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カトリック教会の左傾化 (第1回)
「君が代」反対から「沖縄米軍基地」反対 そして環境問題
                             東京純心女子大学教授 澤田昭夫
                                (月曜評論平成12年5月号掲載)
         
  昨年12月初頭、関西の私的団体「カトリック学校の日の丸・君が代・
元号を考える会」から全国のカトリック系小学53校、中高208校、大学・
短大44校に「日の丸・君が代」反対の文集とアンケートが送られた。
反対運動の震源地は箕面の聖母被昇天学院の教諭だが、反対文執筆者には小樽、清瀬、川崎浅田、玉造などの神父、京都ノートルダム教育修道女会の修道女から松山や箕面の高校教師だけでなく、(反体制「韓統連」系の)「在日韓国民主女性会」大阪本部事務局長や「正義と平和協議会」(略称「正平協」については後述参照)東京本部事務局長そして大阪の松浦補佐司教と安田元大阪大司教、東京の森補佐司教が含まれている。実はこの反対運動はプロテスタントの日本基督教協議会
(NCC:後述参照)内靖国特別委員会とカトリックの正平協との合意、
了解済みの「エキュメニカル」(後述参照)運動の一環だった。
  因みに、このような運動に対して保守陣営からは、「やはりキリスト教は日本文化、東洋文化になじまない西洋宗教だ」という 慨嘆の声が漏れてくる。しかしキリスト教は本来ユダヤ・ヘブライ系のアジア的宗教として始まったもので、西洋宗教ではない。Annodominiを「西暦」と呼ぶのも誤りで、本来東西を越えた「主暦」と呼ばるべきものである。日本カトリックの反「君が代」、反天皇制運動は、反自衛隊、反「ガイドライン」運動と同じく、「反東洋」ならぬ「新左翼」運動なのである。教会のこの左傾化の由来を解るためには、先ず二十世紀全体についての世界史的理解が必要になる。

二十世紀の基本的性格
  二十世紀は神や超越存在を否定する啓蒙合理主義、唯物世俗主義、平等主義という、十八世紀のフランス革命で決定づけられた時代であ
る。超越神を否定し、その代わりに十八世紀は民族を、十九世紀は階級を神格化した。「お山の大将俺1人」とそれぞれに叫ぶ諸民族が争いあったのが二つの世界大戦であり、世界を舞台に広げられた民族主義の争いが帝国主義だった。1917−1945年という時代は、E・ノルテ(Nolte)がいうように、二つの全体主義すなわち共産主義(国際主義、階級主義、反自由市場経済)とナチズム(反共、民族主義、社会主義)の抗争の時代である。反自由画一主義と社会主義という点で類似するこの赤と茶の二つの全体主義の戦いが二十世紀前半の世界だった。
  この時代に関連していまだに流布されている大きな誤解は、戦前の
日本史はファシズムの一人舞台だったという誤解である。そもそも10年間に14回も内閣が変わった国にファシズム(団結主義)はありえない。そして舞台の主役は国際共産勢力で脇役が日本民族主義だった。日本の対鮮、対支、対満政策は膨張する赤い全体主義への儚い対応だった。
  アメリカが「太平洋戦争」と呼ぶ戦争にも、ソ連の画策がからんでい
た。駐ソ米国大使ビューリット(Bullitt)の国務省宛1935年7月19日付電報によると、日米戦争こそソ連が熱望しているところだった。そして、ルーズベルト時代のホワイトハウスが親ソ要員だらけのピンクハウスだったこ
と、大統領がいかにソ連願ったりの対日政策を展開させて日本を開戦
に追い詰め、ヤルタ会談によって戦後世界の赤化に寄与したかは最近公開の公文書で益々明らかになった。
  第二の誤解は、戦時中のいわゆる残虐行為が日本の専売特許だったとする誤解ないし歪曲である。それが歪曲である証拠は、連合国特にソ連、中国による日本人に対する無数の労働強制事件、残虐不法行為等、虐殺が事実として立証され得るにも拘らず沈黙のうちに葬り去られていることである。日本兵による残虐行為や捕虜虐待事件がなかったというのではない。しかし、それのみを取り上げて共産主義による残虐行為や国際法無視の違法行為について沈黙するのは全体像の歪曲に他ならない。クルトワ(Courtois)編の『共産主義黒書』によると、共産主義者たちによる1918年以来の虐殺人口総数は今日まで少なくとも八千万、恐らく一億にのぼっている。
  二十世紀前半の赤茶の抗争は茶の敗北、つまり赤の勝利で終わった。そして、二十世紀後半は勝った赤の膨張時代である。これを認知しないのが第三の誤解である。

