オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その3・続々補足)

志賀氏の「オーディオの科学」を信じられるのは、いい。
別にそのことは否定しない。
そして、私の、このブログを否定されるのも、いい。
何を信じ、何を信じない(否定するか)は、その人次第だからだ。

けれど、オーディオはまだまだ経験則を、ときとして優先しなければならないときが、
少なからずある。
「そんなことはない!!」、と強い口調で、どん吉さんは、おっしゃるかもしれない。

なぜ、ご自身の耳を優先されないのか。そこが、私の知りたいところである。

そして、聴いても、ケーブルの方向性によって、音の変化はない、という言われるだろう。

それもまた、どん吉さんにとっての事実である。
私にとっての事実ではない。

どちらが「真実」かといっているのではない、ということを理解してほしい。

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コメント(12)

「カラスが黒いのを信じるのはいい。別にそのことは否定しない」
これがどんなにおかしな文なのかおわかりにならないのでしょうか?
ここにあるコノテーションは、「黒くないカラスの方に私は重きを置いている」と言う事です。暗にカラスは黒くないと暗示しています(予め断っておきますがアルビノのカラスを以ってしてカラスは白いというのは不可能です)。
>志賀氏の「オーディオの科学」を信じられるのは、いい。
>別にそのことは否定しない。
この文も同様に実におかしな文なのです。私が申し上げたのは、「オーディオの科学」は志賀氏の“個人的な見解”などではなく、“物理学”“科学”的な見解を纏めたに過ぎず、それは“学問”として広く認められるものであり、「信じるのは構わない」と言った体のものではない、ということです。つまり「オーディオの科学」には志賀氏の“私的”な見解は一切無い、ということなのです。私はその点において志賀氏の信奉者などではない(「オーディオの科学」内に一箇所だけおかしな記述があることを申し添えておきます)。私はただ“科学の徒”なだけです。私の以下の言を否定するということは“科学的”なものを唾棄するということ、つまりオカルトであると端的に言えます。
ケーブルに方向性はありません。
「自分の耳で聞いて方向性があるのがわかった」という体験には何の客観性もないのです。それを“経験”と呼んで特別視する態度は“科学的”ではありません。
「自分は宇宙人に連れられて大気圏外から地球を見て来た」と言う人がいますが、その言と全く同じく客観性を書いた発言が「ケーブルに方向性がある」です。
「ケーブルに方向性があるか否や」については、真実はひとつしかありません。貴殿は理非曲直二つを等価な意見として取り扱い、どちらを採用するかは個人の自由と言った態度を取っておられるようですが、それは詐欺師の常套句と言えましょう。
>なぜ「オカルト」なのかについては説明されていない。
え? 説明しないとわからないのですか?
失礼ですが、中学しか卒業しておらず、発憤興起なされてこうしたサイトを運営されているのであれば、その努力を認めるのに吝かではありませんが、高等学校と言うところでは物理の中の電気で“交流”というものを習うのです。ケーブルに方向性が無い理由、それはケーブルの中を流れている電流が“交流”だからです。
大手のケーブルメーカーの技術者の方とやらに訊いて下さい。「ケーブルの中を流れるのは“交流”であるから『ケーブルに方向性は無い』と言っている人間がいる」と。
ですが、考えても見ればそもそも評論家やケーブル会社の人間は、「ケーブルで音の差」を悪意占有することが利益に係累しているのではありませんか?
ケーブルメーカーの技術者が「ケーブルに方向性がある」ということ。そんなものは“大本営発表”に過ぎません。一体、その技術者はきちんとしたブラインドテストに堪えられるのでしょうか?
ブラインドテストから旗靡しながら「ケーブルに方向性がある」とは傍ら痛くてしょうがありませんが。

