『Let's』23号掲載論文

木村氏とのガス室論争の経験をまとめた総括的論考が、日本の戦争責任資料センターのボランティア誌『Let's』23号(1999年6月)に掲載されました。以下に、その原稿を示します。


「ガス室の嘘」オンライン論争の経験から

高橋 亨

1.はじめに

1995年の『マルコポーロ』事件を記憶しておられる読者も多いことと思う。あのときは、国外からの激しい抗議にあって掲載雑誌の回収・廃刊という安易な対応がとられた結果、問題の論文[1]のどこがどのように間違っていたのか(実際にはほとんど徹頭徹尾デタラメだったのだが)が充分明らかにされることなく話題が収束してしまった。

そのせいか、いまだに「ガス室」の存在には何らかの疑惑があり、その解明を試みた論文がユダヤ人団体の「圧力」によって潰されたのではないか、というような誤解が払拭されずに残っており、そのような誤解に乗じてホロコースト否定論を広めようとする動きも消えていない。

私は、ひょんなことからこのガス室の存否をめぐって「フリージャーナリスト」木村愛二氏と約半年間に渡る論争を行うことになった。ここではこの論争の経緯と、この経験から私なりに学んだ事柄について報告する。

2.論争の経緯

事の発端は昨年5月、私が数年来購読してきたAML(オルタナティブ運動情報メーリングリスト[2])というメーリングリストに木村氏が参加してきたことにさかのぼる。AMLはその名前のとおり、様々な市民運動団体や個人が、一般マスコミでは報道されない各種情報を交換するための「オルタナティブな」媒体を提供することを目的としている。ところが、氏はAMLに加入すると、ただちにこれをホロコースト否定論を満載した自著やホームページを宣伝するための手段として利用し始めた。

AMLを貴重な情報源としてきた私にとって、米軍基地問題や日本軍性奴隷問題を追求する抗議声明や集会案内が日々流されているその同じ場に、こともあろうに史上最悪の大虐殺・人権蹂躙の事実を否定し、その免罪化を図るインチキ情報が流されるなどというのは、耐え難い苦痛以外の何物でもなかった。単にゴミ記事が流れてくるだけなら読まずに捨ててしまえばいいのであるが、例えばイラクへの空爆を非難し、アメリカの恣意的な中東政策を糾弾する記事(それ自体はまったく正当なものであるが)の間に、ホロコーストはイスラエルの政治的立場を有利にするために仕組まれた巧妙な嘘であり、イスラエルはナチス・ドイツ以上に悪辣なのだ、などと決め付ける主張が混ざり込むと、困ったことにそこには一定の奇妙なもっともらしさが生じてしまう。

これを放置しておいてはならない。一種の危機感に駆られた私は、この問題についてはまったくの素人(マルコポーロ事件後に出版された『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』[3]を読んだことがある程度)に過ぎない立場ではあったが、にわか勉強をしつつあえて反論を投稿し始めた。

昨年10月から始まったこのオンライン論争は、木村氏が最終的に論争の継続を拒否する(今年3月)に至って完全に決着が付き、氏が認めるかどうかはともかく、客観的には結論は明白となった。ただし、議論の内容そのものを繰り返すのは本稿の趣旨ではないので、興味を持たれた方は私のホームページ[4]に掲載してある論争記録を参照して頂きたい。また、この論争を契機として、ホロコースト否定論者たちの手口を徹底的に暴く情報ページ[5]を東京経済大学の山崎カヲルさんが開設されているので、そちらもご覧頂きたい。

3.ホロコースト否定論とは何か

ホロコースト否定論とは、ナチス・ドイツが約600万にものぼる膨大な数のユダヤ人をガス室その他の手段を用いて殺害し、ヨーロッパにおけるユダヤ民族の絶滅を図ったという歴史的事実を否定し、それは戦中から戦後にかけて捏造された嘘であり、巧妙に仕組まれた陰謀である、と主張する言説のことである。論者によって多少ニュアンスは違うものの、この「陰謀」の裏にはイスラエルがいるとする点ではほぼ共通しており、いわゆるユダヤ謀略説の一種と見なすことができる。(実は、ホロコーストの犠牲となったのは決してユダヤ人だけではなく、それに匹敵するほどの数の「忘れられた」非ユダヤ系犠牲者が存在した[6]。この点だけをとってもユダヤ謀略説など成立しようがないのだが、否定論者たちはこのような不都合な事実は一切無視している。)

