2010年2月19日 14時27分 更新:2月19日 17時39分
コミカルな演技を得意とする異能のスケーター、織田信成(関大)。だが、チャプリン映画メドレーのプログラムで喜劇王にふんし、見る者をうならせることは至難の業だ。バンクーバー冬季五輪・フィギュアスケート男子のフリーで健闘した織田だったが、後半の3回転ジャンプで転倒した際に右足の靴ひもが切れるアクシデントがあり、メダルには届かなかった。
今季開幕前から織田は「フリーは楽しく、心温まるプログラムになる。チャプリンの映画や人生を表したい」と意気込んでいた。勝負の年の五輪シーズンに、なぜチャプリンなのか。母憲子コーチは「以前から(息子とは)『やりたいね』と話していた。苦労している中で笑いを見せる、チャプリンの生き方が好き。本人(織田)に向いていると思った」と説明する。
大阪人らしく明るく、サービス精神旺盛な織田だが、暗い過去もある。戦国武将・織田信長の子孫として有名だが、昔はそのことでいじめられた。子どものころは級友たちに「ちょんまげにしないの」などとからかわれ、高校時代には「武将」というあだ名がついたという。07年夏にはバイクの酒気帯び運転で検挙されて謹慎処分を受け、そのシーズンを棒に振った。「いざ試合に出られなくなると、自分はスケートが好きなんだと気付いた」
チャプリンは映画で喜劇を演じたが、人生では幼年時代に不幸な家庭に育ち、名声を得てからも、その作風が共産主義的と非難されて米国を離れるなど、不遇の時期が長い。彼の映画や人生をDVDなどで学んだ織田は「彼には悲しい一面もある。生き方に感銘を受けた。自分の人生に重なるとまでは考えないが、彼のようにもっと前向きに頑張ろうと思う」と勇気を得た。「信長の子孫と聞いて、プレッシャーになったことはない。むしろ奮起の材料にしてきた」という。
氷上に作り上げる、時に観客の笑いを誘う「織田ワールド」。つらいことや重圧を乗り越えてきた織田に、「チャプリン・メドレー」は合っていた。だが、日本フィギュア界の新たな歴史を切り開く栄光のプログラムとは、ならなかった。【来住哲司】