第三十五話 空の軌跡
「…………来たわ」
次の日の早朝。
研究所の片隅で静かに立っていたレイは、突然表情を厳しいものにしてそう呟いた。
「よし、ついに決戦ね!」
「……一応、防衛のための部隊は出ているみたいだけど、戦略自衛隊の先遣隊だけじゃ支えられないだろうね」
「他の人を巻き込みたくない……知念地区……使徒の死骸がある場所へ、使徒を呼ぶ……アスカ、あなたはロング・ドグラノフ有効射程ギリギリまで離れて、そこで援護して。側に居ると巻き込まれるわ」
「わかったわ。レイの邪魔にならないところから使徒を狙い撃ちする」
シンジは気合の入った顔でレイとアスカに声をかける。
「よし、準備はいいね。いくよ!」
「うんっ!」
そう答えてアスカ達は研究所を飛び出した。
「……グォォォン!」
海面を突き破り、このしばらくの間、オキナハシティの人々を脅かし続けた使徒が姿を現した……!
その姿は蜘蛛のような下半身に、頭部が仮面のような顔をした人型の上半身を持つ不気味な姿だった。
「うわあ! 出た! ……使徒だ!」
「ひぃぃぃ!」
「いやあーーっ!」
使徒の姿を見て混乱するオキナハシティの市民達。
使徒迎撃本部ではこの使徒を《マトリサキエル》と命名することにした。
「むう! ……トーキョーからの救援は間に合わなかったか……!」
市長は悔しそうにほぞをかんだ。
「だ、ダメだ……! 退けーーっ!」
戦略自衛隊の小隊もたまらず退却を始めた。
「うぁぁぁぁっ!」
「うわーん、お母さーん!」
「ミッキー、ミッキーはどこ?」
市民達の悲鳴が響き渡り、マトリサキエルの咆哮がオキナハシティを覆い尽くさんとした時……。
「私は、ここに居るわ。私こそが……あなた達の仲間を滅ぼし続けた狩人」
レイが使徒の残骸の側でそう呟くと、マトリサキエルは怒ったようにレイの元へと向かった!
「さあ……決着を付ける時よ」
アスカがレイのために造ったおもちゃの光線剣。
……レイの手のひらから巨大なエネルギーが流れ込むと、それはおもちゃから兵器へと進化を遂げた!
「……行くわよ」
レイは《ビーム・ソード》を構えてマトリサキエルに突撃した……。
「し、使徒が前の使徒の死骸の方に行ったぞ!」
「みんな、反対方向に! 街の西側のシェルターに避難しなさい!」
「いやーっ! 助けて!」
混乱する市民達の中で、ミサトは懸命に誘導しようとするが、市民達のパニックは治まるところをしらなかった。
混乱のるつぼと化した中央広場で、アスカとシンジはレイが戦っている方向をにらみつける。
「始まったわね……シンジ!」
「うん――」
「よし、援護射撃、始めるわよ!」
「まって、ここからじゃあ射角を確保できない。使徒の背後を狙わないと――!」
「そ、そうね……! じゃ射程距離ギリギリだけど、首里城公園に向かいましょう!」
シンジとアスカがそう話していると、後ろから思いっきりアスカを怒鳴る声が聞こえる。
「あ、アスカ! あなた、何やってるのよ!」
「マナ、早く逃げないと、危ないわよっ!」
「それはこっちのセリフよ! 早く、シェルターに逃げましょう!」
マナは怒った顔をしてアスカの腕を引っ張ろうした。
「まって、アタシは使徒をやっつけなきゃいけないの!」
「はっ? アスカバカぁ!? ――な、何言っているのよ!」
言い争う二人の元にミサトが駆けつけてくる。
「そこのあなた! 早く逃げなさい! ……って、あれ? アスカに、マナ?」
「あ、葛城さん!」
「シンジ、行こう!」
「うん!」
ミサトの登場に驚いたマナがひるんだすきに、アスカとシンジは全力疾走してその場から離れてしまった。