右旋回から左旋回したプロテスタント教会
 プロテスタントにはルター以来、信仰は信仰、政治は政治と聖俗を分離する傾向があり、ナチスが政権を掌握するとそれに積極的に協力するプロテスタント「ドイツ・キリスト者」(Deutsche Christen)が生まれた。アクセントは「ドイツ」にあった。政治分布地図を見ると、ナチス支持の多かったのはプロテスタント多数の北と東で、カトリック多数の西と南でナチスは少なかった。プロテスタントに「告白教会」(Bekennende Kirche)といわれた部分もあったが、反ナチを標榜するものではなかった。ニーメラー牧師は戦後反ナチ抵抗者として英雄視されたが、彼は実は33年当時積極的にナチスを支持。ヒトラーとの個人的確執のゆえに38年に投獄はされたが、獄中では特別優遇され、39年には国防軍に従軍を志願していた。
ダハウの強制収用所に収監された2806名の聖職者の95%はカトリック、プロテスタントは4%だった。

  日本では多くの教派に別れていたプロテスタントは、昭和15年皇紀2600年の神嘗祭に青山学院に集まり、国歌斉唱のうちに皇運と大東亜共栄圏を奉祝し、「日本基督教」による教派解散と大陸伝道を誓い、翌16年公式に「日本基督教団」を設立し、聖戦の目的完遂のための宗教報国を誓った。アクセントは「日本」にあった。
  戦争直後の1945年、ドイツの「福音教会」が南ドイツのシュトットガルトで「罪責告白」を行ってから21年後の1966年、「日本基督教団」は「戦責告白」を行い大きく左旋回した。「日基」は中核派の教会幹部たちによって、天皇制反対、成田空港建設反対、部落差別反対、資本主義反対、靖国反対などのいわゆる「社会派」路線に乗せられた。1969年秋には
大阪万博(1970年)でのキリスト教館設置案に反対するゲバ棒、ヘルメット姿の牧師たちが大阪、東京で教団集会を「粉砕」した。
  ニケア・コンスタンチノポリスの「信仰告白」を尊重する「教会派」は
少数、それにたいして政治的実践に走る「社会派」が多数となった。これは、二十世紀後半世界の左傾化を教会において具現した姿だった。
(今日さいわい、信仰の基本を守ろうとする「教会派」の「福音主義連合」が少数ながら勢力を挽回しつつある)。

左傾化したエキュメニズム
  エキュメニズムとは、第一次世界大戦と前後して主にプロテスタントのなかで展開されたキリスト教諸教団の「教会一致運動」、「教会合同運動」のことである。1910年から1937年にかけて展開された「信仰と職制」
(Faith & Order)、「生活と実践」(Life & Work)、世界伝道協議会などの運動がその具体的表現であった。そこには、救世主キリストの福音を中心に一致し、世界的伝道に励もうとする空気があった。
  第二次世界大戦後のアムステルダムに147のプロテスタント諸教団代表が集まり、World Council of Churches(WCC)すなわち、ひとつの教会ではなく複数教派の連合体を結成したときは、まだ本来の宗教的息吹が残っていた。因みに、WCCに加盟する国別の教会組織はNational Council of Churches(NCC)といわれ、わが国では、先述の「日本基督教協議会」と呼ばれるようになっていた。
  ところでWCCは、アムステルダムの創立総会後、数年おきの総会を
重ねているうちに本来の宗教的方向づけを失い始め、わが国の用語でいえば、教会派から社会派へと旋回し始めた。1954年のエヴァンストン
(米国イリノイ州)総会では、「第三世界中心主義」(tiermondialisme)が、1961年のニューデリー総会では「社会変革」つまり革命が、1975年の
ナイロビ総会では「ゲリラ闘争」が、それぞれキーワードになった。ゲリラ闘争というのは、人種差別反対、反植民地主義、反帝国主義に名を借りた革命運動のことで、世界中の教会から300万ドルを募ってアフリカ諸国のゲリラや世界中の親ソ反米闘争を援助することになった。70年代、80年代の東ティモール独立解放ゲリラ運動もWCCの援助対象になっていた。
  銘記すべきは、ソ連政府の御用教会であるモスクワ大主教区がニューデリー総会以来WCCに参加するようになったこと、KGBのスパイでも
あったソ連のニコディム主教がWCCの変身に大きな役割を果たすようになったことである。彼は1968年ウプサラ総会の準備会議で「キリスト者は世界革命に参加せよ」と檄をとばしていた。米国版『リーダーズ・ダイジェスト』誌がWCCの現状を報告したエッセイに「マルクスによる福音」(The Gospel According to Marx)という表題を付したのも、むべなるかなといえよう(1993年2月号)。この間に世界伝道協議会は消滅した。伝道は植民地主義と同一視されたからである。
  エキュメニズムはカトリックとプロテスタントの協力、和解を促進するようになった。それは結構だが、左傾エキュメニズムは、カトリック教会の左旋回(特に70年代初頭以来)も助長するようになった。その間にカトリックで展開された「解放の神学」(後述参照)がプロテスタントにも受容され、天皇制反対のイデオロギーに発展させられ、それがカトリックに再輸入される。さような現象の顕著な例は、東京カトリック神学院で広められている栗林輝夫教授の『荊冠の神学:被差別部落解放とキリスト教』(新教出版)である。『カトリック新聞』と『キリスト新聞』も今や左傾のメロディで木霊しあっている。

