第二十一話 せめて、人間として
<第三新東京市郊外 加持邸 アスカの部屋>
シンジが無事初号機から帰還し、加持邸でシンジやレイ、ミサトたちの家族と共に楽しく夕食をとったアスカは、幸せいっぱいの表情で眠りについた。
そんな彼女の見る夢は心地良いものだろうと思われたが、アスカの寝顔は苦痛で歪んでいる。
アスカは気が付くと、自分が制服を着て学校に居る事に気が付いた。目の前にはアスカと違う制服を着たレイが立っている。
教室にはアスカとレイの二人だけしかいない。レイはアスカに視線を向けて話し始めた。
「……ねえ惣流さん」
「へ?アンタいつの間にアタシをそんな他人行儀で呼ぶようになったのよ?アスカでいいわよ、アスカで」
「じゃあアスカ」
そう言ってレイは顔を赤らめる。
「アスカは、シンジ君の事どう思っているの?」
「そ、そんなの聞くまでもないじゃない……」
アスカは目を丸くして驚いている。
「私は、シンジ君が好き。シンジ君と喋ると暖かい気持ちになれるの。それからドキドキする。シンジ君は私が欲しかったものをくれるの」
アスカはごくりと唾を飲み込んだ。
「だから、私にシンジ君をちょうだい」
「ちょっと、いきなり何を……」
戸惑うアスカの前でレイは顔を手で覆って泣きだした。
「私にはシンジ君しか自分を見てくれる人が居ないの。シンジ君の代わりはこの世界のどこにもいないの。お願い……」
「そ、そんなアタシだって……」
そこへ扉を開いて真剣な表情をしたシンジが中に入って来た。
「シンジ、今のアタシたちの話を聞いて……」
「綾波!」
シンジはアスカの問いかけには答えず、レイの手をとって握りしめた。
「綾波がそんな思いを抱えていたなんて、僕は知らなかったよ。僕でよかったらずっと綾波の側に居るよ」
「シンジ君……」
涙を拭いてシンジに抱きつくレイ。そしてシンジはレイを抱えながら教室を出て行った。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
あっけにとられていたアスカは再起動を果たすと、二人を追いかけようと教室を出ようとした。
アスカが肩に手をかけられ、押し止められる感触に驚いて振り返るとそこには教師の服装をしたユイが立っていた。
「碇先生?」
「レイちゃんにはシンジが必要なの。だからシンジがレイを選んだ理由もあなたにはわかるでしょう?あの子は優しい子だから」
「そんな……」
「アスカさん、あなたはとても強い子よ。だから生きていれば幸せな人を見つけるチャンスはいくらでもあるわ」
「そんな事無い!アタシはシンジが居ないととても弱いのよ!」
アスカは自分の叫び声で目を覚ました。
「何て夢を見るのよ……」
次の日からアスカの様子がおかしくなった。
特にシンジがレイと楽しく話している様子を見ているアスカの表情は辛そうに見える。
「アスカ、何か悩みでもあるの?」
「何でもないの……」
「でも、最近のアスカはちょっと変だよ!」
「うるさいわね!シンジに相談してもどうにもならない事なのよ!」
アスカは怒った顔で肩にかけられたシンジの手をはねのけた。
それからしばらくの間シンジとアスカは親しく口をきくことが無くなってしまった……。
<ネルフ本部 エヴァ実験棟>
ネルフではシンジたち三人の定期シンクロテストが行われていた。
ミサトとリツコは三人のシンクロデータを見て、思わず顔をしかめてしまった。
「シンジ君のシンクロ率は調子がいいけど……アスカの下がり方はやばいわね」
「ミサト、いい加減にアスカにシンクロ率低下の事を言った方がいいんじゃないかしら?」
「そうね、アスカにショックを与えないように黙っていようと思ったんだけど……」
シンクロテストが終了し、シンジとアスカとレイの三人はパイロットの控室に待機している。
ミサトは大きくため息をついて、アスカにとって辛い現実を告げるためにモニター室から出て行こうとした時、警報が鳴り響いた。
「使徒!?」
警報を聞いたミサトはシンジたちをそのままパイロット控室に待機させ、発令所にメンバーを集合させた。
正面モニターには光り輝く鳥のような使徒が映し出されている。
「最大望遠です」
「衛星軌道上から動きませんね」
「ここからは一定距離を保っています」
オペレータのマコトとシゲルとマヤの報告を聞きながら、ミサトはモニターをにらみつけたのち、口を開いた。
「あなたたちはあの使徒の目的を何だと思うかしら?」
「前の使徒と同じように降下・接近の機会を窺っているのではないでしょうか」