「ア、アスカーーーーっ!」
「ど、どうしたのアスカ? そっちは使徒の居る方向よーーっ!」
「葛城さん、アスカが死んじゃう!」
「……ええっ?」
マナの言葉にミサトは驚いて目を丸くした。
「アスカ、使徒をやっつけるって……」
「アスカが……使徒を?」
「無理にも程があるわ! ――早く止めに行かないと!」
しかしマナがそう言っても、ミサトは考え込んだまま動こうとしない。
「葛城さん!」
「……無理か無理でないか知っているのはアスカ本人よ」
「え?」
「アスカが使徒を倒せると思っているのなら……あるいは」
それを聞いたマナは慌ててミサトにつかみかかる。
「何言ってるんですか! アスカを見捨てるんですか!?」
「…………」
マナはミサトの頬を思いっきり叩く。
「私、葛城さんがそんなひどい人だとは思いませんでした! もういいです、私が止めてきます!」
「ダメよっ!」
「どうして!? 安っぽい奇跡でも期待しているんですか!」
「――奇跡は期待するものじゃないわ。人の手で起こすものなのよ」
「わけがわかりません!」
ミサトの言葉にマナはますます激昂した。
「……アスカは天才よ。世の常識を覆す何かを持っているわ――その何かに賭ける時かも」
「じゃ、アスカが失敗したら?」
「死なばもろとも。みんな死んでしまうわね」
「……ぅぅ、そんなリスクの高い賭けに乗れって言うんですか!」
ミサトはアスカの走り去った方向を向いて祈りを捧げる……。
「……アスカ、あなたの天才を信じるわ……頑張って!」
「……よし、到着!」
アスカとシンジは首里城公園の丘の上までたどり着いた。
「どう、狙える?」
「なんとか……弐号機が居れば、空から撃ち下ろしが出来たんだけど……」
アスカはそう言いながら望遠照準を覗き込んだ――。
「……見えたっ!」
「アスカ……」
そこへ、アスカのペンダントの中にあるコアを通じてレイがメッセージを送ってきた!
「レイ、大丈夫?」
「今のところ……伯仲しているってところね……相手も学習していたみたい……」
「今から援護するわ!」
「これで、私達の勝ちね――アスカの武器では、使徒に致命傷を与える事はできないけど……決定的なすきを作る事ができるわ。出来るだけ距離を取って。使徒に、アスカの居る場所を感づかれないように……」
「うん、任せて!……よーし……」
アスカはトリガーを引き絞った。
「……ま、待ってアスカ!」
「えっ?」
「そ……そんな……」
普段のレイとは違った、うろたえた声が、アスカのペンダントから聞こえてくる。
「どうしたの、レイ!!」
「使徒が分裂してそっちに向かったわ! 今すぐそこを離れて!」
「……え?」
その言葉を最後にレイからの声は途絶えてしまった……。
「ど、どういうこと?」
「――ア、アスカ!」
驚くシンジが指差す方向には、最初に現れた使徒マトリサキエルの下半身の部分、巨大なクモの様な使徒が急接近してきた!
「え、え、ええーーっ!」
「二体の使徒が重なっていただけだって言うの?」
「こ、こっちに来る!」
マトリエルは黄色い液体をドバドバと垂らしながらアスカに迫ってくる。
液体が触れた場所の木々はあっという間に枯れて行く。
石造りの路面も融解していっているようだった。
「こんのー! 目玉お化けー!」
アスカがマトリエルめがけてロングドグラノフを発射する……が到底、致命傷には至らない。
「だ、だめだわ……ここからじゃ急所が狙えない!」
「アスカ、逃げるよ!」
マトリエルは逃げるアスカ達をその体に存在する無数の目でにらみつけると、アスカめがけて溶解液を飛ばす!
