植民地主義(U)
「 日本の植民地の真実 黄文雄著 扶桑社」より
台湾(1)   台湾(2)   朝鮮(1)   朝鮮(2) 創始改名
 「台湾400年史は外来支配の歴史」

<史実に反する「中国の神聖不可分の領土」説>

・日本が台湾を統治していた時代には、大陸にいた国民党も共産党も、台湾を「中国領土」とは考えておらず、日本の台湾領有を認めていたのである。もちろん日本に台湾返還を求めたことなど一度もない。

・終戦後、連合軍の命令に従って日本は降伏を受け入れると同時に、台湾領有を放棄した。日本軍と入れ替わりに台湾に進駐した国民党軍は、台湾の中国への返還を定めたとする「カイロ宣言」を盾に、台湾を中国領に組み入れた。もっともカイロ宣言など、まったく国際法の効力をもたないばかりか、最近の研究では、「宣言」そのものが存在していないということが明らかになっている。⇒台湾占領のための国民党軍の方便である。

 いずれにせよ大戦終結とともに始まった冷戦という国際社会のドサクサのなかで、中華民国は台湾を接収した。そして1949(昭和24)年、国共内戦で敗れた蒋介石の国民党が政府ごと台湾に移り統治を開始した。

・台湾が中国の版図に入ったのは清朝時代の1684年であって、この時代の諸文献中、台湾の歴史に関する記載の中で、たとえば乾隆帝が「台湾は古来中国に属していなかった東華録選と断言しているのをはじめ、「台湾は中国に属していなかった」「台湾は日本に属していた」とはあっても、「古来から中国に属していた」との書き方はされていない。

<清国も中華民国も歴代外来政権の一つ>

・大陸では、明国が清国に滅ぼされた。華南一帯では、鄭成功軍が抗戦を継続していたものの、結局、追い詰められて1661年、台湾へ逃げ込んできた。鄭成功はオランダ勢力を撃破して新しい外来支配者となり、台湾を「東都」(明国の東の都)と改称し、大陸反抗基地として経営を開始した。戦後、台湾ではこれを、「明鄭の復台」、つまり「明国の鄭成功による台湾回復」と呼んでいたが、それは台湾がもともと明国の版図だったとする歴史歪曲に基づいていたものである。

・「台湾の開拓は住民が行った」「住民を略奪するだけだった清国は、外来政権に過ぎなかった」という見方が台湾の歴史学者の間で有力になりつつあるが、実際それは史実に即している。

<牡丹社事件と台湾の「化外の地」論争>

牡丹社事件は、1871年、琉球の宮古島の朝貢船が暴風雨に流され、遠く台湾東南部の八遥湾に漂流したことから始まる。原住民パイワン族は、漂着した琉球人を仇敵の漢人と間違えて、乗組員54人を殺害してしまったのである。生存者12名は命かながら漢人集落まで逃走し、福州へ移され、翌年6月、那覇へと送還された。

・日本の使節に対して清国政府は、「台湾東南部の生蕃は、化外の地の民であるため、その所業の責任を負うことはできない」との回答をしてきたのだ。そこで柳原公使は、「彼らの凶悪を懲罰し、文明の征伐を図ることは、開花政府の当然の義務である」との捨て台詞を残して引き上げた。こうして日本政府は、主戦論で固まった。

・「台湾蕃地処分要略」第一条には無主の地清国領土外とみなされる台湾先住民地域(蕃地)に対して、琉球民殺害への報復処置として「台湾出兵」を基本方針とするとある。また、蕃民討伐と土人への撫育もあげられている。

・それまで琉球は、名目的には日清の両属関係にあったものの、実質的には島津藩の支配下にあって久しかった。そのため、日本による台湾出兵後の北京会議で清国は、琉球が正式に日本に所属することを認めた。それを受けて1879年4月4日、日本政府は琉球藩を廃止して沖縄県を設置した。
 これによって、琉球藩主は消滅し、清との冊封体制もなくなったのである。一方清国は、琉球が日本所属であると承認する代わりに、台湾が自国の所属であるとし、それを非公式ながら日本にも認めさせた。つまり清国政府はこの事件で得をしているのである。

<治安維持軍として日本軍を迎えた市民>

・台湾は、正式な国際条約に基づいて日本の領土の一部となった。つまり日本の台湾領有は、日本の不法占拠ではない

・「反日抗日」を銘打つ台湾史書では、日本軍といえばたいてい虐殺略奪放火婦女暴行の軍隊として描かれているが、実際はそれを行ったのは、日本軍ではなく清国軍だった。当時の抗日英雄とされている簡大獅も、「清国政府によって逮捕され、台湾総督府に引渡された単なる狼藉者過ぎない。「

<中国化政策で捏造された台湾の「抗日史}

・台湾では、霧社事件における日本による原住民鎮圧は問題視しても、17世紀に台湾をオランダの統治から奪った「中華英雄」の鄭成功による原住民虐殺についての研究は誰もしょうとしない。

鄭銘伝の施策は、台湾独自の「資本と技術」という視点にかけ、そのため台湾住民への苛斂誅求から民衆の反乱が続発した。そのために彼は、台湾史上稀代の酷使となり、罷免されている。

 風土病の地における医療制度の確立

<移民の生存率が三割だった風土病の島>

・日本領台以前のこの島は、王化や教化の及ばない「化外」の地、荒れ果てた「荒蕪」の地であるとともに、瘴癘」(風土病の地だったのである。

<病院の開設から始まった日本の台湾経営>

・「4害」とは即ち、阿片土匪生蕃原住民)、そして瘴癘である。当時の平均寿命は30歳前後であった。

<死亡率を一挙に下げた衛生、医療政策>

<台湾初の最高学府は総督府医学校>

・朝鮮でまず必要とされたのが国の行政を担う官僚だったのに対し、台湾の場合は衛生改善のための人材だったのである。

<台湾医学の黄金時代を築いた堀内次雄氏>


 衛生環境の改善で人の住める島になった台湾

<後藤新平の衛生思想に基づいた台湾の文明開化>

・後藤は瘴癘の島・台湾をいかに「文明開化の国」に築き上げるかを考えた。その手法として、衛生の原理と制度から着手したのではないか。

<瘴癘退治に乗り出した総督府>

<風土病撲滅に心血を注いだ日本人研究者>

<漸近政策によるアヘン撲滅政策>

<東京より早かった台北の上下水道システム

・台湾の近代化は、「毒水」の克服から着手されることになった。


 近代的産業基盤を打ち立てた国土改造計画

<領台以前の土地制度の紊乱>

・土地は本来、帝王のものだという王土思想の台湾では、土地の私有制は確立されていなかった。

<近代資本主義社会の基礎を築いた土地調査

<近代化の原動力となった電力開発

<中国との電力の格差にみる日本の遺産の巨大さ>


 治山治水を図った森林事業

<台湾初の林業調査>

<山岳鉄道敷設による林業の発展>

<山岳探検、山林開発の先駆者たち>

<戦後の中華文化で禿山と化した台湾の山地>

・国民党政府が台湾を支配するにあたって、自分たちの徳性と正当性を強調するために、日本時代の悪政を強調してきた。台湾で禿山が拡大した責任を、日本時代の森林伐採に責任転嫁しょうと、歴史を捏造し続けて来た。⇒共産支那と韓国も同様である。日本を悪役にして、国民を説得している訳だ。

