女形の中村福助は現・歌舞伎座の最後を飾る「御名残四月大歌舞伎」の第3部「助六(すけろく)由縁(ゆかりの)江戸桜(えどさくら)」で白玉を演じている。
中村芝翫の長男として1960年に生まれ、67年4、5月の歌舞伎座で五代目中村児太郎を名のり、初舞台を踏んだ。5月に演じたのが「助六」の禿(かむろ)である。だから歌舞伎座とのかかわりを「『助六』で始まり『助六』で終わるようなもの」と表現する。
「子供のころの歌舞伎座は大きな遊び場のような場所でした。舞台では大叔父の(六代目中村)歌右衛門も父も厳しかったですが、楽屋ではみんなが構ってくれました」
思い出は多い。10代後半から20代前半には、自身が「薄幸の少女シリーズ」と振り返るところの「筆屋幸兵衛」のお雪、「文七元結(もっとい)」のお久、「加賀鳶(かがとび)」のお朝などを二代目尾上松緑、先代中村勘三郎ら戦後歌舞伎を担った立ち役の指名で演じた。「それが僕の出発点です」
79年9月には歌舞伎座で本公演前に行われた「中学生のための子供歌舞伎教室」で1度だけ「男女(めおと)道成寺(どうじょうじ)」の花子を踊った。
「『娘道成寺』は、父や歌右衛門のおじなど歴代の児太郎が10代で踊っていたので、僕もギリギリでセーフでした。歌右衛門のおじが細かく教えてくれ、女形としてのターニングポイントになった。以来いろいろなチャンスをいただけるようになりました」
若手女形として人気は急上昇。次々と大役に抜てきされた。「當世流小栗判官(とうりゅうおぐりはんがん)」(83年7月歌舞伎座)で市川猿之助の相手役の照手姫をつとめ、「お染の七役」(同年9月同)では早変わりで7役を演じた。
「足の届かないところで泳いでいたようなもの。おはしを持ったまま寝ていたことすらありました」
90年8月に同座で「納涼歌舞伎」が始まる。それまでの8月は、歌手公演など歌舞伎以外の興行のある月だった。当時の花形を主体にした公演は評判になり、8月興行は翌年以降も継続されて現在に至る。同座での歌舞伎の通年公演が初めて実現した。それが「歌舞伎ブーム」の始まりであった。
92年4月に同座で九代目福助を襲名した。「『口上』で顔を上げた時に、お客様の『頑張れよ』という思いを感じました。あの雰囲気は忘れられません」
今月は父の芝翫、長男の児太郎も歌舞伎座の舞台に立っている。「三代で歴史の節目を迎えられるのは幸せです。歌舞伎座のない間もみんなで頑張らなくては」。公演は28日まで。【小玉祥子】=<下>は22日に掲載します
毎日新聞 2010年4月15日 東京夕刊