考えてたりする?
昨日、NHKのクロ現を見ていると発展途上国の優秀な学生たちの争奪戦が各国で繰り広げられており、日本は韓国などの後塵を拝している、とあった。
その中で東大教授がベトナムで留学生をリクルートする様子があったが、学生たちにとっては留学中の生活と、卒業後の待遇が問題であり、たとえ優秀であろうとその支援が手薄な東大は苦戦を強いられていた。
また、非常に優秀な留学生が日常的な(瑣末な)日本語ができないと言う理由で、日本企業から忌避されていた。
一方、韓国は国を挙げて優秀な留学生を厚遇し、彼らを国を成長させる先兵として歓待している。
例えば李明博大統領は留学生たちに対して、彼らが国の基幹を成し韓国の発展に欠く事ができない、と賞賛していた。妻帯者の学生たちが生活を心配することなく研究を行い、卒業後に大企業に就職している。
>日本企業がグローバル企業に脱皮できない理由は語学力ではなく、「自分達とちょっとでも違う者は意思決定グループメンバーには入れたくない」というその偏狭さにある。
>「多様な価値観、自分達とは異なる思考や経験をもつ人を、意思決定や組織運営を共に行う仲間として迎え入れること」(を拒む限り、グローバル化はおぼつかない。)
「龍馬伝」を見ていると、龍馬や岩崎や武市から沸き上がる"アニマルスピリット"があの時代を形作ったんだな、と思う。そう、アウトサイダーが時代を変革して行ったのだ。彼らがアンシャン・レジームを打ち壊したのだ。
今の日本人が失った、龍馬や岩崎や武市のスピリットを持つ者達を受け入れ活用することこそがこの社会を浮揚する一歩、となるのではなかろうか?
日本企業様wは同じ日本人に対しても、異質な存在に対しては同様の態度ですから。
まぁ、日本企業はそうやって「仲良しグループ」を作って、どんどん硬直化していけばいいです。
「模範解答」拝読しました。さすがです。
お書きになられているとおりの、「現地駐在員」の自分としては、耳が激痛ですw
ご指摘の通り、平均的な日本男児の現地駐在員像は、↓な感じです。ご参考まで。
http://blog.goo.ne.jp/uujiteki2009/e/a08066f4e92718b8b63e86053d8e0ca2
それでは。
おちゃらけ要素皆無で、顔真っ赤にして怒りに任せて書いてませんか?
ミスリーディング沢山で辟易します。
なんでもかんでも「移民受け入れ」に結び付けようとしたり、
それを連想させるような書き方は止めたほうがいいと思いますよ。
「移民受け入れ」について語りたいなら、まんまそれについて語ればいいじゃないですか。
それができない理由はなんですか?
でも、その国の事情もよく知り、そこの国民ともスムーズにコミュニケーションのとれる人材を登用して行かないと、効率は甚だしく悪く、こんなことでは、グローバル化社会の競争に勝って行くことができません。また、こうして行くことによって始めて、日本人ももまれ、このような新しい経験の中から、新しい発想やビジネスも生まれて来ると思います。新しいことをやって、新しい刺激を受けることが今必要だと思います。日本人だってポテンシャルあるのだから、それをどんどん伸ばすことが今求められていると思います。
現地でビジネスを展開するなら現地企業との取引すればいい話だから、
実際に日本に出てきている外資系企業でも、
本国が意志決定してくれないと何もできないような会社多いしね。
メーカーの方が、動きは遅くても現地採用をしていこうとしているところが多いと思います。
こんにちわ。おじゃまします。
広い世界で仕事をするということは狭い自分の心と向き合うこと、大きな世界に飛び出すことは小さな自分を確認すること、じゃないでしょうか?