・中国大陸で現在起こっている深刻な砂漠化現象は、中華文化から来るものなのである。⇒毎年春先に日本にやってくる「黄砂」がそうである。

 人流と物流のない島での大交通網の建設

<孤立社会が散在していた台湾>

<使い物にならなかった清国時代の鉄道>

<経済発展を促す為の交通建設計画>

<台湾人の世界観を大転換させた縦貫鉄道>

<台湾で初めて道路を造った日本軍の工兵隊

・イラクでも活躍できないものか。

<近代的港湾の大規模建設>

<自然・社会生態史からみた台湾の交通建設>


 原始経済から貨幣・商品経済に大転換

<英米資本の支配・自給経済・原始経済の混在>

<近代社会を形成した商品経済の確立>


 飢饉の島から食糧輸出地に変貌

<文明史の奇跡というべき台湾の食糧増産

中華帝国の搾取を免れた台湾人の幸せ>

・日本時代、台湾人は差別を受けたとはいえ、中華帝国の搾取と貧弱を免れたことは、何にも替え難い幸福だった。

<水利灌漑で実現した台湾農業の近代化>

<不可能とされた鳥山頭ダムの完成

・第二次大戦後、中国国民党は台湾にやってくると好き放題暴れまくった。軍を含む60万人の日本人は全員追放され、樺山資紀、児玉源太郎、後藤新平らの銅像は壊され、日本人のは暴かれ、墓石や記念碑は倒されるかセメントで墓碑銘が潰された。その代わりに建てられたのが四万三千体の蒋介石の銅像である。⇒レーニン、金日成、フセイン。独裁者のやることはどこでも一緒である。そうでもしないと政権を維持できないのだ。日本にはこんなことはない。せいぜい「二宮尊徳」の銅像である。

<台湾農業史を塗り替えた蓬莱米の誕生>

<内地市場の特恵的地位で発展した台湾の米作>

・国民党政権は、政治的には日本帝国主義の搾取略奪を非難し、反日教育に狂奔するばかりで、経済的には「日本帝国主義」の遺産を食い潰すだけだった。⇒こういう主張が一時的にせよ、通用するのが残念である。

<砂糖を台湾最大の輸出品にした新渡戸稲造>

 共通語導入で近代化された多言語社会

<近代化の母国語になった日本語>

・言語の習熟度は、文化水準をそのまま表すものである。明治以来、西欧近代文化を取り入れた日本語が教育されなければ、台湾住民の近代化(近代的国民化)は不可能だっただろう。日本語は台湾近代化の母国語なのである。

<日本語教育あってこその今日の台湾>

儒学の欠点は、尚古主義に陥り、新たな発想を生み出せないことにある。また女性に開かれていないことも、近代化には不向きだった。ちなみに台湾総督府の調べでは、儒学教育を受けている台湾女性はわずか65人だった。⇒儒学はイスラムの原理主義と同じではないか。
 また儒学には実学が含まれていないので、近代的人材の養成は難しい。日本の寺子屋に相当する書房での教育内容は大きく異なっている。寺子屋は「読み書き算盤」という生活に最低限必要な素養を与えたが、儒学教育の書房は「反商」を旨とするので算盤のような実学を軽蔑していた。

<台湾人教化のために台湾語を学んだ日本人>

・戦後、台湾に入ってきた国民党政権は、日本が行った近代化教育を「奴隷化教育」だと徹底非難し、「皇民化運動」「国語愛用」政策は「日本による諸民族の言語文化剥奪」だと主張している。しかしこれは事実無根の歴史捏造である。⇒批判しょうとすれば、何でも批判できるのはある意味では残念である。特に邪悪な人間の批判は害あって徳なし

<台湾の土着言語絶滅政策は戦後から開始された>

・台湾の伝統文化と言語の絶滅政策を断行したのはほかでもない、国民党政府である。そこには中国人化政策という政治的理由の他に、伝統的な中華思想からくる絶対的中華優越主義があったのだろう。

 教育不毛の島を教育先進地域にした総督府

<教育から見放されていた台湾民衆>

<教育普及には限界があった書房>

・台湾の教育史には、稀にみる二大特徴がある。ひとつは、有史以来ほとんどが外来支配による教化・教育である。もうひとつは、支配者が代わるたびに教育制度と内容が断絶し、激変してきたということだ。

<近代化の波に押される運命にあった伝統教育>

日露戦争の終結した1905明治38、清国は科挙の官吏登用制度を廃止している。近代化の波に押されて中華の伝統教育は廃止せざるを得なくなったのだ。これは中華伝統社会の価値観の崩壊を意味するもので、同時に広くアジアを支配してきた華夷朝貢システムの崩壊を意味した。

<義務教育論争>

<教育改革でアジアの第二の教育普及率に>

・総督府は反乱平定と同時進行して、台湾人のための学校を各地に次々と設立していく。台湾での教育事業における急務は、島民を近代市民として育てるとともに、劣悪な生活環境を改善することだった。

・1944(昭和19)年3月末段階の初等学校における台湾人の就学率は71.15%、原住民は83.38%に上がっている。この時期、台湾は日本に次いで、アジア第二の就学率を誇っていた。


 「警察政治」で匪賊社会は近代的法治社会に

<抗日史観から隠蔽された匪賊社会の史実>

・もともと台湾は4つの文化・社会集団によって形成された棲み分けの複合社会だった。
 第一集団は、言語・風習が異なる8族から9族の山地原住民と、10数族の平地原住民の集団である。
 第二集団は、泉州語系とショウ州語系の先住移民と、後来の客家語系移民から構成される新移民の集団である。
 この二つの集団は、それぞれの言語と文化を持つエスニックグループである。

 第三集団は、3年または1年交代で中国大陸からやってきた流動性の高い官吏と兵士集団である。
 第四集団は、山林、渓谷、荒野あるいは村ごとに跋扈する匪賊集団である。

 第一と第二の集団は、閉鎖的な経済社会共同体を作ったために、常に第三と第四の集団の掠奪の対象となってしまった。そのため、械闘殺し合い)、反乱鎮圧虐殺が絶えなかった。

・国民党政権下の中国人学者が語ってきた台湾史の主役も、人物像が大きく歪められてきた。中国統一史観からみると、歴史像、ことに人物像はことごとく歪められている。

<法が存在しない移民世界>

・政府の官吏、兵卒は公然と民衆に対する略奪を匪賊以上に行っていて、匪乱も民乱と同質となり、平定することはさらに困難になった。

<警察の治安確立で可能となった経済活動>

社会が不安定な場合、資本は蓄積されず、もちろん産業の近代化経済発展も有り得ない。近代社会、つまり文明国家の条件として、社会の安定治安の維持は、絶対不可欠である。その意味で警察官の果たした近代社会への貢献と役割はじつに大きかった。
 戦後の学者からすると、憲兵警察は、たいてい悪役とみなされることが多いが、私はむしろ高く評価すべきだと思う。⇒フセイン政権崩壊後のイラクを見ていると特にそう思う。

<「土匪史観」から見たアジアの近代化>

・台湾では、原住民も移住民もそれぞれが独自の社会を形成し、人的・物的交流はなく、道らしき道もなかった。そのような台湾に、兵匪に代わって入ってきたのが、近代化の先兵である日本の国民軍憲兵警察であった。
 匪族が平定され、警察の力が匪賊の力を圧倒してこそ安定した社会が樹立され、警察が法治社会を守る番人となる。そこに、20世紀の国家理想である夜警国家が成立したのだ。→山口組が警察力を上回っている社会を想定しょう。