「もしかして、超長距離攻撃を仕掛けて来るのかもしれませんね」
「こちらの注意をひきつけるダミーとも考えられます」
三人の言葉にミサトは納得したように深く頷く。
「とりあえず、日向君の言う通りなら一刻も早くエヴァを出撃させて落下に備えなければならないんだけど……」
「まさか、エヴァで使徒を受け止めさせる気!?」
ミサトの呟きに対するリツコの質問にオペレータ三人は目を向いて驚いた。やはりミサトの発想力には感心させられるものがあるようだ。
「でも、使徒が同じ手を二度も使うかしらね?使徒は学習をしているように私は感じるのよ」
「技術部で調査したデータによると、質量は前の落下してきた使徒に比べてとても少ないそうよ。直撃しても本部をえぐれる程ではないわ」
「となると……青葉君かマヤちゃんの案が考えられるか……」
ミサトが考え込む様子を他の四人は息をのんで見守る。
「こりゃあ、迂闊に手は出せないわね。どの道目標が射程距離内に近づいてくれないとどうにもならないわ」
「ロンギヌスの槍は無いけど、アスカが以前提唱した長距離用ライフルなら技術部で造っているわ」
リツコの言葉にミサトは頼もしい笑みを浮かべて、指示を出す。
「じゃあ技術部にライフルの完成を急がせるように要請して!パイロットはそのまま待機!エヴァは出撃準備を!」
ミサトの号令の下、発令所のメンバーは慌ただしく動き出そうとした。
しかし、その時マヤが緊迫した声で叫んだ。
「大変です!使徒から光線のようなものが……うっ!」
「どうしたの!?」
ミサトが大声でそう言ってマヤの側に駆け寄ろうとした時、ネルフ内に音楽が鳴り響いた。
「これは……ヘンデルのメサイヤの一節『ハレルヤ』?どこから流れているの?」
発令所のスタッフはミサトを除いてみな頭を抱えてうめいている。
ミサトは近くに倒れていた職員の一人に駆け寄った。
「しっかりして!」
「触るな、この化物!」
ミサトに抱えられた職員の男は思いっきり飛び退いた。
驚いて目を丸くするしかないミサトに、職員の男は震えながら吠えた。
「お前が化物に変身するのを、俺はこの目で見たんだぞ!こんな化物の近くに居たら命がいくつあっても足りない!もう我慢の限界だ!」
そう言って職員の男は発令所を出ていった。
その姿を見た数人の職員もミサトを指差して口々に罵倒の言葉を漏らして出ていく。
ミサトは顔を青ざめたが、涙をこらえてリツコの元へ向かう。
リツコはミサトを見ると狂ったような笑みを浮かべた。
「ミサト……私はあなたが憎らしくてたまらないの……」
「リツコまで……どうしちゃったのよ?」
「あなただけ加持君と一緒に幸せになって……私はいつまでゲンドウさんの気持ちが変わるのを待てばいいのよ!」
リツコはミサトの手をつかむと、手の甲に爪を立てる。
「痛い、やめてリツコ!」
「きっといつも加持君と一緒に私の不幸を笑っているに違いないわ」
「そんな事無い!私たちはいつもリツコの幸せを願って……!」
喚き立てるリツコの後ろからマヤが抱きつく。
「先輩……そんな報われない恋は止めて私の事を受け入れてください」
マヤを払いのける事に専念したリツコからミサトはようやく解放された。
だが、ミサトの腕を今度はマコトがしっかりとつかむ。
「ミサトさん、僕はあなたの事が以前から好きでした!どうか付き合ってください!」
「日向君、私には夫が居るのよ?あなたがそういう事を言うとはとても思えないんだけど?」
「それでもお願いします!」
真剣に頼みこむマコトにミサトは困惑するしかなかった。
マコトの腕を交わしながら辺りを見回すと、発令所の中は人々の言い争う喧騒で満ちていた。
「まさか……これが使徒の新たなる攻撃だって言うの?」
ミサトの独り言に答えるものは誰も居なかった。
<ネルフ本部 パイロット控室>
エヴァのパイロット控室に居たシンジ、アスカ、レイの三人にもネルフ本部に鳴り響く音楽は聞こえて来た。
戸惑うレイの目の前でシンジとアスカは頭を抱えてうめきだした。
「どうしたの、二人とも?」
シンジもアスカもレイの声には答えなかった。
アスカにはレイの声で無く、別人の声が直接頭に響いていた。
「君は何を望むんだい?」
「アタシはずっとシンジの隣に居たい……」
「それなら、いい方法があるよ」
アスカは暗い瞳をしてユラユラとシンジの方に接近して行く。
シンジはアスカの事は眼中になく、一人で喚き立てている。
「アスカは僕の気持ちを裏切ったんだ!」
レイはシンジのその言葉を聞いてショックを受けるが、アスカの様子は全く変わらず、シンジを押し倒した。