グローバル化と簡単に片づける前に、世界のなかの自分の存在について考える必要があるのでは。外部の世界に適合したり拒否されたり、
自分自身もそれを受け入れたりダメだったり……試行錯誤の上で世界とともに歩んでいく姿勢が必要だと思います。
「ルワンダ中央銀行総裁日記 (服部正也著)」を御存じですか。
銀行官僚が日本人であること、バンカーであること、現地で生きることと向き合った、ちょっとユーモラスな雰囲気もある良書でした。また、読み返してみようかな。
とは、いうものの。
新卒社員の入社式と研修の季節に、イマサラ感といいますか、緩やかな集団死を感じる今日この頃です。
よろしかったら拙文も御覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/molirinho/24742319.html#24817671
今回の書き勢はちょっと怖い…。
日本人が他の人を排除するのは日本人は個人としては大したことなくて
日本人グループによる集団での力が優れているからかなと思っています。
もし多様性を受け入れて「個人」の能力勝負になったら勝てる人はそんなにいない
のかと思います。でも日本人同士2人3人…だとなぜか相乗効果がでるという。
その価値観でもし会社の上層部か組織内を集団性でなくて個人勝負にしたら
自分たちは用済みになるとかそんな感じだと思います。
富士通の成果主義もダメだったしやっぱりお互いに協力するほうが向いているような。
グローバリゼーションは良く分んないですが日本人的統治をした台湾の人とかはそんなに親日感情わるくないなら同化ではなくて日本人は日本人として現地に受け入れられるやり方もあればと思っています。ぶっちゃけ各国にたくさん日本人シンパを作ってそれをグローバリゼーションにしよう!という感じ。
相手の国の内情を知るには日本人が移民になってどんどんよその国に出ていけばなー
と思っています。
ただ、「今の日本」は昔に比べてもより多様性がなくなって出る杭を打ちすぎるのでもうちょっとお互いブレーンストーミングして欲しいです。
できる人を認めてあんたに任せた、という度量のようなものを。
上の人もいい親分になってよしお前らの生活は請け負った、見たいな。
お互いに信用しないから足を引っ張り合うのは困ったもんです。
私、アメリカ資本のグローバル企業で働いてました。ビジネスマンなら知らない人はいないといっていい企業です。でも日本の「グローバル企業」と何も変わらないですよ。
現地法人のトップは現地人ですが、発言権なんてないも同然。各国のビジネス慣習や文化の違いなんてガン無視で、アメリカの価値観を一方的に押し付けてくるだけです。
現地の文化にうまく適応してアメリカよりよい業績をあげている国の法人にまで、アメリカのやり方を押し付けて邪魔してきます。
現地法人へのコストカットの要求は厳しいのに本国のおえらいさんは物見遊山の視察でじゃぶじゃぶ経費を使う(現地法人に、一泊100万クラスのホテルを平気で用意させます)。
そんなもんです。
現地法人は使用人どころか、農奴程度の扱いですよ。
同業、他業種のグローバル企業に勤めている人に聞いても、内情はたいして変わらないようです。ヨーロッパ資本の会社でも同様ですね。
明治維新の頃と違って国が滅びるわけでもないし、
日本は日本流でコツコツやればいいんじゃないの。
世界中の先進国、中進国が皆同じものを目指す必要があるのかと思ってしまいます。
日本独特の社会の枠組みを一度壊すともう戻れないのに、
利益追求のためにそれらを顧みないで突き進む流れなんでしょうか。
多様性を受け入れるには清濁併せ呑む心構えが必要ですが、
一般人にそんな心構えは無いでしょう。
優秀な人は日本を捨てて飛び出せますが、
ほとんどの人は飛び出す気すら無いと思います。
つまり一方的に踏み込まれて来るのではないかという恐怖が根底にあると思います。
国力や利益の極大化を考えれば書かれている通りなんでしょうね。
chikirinさんの話は、とても考えさせられます。
まあ実際そうなんだけどあんまり叩かないで欲しいなぁ・・・なんて
私はオーストラリアに住んでいるのですが、偶然にも、今日こんな記事がオーストラリアの新聞に載ってました。
