シンドラーのリスト
−SCHINDLER'S LIST










「ここに留まるのですか?」
「クラコフに何がある?」
「工場があります…給料の高い
ポーランド人を雇わねばならないが…」
「君が工場を動かしていた…
私は故郷へ帰る、望み通り
使い切れない程の金も貯めた…」
「……」
「いつの日か…この戦争も終わる
その時は君と一杯飲もうと…」
「今、飲みましょう…」




監督

スティーブン・スピルバーグ

キャスト

リーアム・ニーソン/「レ・ミゼラブル」
「スター・ウォーズ・エピソードT」
レイフ・ファインズ/「アベンジャー」
「イングリッシュ・ペイシェント」


1993年 アメリカ映画
カラー/白黒  195分


  1993年度のアカデミー主要七部門を獲得したこの作品は、スピルバーグ渾身の力作である。作品で取り上げている「ホロコースト(Horocaust=第二次大戦中、ナチス・ドイツによって迫害されていたユダヤ民族に対する大量殺戮を指す)」と言うテーマは余りに重厚でシリアスだが、ラスト・シーンやその他・思わず胸を打たれずにはいられない各エピソードの数々に、心の底から湧きあがる感動を覚えた人も少なくないはずであり、まさに珠玉の名作と呼べる傑作となっている。
  作品に登場する主人公オスカー・シンドラーは実在したドイツ人実業家であり、身の危険を省みずに取った彼の行動によって1200余名ものユダヤ人の命が救われたこの実話は、近年になって映画化される事で多くの人々に知られる所となった。しかしこの様な勇気ある行動を示した人物を語る話はこれだけに止まらず、その大小を抜きにすれば、おそらくこれに似た多くの物語が人知れず歴史の底に埋もれたままになっているに違いない。
  実際、シンドラー伝説と同様な話が日本にもあり、「日本のシンドラー」と評された日本人外交官・杉原千畝(ちうね)の英雄伝などはテレビでも紹介され、ビデオにもなっているのでご存知の方も多いだろう。1940年当時、リトアニア駐在の外交官であった杉原千畝は、ソ連が日本大使館を閉鎖する僅かな期間に、日本本国の命令に背むきながらもポーランドから脱出してきた6千〜8千人のユダヤ人達に日本通過を許可するビザを発行し続け、彼らの命を救った。
  シンドラーがポーランドのクラコフにあった収容所から助けたユダヤ人の人数は一千百〜二百人と千畝には遥かに及ばない(ただ、原作によると、彼が当該の収容所以外で救った人々も含めると、実際にはその数はもっと多かったとされている)。しかしシンドラーの英雄伝で重要な事は、彼の行動がドイツ占領下のポーランドと言う、本国と同然にいつ後に手が回るかもしれぬ非常に危険な場所で大胆に行なわれた事である。そして彼がユダヤ人達を救う為に採った方法は非常に奇抜で独創的ながら、一方でリスクが高く、効率は決して良くない。言わんやある種の人間からすれば、彼の取った行動は狂気のさたと取られても不思議ではない。
  題名である「シンドラーのリスト=SCHINDLER'S LIST」の「LIST」と言う単語は英語では”名簿”と言う意味を持つが、この言葉はドイツ語では”陰謀”言う意味になる。しかしこの作品のテーマは、シンドラーが企てたこの驚くべき企みそのものや、その方法論にあるのではない事は言うまでもない。人間の犯し得る最も悪しき大罪も、時の流れの中で風化し、常に単なる歴史の1ページへと変わり果てて行く。その中でそれを見詰め直す事で得る事は、ただ人間の愚かさを学ぶという事だけではないはずである。
  尚、以下のストーリー紹介の部分は幾分詳しく解説し過ぎたきらいもある為、完全に予備知識無しにこの作品を見てみようと思った方はこの先は読まない方が良いでしょう。その後のまとめの部分も含め、作品を鑑賞後にご覧頂ければ幸いです。