ホロコースト否定論の起源はフランスやドイツの極右勢力に求めることができるが、現在その中心はカルト的言論に対する規制が緩い北米に移っており、特にカリフォルニアに本拠を置く疑似アカデミー組織IHR(The Institute for HistoricalReview)がその総本山的役割を果たしている。代表的論者としてはロベール・フォリソン、マーク・ウィーバー、ブラドレー・スミスなどがいる。彼らの主張と比較してみると、日本の否定論者は欧米の言説を直訳輸入しているに過ぎないことがよく分かる。

4.嘘とその見分け方

重大な歴史的事件の中でも、ホロコーストほど大量の証拠、証言(被害・加害両側からの)によって裏付けられ、戦争犯罪法廷の場や多数の歴史学者の研究によって繰り返し検証されてきたものは他にほとんど例がない。複雑で大規模な事件であるだけに解明すべき謎はまだ多数残されているものの、ナチスによるユダヤ人大量虐殺という事実そのものに疑問の余地はまったくない。否定論者たちもさすがに事実としてのホロコーストを正面から攻撃することの困難さは理解しており、従って様々なトリックを使って搦め手から攻めようとする。その戦術をひとことで要約すれば、一般人の無知につけ込む、ということに尽きる。

体験者でも専門研究者でもない我々にとって、ホロコーストは結局のところ「教えられた歴史」の一部でしかない。「アウシュヴィッツ」、「ガス室」、「チクロンB」といった断片的な知識は持っていても、絶滅収容所で用いられた殺人ガス室がどのような構造を備えており、ガス殺とその後の死体焼却がどのような手順で行われたのか、あるいは「殺虫剤」チクロンBがどのような毒性を持ち、なぜ大量虐殺手段として採用されるに至ったのか、といった細部についてはほとんど何も知らないと言ってよい。だからこそ、例えばフォリソンは「ガス室の設計図を描いて見せよ」というような突飛な要求を突き付けて相手の動揺を誘おうとする。否定論者たちがとりわけ「アウシュヴィッツのガス室」について語りたがるのは、その存在がいわばホロコーストの象徴として広く知れ渡っていると同時に、ガス室の詳細について知る者など専門家以外にはほとんどおらず、いくらでもごまかしが効くからに他ならない。

彼らの正体を理解した上で眺めてみれば、ホロコースト否定論なるものが断片的事実の上に嘘と歪曲と恣意的引用を積み重ねてでっち上げた疑似科学と似非歴史学の混合物に過ぎないことは容易に分かる。しかし、ホロコーストに関する専門的な知識がなくても、否定論の嘘を見抜くことは必ずしも不可能ではない。次に示す例を見て欲しい。

どこかで見たようなパターンではないだろうか? 例えば「ナチスの支配領域」を「南京」に、「600万ものユダヤ人」を「30万もの人口」に置き換えてみたらどうだろう? 「ガス室」を「日本刀」、「専門家」を「軍隊経験者」に置き換えるのでもよい。あるいは、「元親衛隊員」を「日本人戦犯容疑者」、「拷問」を「洗脳」に入れ換えてみたら? そこに出来上がるのは我々にもおなじみのプロパガンダではないだろうか。

歴史上の事件にまつわる真実は驚くほど多様であり、時として我々の想像力を遥かに上回る。しかし、嘘はいつも似通っている。それは、嘘をつく人間の卑小さを鏡のように正確に反映する。

5.なぜそれを許してはならないか

一部の反ユダヤ主義者や極右グループ内部の言説に留まっているかぎり、ホロコースト否定論など取るに足りない存在に過ぎない。「地球平面協会」の主張にいちいち目くじらを立てても仕方がないのと同様である。しかし、どれほど明白な歴史的事実でも、そのリアリティは体験者たちが減少し、教えられたこととしてしか知らない世代が増えるに従って必然的に薄れていく。そしてホロコーストに限らず、否定論者たちはこうしたリアリティの希薄化に乗じて過去を改竄し、歴史を自分たちの都合のいいように捻じ曲げようとする。