http://www.theaustralian.com.au/business/markets/japanese-investment-in-australia-slips-under-the-radar/story-e6frg926-1225851112314
日本の会社がオーストラリアの成長を見込んでオーストラリアの会社を買収している、という記事です。
キリンが買収したLion Nathan や National Foods などの商品は、買収された後も今までどおりのブランド名でパッケージが変わるでもなく買う側としてはキリンだとは気がつきません。 (Godiva のチョコがキャンベルスープだとは一見わからないような感じです。) 会社の形態も 無理矢理キリン1社に吸収せずに、Lion Nathan や National Foods といった会社はキリンの子会社としてそのまま経営を続けているようです。
企業のグローバル化には、こういったM&Aという「現地の会社を買ってしまう」方法もありますね。もちろん、買収する資本力と先見の明がないとダメですが。。。 あっ、でもアフリカの場合は「買いたいようなビジネス」がまだ育っていないからダメですかね。
何だかんだ言っても、今の方が居心地が良いのでしょう。
結局、人も企業も、非効率だと判っていても、変われないんですね。
日本企業に似ていた韓国企業が、グローバル化できたのも、経済危機で変わらなければ、生きて行けなかったからです。
絶滅寸前になって、やっと大改造ができたのですから。
日本企業が同じ状況になった時、生き残れる企業は数社かもしれませんが、その企業は間違いなく、今のサムソンやLGのような企業になっているでしょう。
日本企業がグローバリゼーションできるのは、その時だと思います。
Chikirinさんのおっしゃるとおり、海外に日本人を派遣するだけの業態はグローバリゼーションとはなり得ませんね。
それはあくまでも日本大使館でしかないのですから。
そもそも日本人は、文化背景の異なる人同士での理詰めによる集団の意志決定を苦手とするのかもしれませんね。
しかし、もしそうであればそれはそれで排除すべき悪といえるのでしょうか。
私はそんな伝統的なムラ社会的な考え方を排除すべきとは、思いません。
ここで答えを出すことは難しいと思いますが、
少なくとも今後日本が、Cikirinさんのおっしゃる「技術と商品」を売りにして持続発展を遂げる国家となる可能性もまだ残されていると信じたいです。
確か、龍馬は佐幕派と尊皇攘夷派の内ゲバ化していたサツマ国やチョウシュウ国の間にあって、彼らがグローバライズする手助けを行った。
龍馬の尽力はペリー来航から、わずか20年足らずでこの日本にグローバル化をもたらした。
このことが今の私達を、どれだけ幸福な人生を歩めることに資したものか。
当時日本より高度な文明を保っていた中国は、アヘン戦争の頃から西欧列強に食い物とされそこから立ち直り、"東夷"を上回ることができたのは去年のことと言う。
日本が中国に対して150年に亘るアドバンテージを得ることができたのは、明治維新の頃のわずか20年の間にグローバライズできたからだ。
先日のクロ現で紹介されていた留学生達は"イミン"では無い。
新興国と競合しない知識集約的な産業を発展させ、日本の成長率が高めるためにはもっとこの分野を強化する必要がある。
そのためにはどうしてもグローバライズされた人々が、この日本には必要なのだ。
歴史を振り返ると、内なる私達自身がグローバライズすることで得られる益は、想像するよりも多大で豊穣なものだ。
普段は読み過ごしているのですが、僕は日本企業の海外要員として海外で過ごしていたので、今回のChikirinさんの見方は偏見があるなあと思ってコメントします。
日本企業に限らず、欧米のChikirinさんの言っている「グローバル企業」の方が、僕の知っている限り、その現地のトップの人には日本企業と同じ様、それ以上の本社志向があるし、マーケテング的な販売戦略として現地化、グローバル化をスローガンとしていてイメージ的、営業的には成功していたとしても、本質的には日本企業と変わらないし、もっと欧米企業の方が現地のトップレベルでは本社志向と言うかナショナリズムは強いので、アフリカとかで販売されている製品を見てグローバル企業と言うのはマーケテング・レベルの成功であって、その会社自体がグローバル企業とは言えないと思う。 日本の電機会社の製品はアフリカの奥地でも売られていましたよ(今は韓国メーカかもしれませんが)。