そしてシンジの上に馬乗りになり、首に手をかける。
「彼を独占したいと思うなら、彼を殺してしまえばいい。人形となった彼は決して君から逃げ出したりしない」
アスカの頭の中にまた声が響いた。
「アンタが全部アタシの物にならないのなら、アタシは何もいらない」
アスカはその声の命じるままにシンジの首を絞める力を徐々に強めていく。
レイは部屋の入口にネルフの制服を着た少年が笑顔で立っているのを見て、彼をにらみつける。
「……これはあなたの仕業ね。二人を元に戻して」
「おやおや、君は僕たちと同じモノなのにリリンの味方をするのかい?」
レイが言い返そうとする間もなく、カヲルは素早く部屋を後にした。
カヲルを追いかけるよりアスカを止めなければならないと思ったレイは、二人に近づこうとした。
するとシンジが、首を絞めているアスカの腕をつかんでいた手を離して、アスカの頬を撫でた。
アスカはシンジの首から手をはずして、シンジの胸に倒れこんですすり泣いた。
「シンジ……ごめんアタシ、変な声の誘惑に乗ってしまって……シンジを殺そうとした」
「でも、途中から僕の首を絞める力に逆らってくれたんだろう?」
シンジはアスカの頬をまた優しくなでた。
「僕も最近アスカが変だったから、アスカが僕の事を嫌いなんだって思いそうになった。でも、僕がアスカを嫌いになる事はどうしてもできなかったんだ」
「アタシはシンジの事を物のように独占しようとしたの。シンジの優しさをレイにも取られたくなくて一人占めしようとして……。そんなわがままな自分に最近イライラしていたんだ……」
そう話し込む二人にレイはゆっくりと近寄った。
「ごめんねアスカお姉さん。私がはっきりしないせいで」
「レイにやきもちを焼くアタシの方が悪いのよ」
「ううん、碇君をお兄さんと呼ぶ事にした時から、私はふっ切っていたの。私はお兄さん以上に好きな人をいつか見つけるよ」
レイはそう言って二人に微笑みかけて手を伸ばし、シンジとアスカは握手を交わした。
<ネルフ本部 第一発令所>
発令所の異変に戸惑うミサトの側に、ネルフの制服を着たカヲルが現れ、ミサトは驚いた。
ミサトは何の気配を感じていなかったからだ。
ただならぬものではないと思ったミサトは真剣な眼差しでカヲルを見据えた。
「こんにちは。君は非常に興味深い存在だね。リリンでありながらその体は僕たち使徒の物が混じっている」
「あなたは……人型の使徒?」
カヲルが視線をミサトに向けると、ミサトの右手は熱を持って発光を始めた。
「……いったい……これは何!?」
「僕たちの『種』が持つ特別なちからさ」
笑顔でそう言うカヲルの左手も発光を始めていた。
ミサトは手の熱さにうめいた。不気味な発光と変形は腕にまで広がっている。
「うわあああ……」
「熱いだろう、大きな『流れ』を感じるかい?まだ最初のうちは不慣れで扱いにくいのさ」
ミサトは耐えきれなくなって床に膝をついた。
「大丈夫さ、僕に共鳴すればね」
ミサトは上目遣いでカヲルをにらみつける。
「このままちからを解放すれば、この基地は吹き飛ぶだろうね」
カヲルは苦しむミサトに顔を近づけて尋ねた。
「ねえ、今までリリンの中で生きてきて、一度ぐらい人間に対して憎しみを持った事ぐらいあるよね」
「やめて」
「嫌さ、大事な話だからね」
「私はあなたとは違う」
そう言って目を伏せるミサトにカヲルはさらにたたみかける。
「何度裏切られた?何度傷つけられた?」
ミサトは歯を食いしばってにらみかえす。
「人間扱いされなかった事は?大切なものを奪われた事は?」
「それでも私は……」
「リリンは遺伝子レベルで争いを好む種族だと過去の歴史が証明して居るんだよ。君はそんな愚かな種族の命を救おうとするのかい?」
「人という生物は愚かなのかもしれない……でも」
「そんな生き方にいつまでしがみついているつもりかい?そいつは本当に正しいのかい?」
「わからない、わからないわ!でも……私が南極で消してしまったあの人たちは……一人一人平和を願う優しい人間だったのよ!」
その叫びと共にミサトの砲台のように変形してしまった右腕は、その砲口を真上に向けられる。
そして、一筋の太い光線が宇宙に向かって発射され、衛星軌道上に居た使徒の中心を貫き、さらに月に大きな穴を穿った。
使徒殲滅と共に音楽は鳴りやみ、カヲルは天井に開けられた穴から悠然と飛び去って行った。
ミサトはカヲルの消えた方向を見て呟いた。
「私は体が使徒になってしまっても、せめて心は人間として生きていくわ……」