・後藤新平の三大調査、つまり戸口調査土地調査民俗旧慣調査の達成は、台湾に新しい社会環境をもたらした。
 戸口調査は、人口の確数だけでなく、戸籍制度の確立によって近代国家の国民としての権利義務を明確化させた。土地調査は、地形、地貌、地積の確認だけでなく、地権を確立させた。
 知権の確立と土地の私有があって初めて、土地の売買ができ、近代的な土地や産業への投資ができる。こうした調査は、警察権の確立による匪賊の平定によって初めて可能になった。
 旧慣調査は、台湾の伝統文化や風習を知るだけでなく、近代的な民法、刑法、商法の施行、法治社会の確立にも絶対に欠かせない国力調査のひとつだった。

 この三大調査をもとに、近代的な人流、物流、電気・水道・道路などのインフラ建設をはじめ、金融、財政、教育などの社会的諸制度が確立、施行された。台湾近代化の基礎をつくったのである。

<住民に衛生観念を植え付けた日本人警官>

・国民党政府の警察は、平然と住民に賄賂を強要したり、権力を濫用して商店から代金を支払わず物を持ち去ったりで、警察なのか強盗なのかわからない有様だった。その点、日本の警察は職務に実に忠実だったと、今でも台湾では語り草になっている。

<人治社会から法治社会への転換>

<日本統治の終焉で「土匪社会」に戻った台湾>

・台湾の不幸は日本に領有されたことではなく、1945年以降、中華民国政府によって40年以上にわたって、法治とは程遠い独裁政治をうけたことだ。


 原住民開化のための山地征伐

<漢人による原住民迫害>

・台湾は有史以来、ずっと列強の植民地をして、中国大陸とは異なる独自の歴史を歩んできたが、その歴史の本流は、原住民(平ホ族、高砂族)対漢人の対立であった。
 
生蕃とは、化外の地である蕃界の原住民を指し、塾蕃とは漢人に帰順して同化した原住民を指す。

・土地を追われた原住民は、漢人の奴隷に転落するか反抗・逆襲に打って出るしかなかった。

<原住民対策に成功しなかった清国>

<原住民の陋習を絶つための原住民討伐>

<今でも日本に感謝する原住民>

・最後まで最も忠実に日本軍とともに大東亜戦争を戦い抜いたのは、高砂義勇隊だった。日本人と高砂族の間は、まるで「武士道精神」で結ばれていたかのようだった。

・霧社事件で殺されたのは、日本人とその関係者である。これに比べて日本時代以前、数百年にわたる漢族の原住民大虐殺は霧社事件の比ではないし、漢人は目を背ける虐殺を数十、数百回も繰返してきたのである。


 扶植された近代社会の近代精神

<日本化という台湾の近代開化>

・一般に近代文化を構成する要素は、資本主義民族主義民主主義個人主義の4つである。儒教文化、道教文化は、千年前からすでに拡散力を失っていたし、仏教文化から近代意識は生まれてこない。⇒今日本にあるのは、個人主義だけではないのか。

<内地からの経済的独立達成>

<台湾近代都市の建設ー森山松之助>

<日本の精神文化という「遺産」の大きさ>

・日本の近代教育を受けた台湾人が戦後目にしたものは、本に書かれた仁義道徳の崇高な中華文明とは無縁の騙し不潔怠惰脅し汚職の中国文化だった。
 この時、台湾人は、日本精神の優位性を見出したのである。そして自ら選んで大和魂で精神武装し、内外の厳しい環境を生きようとしているのである。

 台湾人の「大和魂」はひとつの生活の知恵であり、台湾人の魂として生き続ける新たな精神文化なのである。

・日本精神の中には、勤勉進取の精神強い責任感法を守ること人を思いやって和を尊び忍耐することなどが含まれている。


 日本の総督府にかなわない中華民国総統府

<文官総督よりも民主的だった武官総督>

・文官総督は軍人総督よりも無力で、保守的であった。

<日台平等を目指した長谷川総督の皇民化運動>

・台湾を日本の植民地ではなく、内地の延長日台一如であるという信念を持ち、一つづつ理想を実現していった。

<中華民国の総統との比較でみる日本の台湾総督>

・台湾総督が「土皇帝」なら、蒋介石などは間違いなく、近世的な絶対君主だった。

・戦後、台湾は、日本的おおらかな社会から中国式監視社会に放り込まれることになったのである。⇒これはよく言われることである。中国や韓国では肩肘張らないと生きられないらしい。

 大陸の千年属国としての朝鮮

<日清戦争まで朝鮮は独立国ではなかった>

下関条約の第一条には「清国は朝鮮の独立を承認する」ことがはっきり明記されている。
 それは朝鮮を清国から独立させることこそ、日清戦争における日本の目的のひとつだったからだ。この条文は中国人学者もよく引用するところだが、一部の学術論文を除いては、たいてい原文を改竄し、「朝鮮独立」を「日本の支配下に置く」という文言に故意に書き換えている。⇒およそ、この程度の国とそもそも歴史を語り合うなどナンセンスである。

・「中国朝鮮商民水陸貿易章程」(1882年9月調印)では、朝鮮の宗属関係について「古代から属国であるので、清国政府とのすべての問題における交通の規範は固定されており、変更の必要はない」と記している。

李朝朝鮮の末期に登場した開化派は、清への事大をやめて独立を獲得しょうとしたため、事大派に対抗する独立派と称されていたことも忘れてはならない。

・中国はの時代からすでに周辺の夷荻と冊封関係を取っており、朝鮮半島もその例外ではなかった。中国との宗属関係が決定的になったのは、統一新羅668〜935年の時代からだ。唐の後押しで三国を統一することができた統一新羅は、唐に属国として忠誠を誓い、それ以降、半島の王朝交代などによって強弱の差はあったものの、朝鮮は中国歴代王朝との属国関係に甘んじた。五代十国の中国戦乱時代の数年間は例外としても、それ以外は一貫して中華帝国の「千年属国」であった。

・この宗属関係は、決して中華帝国が一方的に強要したものばかりではない。半島の王朝は、権威権力を含めた政権確立政治安定のため中華王朝に対する冊封を必要だとし、自ら進んで属国になったこともある。⇒幕府が天皇に対したように、韓国は中国に対したのだ。戦後の日本はアメリカに対してどうだろうか?

・本格的に中華の干渉を受けるのは李朝時代からである。李朝の太祖・李成桂は「易姓革命」によって高麗朝を簒奪した事実を、実権支配の獲得を、の太祖に認知させる為、国家主権を明に売り渡し、明の属国と決め込んだ。朝鮮の国号と王位を明によって下賜されるかたちをとったのである。→統治権について幕府が天皇の承認を得るようなものである。

・明が満州人清に滅ぼされると、反清復明を唱える朱子学者などは、相変わらす明の正遡を奉じ清の討伐を企てた。しかし満州八旗軍によって徹底的な蹂躙を受けると、結局は清の属国となり、今度は明に矛先を向け、明人を虐殺したのである。⇒日本に対する態度と一緒である。民族性は繰返される。

・朝鮮は「礼儀の国」や「君子の国」と称されるのを誇りにしているようだが、それはまさしく属国としての誇りにほかならない。その言葉は宗主国である中国に対する属国の礼を忠実に守る国を指すものである。