  1939年9月、ドイツ軍は2週間でポーランドを制した。国内のユダヤ人には移動命令が下り、その内の1万人以上がクラコフに移送されていた。そしてまだポーランドにおける戦闘が終結も見ない内に、そのクラコフの街にフラリと現れた一人のドイツ人、オスカー・シンドラー(リーアム・ニーソン)は、ワルシャワへ向けて進撃するドイツ軍の尻馬に乗った形で、この街に事業のチャンスを求めてやって来た人間の一人であった。
  軍需工場を起す計画を抱いていたオスカーは、高級レストランで派手に金をばら撒いてドイツ陸軍やSS(親衛隊)の将校連と懇意になる一方、ユダヤ人の会計士イザック・シュターンを雇い入れて財産の処分に苦慮している多くのユダヤ人達から資本金を募る。また彼はシュターンを使って多くのユダヤ人達を雇い入れ、破産した工場を買い取って”DEF(ドイツほうろう容器工場)”を設立した。
  オスカーは物不足のこの時勢に、金に糸目を付けずに闇取引で手に入れた豊富な物資を懇意になっていた”SS経済局”のお偉方に対する贈り物にする事で顔を繋ぎ、引き続き軍からの発注を維持する事も怠りなかった。こうして軍からの見返りを得て、飯盒容器などの大量の製品を軍に収める事ができたオスカーは、たちまち富を得て成功者となるのであった。その成功の一役を担ったシュターンに感謝し、共に酒を酌み交わしその成功を祝おうとするオスカー。しかしユダヤ人である以上に用心深く”お堅い”シュターンは、その他大勢のドイツ人に比べ、このボスのおよそドイツ人らしからぬ振る舞いに未だに慣れる事ができず、素直に喜びを分かつなどと言う気にも到底なれないのであった。
  1941年3月20日、ゲットーへの強制移住が始まり、クラコフの全ユダヤ人がヴィスワ川南端のわずか0.24平方キロメートルの狭い区域に押し込められた。それでもシンドラーの工場で働いてるユダヤ人達は職場に働きに出るためにゲットーの外に出る事を許されており、その際に物物交換をして必要なものを手に入れる事もできた。しかし彼らの賃金は男性で日給7マルク、女性で5マルクという低い水準に制限されていた上に賃金そのものはSS経済局に徴集されてしまい、彼らは配給だけを頼りに生活しなければならなくなった。だが彼らはゲットーという言わば外界から隔離された空間にいる事で、少なくともポーランド人やドイツ兵からのいわれのない暴行や迫害を逃れ、壁のの中だけの”自由”を得ている事だけは確かな事実であった。
  しかし壁の外となると彼らはしばしば小さな暴力や迫害・無慈悲な虐殺が公然と行われている世界にいる事を実感しないではいられなかった。冬になるとSSはゲットーのユダヤ人達を徴発して雪かきに従事させる事もしばしばで、シンドラーの工場に運良く雇われていた”片腕の老人”は雪かきの作業中、ドイツ兵に見咎められあっけなく射殺されてしまう。オスカーは、SSが雪かきに彼らを徴集する度に工場の従業員が大量に欠勤する事で、”工場の生産”と”熟練工”一人の損失の補填を求めて当局にかけあうが、それが実るはずもない事は分かっていた。
  この時までにオスカーの怒りの大半は、純粋に工場の生産を妨げられた事に向けられていたのであり、ユダヤ人に対する同情がそれを上回っていた訳ではない。実際、彼が故郷から出てきた妻のエミリアに語った「父は最盛期で50人の人を雇っていたが、私は今や350人の人間を使っている身分になった。彼ら全員が”私”の為に働いている」という言葉から分かる通り、この時のオスカーにとってユダヤ人を雇っているのはコストの安い労働力が彼の事業の利益になるからに他ならなかった。
