植民地主義(U) |
「 日本の植民地の真実 黄文雄著 扶桑社」より |
「台湾400年史は外来支配の歴史」 <史実に反する「中国の神聖不可分の領土」説> ・日本が台湾を統治していた時代には、大陸にいた国民党も共産党も、台湾を「中国領土」とは考えておらず、日本の台湾領有を認めていたのである。もちろん日本に「台湾返還」を求めたことなど一度もない。 ・終戦後、連合軍の命令に従って日本は降伏を受け入れると同時に、台湾領有を放棄した。日本軍と入れ替わりに台湾に進駐した国民党軍は、台湾の中国への返還を定めたとする「カイロ宣言」を盾に、台湾を中国領に組み入れた。もっとも「カイロ宣言」など、まったく国際法の効力をもたないばかりか、最近の研究では、「宣言」そのものが存在していないということが明らかになっている。⇒台湾占領のための国民党軍の方便である。 いずれにせよ大戦終結とともに始まった冷戦という国際社会のドサクサのなかで、中華民国は台湾を接収した。そして1949(昭和24)年、国共内戦で敗れた蒋介石の国民党が政府ごと台湾に移り統治を開始した。 ・台湾が中国の版図に入ったのは清朝時代の1684年であって、この時代の諸文献中、台湾の歴史に関する記載の中で、たとえば乾隆帝が「台湾は古来中国に属していなかった」(東華録選)と断言しているのをはじめ、「台湾は中国に属していなかった」「台湾は日本に属していた」とはあっても、「古来から中国に属していた」との書き方はされていない。 <清国も中華民国も歴代外来政権の一つ> ・大陸では、明国が清国に滅ぼされた。華南一帯では、鄭成功軍が抗戦を継続していたものの、結局、追い詰められて1661年、台湾へ逃げ込んできた。鄭成功はオランダ勢力を撃破して新しい外来支配者となり、台湾を「東都」(明国の東の都)と改称し、大陸反抗基地として経営を開始した。戦後、台湾ではこれを、「明鄭の復台」、つまり「明国の鄭成功による台湾回復」と呼んでいたが、それは台湾がもともと明国の版図だったとする歴史歪曲に基づいていたものである。 ・「台湾の開拓は住民が行った」「住民を略奪するだけだった清国は、外来政権に過ぎなかった」という見方が台湾の歴史学者の間で有力になりつつあるが、実際それは史実に即している。 <牡丹社事件と台湾の「化外の地」論争> ・牡丹社事件は、1871年、琉球の宮古島の朝貢船が暴風雨に流され、遠く台湾東南部の八遥湾に漂流したことから始まる。原住民パイワン族は、漂着した琉球人を仇敵の漢人と間違えて、乗組員54人を殺害してしまったのである。生存者12名は命かながら漢人集落まで逃走し、福州へ移され、翌年6月、那覇へと送還された。 ・日本の使節に対して清国政府は、「台湾東南部の生蕃は、化外の地の民であるため、その所業の責任を負うことはできない」との回答をしてきたのだ。そこで柳原公使は、「彼らの凶悪を懲罰し、文明の征伐を図ることは、開花政府の当然の義務である」との捨て台詞を残して引き上げた。こうして日本政府は、主戦論で固まった。 ・「台湾蕃地処分要略」第一条には「無主の地」清国領土外とみなされる台湾先住民地域(蕃地)に対して、琉球民殺害への「報復」処置として「台湾出兵」を基本方針とするとある。また、蕃民討伐と土人への撫育もあげられている。 ・それまで琉球は、名目的には日清の両属関係にあったものの、実質的には島津藩の支配下にあって久しかった。そのため、日本による台湾出兵後の北京会議で清国は、琉球が正式に日本に所属することを認めた。それを受けて1879年4月4日、日本政府は琉球藩を廃止して沖縄県を設置した。 これによって、琉球藩主は消滅し、清との冊封体制もなくなったのである。一方清国は、琉球が日本所属であると承認する代わりに、台湾が自国の所属であるとし、それを非公式ながら日本にも認めさせた。つまり清国政府はこの事件で得をしているのである。 <治安維持軍として日本軍を迎えた市民> ・台湾は、正式な国際条約に基づいて日本の領土の一部となった。つまり日本の台湾領有は、日本の不法占拠ではない。 ・「反日抗日」を銘打つ台湾史書では、日本軍といえばたいてい「虐殺、略奪、放火、婦女暴行」の軍隊として描かれているが、実際はそれを行ったのは、日本軍ではなく清国軍だった。