たとえば、ブラインドテストで、10人が聴いて誰も判別できなかった、としても。

それは差異が無かったという証明にはなりません。
音の差が、
その装置、環境と、テスターを含めた「検知限」以下であった、ということでしかありません。


交流回路という視点で捉えれば差が無くても、
たとえば、
振動モードという視点で、事象を捉えると、
方向性にも科学的意味が出てきます。

微振動、マイクロフォニックノイズに注目すると、
別な答えが導きだされるでしょう。


しかし、それが検知できるか否かは、個人によって大きく違います。

測定器で差がある事象ですら、分からない人は大勢いるものです。

「差が検知できない」と、
「差が存在しないこと」とは意味が違います。


オーディオ論争ででよくやる間違いは、「人間には分からない差」とかいって、個人差を無視してしまうことです。

まして、多数決など意味がありません。

目で見て分かる画質の世界でも、
撮影レンズの差など、
鍛えられた人と素人では、
全く判別能力が違います。

だまし絵のような間違い探しのクイズでも、
答えが分かった人には丸見え状態でも、
気が付かない人は、
最後まで分かりません。

オーディオの不幸は、その差を指さして教えられないことです。

現在の科学や法則において示すことのできる事なんて、実世界においてはほんのわずかな事象でしか無いと思う。

>mr.J さん
>たとえば、ブラインドテストで、10人が聴いて誰も判別できなかった、としても。
>それは差異が無かったという証明にはなりません。
>音の差が、
>その装置、環境と、テスターを含めた「検知限」以下であった、ということでしかありません。

余り、人を笑わせないで下さい。
「10人が聴いて誰も判別できなかった」ら、それは“差異”を弁別出来ないことを意味します。
「検知限以下」ということは即ち人間の聴覚の“閾値”を下回っているということになり、人間にその差は検知出来ないということを意味します。
いいですか。入学試験に不合格であれば、それは入学に足る成績を得られなかったということを意味します。
「入学試験に不合格しても、入学出来なかったという証明にならない」とは一体どんな強弁詭弁なんでしょう。

>交流回路という視点で捉えれば差が無くても、
>たとえば、
>振動モードという視点で、事象を捉えると、
>方向性にも科学的意味が出てきます。

人の言っていることが理解出来ませんか?
あなたも高校へ行っていない口ですか?
ケーブルの中を流れているのは“交流”です。これが意味することは「ケーブルに方向性は無い」です。
視点の問題ではない。ケーブルの中を流れているのは“交流”。これはどんなに視点を変えても揺るがない事実です。
振動が方向性に科学的意味を持たせる?
全く意味不明です。日本全国、大学という所には工学部というものがありますが、「振動がケーブルの方向性に科学的意味をもたせる」という言に肯んずることの出来る教授は一人もいないと断言出来ます。
振動がケーブルに方向性を持たせる、ということについて、きちんとした説明を求めます。

>「差が検知できない」と、
>「差が存在しないこと」とは意味が違います。

これは倒立です。「差があれば、検知出来る」と読めます。端的に言ってそれは偽です。
貴殿がオカルトの徒であれば話すことはありません。以下も合わせてお読み下さい。
------------------------------------------------------------------------------------------------
>fujisan さん
>現在の科学や法則において示すことのできる事なんて、実世界においてはほんのわずかな事象でしか無いと思う。

そんなことは当たり前のことです。
ですが、幾ら祈祷しても150tの金属の塊を浮遊させることは出来ません。
科学が150tの金属の塊を飛ばすことを可能にしたのです。
科学とはいい加減に見えてその運用は厳密なものです。
まず、その前にパラダイムの話をしておきましょうか。
1900年当時の科学では「150tの金属の塊が飛行するのは不可能である」という命題は真です。
現在はその命題は偽です。ということは科学はころころとその命題のTFを変えるものなのでしょうか。
「ケーブルで音が変わる」は現時点の科学では解明出来ないけれど、いずれは解明されると言えるのでしょうか。
現状の現象を説明出来る原理がその当時の科学で採用されます。それがパラダイムです。
そして、さらなる上手い説明が現れたらその説明は後進に道を譲ります。それがパラダイム・チェンジです。
ですが、重要なのはこの説明原理はいつも“反証可能”な状態にして公開されていなければならないということです。
「私はケーブルの方向性を言い当てることが出来る」
これは反証可能性を具備していません。
実証性を欠いています。第三者立会いの下それを証明する必要があります。
このサイトの管理人も、この第三者という概念から逃亡しています。都合の悪いことは無視するという態度に終始しています。いわば卑怯者です。
科学的に説明出来るものなど限られているということは実は甘えです。
あなたが街中で通りがかりの人間に暴行を受けたと警察に届けたとしましょう。
「私はこの男に暴行を受けました」
「お前、何を言っているんだ? 俺はお前に全く触っても無いだろう」
「この男は“気”を使って私に暴行を加えたのです。私の内臓は傷付いています」
「バカか、お前」
「おかしいのはあなたでしょう。世の中には科学で説明出来ないことの方が多いんですよ」
あなたは、こんなことが通用すると思っている妄想信者にしか見えません。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
>管理人さん
>なぜ「オカルト」なのかについては説明されていない。

