第三話 鳴らせない、電話
<ネルフ エヴァ戦闘実験室>
「おはよう、シンジ君。調子はどう?」
エヴァ初号機の戦闘プログラム筐体に座っているシンジに向かって、リツコが声をかける。
「問題無いと思います。もう慣れました」
シンジは暗い表情でボソボソとそれに答える。
「兵装ビルの配置、エヴァの出現位置、すべて覚えたわね」
「はい」
「エヴァは外部電源で動いています。……」
しばらくリツコのエヴァに関する説明と、それにはいと答えるシンジのやり取りが続く。
「では、昨日の続き、インダクションモード、始めるわよ」
「目標をセンターに入れてスイッチ。目標をセンターに入れてスイッチ。目標を……」
シンジは暗い表情でつぶやきながら機械的に同じ動作をおこなう。
「しかし、よく乗る気になってくれましたね、シンジ君」
オペレーターの伊吹マヤがリツコに問いかける。
「人の言うことにはおとなしく従う。それが彼の処世術よ」
リツコがそう答えると、ミサトは思いっきり苦い顔をする。
「彼は誰にも心を開けない環境で育ってしまったのね。連絡の一つもこないし」
「え?何の話?」
「こっちに来て一週間ぐらいになるけどさ。シンジ君の面倒を見てた伯父さんたちから連絡が無いのよね」
「もしかして、彼にはもう居場所がないのかもしれないわね」
「リツコ。私はやるわ。きっとシンジ君の居場所を作ってみせるわ」
ミサトは使徒襲来で指揮官としての仕事が忙しくなると説得され、兼務していた第壱中学校の教師を退職したことを後悔していた。
<第三新東京市 加持邸>
「ミサトさん、ヨシアキさん、エツコさん。おはようございます」
リビングでは加持家の四人が朝食をとっていた。
「ヨシアキとエツコにまで敬語を使う必要は無いわよ~。同い年なんだし」
ミサトはあくびをかみ殺しながらシンジにつっこむ。
「そういえば、今日は木曜日だっけ。燃えるゴミ出さなきゃ」
「ミサトさんは昨日当直で眠いでしょう。もう寝てください。僕が当番を代わりますよ」
「ありがとう、シンちゃん。うちのクソガキ二人と違って優しいのね~」
「先に言われただけだもん……」
不機嫌そうにエツコはほおを膨らませている。
「シンジ君。学校の方、騒がしくなってごめんね」
「あ、別にいいんです。嫌な目にはあってませんから」
「「「行ってきます」」」
シンジは二人と別れて第壱中学校に向かった。他の二人は第弐中学校に通っているのだ。
なぜシンジだけが第壱中学校なのか。その理由はネルフの機密情報となっている。
「おいおい。あれが?」
「ああ、あいつが噂の」
「パイロットには見えないね」
シンジが通学路を歩いていると、遠巻きに注目が集まる。しかし、シンジに直接話しかける生徒はいない。警備の人間がいて近寄りにくいからだ。
ミサトがシンジの正体を明かしてしまってから、学校中にその噂は広まってしまい、テロに備えてネルフの保安部が厳しい目を光らせなければならず、不審者がシンジに近づかないように警戒を強めてしまったからだった。
ミサトはできるだけ保安部に物々しい警備にしないように申し入れてるが、ネルフの命令は強かった。
「碇が来たぞー!」
シンジが教室について席に座ると、とたんにクラスメートが周りを取り囲んだ。
警備の人間も教室までには入って来れないからだ。
「ねえねえ、パイロットになるために試験とかあるの?」
「あの怪獣について何かわかった?」
「昨日の戦闘訓練は上手くいったのか?」
ミサトからとくに秘密にするように言われていないので、シンジはクラスメートの質問につい正直に答えてしまう。転校してずいぶんたつのにまだ人気は衰えないでいた。
「みんな、授業が始まるわよ!碇君に迷惑がかかるじゃない!早く席について!」
そばかすが魅力的なおさげ髪の少女が群衆の後ろから怒鳴りつける。クラスメートたちがしぶしぶ席に戻ると、教室の扉が開けられた。
担任の老教師の根府川先生ではなく、ジャージ姿の少年が入って来た。
「トウジ!?」
「鈴原!?」
「久しぶりやな。ケンスケに委員長。……ケンスケ。おのえらに聞きたいことがあるんじゃ。あのロボットのパイロットというのは、どこや?」
「ああ、あそこにいるあいつだけど……」
トウジに問いかけられたケンスケはシンジの後ろ姿を指差す。トウジは怒った顔でシンジに近づいていく。
その気配に気づいたシンジがトウジの方に顔を向けた瞬間、シンジは顔面を思いっきりトウジに殴られた。