・属国は、冊封国は、宗主国へ定期的に朝貢使節を送り、回賜返礼を戴かなければならなかった。これは朝貢貿易と呼ばれるもので、現在韓国では「進貢よりも回賜の方が多かった。中国との宗属関係は形式的なもので、実質的には貿易の実益を狙った経済活動だった。政治的な隷属関係ではない」とするのが通説だが、それは事実と異なる
 最近の研究によれば、清朝宮廷からの回賜は、進貢のわずか十分の一だったことが明らかになっている。朝鮮は中国に搾取されるだけの最貧国だった。

・日清戦争の結果、清は、朝鮮の宗主権を放棄し、その独立を認めることとなった。それを受けて、朝鮮は「大韓帝国」と改称し、独立国家となったのである。高麗朝建国初期の一時期を除いた、この時、朝鮮は史上初めて中国のものではない朝鮮独自の年号を用いることができるようになった

<近代日本にとって大きな負担だった朝鮮>

・1873(明治6)年の「征韓論」以降の日本の朝鮮への関心は、朝鮮侵略というより、ロシアや清国の脅威に対処するため、いかに頑迷な朝鮮を目覚めさせ、その近代化政策を助けるかにあった。日本の韓国「保護」も「合封」も、最大の目的は清国とロシアの脅威を避けることにあった。
 列強時代は弱肉強食の時代であり、「万国対峙」の時代である。

 朝鮮独立のための日清・日露戦争

<清国の暴虐植民地統治からの解放>

・朝鮮外交をめぐる交渉も李朝朝廷ではなく、清国を通して行われていた。朝鮮の国事人事までも、清政府が決めるのである。たとえば李朝政府がメルデンドルフを補佐官から解任するときには、清末の最高実力者であった李鴻章の承認を得ていた。その後任に海関総税務司を兼任していたアメリカ人ヘンリーメリルを送ったのも李鴻章である。→北朝鮮の外交を見ていると中国の属国であるように見える。


1875明治8、日本軍が演習中に朝鮮軍に砲撃された江華島事件の結果、朝鮮が開国すると、諸列強も朝鮮を中国の属邦とは認めたがらなくなった。そして直接朝鮮と密約や条約などを結び、外交関係を持つ国が出てきたため、清国は朝鮮管理を強化することになった。例えば、清国は朝鮮の第三国への公使派遣は認めるが、「全権」の二文字は使用禁止とした。そして次の「レイ約三論」なるものの順守を強要した。
@朝鮮公使は駐在国に赴任したら、必ず清国公使館に先報し、清国公使を経て相手国と折衝すること。
A公使外務の席上、韓国公使は必ず清国公使の次席に座ること。
B重要交渉がある時には清国に事前報告し、相手国に関係なく属邦体制を守ること。

・地政学的に見て朝鮮は、日本にとってロシア南下の脅威を阻止する防塁であるのと同様、中国にとっても重要な国防上の拠点藩屏だった。

1882明治15年10月、清は李朝と清国朝鮮商民水陸貿易章程を結び、李朝は清国の属国として宗属関係を明記した。

1885明治18、イギリスが朝鮮半島の巨文島を占領したときも、李朝にではなく、イギリス駐在清国大使の曽紀沢に通告を行った。そして曽は、李朝政府に連絡することもなく占領を了承している。国土の変更ですら清国大使の裁量次第だったのである。

・当時の属国状態の象徴的事件は、清国から派遣されていた袁世凱による大院君の逮捕朝鮮支配である。袁世凱は清国内では一介の武官にすぎなかったが、朝鮮では国王も服従するような巨大は権限があった。

・清国の指導で、外交顧問には馬建堂(元神戸大阪領事)と、メルレンドレフ(元天津上海駐在ドイツ副領事)が迎え入れられた。こうして日清戦争までの朝鮮における政治外交経済は、完全に清国に掌握されていた。もはや属国というより明らかな植民地的統治である。⇒日本はアメリカの保護国・植民地ではないが、今の所は属国である。

<列強の国際競争から隔離するための保護国化>

・日清戦争が朝鮮独立のための戦争であるのに対し、日露戦争は韓国保全の戦争だった。

1904明治37年2月、その日露戦争が勃発し、開戦ヘキ頭で日本軍が勝利を収めると、韓国はそれまでの親露から親日へと態度を一変させ、日本との間で日韓議定書を結んだ。これは韓国の日本保護国化の第一歩で、その骨子は「韓国は施政改善に関して日本の忠告を容れる」ことである。

 この議定書に基づき、同年8月、第一次日韓協約が締結され、韓国の財政外交は日本の指導をうけることになった。
 翌年11月、日露戦争終結後に第二次日韓協約韓国保護条約)が結ばれ、韓国は日本の保護国になった。すなわち外交権が日本に委任されたのである。それはこれまでの韓国が東亜の紛争の根源だったことに鑑み、それを列強の国際紛争から隔離するためのものだった。

 日本はロシアを戦争で破りはしたものの、ロシアが再び韓国に勢力を伸ばし、軍事、外交上の主導権を奪わないとも限らない状況下にあった。
 翌1906明治39年2月、日本の総督府による政治指導が開始された。
 1907年7月第三次日韓協約を締結。日本の統監府の下で政治、司法、教育、産業など諸方面において韓国の近代化が強力に推し進められた。

・第三次協約後、日本は韓国軍を解散させた。これに憤った兵士たちが自ら「義兵」と称して反乱を起こし、村落を襲っては日本人警官や親日的な政治結社一進会会員を攻撃した。
 おりからの満州の利権をめぐるアメリカの反日外交を見て、近く日米が開戦し、日本が敗退するとの風評が起こり、これらゲリラを励まし、また土匪も騒乱に乗じて横行するなど、治安が著しく悪化した。そこで保護政治の限界が論じられ始め、日韓両国民の間で合邦の必要性が説かれるようになった。
 しかし韓国の高宗が、事大主義、他力本願主義を発揮して、ハーグ万国平和会議に三人の密使を派遣して、韓国保護条約の無効を訴え、列国の力を利用して日本を牽制することを試みるという事件が発生すると、これを契機に日本では、併合、合邦論が沸騰した。

・「日本はできるだけ韓国を独立させようと欲してきた。けれども韓国はついに独立できなかった。ために、日本は、日清、日露戦争の二大戦役を開くもやむなき結果となった。その結果として、日本はついに韓国を保護国とした。日本は自衛上、実に、やむを得ずして韓国を保護国としたものである。かつ、世界の大勢を見るが良い。どんな強国でも、今日未だ一国だけで世界の平和を維持できるものではない。わずかに局部局部の泰平を維持しつつあるだけである。これすなわち、同盟国の必要な所以であって、もし、一衣帯水をへだてる韓国に外国に一指を染むるを許さんか、日本の独立を危うくするおそれがある。日本は、断じて韓国の日本に背くを許すことができない。

・日清、日露の両大戦役の間、韓国は一体何をなしたか。陰謀の外に何をなしたか。戦争中は傍観しただけではないか。諸君は、日本が、にわかに立って、韓国を滅ぼすならんと思うのは、果して何に基づくのかを聞きたいものである。⇒一進会が最も活躍したのは、日露戦争での日本軍への協力においてだった。当時、日本必敗との世界的観測を受け、韓国各勢力が親露という事大主義に傾くなか、李はロシアのアジア侵略の意図をよく分析し、アジア防衛のアジア主義の立場から日本軍を応援したのである。李は黄海、平安道一帯の会員延べ26万人を動員し、日本軍のための軍用鉄道建設軍需品運搬を支援している。

・「日本は韓国の陰謀を途絶するために、韓国の外交権を日本に譲れという。だが、日本は韓国を合邦する必要はない。合邦は甚だ厄介である。韓国は自治を要する。しかも、日本の指導監督がなければ、健全な自治を遂げ難い。これが今回の協約を結んだ所以である。