当時の抗日英雄とされている簡大獅も、「清国政府によって逮捕され、台湾総督府に引渡された単なる狼藉者過ぎない。「 <中国化政策で捏造された台湾の「抗日史} ・台湾では、霧社事件における日本による原住民鎮圧は問題視しても、17世紀に台湾をオランダの統治から奪った「中華英雄」の鄭成功による原住民虐殺についての研究は誰もしょうとしない。 ・鄭銘伝の施策は、台湾独自の「資本と技術」という視点にかけ、そのため台湾住民への苛斂誅求から民衆の反乱が続発した。そのために彼は、台湾史上稀代の酷使となり、罷免されている。 風土病の地における医療制度の確立 衛生環境の改善で人の住める島になった台湾 近代的産業基盤を打ち立てた国土改造計画 治山治水を図った森林事業 原始経済から貨幣・商品経済に大転換 飢饉の島から食糧輸出地に変貌 |
共通語導入で近代化された多言語社会 <近代化の母国語になった日本語> ・言語の習熟度は、文化水準をそのまま表すものである。明治以来、西欧近代文化を取り入れた日本語が教育されなければ、台湾住民の近代化(近代的国民化)は不可能だっただろう。日本語は台湾近代化の母国語なのである。 <日本語教育あってこその今日の台湾> ・儒学の欠点は、尚古主義に陥り、新たな発想を生み出せないことにある。また女性に開かれていないことも、近代化には不向きだった。ちなみに台湾総督府の調べでは、儒学教育を受けている台湾女性はわずか65人だった。⇒儒学はイスラムの原理主義と同じではないか。 また儒学には実学が含まれていないので、近代的人材の養成は難しい。日本の寺子屋に相当する書房での教育内容は大きく異なっている。寺子屋は「読み書き算盤」という生活に最低限必要な素養を与えたが、儒学教育の書房は「反商」を旨とするので算盤のような実学を軽蔑していた。 <台湾人教化のために台湾語を学んだ日本人> ・戦後、台湾に入ってきた国民党政権は、日本が行った近代化教育を「奴隷化教育」だと徹底非難し、「皇民化運動」「国語愛用」政策は「日本による諸民族の言語文化剥奪」だと主張している。しかしこれは事実無根の歴史捏造である。⇒批判しょうとすれば、何でも批判できるのはある意味では残念である。特に「邪悪な人間の批判は害あって徳なし」。 <台湾の土着言語絶滅政策は戦後から開始された> ・台湾の伝統文化と言語の絶滅政策を断行したのはほかでもない、国民党政府である。そこには中国人化政策という政治的理由の他に、伝統的な中華思想からくる絶対的中華優越主義があったのだろう。 教育不毛の島を教育先進地域にした総督府 「警察政治」で匪賊社会は近代的法治社会に 原住民開化のための山地征伐 扶植された近代社会の近代精神 日本の総督府にかなわない中華民国総統府 |
大陸の千年属国としての朝鮮 <日清戦争まで朝鮮は独立国ではなかった> ・下関条約の第一条には「清国は朝鮮の独立を承認する」ことがはっきり明記されている。 それは朝鮮を清国から独立させることこそ、日清戦争における日本の目的のひとつだったからだ。この条文は中国人学者もよく引用するところだが、一部の学術論文を除いては、たいてい原文を改竄し、「朝鮮独立」を「日本の支配下に置く」という文言に故意に書き換えている。⇒およそ、この程度の国とそもそも歴史を語り合うなどナンセンスである。 ・「中国朝鮮商民水陸貿易章程」(1882年9月調印)では、朝鮮の宗属関係について「古代から属国であるので、清国政府とのすべての問題における交通の規範は固定されており、変更の必要はない」と記している。 ・李朝朝鮮の末期に登場した開化派は、清への事大をやめて独立を獲得しょうとしたため、事大派に対抗する「独立派」と称されていたことも忘れてはならない。 ・中国は周の時代からすでに周辺の夷荻と冊封関係を取っており、朝鮮半島もその例外ではなかった。中国との宗属関係が決定的になったのは、統一新羅(668〜935年)の時代からだ。唐の後押しで三国を統一することができた統一新羅は、唐に属国として忠誠を誓い、それ以降、半島の王朝交代などによって強弱の差はあったものの、朝鮮は中国歴代王朝との属国関係に甘んじた。五代十国の中国戦乱時代の数年間は例外としても、それ以外は一貫して中華帝国の「千年属国」であった。 ・この宗属関係は、決して中華帝国が一方的に強要したものばかりではない。