「きゃあ!」
「アスカっ!」
溶解液を浴びて、溶かされると死を覚悟したアスカを、シンジが思いっきり抱きしめて何とか自分の側に引き寄せた。
シンジに抱きしめられながら、後ろの地面からジュウジュウと石畳みの溶ける音を聞いて身を震わせるアスカ。
「あ、ありがとう……シンジ……シンジが居なかったら……アタシ、死んでた」
「お礼はこの場を切り抜けてから――! でも、次またあの溶解液をかわせるかどうか、自信が無いな……」
シンジはそう言って冷汗を垂らした。
「いつまでも、好き勝手にさせておくわけにはいかないわ! ……はやく、レイを助けに行かなくちゃいけないんだから!」
ロングドグラノフに次の弾を充てんさせるべく、懐のポケットをまさぐっていたアスカだったが、その顔がたちまち青くなる――。
「もう、弾が無い!?」
「何だって?」
マトリエルは徐々にアスカ達に近づいてきた。
「来たっ!」
「一度研究所に戻りましょう! 弾のストックがあるはず!」
その時、アスカ達が背にしていた海の水面が持ち上がり、さらに新手のキノコの形をした使徒、シャムシェルも姿を現した!
「ええっ!? こっちにも!?」
アスカ達は二体の使徒に挟まれてしまった――!!
「くっ……何だよ! 最後の一体とか言って! ……何体も生き残っているじゃないか!」
「……シンジ!」
アスカが心細いといった顔でシンジの腕をつかんだ。
その体は震えている。
シンジも自分の体の震えに気を取られて、どちらが激しく震えているのか分からなかった。
そして安心させるためなのか、自分が安心するためなのか。
シンジは再びアスカの体を抱き寄せた。
「アスカ、……ごめん、君を助けられなくて……」
「シンジ、いつまでも一緒よ……」
勝ち誇った使徒の咆哮が、オキナハシティの街を覆う……。
「…………」
(……こんな所で死ぬなんて、やっぱりイヤ!)
研究所の片隅、こんこんと眠り続けるエヴァンゲリオン弐号機……。
自分の一切をかけて護ると誓った少女の魂の悲鳴に……。
「…………」
(……助けて、弐号機……!)
……彼の冷え切ったコアに、再び火を点す声が……届いた。
「……え?」
「どうしたの、シンジ?」
突然飛来した、巨大な攻撃と爆発――!
そして叩き伏せられた、マトリエルは一瞬にして沈黙した――!
「ま、まさか――!」
「そうだよ、アスカ!」
「――に、弐号機!」
「……ウォォォォン!」
「よかった、目が覚めたのね!」
アスカは満面の笑みで側に降り立った弐号機に話しかけた。
「遅刻だよ、弐号機」
「――よーし、弐号機! あっちの使徒も、やっつけて!」
「…………ウォン!」
弐号機はアスカの命令を聞くと、肩のハイメガ・粒子砲をシャムシェルに向かって構えた。
32口径240mmハイメガ・粒子砲――10万の軍勢を遮る大要塞でさえ、一撃で粉砕する――。
その圧倒的攻撃力が、今目の前で白日の元にさらされようとした!
「いけーっ、弐号機っ!!」
「ウォォォォォォォォン!!」
攻撃を食らったシャムシェルは、原形をとどめないほど粉々になって消滅した……。
その頃、サキエルとレイの死闘はいつ果てる事もなく続いていた……。
「くっ!」
素早い両手のかぎ爪による攻撃をなんとかかわすレイ。
しかし……突然、サキエルは、手のひらからビーム光線をレイに向かって放った!
この不意打ちをレイはまともに食らってしまった――!
「……ぅぅぅ……ダメージは……? ……大丈夫……まだ左足が痛むだけ……」
サキエルがレイに迫る……!
「この程度で……やられたりしない……」
……レイの瞳に力がみなぎる。
「……まだまだ大丈夫、勝負はこれから……」
レイの呼吸が荒々しくなる。
「長時間の全力戦闘は、もう無理みたいね……コンバットパワー・マキシマムで一気に勝負をかけるわ」
レイが、玉砕覚悟の攻勢に出ようとしたその時――!
「…………ウォォォン!」
超高速で飛来してきた大きめの塊が爆裂して地面が振動する!
「……………!」
山ほどもあるサキエルの巨体が大きく揺らいた――。
「レイ!」
「ウォォォン!」
「アスカ……それに弐号機!?」
弐号機の背中からアスカとシンジが顔を出す。
「弐号機! 撃って撃って撃ちまくりよ!」
「無事だったのね……よかった」
レイはそう呟くと、穏やかに微笑んだ。
「ウォォォォン!」
――ドォォォォン! ドォォォォン!