<合邦で国際的地位が向上した朝鮮>

・日韓合邦について、当時の日本人の朝鮮人観は「朝鮮人を扶エキして日進文華の民となし、帝国の臣民として永く安寧秩序をまっとうせしむるにある」というのが一般的だった。

・日韓併合条約は、対等の立場で、また自由意志で締結されたとみるのが、当時の国際条約の歴史からして妥当だろう。

・日本と合邦することで、朝鮮の主権は確立され、国際的な地位も向上したのである。それがなければロシアの植民地になっていたことだろう。


 朝鮮の近代社会は衛生環境の改善から

<疫病の国ー世界有数の不潔な環境>

・20世紀の初頭に至るまでの東アジア全域は、日本を除いたほとんどが極めて不衛生で風土病疫病が流行っていた。


 自然再生に貢献した治山治水事業

豪雨のたびに洪水で氾濫した平原部>

・1885(明治18)年12月6日から翌年2月29日にかけて、探検家ぺ・エム・ジェロトケヴィイチが韓城を出発して北朝鮮を経由、ポシェートに至るまで陸路を踏破している。その時のことを記した朝鮮旅行記には、当時の朝鮮の状況は下記の通り。
 「どこまでいっても、禿山と赤土ばかりで、草もすべて燃料のために刈り取られる」「山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者がでた」「ここは退屈極まりない土地で、山は禿山、植生はほとんどみられない」「朝鮮人たちは土地が痩せていると不満を訴えている。樹木は皆無で、燃料には藁と草が使われている」

<山河を蘇らせた総督府の山林緑化政策>

・朝鮮半島の森林消滅は「日帝」のせいであるどころか、朝鮮総督府は明治40年代から営林署を設立して朝鮮半島の荒廃して山野の復旧造林に着手した。

・これら治山治水事業にあたって総督府は、李朝以来のヨウ役制度を廃止し、朝鮮人に日当を支払った。これは奴隷解放の意義をもつ朝鮮史上画期的なことだった。


 苛斂誅求から農民を救った近代農業

<軍制にいためつけられた朝鮮農民>

・二回にわたる倭乱(日本の朝鮮出兵)と胡乱(清の侵入)にしても、朝鮮の正規軍はほとんど国土防衛の軍隊にはなり得なかった。

・「白骨徴布」とは、逃亡者の滞納分をその子孫に弁償させることができるという軍制だ。「黄口セン丁」は、新生児は生後三日で軍籍に編入させられ、その分の軍布の支払いを強制する軍制である。

・李朝末期にはさらに行政が混乱し、官職の売買は盛んとなり、一部の良民は地方官やエイ門と組んで「近役法」の規定により軍布の徴収から免れる。土豪に身を託して軍役から免れる良民も多く、貧農は相変らずいじめの対象だ。不正を働かない良民は、一人で四人分の軍布を負担するような事態も生じた。

・李朝衰亡の主因は、よく「三政紊乱」といわれる。「三政」とは田政」(地税)、「軍政」(良役還政」(還穀という三つの農民収奪制度であった。これらが乱れたことから、李朝は衰亡したといわれている。

<両班による過酷な農民収奪>

・どんなに虐げられても幾百年もの間、従順に慣れ百姓一揆さえ起こせなかったのも朝鮮農民の赤裸々な姿である。これは、千年属国に甘んじている朝鮮の姿そのものではないだろうか。

<両班の労働蔑視で伝統農業社会は停滞>

・儒教が説く聖人君子たる条件とは、働かず身を動かさないことである。

・李朝末期に朝鮮を訪れたマッケンジーは、役人の農民に対する苛斂誅求をみかね「何故飢えている農民は土地を耕さずに放っておくのか」と聞いたところ「耕せば耕すほど税金を取られるからだ」との返事があったと、著書朝鮮の悲劇で書いている。

・多くの者は、極貧に陥り、強奪搾取で生計をたてるしかなかった。両班は貧しくてもいかなる労働にも従事しないことを旨としていた。

無為徒食の輩が李朝を支配し続けてきたのだから、革命か外国の植民地になる以外、朝鮮農民を救う手立てはなかったのである。

<生まれ変わった韓国農民の意識改革と生き方>

・朝鮮農民の苦境の主因は、両班酷吏の搾取によるものだが、農民自身が積極的な意欲に欠けていたというのもその原因のひとつだった。朝鮮総督府はこの点に着目し勤労愛好自主自立報恩感謝のスローガンを掲げ、農民を覚醒させようとした。そして「自ら聞き、自ら律し、自ら治め、自ら励み、自ら働く」という、自主自治自律自励の精神、「独立自尊の精神に基づいて農業を展開させた。

<日本の農業開拓民が持ち込んだ技術と精神>

・農民たちの積年の不満が一気に爆発したのが「東学党の乱」以後の一連の民族運動である。「貧官汚吏を斥け、倭奴洋夷を攘する」というスローガンが、虐げられた民衆の心情をさらに昂揚させた。

<日本農民の自力更生気質が吹き込んだ新風>

・日本農民が老若男女の差なく家族ぐるみで農事に従事し、厳冬での室内作業やその他の副業に励む堅実さ計画性は、非常な脅威であった。

・日本の農業移民たちが「土地の収奪、搾取」したなど、机上の空論である。日本人農民は、朝鮮農業近代化だけでなく、朝鮮半島の近代市民社会の熟成に多大な貢献を果してきたのだ。


 危機を救った米産計画による食糧倍増

<半島の風土が語る農業の限界>

<不毛の地を開拓した日本人農民>

・字の読めない朝鮮農民の土地を騙し取ったというのは事実ではない。朝鮮の土地は王田王土が建前だが、李朝末期には土地の所有権はほとんど両班地主の手にあり、小作人には所有地はなかった。

・日本人の朝鮮への移民の多くはたいてい農業開発を目的としていたが、彼等はわざわざ不毛の地を耕していた。戦後の韓国人は東拓を含む農業移民が、朝鮮の美田、良田を強奪したなどと非難するが、美田を占有していたのは朝鮮人自身である。

<コメ生産倍増への総督府の努力>

・戦後、韓国人は朝鮮総督府が「コメを掠奪」したと指摘してやまないが、実際はそれどころか総督府は、農制改革、農地改良の一環として奨励金を出し、逆ざや制度まで設けて、コメの質と量とを安定させていた。その結果、史上空前のコメ生産量倍増という偉業を成し遂げ、朝鮮半島の人口倍増を支える基盤を築き上げた。

<米産拡大による朝鮮半島の生態系の変化>

・「朝鮮は日本の植民地政策と、組織的な経済近代化改革の影響をうけた後、再び独立の機会を得て、千年以上の間、農民の宿命であった不安定な境遇を改善することができた」(仏人文地理学者、ジャーク・プズー・マサビュオー『新朝鮮事情』)

日本は朝鮮を豊かにしたのだ。もし戦後の韓国人がいうように、日本人が掠奪、搾取、大虐殺を行っていたとすれば、人口膨張はありえなかった。⇒漢人・朝鮮人の気の毒に思う点は、騙し通せると思って入る点である。


 エネルギー確保から朝鮮型「産業革命」始動

<「地下資源の宝庫」という神話>

世界鉱産物の分布による実際の産出量からみても、何ひとつとして自給できるものはない。「日本が朝鮮の地下資源を掠奪した」と「日帝」批判をする多くの朝鮮近代史学者たちは、この部分にはほとんど触れないでいる。⇒およそ学者と名のつく中で、中韓の学者ほど信用できない人間はいないのではないか?