もしも、かつての朝鮮植民地支配の過酷な内実や、中国侵略に伴っていたホロコーストにも匹敵するような残虐行為が実は事実ではなく、巧妙な「反日宣伝」によって植え付けられた嘘だったとしたら日本人でいることがどれほど気楽になることか、これは容易に想像してみることができるだろう。しかし、どんなに魅力的に見えてもそのような歴史の改竄は許されることではない。どれほど醜悪で受け入れ難い過去であっても事実は事実として正確に認識し、その克服(取り返しのつかない行為をしてしまっている以上「清算」はもはや不可能であるにせよ)に努めなければならない。歴史に学び、同じ過ちを二度と繰り返さないことは、その歴史の果実を享受して生きている我々が理性ある人間として振る舞おうとする限り避けられない最低限の義務である。

だからこそ、ホロコースト否定論は絶対に許してはならない。それは、単にそれが誤った、愚かな妄説だからなどではなく、過去を改竄することによって歴史から学ぶ可能性を奪い、かけがえのない記憶を抹殺し、ついには未来を奪い去るものだからである。

周囲にユダヤ人の知人の一人もいない平均的日本人にとって、ホロコースト否定論はあまり深刻な問題には感じられないかもしれない。しかし、これが世界的に大きな勢力を占めるようなことになればどれほどの災厄が生み出されるか、それは「自由主義史観」を名乗る日本版否定論の脅威にさらされている我々の方が、むしろ容易に想像できるのではないだろうか。

6.否定論への有効な対抗手段

「真実は作り話より脆い」という言葉がある。実際、その場その場の口からでまかせで言いつくろえる嘘と比べて、ひとつひとつの資料事実に基づく実証によって真実を維持していくのははるかに困難な作業であり、また膨大なコストを必要とする。否定論は容易であり、その安易さゆえに何回論破されてもしぶとく生き残る。

では、このような否定論に対して、いったいどのように抗していけばいいのだろうか。ドイツやフランスでは、ホロコースト否定論のような反社会的言論を法的に規制するという直接的手段がとられている。しかし、このような手法は言論の自由という貴重な市民的権利と対立するだけでなく、思ったほどの実効性も得られていない。ホロコースト否定論をばらまくような人々は軽微な処罰など恐れないし、法的規制は「言論弾圧」にさらされる被害者という免罪符を彼らに与え、最悪の場合、法廷を彼らのための宣伝の場として提供する結果にさえなりかねない。

実は、今回の木村氏との論争において、私の主張を支えてくれたほとんどの資料は、インターネットを介して入手することができた。とりわけ、カナダ人のケン・マクベイを中心とするスタッフにより、ホロコースト否定論への反撃を目的として運営されているウェブサイト“The Nizkor Project”[7]は、詳細かつ豊富な資料を提供してくれている。ここには、ホロコーストに関する貴重な一次史料から否定論者たちが持ち出す各種論点への逐条的反論、主要な否定論者たちの正体に関する情報、更にはUsenetニュースグループ上で繰り広げられた彼らとの論争記録など、実に膨大な資料・情報が集積されている。また、同様な目的を持つもう一つのウェブサイト“The Holocaust History Project (THHP)”[8]も、否定論者たちがガス室否定の「証拠」と称して持ち出す疑似科学文献を粉砕する専門家による論文など、極めて貴重な資料を提供している。

私のような素人がホロコースト否定論の「プロ」に対抗できたこと自体、NizkorやTHHPの方針の正しさを示していると言える。謬論に対する反撃をその場限りのもので終わらせてしまうのではなく、他の心ある人々が再利用できる形で記録や資料を公開し、できる限り広く情報を提供していくこと、そのようにして次々と理性的な反論の輪を広げていくことが、例えば日本版否定論に対する反撃手段についても貴重なヒントを与えてくれているのではないか、これが今回の論争を終えての私の実感である。

最後に、有益な情報を与えてくれたこれらのサイトのスタッフの皆さんと、今回の論争に際して暖かい声援をお送り下さった方々に感謝するとともに、その死後半世紀を経た今もなお精神的暴力に晒され続けているホロコースト犠牲者たちの魂の平安を祈りつつ本稿を終えることにする。

(たかはし・とおる/ソフトウェアエンジニア)
*参考*
[1] 西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー ナチ『ガス室』はなかった」マルコポーロ1995年2月号
[2] http://www.jca.ax.apc.org/~toshi/aml/intro.html
[3] ティル・バスティアン著、石田勇治・星乃治彦・芝野由一編訳『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』白水社、1995年
[4] http://village.infoweb.ne.jp/~fwjh7128/genron/index.htm
[5] http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/index.html
[6] http://www.holocaustforgotten.com/index.htm
[7] http://www.nizkor.org/
[8] http://www.holocaust-history.org/


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