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【昭和正論座】中国の「自給自足」に驚く 東大教授・佐伯彰一 昭和50年4月25日掲載 (1/4ページ)
要求が多様化したときは
こんど文化使節団に加えてもらって、初めて新中国を訪れることが出来た。何しろ初めてのことで、印象まことに鮮烈であったが、その一つは、中国の徹底した自給自足ぶりである。
街頭だろうが、店頭だろうが、人民公社の中だろうが、とにかく外国製品は、全く見当たらない。いわゆる外車などまるで見かけなかったし、外国産の衣料、食品、飲み物なども、全然といっていいほど目につかない。
上海郊外で見せてもらった人民公社となると、この自給自足原理が極点にまで徹底していた。主食、野菜の自給はもちろんのこと、養鶏、養鴨、養豚から鯉の養殖をやり、さらには農機具の修理、さらにゆくゆくは、その補給、製作までも一切わが手、わがコミューンの中でやってのけようという意気ごみであった。
一望はるか青々とのび広がる麦畠、れんげの原、真白いあひるの大群と、いかにものどかな牧歌的な風景で、たしかにこの自給自足の大原則は、物の見事に推しすすめられつつあるという印象を受けた。農村的、田園的な風景、その生活の大好きなぼくは、現代のユートピアここにありという気さえして、こうした農業中心、農本主義的な自給自足を、もしこのまま貫くことが出来たら、現代文明のもろもろの病弊に対する一つの特効薬、一つの脱出路がここに求められようとまで考えた。
しかし、いかに農業中心とはいえ、こうした自給自足はどこまで守り通せるものだろうか。まず能率という問題があり、また分業化への動きがある。何もかも自分の手で、というのは、いかにも美しく健やかな理想のスローガンながら、生活水準があるレベルを越して、余裕が生ずると、人間の必要、要求もおのずと多様化し、複雑化するのを避けがたい。自分の人民公社では作れない野菜や果物、さらには一層精密、高度な機械器具を入手したい気持がわかずにはいないだろう。いや、気持といわずとも、切実な必要が生じてくる。その際に、一体どう対応するか。