<日本の財政補填あっての地下資源開発>

・日本は援助こそすれ、資源掠奪など行っていない。

<農業社会から産業社会への急変貌>

「日本は、40年ほどの間に厳しいやりかたで、自然の脅威にさらされ大きな工業設備ももたない貧しかったこの農業国家を、科学的な農業とさまざまな工業、そして活発な貿易を誇る経済の調和のとれた国へと変身させた」(ジャーク・プズー・マサビュオー『新朝鮮事情』)


 闘争的朋党政治を追放して超安定社会に

<李朝の両班は外敵よりも政敵打倒に夢中>

・王族内の骨肉の争いから、宮廷内の朋党の争い、儒林の争いに至るまで、内部抗争は朝鮮史の特徴の一つといっても過言ではない。

・「日本統治時代は、人々に道義心があり、治安も良かった。今日の韓国社会は治安がひどく悪化した。日本統治時代、人々は規律ただしかった」(朴 泰セキ『醜い韓国人』光文社)

<半島国家の誤算と悲劇を生んだ事大主義>

・朝鮮半島の千年国策は、いうまでもなく事大主義であり、そこで生まれたのが千年属国の民族性だろう。

・両班の搾取と圧迫に対する従順や無抵抗も、平和を愛好する民族という説明で片づくのだろうか。いくら自民族の事大を美化しても、自らすすんで中国への事大を希求した史実は覆い隠すことはできない。

・事大主義は半島の国家統一を保つ「経国の大事」であり、歴代王朝は常にこの治国の鉄則を守り続けてきた。この鉄則を思想的、精神的に支えてきたのが朱子学である。朱子学は、君臣の大義を徹底して説き、大中華への忠節を強化させた。

・韓国の進むべき道(1963年)朴大統領
@事大主義
A怠惰と不労所得観念
B開拓精神の欠如
C企業心の不足
D悪性利己主義
E健全な批判精神の欠如
F党派意識
G特権・エリート集団意識

<王朝の悲劇を免れた朝鮮>

・もし日韓合邦がなければ、清朝の辛亥革命での倒壊を受け、そして中華民国体制下での第二次革命、第三次革命、軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦などといった凄まじい混乱に連動しながら、李朝は国内革命を避けることは出来なかっただろう。

<合邦国家から生まれた李朝王族の新生>

・もし李朝がイギリスの属国になっていたら、インド属領に編入されたビルマ王室と同じ悲劇を歩んだ事だろう。あるいは、ロシアの属領となっていたら、一体どうなっていただろうか。仮に、清の属国であり続けていたとしても、辛亥革命の荒波を傍観していられただろうか。

 朝鮮の国家破産を救った日韓合邦

<外国の属国化が朝鮮財政救済の唯一の道>

・合邦当時の韓国は、日清戦争の結果、名目上はたしかに大韓帝国と国号を変えて清国から独立し、高宗も皇帝を名乗っていたが、実質的には国家の体をなしていなかった。
 近代国家としての財政制度国家会計予算制度すらなく、歳入、歳出はすべてどんぶり勘定であり、宮廷と国家の財政もまったく区別できず、国家財政は破綻状態にあった。

・米国の朝鮮史家、グレゴリー・ヘンダーソン『朝鮮の政治社会』
 「李朝は、もはや経済的破産と崩壊の寸前であった。すでに軍事力はほとんどなく、政権の分裂と内紛で行政はマヒ状態となり、慢性的百姓一揆の気運に脅かされていた」

・李朝は列強から借款を受けるにも抵当にできるような鉱山や土地はほとんどなく、外国の属国になる以外、国家財政を維持することはできなかった。宗主国・清国の財政も朝鮮以上に逼迫しており、朝鮮を搾取するだけだった。⇒今の日本も財政状況を見れば同じではないのか。

 そこで助け舟を出したのが日本である。崩壊寸前の朝鮮を合邦という形でもらい受け、年間15〜20%の歳出を補填しながら、半島の民生を守ったのだ。いわば放漫経営で破産寸前の李朝株式会社が、日本株式会社に合邦されたようなものである。朝鮮総督府の、李朝の腐敗政治の源である宮廷内の無為徒食の輩を数千人規模で「整理」した。その人員整理と政治改革があったからこそ、朝鮮の王室は、フランスやロシアの王室のように革命後の悲劇に直面しないで済んだ。⇒日本にあてはめると、社会主義政策で増えすぎた公務員の人員整理と政治改革で再生する以外ない。

<朝鮮財政を救済した財政顧問・目賀田種太郎>

<有名無実だった徴税制度の再建>

<公正な租税制度を打ち立てた科学的全国土地調査>

・朝鮮総督府が、土地制度と租税制度確立のために行った全国土地調査は、近代朝鮮半島史上で特筆すべき画期的な事業だと言われている。

・「陰結(陰田)」は地主の税金逃れによるものだけでなく、地方官僚の税金横領によるものであり、公簿上での結数は時代とともに減少していった。同時に国税も減る一方で、それが庶民に対する苛斂誅求の歴史背景となっていた。
 朝鮮総督府の全国土地調査によって、この「陰結」が一掃され、調査開始蒔には272万余町歩と算出されていた耕地面積は、調査の結果、土地所有者は187万余人、総面積は487万余町歩と倍増したのである。

土地調査によって、農民の長年の正当な耕作権を取り上げたという事実は皆無である。むしろこの土地調査こそ、旧来の土地制度の乱脈と官権の濫用という重圧、悪政から農民を解放するものだった。

 貨幣整理による金融制度の確立

<悪貨が良貨を駆逐した李朝末期の貨幣紊乱>

<貨幣整理で経済開発の基礎を築く>

<日本人の税金で支えた朝鮮経済超過保護政策>

・巨視的に見れば、朝鮮総督府の半島経営は、植民地的収奪とは違い、日本人の税金を注ぎ込んで財政を支え、近代国家として育てようとするものだった。

・朝鮮から日本に入れるものには免税にして、日本から朝鮮に出すものには移入税を取るという超過保護政策をとり続け、この関税障壁は1941(昭和16)年まで続いた。

 交通の大建設で新生した朝鮮半島

<交通・物流が未発達の「隠者の国」>

・日韓合邦後、その朝鮮半島で日本人は、台湾で行ったと同様に鉄道、道路、港湾、空港などの建設を、まさに疾風怒涛の勢いで行った。その結果、朝鮮は36年という短期間で、日本に次ぐアジア第二の交通発達国家になることができた。

<日本が朝鮮半島を交通先進国家に押し上げた>

・人的、物的流通は朝鮮人に国土観を持たせ、人的、地域的交流を活発化し、朝鮮人同士の紐帯を強固にした。日本の交通建設は、朝鮮人にひとつの民族としての自覚を与えた。

 日本がもたらした実学教育

小中華思想解放で生まれた近代化>

・儒教とは反近代主義がドグマ独断的な信条であり、尚古主義を絶対的とし、君子と小人という不平等な人間観を執拗に主張するものであり、また極端な労働蔑視思想でもあった。

小中華の自負から、朝鮮では、開国に至るまで衛生斥邪思想が叫ばれていた。衛生斥邪とは、1866年10月のフランス艦隊の江華島侵入、1871年6月のアメリカ艦隊の同島侵入といった、西力東来の衝撃波を受けるなか、朱子学を正学として護り、その他の諸学を邪学として斥ける儒教的思想である。

・斥邪意識は、キリスト教を邪教とする反西教的、反西学的思想であり、斥洋斥倭の攘夷排外意識でもある。その背景には、李朝という国家を護るため伝統秩序を防衛するという志向もあった。もちろん両班ら知識人たちの国家意識には、自主独立国家という考えは全くなかった。実質的にも思想的にも、自称大明の東屏、つまり中国東側の藩屏であったのだ。⇒日本は米国西側の藩屏ですか、それとも中国東側の藩屏ですか?