以前アメリカ企業に勤めたことがあり、海外勤務経験もある者です。
「外人を多く雇う」とか「組織のグローバル化」というのは、あくまでも手段であって、目的ではないはずです。 また、外国人比率を増やす必要があるかどうかは、業種・企業規模・文化によっても大分異なると思われます。
そもそも、最近の日本企業で問題なのは、「技術と商品」が世界に受け入れられなくなっているからです。iPhoneが作れないのは組織の人(=日本人)ですが、過去にウォークマンやファミコン(古すぎ?)など日本製品が輝いていた時期(任天堂はいまでも輝いてますが)に商品開発していたのも日本人です(多分男性、恐らく今より男性比率が高いはず)。
Android携帯に積極的で絶好調のHTCやネットブックで好調なAcerやAsusといった台湾企業、そして日本の企業が束になっても勝てなくなってきた韓国のSamsungだって外人社員もいますけど、コアなところは「本国」な人が中心です。Samsungなんかは現地の細かいプロモーションについても「本国」の承認がいると聞いてます。単にそのほうが意思決定が早いからではないでしょうか?
他のコメントにありましたが韓国企業が着々と異文化を取り入れようとしているからといっても、イコール「成功間違いなし」ではなく「Sonyみたいに方向性を失い業績低迷」という可能性だって大いにあります。
日本人はお人よしなところがあるので、博愛主義的なコンセプトに弱いですが、「グローバル化」(欧米流のMBA,英語、ロジックなどなどを含む)って欧米流のピッチであって、これを鵜呑みにすると第二、第三のSonyになるだけな気がしてます。
この点中国はGoogleをピッチを拒否したり、うまく、日本の失敗から学んでいるように見受けられます。
日本とそれ以外の国を比較して日本特殊論ぽいけど、多民族国家の超大国であるアメリカとの比較なのでは?
ホントに日本だけが特殊な国なの?
サムスンは?VWは?イタリアは同族経営が多いと聞くけどちゃんと検証したのかしら?
欧米ではとか、アメリカでは、世界では(結局アメリカのことだったりする)とかそう言う言葉に振り回されすぎてる気がする。
日本とそれ以外の国を比較して日本特殊論ぽいけど、多民族国家の超大国であるアメリカとの比較なのでは?
ホントに日本だけが特殊な国なの?
サムスンは?VWは?イタリアは同族経営が多いと聞くけどちゃんと検証したのかしら?
欧米ではとか、アメリカでは、世界では(結局アメリカのことだったりする)とかそう言う言葉に振り回されすぎてる気がする。
日本企業がグローバリズムなんて言うのは100年早い。移民受け入れどころの話ではない。
同じ日本人女性の活用すら出来ないのが外人なんぞ起用出きる訳が無い。
日本の上場企業に女性の部長、役員、社長が何人いますか?
少なくとも私の会社や関連企業には1人もいません。
政治家で女性が官房長官や首相になったことがありますか?無いでしょう。
女帝だって反対でしょう。
そういう点ではインド、パキスタンやフィリピン以下の国ですよ。
「クロ現」で東大の教授がベトナム人に留学してくださいなんて頼んでましたが相手は冷たかったですよね。
ベトナム人がスタンフォードやMITを卒業すればボーイングやゴールドマンに入社出来る可能性があるのに
東大卒で三菱や住友に入社出来る可能性があるのか?殆ど無いでしょう。
そんな国に留学生なんぞ来ませんよ。
この国は江戸時代か明治維新から全然進化してません。
そんな状況下で移民受け入れだの企業のグローバリズムだの何だのどのツラ下げて言うのかと思います。
結局日本企業・政府・役人、一般社会は50〜60過ぎのジジイの既得権益が強すぎるのです。
彼らは自分が対応出来ないから変化を嫌い上記のことは許容できない。
それが現在の景気低迷や社会の混迷の全ての原因でしょう。