については説明しました。
大手のケーブルメーカーの技術者の方に「ケーブルの中を流れるのは“交流”であるから『ケーブルに方向性は無い』と言っている人間がいる」と伝えられたことと思います。
答えを心待ちにしておりますので宜しく。

>管理人さん
私が“科学の徒”であるかどうかはその発言の内容から判断すればいいことです。
志賀氏は「オーディオの科学」というサイトを持っているから“科学の徒”。
持っていなければ“科学の徒”ではないとは、暴論極まれりですな。
工学部出身なら“科学の徒”と認められるのでしょうかね?
オウムには理工系出身者は山のようにいましたが。
“道理”に通っているかどうか、それだけでいいのです。私の言に理に迫っていないことがあれば“科学の徒”でないと、存分に糾弾なさって結構です。
“道理”に通っていなければ“科学の徒”ではない。それで何か問題がありますか?
さて、私のどこが「話のすげ替え」なのかきちんと説明してもらえますか?
話のすげ替えというより、

>志賀氏の「オーディオの科学」を信じられるのは、いい。
>別にそのことは否定しない。
>そして、私の、このブログを否定されるのも、いい。
>何を信じ、何を信じない(否定するか)は、その人次第だからだ。

と言う記述がおかしいとした私の指摘に真摯に答えないことの方が余程話のすげ替えでしょう。

>なぜ「オカルト」なのかについては説明されていない。

に対しては、「ケーブルの中を流れるのは“交流”であるから電源コードに方向性は無い」と申し上げました。
これに対する答えはどこにも見当たりませんが? また逃げですか?
今、オーディオにおける電源コードに方向性があるかどうかの話をしている時に「直流」の話を持って来ることこそ、話のすげ替えと言うものですね。違いますか? 逆さま言もいい加減にして下さい。
“交流”は高等学校で習います。が、何と“直流”は小学校で習うのですよ?
直流に方向性があるかと言うのが如何にナンセンスなのかはこれを読めばわかるでしょう。
豆電球に電池を繋いで下さい。そしてプラスとマイナスを反対にして繋いで下さい。
そして、それでもわからなかったら、小学校の先生に「方向性はあるか?」と訊いて下さい。
先生はこう言うかもしれませんね。「懐中電灯にプラスとマイナスを逆にして乾電池を入れてみましょう」
いいですか。今吃緊の要事となっているのは、「ケーブルの中を流れるのは“交流”であるから電源コードに方向性は無い」です。
貴殿は、それを「聞き分け出来る」と言挙げした。それは嘘なのですか?
貴殿は、大手のケーブルメーカーの技術者が「ケーブルには方向性がある」と言ったと書いておられます。
そこで私は、その技術者に「“交流”に方向性があるとはどういうことか」と問いたいと言い、貴殿には盲検によってそれを実証出来るかと問うた。
agendaはそこにある。すり替えは止めましょう。
私は方向性のある電源コードとやらを是非使ってみたい。そのメーカー名をお教え下さい。

>管理人さん
>「オーディオにおける電源コードに方向性があるかどうかの話」はしておりません。

ほう、凄い狭間潜りですなあ。

貴殿は「ケーブルに方向性がある」と書いてはいないと申し開くつもりですか?
自分の書いたものを読み返さなければならないのは貴殿の方ですよ。
私は自分の書いたものに恬として恥じるところは一点も無い。
では貴殿のいう「方向性のあるケーブル」とは何のケーブルのことですか?
“電源コード”のことではないと申し開くわけですよね。
とすると、
1.電源コード以外の「方向性のあるケーブル」とは何を指すのか。
2.貴殿がサイトに於いて触れている「大手のケーブル会社」とはどこか。
3.「電源コードに方向性は無い」と貴殿が揚言したと見做していいのか。
以上にまずお答え下さい。

それから
>ケーブルの方向性があることが、なぜメーカーの利益になるのでしょうか。
>ケーブルの方向性に関しては、ユーザーが手持ちのケーブルの方向を変えればすむことですから、
>メーカーの利益になるわけではありません。
にお答えしておきますが、これは余りに蒙稚に過ぎませぬか?
「ケーブルに方向性がある」ことを謳えばadded valueになる。当然メーカーは新たな製品を売る口上を得たことになる。
経済学の初歩ですが。
それに、ケーブルの方向性があることをユーザーは手持ちのケーブルに於いて知ることは出来ませんから、知る道具(機器)や、方向性のあるというケーブルを、(地デジのように)新たに購入を迫られることになる。
こんな当たり前のことがわからずに自分の文章を読み直せとは、そっくりそのままその言葉をお返し致します。