第二バチカン公会議の「精神」による歪曲と左翼の浸透
  紀元四世紀のニケア公会議から数えて21回目のカトリック教会の世界会議「第二バチカン会議」が1962年から3年にわたってバチカンの聖ペテロ大聖堂で開催された。第二といわれるのは前回の会議もバチカンで1869年から70年にかけて開催されたからである。前回会議以降の90余年間に起こった世界と教会の情勢変化に対応するために教会が多様な内的、外的革新を必要としていた。
  この会議の美点といえば、そのような必要に答える「現代的順応」
(イタリア語でキーワードになったaggiornamento)がなされたことである。しかし欠点もあった。会議自体の欠点というよりも会議決定の歪曲による結果的欠点である。ひとことでいえば、分裂と世俗化である。それは一方では、民主平等の名による、万事における権威の否定、柔順心否定であり、他方では、それとも関係した、神的存在、聖なるものへの畏敬心否定である。
  この二つの否定を第二バチカン会議の「精神」と主張する進歩主義者たちによって分裂、世俗化された教会は「塩の味」を失い始めた。第二バチカン会議は、教会内部から引き起こされたフランス革命とも言われる。いわゆる「大学紛争68年世代」の反乱も第二バチカン会議後の混乱と世俗化に呼応するものだった。  
  この会議を混乱させ、会議の結果的世俗化を利用して自己の勢力拡大を謀ったのは共産勢力である。60年代当時は鉄のカーテンの彼方にあった東欧、中欧諸国のカトリック司教たちに、会議参加のための出国許可を与える代わりに、会議が共産主義批判を差し控えるという言質を予めバチカンから取り付けていたのがニコディムだといわれる。案の定、中南米を中心とする450名の司教が署名した10月19日の陳情書は、バチカンの高級官僚によって握りつぶされた。それは、「現代世界憲章」
なる重要文書案(1965年)に共産主義の危険に対する警告を挿入せよと陳情したものだった。
  フランスの著名な神学者で枢機卿のド・リュバックは、会議の内外での「危険な諸グループの存在と会議の攪乱工作」を指摘していた。最近一部公開されたミトローヒン(Mitrokhin)文書によると、リトアニア出身の複数KGB要員が60年代に偽装聖職者となってローマの神学校やグレゴリアナ大学だけでなく教皇庁の教会法改定委員会にまで侵入し、また教皇選挙人である枢機卿の有力者たちと接触を深めていた。
  同じ60年代にカトリック教会内に普及したのは、キリスト教マルクス
主義といえる「解放の神学」である。第三世界で生まれたと自称するが、実は欧州の進歩的神学者たちが捻出したこの「神学」は、「神」を忘れた人間解放の新左翼イデオロギーだった。今日世界中で教会左翼運動の源泉になっている「正義と平和協議会」(Commissio pro iustitia etpax)がさしあたり実験的にローマに設置されたのも同時代、1967年のことであ
る。「悪魔の妖気が神殿に入り込んだ」という教皇パウロ六世の有名な自責的発言(1972年6月29日)も、第二バチカン公会議の「精神」を騙る歪曲逸脱に言及したものである。
  因みに「解放の神学」の逸脱を憂えたローマはついに「自由のメッセージ」(1984年)と「自由の意識」(1986年)という指針を発表。前者はマルクシズムに根差す「解放」批判、後者は、神による「救済」に根差した「解放」評価の指針だった。正平協に毒された日本の司教団は後者を翻訳出版、前者を黙殺した。
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                                   < 次回へ続く >
著者 澤田昭夫のプロフィール
1928年ワシントン生まれ。1951年東京大学西洋史学科卒業。
コーネル大学修士。ボン大学文学博士。近代イギリス史、
ヨーロッパ史専攻。
南山大学教授、筑波大学教授、日本大学教授、
東京純心女子大学教授。
編・著書に『原典による歴史学の歩み』『ユートピア――歴史・文学・
社会思想』『論文の書き方』『論文のレトリック』『「ヴァチカンの道」に
「典礼と信仰の崩壊戦略」連載』等。

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