  オスカー・シンドラーという人間は決して聖人君子の様な性格の持ち主ではなかった。故郷であるチェコのズデーテンラント(昔から多くのドイツ人が居住している地域で大戦前の1938年にドイツに併合されていた)から出てきたのも純粋に事業で一山当てる為であり、女性関係にしてもあけっぴろげで二人の愛人との関係を隠しもしない振る舞いに、むしろシュターンを含む回りの人間が困惑の色を隠せない程であった。妻のエミリアはそんなオスカーの女性関係を知ってはいても、父親が結納金を渋った事で夫にずっと負い目を感じていた事もあり、決して夫に強い事は言わない。結局、エミリアはオスカーのアパートのドアマン達が彼女を躊躇せず”ミセス・シンドラー”と呼ぶ事のないこの土地で暮らして行けず、故郷へ舞い戻って夫との別居を続けるしかなかった。
  故郷へ帰る妻を見送った後もオスカーの生活にそれぼと変化が見られた訳でなく、シュターンの件をオスカーが知らされたのは、例によって愛人のクロノフスカとの情事に耽っている時であった。シュターンは”労働証明書”を携帯するのを忘れていたばっかりに、うむを言わさず移動を命令されていた他の大勢のユダヤ人と共に家畜用貨車に放り込まれていた。大急ぎで駆けつけたオスカーは、列車を発車させようとするドイツ軍の若い将校を半ば公然と脅してシュターンを取り戻す事に成功する。
  シュターンが放り込まれた貨車が何十両も連なるその駅では、身の回り品の持ち込みを一切禁じられたユダヤ人達が、ドイツ兵の指示に従ってトランクに名前を書きいれている光景が見られた。だが、「荷物は後から送る」、と言うドイツ当局の約束は真っ赤な嘘であった。ユダヤ人達が家畜のようにギュウギュウ詰めにされた列車が出発すると、それら山の様な私物は全て分別小屋に運び込まれ、宝石、靴、衣類などに機械的に仕分けられ処理される。当然、貴金属などは金、銀等に選別されナチスの保管庫へ行く事になる。当然このようなナチスによる搾取が公然と行われていると言う事は、列車で移送されて行くユダヤ人達がもはやこの地に帰ってくる事はありえないという事実を示していた。
  そしてナチスによる迫害は、1943年3月13日のゲットーの解体とプアシュフ収容所への移送によって頂点に達し、彼らユダヤ人達の前には過酷な運命が訪れる事になる。軍靴の響きを不気味に轟かせて迫り来るSSの強制執行部隊。彼らの手を逃れようとゲットーの一部のユダヤ人達は様々な方法で狭い部屋に隠れ潜み彼らをやり過ごそうとする。
  床下・天上裏の隠し部屋は言うに及ばず、ベッドの裏側に体を縛りつける者、オルガンの中や内部ををくり貫いたタンスの中に潜む者と彼らは生きるための精一杯の努力をするが、執拗なSSの捜索に一人、また一人と見つかっては機関銃の餌食となって行く。ゲットーの大部分の人々は無駄な抵抗はせず、おとなしくドイツ兵に促されて収容所へ向かう列に並ぶのだが、夫や妻、そして子供と別々に引き裂かれてしまった彼らはパニックを起こし、クラコフのゲットーはたちまち恐怖と混乱に満ちた喧燥に支配される。
  愛人のクロノフスカと乗馬にいそしんでいたオスカーが、このゲットーの騒ぎに気付いたのは、丁度ゲットーを見渡せる丘に赴いた時だった。彼はそこでゲットーで行われている一部始終を目撃した。おとなしく移送されるにまかせる人々の群れの片隅では、抵抗する者や指示に従わない者はみせしめの為に躊躇なく射殺されて行き、自力で歩行できない病人も同じ運命をたどった。すぐ側で人々が処刑されるている脇を、赤いコートを羽織ったまだ年端もいかない小さな少女が、足元もおぼつかげに一人で歩いているのがオスカーの目を捉えた。このゲットーでのユダヤ人狩りは夜遅くまで続き、その銃撃の音と閃光が絶える事が無かった。そしてこの出来事を目にした日から、オスカーの心の内に何かが起こり、この後、彼自身思っても見なかった行動に走らせる事になるのであった。