半島の王朝は、権威権力を含めた政権確立と政治安定のため中華王朝に対する冊封を必要だとし、自ら進んで属国になったこともある。⇒幕府が天皇に対したように、韓国は中国に対したのだ。戦後の日本はアメリカに対してどうだろうか? ・本格的に中華の干渉を受けるのは李朝時代からである。李朝の太祖・李成桂は「易姓革命」によって高麗朝を簒奪した事実を、実権支配の獲得を、明の太祖に認知させる為、国家主権を明に売り渡し、明の属国と決め込んだ。朝鮮の国号と王位を明によって下賜されるかたちをとったのである。→統治権について幕府が天皇の承認を得るようなものである。 ・明が満州人清に滅ぼされると、反清復明を唱える朱子学者などは、相変わらす明の正遡を奉じ清の討伐を企てた。しかし満州八旗軍によって徹底的な蹂躙を受けると、結局は清の属国となり、今度は明に矛先を向け、明人を虐殺したのである。⇒日本に対する態度と一緒である。民族性は繰返される。 ・朝鮮は「礼儀の国」や「君子の国」と称されるのを誇りにしているようだが、それはまさしく属国としての誇りにほかならない。その言葉は宗主国である中国に対する属国の礼を忠実に守る国を指すものである。 ・属国は、冊封国は、宗主国へ定期的に朝貢使節を送り、回賜(返礼)を戴かなければならなかった。これは朝貢貿易と呼ばれるもので、現在韓国では「進貢よりも回賜の方が多かった。中国との宗属関係は形式的なもので、実質的には貿易の実益を狙った経済活動だった。政治的な隷属関係ではない」とするのが通説だが、それは事実と異なる。 最近の研究によれば、清朝宮廷からの回賜は、進貢のわずか十分の一だったことが明らかになっている。朝鮮は中国に搾取されるだけの最貧国だった。 ・日清戦争の結果、清は、朝鮮の宗主権を放棄し、その独立を認めることとなった。それを受けて、朝鮮は「大韓帝国」と改称し、独立国家となったのである。高麗朝建国初期の一時期を除いた、この時、朝鮮は史上初めて中国のものではない朝鮮独自の年号を用いることができるようになった <近代日本にとって大きな負担だった朝鮮> ・1873(明治6)年の「征韓論」以降の日本の朝鮮への関心は、朝鮮侵略というより、ロシアや清国の脅威に対処するため、いかに頑迷な朝鮮を目覚めさせ、その近代化政策を助けるかにあった。日本の韓国「保護」も「合封」も、最大の目的は清国とロシアの脅威を避けることにあった。 列強時代は弱肉強食の時代であり、「万国対峙」の時代である。 朝鮮独立のための日清・日露戦争 朝鮮の近代社会は衛生環境の改善から 自然再生に貢献した治山治水事業 苛斂誅求から農民を救った近代農業 危機を救った米産計画による食糧倍増 エネルギー確保から朝鮮型「産業革命」始動 闘争的朋党政治を追放して超安定社会に |
朝鮮の国家破産を救った日韓合邦 <外国の属国化が朝鮮財政救済の唯一の道> ・合邦当時の韓国は、日清戦争の結果、名目上はたしかに大韓帝国と国号を変えて清国から独立し、高宗も皇帝を名乗っていたが、実質的には国家の体をなしていなかった。 近代国家としての財政制度や国家会計予算制度すらなく、歳入、歳出はすべてどんぶり勘定であり、宮廷と国家の財政もまったく区別できず、国家財政は破綻状態にあった。 ・米国の朝鮮史家、グレゴリー・ヘンダーソン『朝鮮の政治社会』 「李朝は、もはや経済的破産と崩壊の寸前であった。すでに軍事力はほとんどなく、政権の分裂と内紛で行政はマヒ状態となり、慢性的百姓一揆の気運に脅かされていた」 ・李朝は列強から借款を受けるにも抵当にできるような鉱山や土地はほとんどなく、外国の属国になる以外、国家財政を維持することはできなかった。宗主国・清国の財政も朝鮮以上に逼迫しており、朝鮮を搾取するだけだった。⇒今の日本も財政状況を見れば同じではないのか。 そこで助け舟を出したのが日本である。崩壊寸前の朝鮮を合邦という形でもらい受け、年間15〜20%の歳出を補填しながら、半島の民生を守ったのだ。いわば放漫経営で破産寸前の李朝株式会社が、日本株式会社に合邦されたようなものである。朝鮮総督府の、李朝の腐敗政治の源である宮廷内の無為徒食の輩を数千人規模で「整理」した。その人員整理と政治改革があったからこそ、朝鮮の王室は、フランスやロシアの王室のように革命後の悲劇に直面しないで済んだ。