どん吉さん

電子回路や電気磁気の基礎知識なども、もう一度、勉強してみてください。

それよりも先に、
論理的に筋道立てて考えることを学んで下さい。

今のままでは会話が成立しませんので。

>あなたのコメントをスパム扱いにはしませんから、いつでも書きこんでください。

当たり前でしょう。貴殿は何か勘違いをしておられるのではないか?
ある著書に「ワイオミングで6月にヘラジカを撃った」とある。
出版社に「6月にワイオミングではヘラジカは撃てない」と訂訛する。
出版社から「おっしゃる通りでした。申し訳ありません。次版より修正致します。ご指摘感謝致します」と、出版社の手帳付きで礼文が来る。
私が指摘しているのは誤記である。
誤記に対する出版社の態度は以上のようなものである。だが、ネットには編集者も出版社もいない。貴殿のような厚顔無恥なオーサーが蟄居するのみである。
誤記を指摘する人間をスパム扱いするなど、文章を世間に公表発表する人間にあるまじき態度なのは言うまでも無い。
ネットに以下のような記述を見つけた。

>製品として発売されてる電源ケーブルを交換したところ
>何か不自然な音が気になり、指摘しメーカーにも問い合わせたら
>ケーブルの方向が逆だったという経験もあります。

これはありうるのかy/nで簡潔に答えて戴きたい。「わからない」と言うのは逃げである。
そう、貴殿は逃げている。
>別に逃げているわけではありません。
とはどの口で言えるのか?
>「オーディオにおける電源コードに方向性があるかどうかの話」はしておりません。
とは逃げ以外の何物でもないではないか。
私は、それならと以下の記述を行った。

>1.電源コード以外の「方向性のあるケーブル」とは何を指すのか。
>2.貴殿がサイトに於いて触れている「大手のケーブル会社」とはどこか。
>3.「電源コードに方向性は無い」と貴殿が揚言したと見做していいのか。
>以上にまずお答え下さい。

これらを無視し、答えないのを逃げと呼ぶのではないか?
そしてまた、

>あなたが、議論のできるレベルになるのを、辛抱強く待っているだけです。

というのも、如何にも卑怯な逃げである。
貴殿は武道、いや武道でなくとも良い、何かスポーツをおやりになったことはないのであろうか。
道場主は試合を申し込まれたら受けて立たねばならない。
「あなたが、私と試合出来るレベルになったら試合をしてあげます」などという道場主が許されるであろうか。
「11秒フラットで走れるようになりました。先輩、一緒に走ってください」と言われて、「俺と試合出来るレベルになったら走ってやる」という先輩がいるであろうか。
そんなことを言う道場主や先輩は棄甲しているに過ぎないのではないか?
議論のレベルなどと持ち出して逃げるのは恥ずかしいとは思われないか?
以上、まずは先にあげた3つの質問と、ネットで見つけた言がありうるのか否や簡潔に答えて戴きたい。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------
>mr.Jさん
現在我が家の本棚にはざっと30冊を越える電気関連の書籍がありますが、貴殿が読めという理論書は何なんでしょうかね。是非、書名を訓えて戴きたい。
私は大学の時に、電気工学の円柱座標系を理解するのに苦労したが、貴殿は苦労なさらなかったのかな。
それより何より、私は高等学校レベルの物理から、

>ケーブルの中を流れているのは“交流”です。これが意味することは「ケーブルに方向性は無い」です。

と導出したのであるが、これが理解出来なかったのであろうか。
それならお話にならない。貴殿の電気の知識をこそ疑われるべきであると思うがどうであろうか?
従前挙げた簡単な例を再掲する。
乾電池に豆電球を繋ぐ例である。この時、途中にコイルを入れる例を考えてみよう。
流れる電流は勿論直流である。豆電球は点灯する。
ではこれを同じ電圧で交流電源に変えた時、豆電球はどうなるか。
こんな簡単な問題は下手をしたら有名私立中学校入試レベルである。
他人に「電子回路や電気磁気の基礎知識なども、もう一度、勉強してみてください」という程なのだから訳も無く解答出来るだろう。何故そうなるか理由を添えて解答されたし。
それから私は自己に論理的であることを課していて是としている。私の文章が論理的でないと貴殿が思えるとしたら、貴殿の鼠輩故である。

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このブログ記事について

このページは、audio sharingが2010年4月 3日 21:25に書いたブログ記事です。

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