・日本は明治維新を通じて見事に近代国家へと変身した。しかし実学を軽視する儒教思想が足枷となった清国と朝鮮は、それぞれ戊戌維新や甲申改革を起こすものの、失敗に終わっている。

<国家発展上、民衆教育を推進した日本>

・李朝時代の初等教育は書堂と呼ばれる寺子屋があったが、習字と漢籍の素読を教えるだけで実学を一切無視したものだった。日韓合邦当時、その数は、1万6千で、児童総数は人口のわずか1%にすぎない14万人だった。朝鮮総督府は、そうした朝鮮半島に近代的な学校を次々建設していった。

<戦後韓国の経済発展は日本の教育政策の賜物>

教育制度官僚制度軍事制度は日本が残した三つの功績である。韓国経済の成長を主導したのは、日本の教育を受けた人々であった。

 日本による朝鮮伝統文化の保護と再生

<朝鮮文化の自己破壊>

・韓国人の「日帝」批判の常套句に、日本による朝鮮半島の「伝統文化撲滅と文化財の略奪」がある。しかし、これも史実とはまったく逆で、彼ら自らが破壊した自国文化を、日本が復興したのが史実である。

・今日に至っても、前政権の施策は覆され、業績も評価されない。これは日本とまったく対照的で、日本人が文化を守る民族とするならば、韓国人は文化を抹殺する民族である。⇒日本の過去の悪口ばかり言う人間はやはり支那人や韓国人に似ているのであって、日本人ではない。

・韓国は、王朝交替のたびに文化自殺を繰返してきた。ことに、排他的で絶対不寛容の朱子学が半島に威勢を振るってからというもの、経典や詩詩以外の文化はすべて排斥された。歌舞や美術もすべて半島から消え去り、残ったのは死人崇拝の儀礼のみである。

<日本人こそが朝鮮の文化と文物を復興した>

・朝鮮における旧慣古跡調査および本格的な歴史研究が始まったのは、総督府時代に入ってからである。現在の韓国に残る多くの貴重な文化財は、すべてこの頃保存されたものである。

・日本人は、朝鮮半島に侵入して京城の書院などを襲い、貴重な文化財を掠奪、日本国内に持ち帰ったと非難する向きもあるが、史実は逆だ。日本人は文化財、ことに書物を大切にする民族であって、略奪して焼き払うことなどできるわけがない


 ハングルに息を吹き込んだ日本の文化政策

<文字創出は宗主国への「謀反」と考えた朝鮮人>

唐の盛期には、漢字が東亜世界諸族の共通のメディアとして使用され、聖徳太子が隋のヨウ帝に送った国書も漢字で書かれていた。ところがその盛期を過ぎるや、唐文化に刺激された周辺諸国は競って独自の文字を創出し、天下騒乱の唐と一線を画して独自性を強調するようになった。これは、中世民族主義とも言われる。

・何故朝鮮だけが独自の民族文字開発に時間がかかったかというと、千年属国の伝統を墨守し、事大主義に徹していたため、創造性を働かすことがなかったためだ。また、中華帝国から謀反との嫌疑を避けるためでもあった。そのため、せっかくハングルが造られても、公文書は相変らず漢文で書かれていた。⇒やはり臆病というべきか?

<ハングルは李朝に廃止されていた>

・「日本やモンゴル、チベットなどには独自の文字があるが、それは野蛮な地域だからだ。我々が独自の字を持ったら、彼らと同様に野蛮人になってしまう。そのうえ、われわれは中国を宗主国として仰いでいるのだから、新しい文字を創ることは中国からしてみれば謀反であり、怒りを買う恐れがある」という徹底した属国意識からのものだ。⇒勝手に決めた中国という中心から離れているだけで、野蛮人扱いするような唯我独尊の国とは、矢張りまともには付き合えない。

・ハンブルが再びこの世に姿を現し、鼓吹されるのは日清戦争後、そして正式に使用され始めるのは、20世紀の朝鮮総督府時代になってからなのである。

<清国からの独立を促すためのハングル奨励>

・朝鮮人による自国語の科学的研究と関心が起こるのは日韓合邦後で、朝鮮人による自国語辞典は1939昭和14の、文世栄による朝鮮語字典が最初である。

<福沢諭吉が提案した漢字・ハンブル交じり文>

<日本語と「朝鮮語・漢文」を並行で教えた総督府>

・朝鮮の知識人や親日派の人々は朝鮮語の全廃を強く主張していた。それは近代化を目指す上から言語問題を考えた結果であって、決して単なる事大と断じることはできない。


 近代国家を目指した皇民化運動

<朱子学に心酔する韓国人の死に至る病>

・李朝時代に強引に進められた尊儒斥仏政策は、華化政策だった。

・宗教はたいてい強烈な排他性を持っているが、朱子学は宗教以上に排他的で激越である。仏教を弾圧し、絶滅へ追い込んだ。

<李朝朝鮮を属国として固定化させた朱子学>

朱子学は、宋以後、朱子によって理気の学として集大成された新儒教である。基本的には、事大主義の学問であり、春秋大義の名文華夷の分別などを唱え、主君に忠誠と奉仕を約束させる体制奉仕の学問である。
 之が半島で流行したことにより、李朝は中国の属国として固定化する。明王朝を正朔として奉じ、朝鮮を「小中華」として、「大義名分」のために「大中華」に臣属忠誠を誓うようになる。これがいわゆる「君臣の義」である。⇒国家間でこれをやられるのはたまらない。

・朱子学者にとっては、諸子百家は勿論のこと、陽明学、仏教、西学、東学などあらゆるものは異端であり、排斥の対象とされた。この頑固なまでの排他主義は、李朝時代の「邪獄」や「土禍」、あるいは「衛正斥邪」の思想を創り上げていった。今日の北朝鮮のチェチェ思想の源流でもある。⇒イスラムの原理主義もそうである。

・朝鮮末期、朝鮮支配の強化を進めた清国では、朝鮮を版図に組み入れるといいう朝鮮省設置の義が出ていた。
 これに対して両班は、中国を恨むどころか、むしろ「小中華」から「大中華」への昇格だとして感謝していた。⇒日本の政治家にもいそうである。
 国家否定、民族否定をしていたのが、日韓合邦前における朝鮮である。⇒日本人の一部に、国家否定、民族否定の集団がある。日本の合邦の相手はどこの国と考えているのか?