⇒日本にあてはめると、社会主義政策で増えすぎた「公務員」の人員整理と「政治改革」で再生する以外ない。 <朝鮮財政を救済した財政顧問・目賀田種太郎> <有名無実だった徴税制度の再建> <公正な租税制度を打ち立てた科学的全国土地調査> ・朝鮮総督府が、土地制度と租税制度確立のために行った「全国土地調査」は、近代朝鮮半島史上で特筆すべき画期的な事業だと言われている。 ・「陰結(陰田)」は地主の税金逃れによるものだけでなく、地方官僚の税金横領によるものであり、公簿上での結数は時代とともに減少していった。同時に国税も減る一方で、それが庶民に対する苛斂誅求の歴史背景となっていた。 朝鮮総督府の全国土地調査によって、この「陰結」が一掃され、調査開始蒔には272万余町歩と算出されていた耕地面積は、調査の結果、土地所有者は187万余人、総面積は487万余町歩と倍増したのである。 ・土地調査によって、農民の長年の正当な耕作権を取り上げたという事実は皆無である。むしろこの土地調査こそ、旧来の土地制度の乱脈と官権の濫用という重圧、悪政から農民を解放するものだった。 貨幣整理による金融制度の確立 <悪貨が良貨を駆逐した李朝末期の貨幣紊乱> <貨幣整理で経済開発の基礎を築く> <日本人の税金で支えた朝鮮経済超過保護政策> ・巨視的に見れば、朝鮮総督府の半島経営は、植民地的収奪とは違い、日本人の税金を注ぎ込んで財政を支え、近代国家として育てようとするものだった。 ・朝鮮から日本に入れるものには免税にして、日本から朝鮮に出すものには移入税を取るという超過保護政策をとり続け、この関税障壁は1941(昭和16)年まで続いた。 交通の大建設で新生した朝鮮半島 <交通・物流が未発達の「隠者の国」> ・日韓合邦後、その朝鮮半島で日本人は、台湾で行ったと同様に鉄道、道路、港湾、空港などの建設を、まさに疾風怒涛の勢いで行った。その結果、朝鮮は36年という短期間で、日本に次ぐアジア第二の交通発達国家になることができた。 <日本が朝鮮半島を交通先進国家に押し上げた> ・人的、物的流通は朝鮮人に国土観を持たせ、人的、地域的交流を活発化し、朝鮮人同士の紐帯を強固にした。日本の交通建設は、朝鮮人にひとつの民族としての自覚を与えた。 日本がもたらした実学教育 <小中華思想解放で生まれた近代化> ・儒教とは反近代主義がドグマ(独断的な信条)であり、尚古主義を絶対的とし、君子と小人という不平等な人間観を執拗に主張するものであり、また極端な労働蔑視思想でもあった。 ・小中華の自負から、朝鮮では、開国に至るまで「衛生斥邪」思想が叫ばれていた。衛生斥邪とは、1866年10月のフランス艦隊の江華島侵入、1871年6月のアメリカ艦隊の同島侵入といった、西力東来の衝撃波を受けるなか、朱子学を「正学」として護り、その他の諸学を「邪学」として斥ける儒教的思想である。 ・斥邪意識は、キリスト教を邪教とする反西教的、反西学的思想であり、斥洋、斥倭の攘夷排外意識でもある。その背景には、李朝という国家を護るため伝統秩序を防衛するという志向もあった。もちろん両班ら知識人たちの国家意識には、自主独立国家という考えは全くなかった。実質的にも思想的にも、自称「大明の東屏」、つまり中国東側の藩屏であったのだ。⇒日本は米国西側の藩屏ですか、それとも中国東側の藩屏ですか? ・日本は明治維新を通じて見事に近代国家へと変身した。しかし実学を軽視する儒教思想が足枷となった清国と朝鮮は、それぞれ戊戌維新や甲申改革を起こすものの、失敗に終わっている。 <国家発展上、民衆教育を推進した日本> ・李朝時代の初等教育は書堂と呼ばれる寺子屋があったが、習字と漢籍の素読を教えるだけで実学を一切無視したものだった。日韓合邦当時、その数は、1万6千で、児童総数は人口のわずか1%にすぎない14万人だった。朝鮮総督府は、そうした朝鮮半島に近代的な学校を次々建設していった。 <戦後韓国の経済発展は日本の教育政策の賜物> ・教育制度、官僚制度、軍事制度は日本が残した三つの功績である。韓国経済の成長を主導したのは、日本の教育を受けた人々であった。 日本による朝鮮伝統文化の保護と再生 ハングルに息を吹き込んだ日本の文化政策 近代国家を目指した皇民化運動 創氏改名は朝鮮人の要望に応えた特権 扶植された平等理念と法治観念 近代的ナショナリズムの目覚め |