  収容所の所長として赴任したアーモン・ゲート(レイフ・ファインズ)大尉は、まさに生殺与奪の全権を握った帝王として囚人となったユダヤ人達の前に君臨していた。そして従業員を全て収容所に奪われ、オスカーの工場は休業状態となってしまったが、オスカーはしかし、これまでして来た様に必要とあらば賄賂をちらつかせてでもゲートに直談判し、工場の従業員を返してもらうのであった。
  ゲート所長の収容所での所業は冷酷そのものと言えた。収容所建設時、ドイツ将校に意見したという理由だけで、彼は鼻をかみながらその女性建築士を射殺するよう命じた。バラックの土台の基礎工事をやり直さなければならないと言うその女性建築士の意見は、その後しっかりと取り入れられたにも関わらず・・・。
  ゲートは収容所内を一望に見渡せる小高い丘にある屋敷を自身の住いとして使っていた。そして彼は起き抜けに上半身裸のかっこうでバルコニーに出て、おもむろにライフルを構えては、靴の紐を直していただけの女性や身体が悪く座り込んでいた囚人をまるでゲームの様に狙撃していく。そして収容所内の囚人達は、無慈悲に冷たく鳴り響く射撃音が所内にこだまするとまた一人、哀れな犠牲者が出た事を知って慌てて作業の手を早めるのである。
  次にゲートに狙われたのはレブァトフと言うラビ(司祭)であった。彼が働く収容所内工場にゲートが見回りに来た際、レブァトフはゲートの前で僅か一分でちょうつがいを一個作って見せ、自分が必要とされる熟練工である事を自身満々に証明する事ができた。しかしゲートが抜け目なく指摘した疑問はレブァトフの心臓を凍りつかせた。ゲート曰く「これだけの速さでちょうつがいを作れる人間が朝6時から働いて、何故これだけしか出来ていないのか?」レブァトフはたちまちドイツへ兵に腕を掴まれ裏庭に引っ立てられるのであった。
  ニワトリを囚人の誰かが盗んだとして、容疑のかかったグループがゲートの前に一列に並ばされた事があった。犯人が名乗りでてこないと見るや、ゲートはいきなり目の前の囚人を一人、ライフルで射殺する。誰かが名乗り出るまで一人づつ射殺されるのは明白であったが、その時一人の少年が泣きながら列の前に歩み出た。「お前がやったのか?」と問うゲートの問に首を振る少年にゲートは更に問う。「では誰がやったのか知っているんだな?」おもむろに肯いた少年が「彼です!!」と指差したのはしかし、たった今ゲートに射殺されたばかりの囚人であった。この利口な少年はシュターンの計らいでシンドラーのユダヤ人の仲間入りを果たす事になる。
 この頃になるとプアシュフ収容所のユダヤ人の間では、オスカー・シンドラーの工場は誰も死ぬ事も無く飢えに苦しむ事も無い天国の様な場所であるという噂が広まり、こうしてシンドラー伝説が始まったのである。
  労働に適さない老齢者が次々に列車で強制移送されているプァショフ収容所に、年老いた両親を持つユダヤ人女性、レジーナ・ペールマンもまた、その噂を聞きつけて藁にもすがる想いでシンドラーの工場に足を運んだ人間の一人だった。両親の身を案じたレジーナは、偽造の身分証明書で街に隠れ住んでいる身も省みず思い切ってシンドラーに事情を説明し、両親をシンドラーの工場に引き取ってもらえないかと頼む。しかしシンドラーは、自分は優秀な熟練工を欲しているのであって、自分の工場はユダヤ人の駆け込み寺ではないとばかりに怒り、レジーナの申し出を拒絶する。
  このところ、シュターンから何かに付け、老人・子供など曰くつきの囚人を熟練工として収容所から工場に引っ張るよう頼まれていた事もあり、これ以上は彼自身に危険が及ぶやもしれぬとシンドラーはシュターンにその怒りをぶつけるしかなかった。 だがシュターンにそのやり場のない怒りをぶつけて落ち着くと、シンドラーは何も言わず、身に付けていた腕時計を外すと帳簿係へのワイロとしてシュターンに託すのだった。数日後、収容所から工場に向かう道をぺールマン夫妻が連れ立って歩く様子を影から眺めるレジーナの姿があった…。