<近代国民国家形成に不可欠だった皇民化運動>

・今日、反日日本人と韓国人は、皇民化運動をもって帝国主義的と批判するが、あくまで国民意識の内地並みを目指したものであり、むしろ朝鮮が近代国家への道程をいち早く歩み始めた証拠として称賛されるべきではないのか。

<日本人はアジアの憧れ>

・誰もが忌避した李朝時代の兵制や中国伝統の強制連行的な拉夫私兵とは異なり、日本の近代国民兵制度が朝鮮で実現すると、数十倍から数百倍の志願者がでたのは、当時の青年たちが誇りある国民になりたかったからだ。「特攻隊員」まで志願した朝鮮青年も少なくない。このような当時の人々の願望や情熱を理解できない限り、歴史はわからない。⇒いつの時代でも子供には「誇りの持てる国民」教育をすべきである。

・現在韓国では、かっての「日本語使用」「創氏改名」「神社参拝」「などを鼓吹した個人や団体を「親日派」「韓奸」「売国奴」などと断罪しているが、このような風潮は、あくまでも戦後に、漢民族を急造すべく反日を梃子に民族主義の高揚が図られるようになってからのもので、戦前にはなかったのである。


 創氏改名は朝鮮人の要望に応えた特権

<朝鮮人の姓は中国から下賜された漢姓>

・政策としての創氏改名は、一視同仁の原則内鮮一体の国策に基づき、政令20号第2条の「正当な事由がある場合において、氏名の変更を許可する」との規定や、「朝鮮民事令」第11条の、内地の民法の「氏」の規定から、朝鮮の戸籍に氏を新設(創氏)するといった規定に依拠して推進されたものである。
 実際には、強制ではなく、あくまでも自己申告制の任意であった。

・日本時代の「創氏」には民族の姓を奪ったなどと歴史捏造までして非難しながら、その姓が実際は中国から賜ったものであることには無頓着な韓国人をみると、この国には未だ以って「中華世界」から抜け出す意志がないようである。⇒米国人・支那人・韓国人の浅はかなところは、「嘘」「捏造」がいつまでもまかり通ると考えている点である。

<自己申告制ー創氏改名は強制ではなかった>

・朝鮮人の多くは水田耕作を行い、漢人の多くは旱田耕作を行うという棲み分けはあったが、両者間ではしばしば衝突もあった。最も大きな衝突が万宝山事件1931年)」であり、それをきっかけに朝鮮人は京城をはじめとする大都市の中国人へ報復虐殺を行った。

・在満州の各民族は、支那国民党の国家主義的扇動によって、激しく対立し、各民族の軋轢は日増しに増大している。ことに朝鮮民族に対する圧迫や迫害は激しかった。そこでこうした迫害をさけるためには日本名を名乗り、日本国民であることを明確にするしかない。そこで在満の150万人の朝鮮人にとって、「創氏改名」は漢人からの迫害をさけるための活路だった。

・朝鮮人は明らかに台湾人より優遇されていた。日本からみて朝鮮は、合邦相手国である上に、日鮮同祖論という親近感があり、創氏改名は一種の同胞意識の表れだったといえる

<朝鮮人が日本人であることを求めた理由>

・日本人化こそが朝鮮の文明開化の道だという認識が、当時の知識人階級において強まっていた。


 扶植された平等理念と法治観念

<階級の非人間的階級支配の実態>

・李朝社会は、宗主国の中華帝国にもない牢固は階級支配構造をもっていた。

・南の北に対する差別意識がある以上、南北に真の平和は訪れないだろう。もし南による半島
統一が実現してしまったら、今は陰に隠れている南の伝統的な差別意識が再燃する可能性も潜んでいるのである。⇒すでに差別意識があるのではないか。南は北との統一を望んでいないように思える。

<人口の過半数近くが奴婢階級>

・日本が支援していた甲申改革当時の改革・独立派、金玉均らは、「中古以前、我邦の国運の隆盛時には、一切の機器、物産が東洋三国の冠であったのに対し、今日その痕跡がまったくないのはほかでもなく両班の跋扈専横によるものである」と指摘している。

・李朝時代の奴婢たちは、賎民というよりも家畜に近い扱いを受け、その階級意識は後年まで根強く残った。そのため1923(大正12)年5月、最下層階級の奴婢で白丁と呼ばれる人々が、被差別からの解放を叫ぶ、普州で「衡平社」を結成し、衡平社運動が開始された。

・その後も、一部農民は白丁の村落を襲撃、放火して家屋を手当たり次第に壊したり、白丁を支援する団体への襲撃も辞さないなど、白丁差別を続けた。

<リンカーンの奴隷解放以上の総督府の功績>

・韓国人の差別意識に大きな影響を及ぼしたのは、モンゴル人の階級差別と、アパルトヘイト以上に厳しい中国の華夷思想である。

・朝鮮における華夷思想の定着は、李朝以降である。中国では、古代から中原の人間が最も偉く、その周囲の人間は、蛮戎夷テキであり、禽獣であるとみなされていた。その中国人からみれば、朝鮮人も夷荻に属したが、朝鮮人自身は中国人に次ぐ世界で二番目に優秀な人種としての自負を抱いていた。

・朝鮮において史上初の階級差別廃止政策である門閥廃止万民平等等という社会改革を断行したのが朝鮮総督府である。その目的は、ほかでもなく近代的な国民の創出である。これによったすべての朝鮮人が、階級を問わず戸籍を許され、人口の40%を占めた奴婢が姓氏を持つようになった。

<残虐な酷刑の廃止で守られた朝鮮人の人権>

・『朝鮮の悲劇』F・A・マッケンジー(1869〜1931)
 「監獄は呪詛のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に際しては、一時に数十名の囚人が絞首されてしまい、裁判は売買された」

・『朝鮮亡滅』ホーマー・ハルバート
 「金次第でどうにでもなり、多額の金を提供するか、裁判官を畏怖させるほどの有力者を後ろ盾にもっていることを見せ付けるかした方が、必ず有利な判決にありつけることは、世間一般の常識」である。現在でも韓国は、いまだに賄賂が効果を発揮する。儒教国家と賄賂は、切っても切れない関係なのである。

<総理府の武断政治は朝鮮法治化への大手術>

・朝鮮総督府は、李朝末期から残るこうした儒禍を徹底的に排除しょうとした。土地制度租税制度の改正、財政破綻官僚腐敗の一掃、階級制度による身分差別の撤廃、公私奴婢の廃止と解放女性再婚の自由の保障チ刑連座法の廃止など、過去の陋慣習に徹底したメスをいれたのである。一方で総督府は、法治社会の確立、個人の独立、人権の尊重など、近代的法治国家の概念を植え付けようとした。
 これが、朝鮮総督府の「武断政治」とよばれるものの実体であり、文明大転換のための改革であった。


 近代的ナショナリズムの目覚め

<日本人への協力に転じた朝鮮の愛国者たち>

・「日本」という新世界との接触、遭遇で、朝鮮民族主義が、じつは「井の中の蛙」式の異民族蔑視意識から発したものだとの認識があった。

・抗日から親日への転向は、朝鮮人の近代意識体得への変遷を示すもの。⇒漢人には今の所ない。

<文明の衝撃による「親日派」の急進性>

・当時の朝鮮には、日本の明治維新当時と同様、新文明への幻惑があった。それを遺憾なく摂取するためには、旧文化の放棄しかないと考えたのは、日本人も朝鮮人も同じだった。⇒朝鮮人は日本人以上に極端ではないのか。日本人には少なくとも脱亜入欧」「和魂洋才なる精神があった。

<日本の戦勝で高まった日本人意識>
・戦後の韓国では「親日」は犯罪と同義語となり、「親日」だから恨まなければならないという原則が打ち立てられた。この原則、掟をうち破らない限り、歴史を冷静に検証することができず、いつまでも優れた先人たちの名誉を汚し続けることになるだろう。しかし彼ら親日派こそ、朝鮮および朝鮮人を心底憂い、あるいは心底愛した人物たちなのである。

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