ガターン。椅子ごと倒れたシンジはほっぺたに走る痛みに困惑しながらトウジを見上げた。
「すまんなあ、転校生。ワシはお前を殴らなあかん。殴っとかなければ気が済まんのや」
「どうしてだよ?」
いきなりわけも分からず殴られたシンジはトウジをにらみつける。
「ワイの妹がな……。この前の戦闘でガレキの下敷きになって怪我をしたんや……。命に別条は無いって話やけどな……」
鈴原トウジの妹、鈴原ナツミは使徒サキエル戦が起こった時、トウジが目を離したすきに行方不明になってしまっていた。
その後のネルフからの連絡によると、倒壊したビルに巻き込まれ大けがを負って病院に収容されたとトウジは父親から聞かされていた。
トウジの父親も母親もネルフの仕事が忙しいので、妹の世話はトウジ一人でするしかなかった。それで今まで学校を休んでいたのだ。
「ミサトさんは大けがをした人は誰一人居なかったって!」
「そんなん知るか!お前がムチャクチャ暴れたせいや!チヤホヤされてええ気になってんちゃうわ!」
「……僕は別に自慢するために乗っているわけじゃないのに……」
トウジは再びシンジの胸倉をつかみ上げる。
「鈴原!」
ヒカリの声にトウジはシンジを荒っぽく解放した。
「碇君。非常招集、先、行くから」
綾波レイがそういって教室を出て行った。もうすっかり怪我も治った様子で包帯などもしていない。
<ネルフ第一発令所>
正面スクリーンに巨大なイカのような姿をした使徒が映し出された。
「総員第一種戦闘配置!」
ゲンドウが不在のため、冬月副司令が号令をかける。
「現在、目標は接近中」
「迎撃システム、稼働率48%。」
オペレーターたちの声が慌ただしくなる。
「非戦闘員、民間人の避難は完了したの?」
ミサトの問いに青葉が答える。
「はい。完了したとの報告を受けています」
<第三新東京市 第334シェルター>
このシェルターには、トウジ、ケンスケ、ヒカリをはじめとした第壱中学校の生徒たちが避難していた。
「あーあ。文字だけか。僕ら民間人にはなにも見せてくれないんだな」
携帯テレビモニターを覗きこんだケンスケはそう言ってため息をついた。
「生のドンパチを見たいっていうのはお前ぐらいや」
「……ねえ。そんなに見てみたいの?」
ケンスケとトウジの背後に同じ第壱中学校の制服を着た少女が近づいていた。
「なんだ、お前霧島じゃないか」
霧島マナはミサトが教師を辞めた後、転校してきた生徒だ。明るい言動でクラスメートとは打ち解けている。
「私、外に出る方法、知ってるんだ」
愚かにもケンスケはその誘いの言葉に乗ってしまった。
<ネルフ 初号機ケージ・エントリープラグ内>
「なんで、僕はこれに乗っているんだろう。人を傷つけてまで」
シンジは先の戦闘でどうやって使徒を倒せたのか、思い出せなかった。だからミサトの怪我人は居なかったという話も信用できなかった。
「シンジ君。聞こえる?」
「はい」
ミサトへの返事にシンジはいら立ちを隠せなかった。
「敵のATフィールドを中和しつつ、パレットガンを一斉射撃。大丈夫ね?」
「はい」
暗い表情にミサトは疑問に思ったが、使徒が接近する前に出さなければ遠距離攻撃の意味が無い。
「発進!」
出撃した初号機は兵装ビルからパレットガンを取り出して構える。使徒はゆっくりとした動きで接近をしてきている。
エヴァ初号機と使徒の対峙する姿をトウジ、ケンスケ、霧島マナの三人は少し離れた裏山から眺めていた。
「目標をセンターに入れてスイッチ、目標をセンターに入れてスイッチ……」
シンジがバレットガンを乱射する……巻き上がる煙。煙が治まった後、使徒は無傷で立っていた。
「シンジ君。予備のバレットガンがあるわ、使って!」
そう言い放ったリツコにミサトがつかみかかる。
「リツコ、全然効いてないじゃないのよ!遠距離で安全に使徒を倒せるからって条件だから、私は出撃を許可したのよ!あれじゃあシンジ君がまた痛い思いをするじゃない!」
予備のパレットガンを取りだしたシンジは、使徒のムチ攻撃により足元をすくわれて、倒されてしまう。
シンジは倒れたまま、使徒が接近してくるのを見上げていた。再び使徒のムチが振り下ろされる。初号機は後ろに飛び退いてなんとか攻撃をかわす。
しかしムチは初号機の電源ケーブルを引き裂いた。
「アンビリカルケーブル切断!内部電源に切り替わります」
着地した初号機の足に使徒のムチが絡みついた!初号機はムチに引き寄せられて引きずられ、一気に持ち上げられ、空中に放り投げられた!