  この頃、プァシュフ収容所の囚人達の間ではある恐ろしい噂が流れていた。その施設に送られた唯一の生き残りである一人の男が語った所によれば、彼らが送り込まれたその場所に到着すると、直ぐに彼らは所持品を奪われ、消毒と称して裸でとあるバラックに詰め込まれた。しかしシャワー室のようなその部屋の天井から降り注いできたのは消毒液などではなく、毒ガスであったというのである。その様な噂に対する彼らの反応の多くは、信じたくないと言うよりもむしろ、ドイツ軍が貴重な労働力である我々を簡単に殺すはずがないと頑なに思い込もうとするものであった。
  しかし彼らのその様な不安を裏書きするような事件が起こった。突然の非常点呼に叩き起こされ、収容所の広場で始まる出来事を窺っていた彼らに、再び強制移送されるのではと言ういい知れない不安が襲う。ドイツ軍の医師団が現われ、広場に集められた囚人達はてっとり早く健康状態を判断するために、男の女も裸で広場を周回する様に走らされる。ここで労働不適格者と判断された者は直ちにトラックに載せられ、何処とも無く移送される運命にあるのだった。
  その冬、オスカー自身にもまた、ドイツ官憲の追及の手が伸びようとしていた。オスカーは自分の誕生日に、工場労働者の代表として彼への感謝の印として手作りのケーキを持参した二人のユダヤ人の少女の頬に接吻した。それを密告され、ゲシュタポ(秘密警察)に人種再編成法違反の嫌疑がかけられたのだ。一度、彼らに目を付けられたら最後、普通のドイツ人であったらそれまでであったろう。しかしオスカーがこれまで培ってきたSS経済局の高級将校達や、特に収容所所長であるゲートとの人脈は無駄ではなく、彼はじきに首尾良く釈放されるに至る。
  クラコフの街に得体のしれない灰が雪のように降り注いだのは、オスカーが釈放されて出てきた直後の事だった。1944年4月、この日、クラコフのフヨヴァ・グルカの丘ではプアシュフ収容所とゲットーでのユダヤ人犠牲者一万余名の遺体の焼却が行われおり、そこで焼かれている夥しい数の遺体から生じる人灰がクラコフの空を覆っていたのだ。この時期、既に東部戦線において絶望的な全面撤退を余儀なくされているドイツ軍を追って、ソ連軍がポーランドに迫っていた。地中に埋められた大量殺戮の証拠となりうる膨大な量の遺体をソ連軍に発見される事を恐れたドイツ本国から、埋められた遺体を全て掘り起こして焼却処分するよう命令が出ていたのである。
  それはこの世の物とは思えない凄惨な光景であった。囚人を使って掘り起こされた遺体は、荷馬車や担架で丘に集められ山の様に積まれていた。そしてベルト・コンベアーでそれらは次々に地獄の煙火に包まれた大きな穴に落とされていく。凄まじい光景にそれを監督しているドイツ兵の中には、発狂したような表情になっている者もいる。そしてこの光景を唖然として見つめる外ないオスカーに、一度埋めた死体をまた掘り起こすなんて…と愚痴をこぼしつつゲートが思いがけない事を告げる。「ソ連軍が迫っている。ここの収容所も閉鎖される事になった。囚人達は全てアウシュヴィッツに移送される」と。
  こうしてとうとうシュターン等ユダヤ人従業員達と別れる事になったシンドラーは、最後にシュターンと別れの酒を酌み交わす。彼らユダヤ人達が去っても、オスカーは賃金が高くつくとは言えポーランド人労働者を雇い入れて工場を維持して行く事もできた。しかしもう十分に期待した以上の資産を築いたオスカーは、これを期に故郷のブリンリッツに帰る事にした。