「それ、もう一息よ!」
「ウォォォォン!」
――ドォォォォン! ドォォォォン!
ハイメガ・粒子砲に続けざま体を直撃され、サキエルはATフィールドを張っているとはいえ、怯む姿勢を見せた――。
「――ふふ、もらったわ!」
レイは、そのすきを見逃さなかった!
「――えいっ!」
レイは跳躍し、脳天から胸にかけてサキエルを切り裂いた!!
「…………!!」
「――や、やったの?」
コアを傷つけられたサキエルは、苦痛に身をよじらせるように巨体を翻し、海の方へヨロヨロと歩いて行く。
「まだ生きているの!?」
シンジが叫ぶその前で、サキエルはどんとんと沖の方へ進んで行った。
「……アスカっ! 使徒が海に逃げる……砲撃を!」
「う、うん、弐号機!」
「――ウォォォォン!」
「くっ……まだATフィールドを張れるのか!」
シンジが叫ぶその横で、レイは落ち着いた様子で呟く。
「いえ、私の最後の斬撃は、間違いなく、使徒の命の一線に触れたわ……使徒は倒れる……でも……」
「でも?」
アスカはそう言って首をひねった。
「最期のあがき……使徒は自爆して海底火山を噴火させるつもりだわ……そして津波でオキナハシティを薙ぎ払うつもり……」
「――ええっ!? 津波だって!?」
レイの言葉を聞いたシンジは驚きの声を上げた。
「波の高さは最低でも数メートル。……津波が直撃したら、オキナハシティの市民は全滅ね」
「ど、どうしたらいいのよ……弐号機のハイメガ・粒子砲の出力を限界以上まで引き上げて使徒のATフィールドを貫いてコアを破壊する事はできない?」
「難しいわ……使徒はこちらに背中を向けている」
アスカの提案をレイは首を振って否定した。
「じゃあ、直接攻撃しか無いね……」
「ウォォォン」
シンジの呟きに弐号機がうなりごえをあげた。
「弐号機……まさか!?」
アスカは驚いた様子で叫び声を上げた。
「ごめん、弐号機、行ってくれるかい? ……先導は僕がするよ」
シンジの言葉に弐号機が返事をする。
「ウォォォン!」
「体当たりする気!? だ、ダメよ……! シンジも止めて!」
「……ウォォォン!」
シンジは辛そうな顔でアスカに告げる。
「誰かがやらないと、みんな死んじゃうんだ――」
「そんな、そんなのってないわよ!」
言い争うシンジとアスカの姿を見て、レイは穏やかに微笑む。
「ふふ……あなた達だけのパワーじゃ、使徒のコアを破壊するほどの威力は得られない。……あなた達は死なないわ。私が護るもの」
「そんな……レイ、何を言ってるの……?」
「アスカ……そんな顔しなくていいのよ」
レイはそう言うと、沖へと姿を消しつつあるサキエルをじっとにらみつけた。
「使徒は……もともと私達が倒さなければならない存在。私の命を懸けてでも……今の私にとって、死と生は等価値なの。あなた達を護って死ねるなら、私は幸せよ」
「そ、そんなのって……」
アスカはそう呟いて暗い顔で俯いた。
「レイ、シンジ、弐号機! ……みんな、止めてよ!」
「……アスカ! 僕も弐号機もきっと生きて戻ってくるよ!」
「……え?」
「僕はどんなに怪我をしてもアスカの所に戻ってくるから……」
「碇君、弐号機、これ以上使徒が離れると厄介よ。行きましょう」
レイの言葉に、弐号機はアスカを肩からおろし、レイとシンジを乗せて、高速で飛び立って行ってしまった。
「イヤよ、行っちゃイヤーーーーっ!」
「ウォォォン!」
アスカがいくら叫んでもすでに呼び戻す術は無く、弐号機のエンジンから発せられた一筋の軌跡が空に残されただけだった……。