ドオオオオン!エヴァ初号機は山の斜面に背中から着地した。
「シンジ君!?」
「初号機のダメージは?」
「大丈夫です。まだいけます」
ミサトが叫び声をあげる。オペレータのマヤはリツコの質問に対してそう答えた。
その時エヴァ初号機を通じてネルフの発令所のモニターに映像が映し出された。
エヴァ初号機が地面についた手のひらの指の間に三人の人影があった。
「シンジ君たちのクラスメート!?」
「何故こんな所に!?」
ミサトはオペレーター席に居る青葉をにらみつける。
……民間人の避難は完璧に完了したって報告はなんだったのよ!しっかりしなさいよ!とミサトは心の中で怒っていた。
しかし青葉の方も困った顔をすることしかできなかった。
「シンジ君、そこの二人をエントリープラグに入れなさい!」
「リツコ、何を言ってるの!?エヴァが動かなくなったらどうするの?」
異物を入れたらシンジとエヴァのシンクロにかなり悪影響が出て、操縦が難しくなる。
またLCLも汚染を受けてシンジの身に後遺症が残るかもしれない。
以前にそう説明をしていたリツコの言葉とは思えないミサトは食ってかかった。
「でも、あれではシンジ君は動けないわ。まさか見捨てるつもり?」
「そうじゃなくて、誰か人をやって助けに行けばいいじゃないの!」
「……エヴァに踏みつぶされる危険があるのに、出て行く人は居ないわ」
言われた通り、ネルフのスタッフを始め、偵察行為を行っている戦略自衛隊の人間も動こうとする人間は居なかった。
「……なんですって!?ちっ、じゃあ私が行く。ルノーをあそこの近くの出口に用意して。」
……ミサトを除いて。
「加持一尉!」
冬月が止める声を無視してミサトは発令所を飛び出してしまった。
シェルターから抜けだした裏山で、初号機の指の間で震えながら使徒を見上げているトウジとケンスケとマナ。
「なあ、碇のやつ、なんで避けへんのや」
「僕らがここに居るから……動けないんだ!」
初号機は一方的に使徒のムチ攻撃を耐えていた。そこに土煙をあげて青いルノーが到着する。運転席のドアが勢いよく開け放たれ、ミサトが飛び出す。
「みんな、早く乗って!」
「「ミ、ミサト先生!?」」
「誰ですか?」
トウジたちを乗せた青いルノーが悪路をものともせず猛スピードで立ち去って行く。恐るべきミサトのドライビングテクニック。
ミサトは運転しながらなぜトウジ達が外に出ていられたのか考えていた。
シェルターの出口はネルフの兵士が見張っているはずだったからだ。
青いルノーが走り去るのを見て、シンジはやっと使徒の攻撃をかわすことができた。しかし内部電源は残り数分。不利な状況に変わりは無い。
「今よ!シンジ君。後退しなさい。回収ルートは34番。山の東側に後退して」
「リツコさん。僕が退却したらどうなるんですか……エヴァはこれ一体しか無いと聞いてますけど……。もしかして、なにも考えていないんですか?」
「そ、それは……」
図星を突かれて思いっきりへこんだリツコは、何も言い返すことができないまま、しばらく時が流れた。
「リツコさんたちは!負けた原因を僕に押し付けようとしているんでしょう!?……ミサトさんも、みんな、嘘つきだ!」
「シンジ君……私が嘘をついているってどういうこと……?」
救出したトウジ達を預けて、発令所に戻ったばかりミサトはそのシンジの言葉にショックを受けた。
自分は嘘をついた覚えは無い。なのに何でシンジは自分を憎んでいるのだろうか?
「もう……どうなっても……いいや」
信じる者を失ったシンジには憤りだけが残っていた。
「うおおおおお!」
初号機はプログナイフを装備すると、使徒に向かって真正面から駆けだした。自殺覚悟の特攻である。
「シンジ君!バカなことはやめなさい!」
ミサトが怒鳴りつけても、使徒のムチが何度初号機を打ち付けても、初号機は使徒に向かって突進していく。ついに初号機の握りしめるナイフは使徒のコアにまで達した。
「エヴァ活動限界まであと10秒、9、8、7、6、5……使徒、完全に沈黙しました」
オペレータのマヤが使徒殲滅を告げ、発令所はほっとした空気に包まれていた。しかし、ミサトは別のことが気になって頭から離れなかった。
使徒殲滅後からエヴァの活動限界までの数秒後、映し出されたエントリープラグの映像では、シンジがうつむいて泣いているように見えたのだ。
<第三新東京市 第壱中学校>
「……もう三日目やなあ」
2-Aの教室でトウジはため息をつきながらケンスケに話しかけた。
「……トウジ、やっぱり気になるのか。お前は不器用だからな。殴ったこと、早く謝りなよ。電話番号はミサト先生から教えてもらってるんだろう?」
ケンスケはパソコンをいじりながらそう答えた。トウジとケンスケはあの事件の後、ミサトにたっぷりとしかられた。
そしてシンジの苦しい立場を聞かされたトウジは、知らないとはいえシンジに妹の怪我の責任を押し付けてしまったことを恥じていた。
霧島マナは特にミサトに追及されていたが、上からの圧力があり、詳しく取り調べることがミサトにはできなかった。
ただ、あの事件の日の翌日2-Aから転校して出て行ってしまった。
表向きの理由は両親の都合だったが、トウジとケンスケは何か裏があると感じていた。だから二人はマナのことを話題にしなかった。
「……この電話は電波の届かないところにあるか、電源が切られています……」
「なんや、いつ電話しても通じんな……いったいどうなってるんや」
トウジはシンジの電話に向かって何度も発信するが、結局シンジに電話が通じる事は無かった。