  しかし彼らユダヤ人達をこれから待ち受ける運命を知っていたオスカーは、その言葉とは別の事を考えていた。ゲットー解体時の阿鼻叫喚の様を愛人と共に丘の上から目撃して以来、そしてあのフヨブァ・グルカの丘で燃やされようとしている遺体の山に、ゲットーで見かけた赤いコートの女の子の死体が運ばれているのを見て以来、オスカーの心中では一人の人間として進むべき道を見出していた。そしてある日、アタッシュ・ケース一杯の現金を持ったオスカーはゲートの屋敷に赴き、オスカーの工場で働くユダヤ人一千余名を連れて故郷に新しく工場を移転させると告げたのである。
  オスカー・シンドラーの工場移転と共に移送されるユダヤ人のリストは、オスカーとシュターンが記憶している名前を懸命になって思い出しながらタイプしたものであり、その”シンドラーのリスト”に名前が載るという事は、ただ紙の上に文字が記されている以上の意味があったのである…。

  この作品を観てユダヤ人迫害に関する認識を新たにした人で、単純に「ドイツ人て何て残酷な人種なんだろう」などと当時のドイツとドイツ民族に対する侮蔑の念を持つ人はまさかいないとは思う。しかしここで気を付けなければならない事は、当時の我が国・日本もまたドイツに負けず劣らない全体主義国家の一員としてドイツ・イタリアと共に同盟関係にあった事であり、中国からは、つい最近まで戦中日本軍が起こしたとされる”南京大虐殺”に関して非難され続けていた事実を考えなければなるまい。
  そして最も忘れてはならない事は、歴史は常に勝者の側の主観によって作られているものであると言う事である。当然、戦争に勝利した側は、政治・経済的な自国の影響力を新たな版図に確実に及ぼそうと、恣意的に情報操作をして戦後の支配体制確立の助力として来た事は自明の理である。つまり「勝てば官軍」と言う言葉がある様に、歴史とは常に勝者の側からの一方的な見方で語られる解釈の一つに過ぎず、もしも本当の真実、もしくはそれに近い物を求めるのならば、双方の立場から歴史を眺めて検討する必要があるはずである。そして場合によっては、時の流れが真実を浮かび上がらせる事があったとしても、恐らくそれは最低一世紀単位の時間の経過を必要とするに違いない。
  1964年、ダラスで起きたアメリカ合衆国大統領、ジョン・F・ケネディ暗殺事件は、公式的には依然オズワルドという共産主義者の単独犯行によるものであるとされているが、数々の資料が示す矛盾した状況が別の真犯人の存在を示唆している事は今では衆知の事実である。そしてケネディの後を次いだジョンソン大統領が75年の凍結を指示した2039年まで非公開とされている資料の存在それ自体が、その事実を肯定している証拠として当時から囁かられている(興味のある方は、ケビン・コスナー主演・「JFK」がかなり妥当な解釈を意欲的に唱えているのでご覧いただきたい)。
  そして、ことこの作品が取上げているホロコーストに関しても、真実として公式に語られている事実と全く正反対の見解を示す諸説を述べている歴史家や研究者が存在する事も確かであり、部分的にはそちらの方が妥当であると考えたくなる例も少なくない。
  具体的に述べれば、まず公称600万人とされているユダヤ人犠牲者の数である。ドイツ占領地の随所に建設された多くの絶滅収容所において、この内の半数にあたる300万人が殺され、最も有名で一番巨大な設備を備えていたアウシュヴィッツではその内の100万人が処分されたとされている(これは諸説の中でも低い方の数字であり、その数を300万とする説もある)。だが当然、全ての遺体を連合国側の調査委員会が確認していた訳ではなく、その大部分はドイツが降伏する以前に焼却処理されて灰になったとされている。
  しかし冷静に検証して見るとこの数字が如何に現実離れしているかが見て取れる。単純に試算してもアウシュヴィッツではガス室の使用を開始したとされる1941年9月から、ソ連軍によって解放された1945年1月までの1200日余りの間、一日あたり1000人近い遺体を完全に灰になるまで焼却処理していた事になる。一般的に人一人の遺体を完全に灰するのに100リットルのガソリンでも不足とされるそうだが、この為に必要とされると思われる重油の量はそれこそ膨大なものになるだろう。一方で石油資源を自国に持たないドイツは、1939年の時点で僅か二年分の石油備蓄しか持たずに戦争に突入しており、その為にこそヒトラーが1942年のソ連に対する攻勢で、コーカサス地方のバクー等の油田地帯を確保しようとしていた事が今日では明らかになっている事実がある。
  ソ連の油田地帯を奪取する事に失敗したドイツ軍は当然、戦争の後半において深刻な燃料不足に悩まされており、有名な”バルジの戦い”ではそれがドイツ軍の作戦失敗の主要な原因の一つとして数えられているくらいなのである。こうして考えてみるに、当時のドイツ軍が喉から手が出る程必要としていた貴重な燃料を精製する重油を、この様な遺体の焼却処理の為に膨大な量を消費していたとは中々考えにくいし、そもそもそれだけの量の重油を確保する事さえ当時のドイツでは至難の技と思われるのである。
  また、 火葬場に立った経験のある方なら分かると思うが、人間の遺体を骨まで灰にするには現代の処理技術を以ってしても5分や10分じゃきかない。ましてや当時の技術ではことさらそうであるし、毎日1,000人近い遺体の焼却処理を昼夜フル稼動で1200日以上続けていたという事はにわかには信じ難く、アウシュヴィッツで処理された百万人という数字だけでも物理的にだけでなく、時間的にも無理が感じられると言うのも肯けるのである。
  またアウシュヴィッツから開放された直後の痩せ衰えた子供達の姿を捉えた記録映画が当時広く一般に知られていた。しかし真相はアウシュヴィッツには子供は一人もおらず、成人専用の収容所であったと言うのは有名な話であった。これ故、くだんの記録映画は明らかに捏造された物であるとして識者の間では公然の事実とされている。またこれは当時からその土地で暮らしている数多くの住人の証言からも裏付けられている事だが、アウシュヴィッツ収容所の焼却炉の煙突なるものは戦時中には存在しておらず、戦後になって突然現れて焼却の際に使われた事になっているのだ。
  日本の有名なドキュメンタリー作家である落合伸彦氏の著作「20世紀最後の真実」では、元ナチの高官であったと言う人物のインタビューが掲載されている。そこでくだんの人物は暴動を起したり反抗的な囚人を処刑する事はあっただろうが、組織的な大量虐殺など全くなかったとさえ述べている。そして焼却した遺体というのは、一部の処刑された者も含め、その多くは伝染病で大量に死亡した囚人達のものであると(しかし落合氏に関しては、一時期取りだたされた誇大表現僻などの評判を考慮する限り、その記述にそれ程の信憑性を持つ事は難しいし、虐殺が全くなかったと言うのもまた極端な主張であると私は考えている)。
  しかしこの著作の中には、一つ非常に興味深い、世界のユダヤ人の人口を示す統計数字の事実に関する指摘がある。それによると戦前のユダヤ人の総人口が1900万、そして大戦後の1950年のそれは1850万と記録されており、この二つの数字は他でもないニューヨークのユダヤ人協会が発行している世界年鑑に出ている物だと言う。600万人も減少した人口が僅か五年の内にたちまち回復するなどとても考えられない事であり、明らかに国際ユダヤ協会によって数字の操作が成されていると主張しているのである。
  紀元前772年のイスラエル王国の滅亡、そして前135年頃、ローマ帝国によってパレスチナの地を追われて以来、ユダヤ民族の歴史とは長く果てしない流浪の歴史と言えた。彼らは世界各地に散らばって存続し続けたが、中世から近世にかけ東欧・西欧いずれの地でも長い間迫害を受け続けていた。その彼らの苦難の道程を考えれば、大戦後、アメリカと言うかつて持ち得なかった強力な後ろ盾を背景に、彼らが自らを防衛する手段として様々な画策を行っているとしても不思議ではない。つまり彼らが必要以上にドイツの所業を誇張して喧伝する事で、長く繰り返されてきた彼らへの迫害の歴史に決定的な終止符を打とうとしたのではないかと…。実際、彼らはそれだけの力を持ち、現にアメリカのマスメディアのほとんどはユダヤ資本の息がかかっていると、先の元ナチ高官はインタビューで主張している(無論これも程度の問題だと思うが…)。
  しかし彼らが新しく再建した国家・イスラエルが備える諜報機関”モサド”が、その規模は別にしてアメリカのCIAや旧ソ連のKGBに優る情報収集能力を維持している事は諜報の世界では良く知られている事であり、これが自国の存続に対して大きく貢献している事は見逃せない事実である。なにしろ世界各国に散らばり、何世紀もの間その土地に根づいてきた自民族の社会をあちこちに持っていると言う事は諜報の世界では宝石以上の価値があり、それが言わばモサドの強みとなっている。言ってみればイスラエルは、他の国が敵性国家に苦労して植え込む必要がある情報源や、スリーパー(必要に応じて活動を開始する潜入工作員)の卵を、最初から世界中の国家(時にはその政財界の中枢に近い場所にいる)に持っていると言えるのだ。
  現在のイスラエルは、第二次大戦でユダヤ民族が戦勝国側に協力した代償として、当時英国の植民地であったパレスチナの土地を英国から与えられて誕生したものだ。だがご存知のように、その土地にはユダヤ人がそこを追われて以来、既に何十世紀もの間定住し続けているパレスチナ人がおり、両者の間に発生した火種はイスラエルの独立戦争を含む五度に渡る中東戦争を経た現在も消えてはいない。
  そしてその間、四方を全て、その独立を認めようとさえしないアラブ諸国に囲まれつつ、イスラエルが何故これまで生き延びてこれたのか?その答えもやはり、この国が情報の世界を制している故に尽きる。この誕生したばかりで、地中海東岸に張りつている猫のひたい程の小さな国家が五度の中東戦争に勝利し続けてこれたのは、ひとえに正確な情報をイスラエル軍が十二分に活用して敵の裏をかく事ができたからなのである。
  またアメリカが何故、イスラエルを一環して支持して支援の手を差し伸べ続けて来たのか?それは何も中東が世界一の石油産地として重要であったからばかりではない。移民国家であるアメリカには数多くのユダヤ人が存在しているが、彼らを代表する政財界に少なからぬ影響力を持つユダヤ勢力は、確実にアメリカ議会を動かしてイスラエルに対する兵器援助を含む支援を行なって来たのである。
 
  かように考えて見るに、この様な一国家による恣意的な情報操作が可能と考えられるのならば、いったい真実は何処にあるのかと途方に暮れる気にもなる。だが大切なのは、自分自身で真実を見極める目と持つと言う事ではないだろうか?テレビも新聞も、そしてインターネットと言う新たな情報媒体によって得られる情報も必ずしも真実を突いているとは限らない。溢れんばかりの情報の大波に翻弄されがちな現代であるからこそ、人は鋭敏な洞察力を磨いていく必要があるのではないだろうか?
  かなりシリアスな話をしてしまったが、作品の方はもっとシリアスで、しかも三時間を超える長尺となっているから心して観ていただきたい。




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