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愛の旅人

石川達三「青春の蹉跌」
»〈ふたり〉へ江藤賢一郎と大橋登美子―佐賀・天山

 小さなセミがかかった。網の真ん中でじっと獲物を待っていた雌のジョロウグモが目にも留まらない速さで跳びつき、セミを抱え込む。その背後で、数百分の一の体重しかない雄が、じりじりしながら交尾の機会をうかがっていた。雌の食事中、一瞬のすきを突いて接触、一目散に逃げ出す。でないと、セミの後のデザートにされてしまうのだ。求愛行動は命がけである。

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コガネムシを捕食中の雌ジョロウグモ。上に小さく写っているのが雄。天山中腹はクモだらけだった=佐賀県小城市小城町の川内で

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天山山頂には南北朝時代の武将・阿蘇惟直の墓碑が高々と立つ=小城市で

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佐賀の名物・ヒシの実の収穫が始まった=神埼市で

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 天山(てんざん)は標高1046メートル。佐賀平野になだらかなすそを引く秀峰である。その中腹、登山道の脇の栗林でクモの生態にいちいち感心していたら、奥の家から老人が出てきて、不審げな目を向ける。「このあたりで昔、殺人があったはずなんですが」と話しかけると、「人殺してや? 自殺ならあったばってんが」という。40年前の事件だ。地元の人ももう覚えていない。

 福岡市に住む深川和男さん(67)は先ごろ、自宅前にある古書店をたまたまのぞいていて、石川達三「青春の蹉跌(さてつ)」の文庫本を見つけた。懐かしく思ってつい買ってしまう。税込み105円。一気に読み通した。

 40年前の記憶がよみがえる。深川さんは当時、長崎放送の記者で、佐賀県警察本部の記者室に詰めていた。1966年の暮れに天山で起きた殺人は、在任中いちばん印象的な事件だった。

 2年余り後の69年4月、私は朝日新聞の佐賀支局で記者となり、最初に配属されたのが、県警記者室だった。そこで、深川さんら他の新聞社や放送局の先輩記者と出会うことになる。

 のんびりした時代だったかもしれない。新人記者は、長老記者の指示で、県警前の空き地でミミズを掘らされた。それを餌にウナギを釣るのだ。目の前に旧佐賀城のお堀が広がり、よく釣れた。記者室でかば焼きにするといいにおいが立ち上り、上階にあった電話交換室から「あんたたち、ウナギ焼いてるでしょ」と電話が入った。おすそ分けを持って交換室に駆け上がる。

 そんな席で必ず話題になったのがこの殺人事件。現場や容疑者を取材した記者が何人もいた。妊娠した女子大学生が、交際相手の大学生に天山登山に誘い出され、殺される。そして……。

 「それ、『青春の蹉跌』に似てますねえ」と私がいうと、「そりゃそうだよ。天山事件がモデルなんだもの」と教えてくれたのが深川記者である。

 「青春の蹉跌」は、68年の4月から9月まで毎日新聞に連載された。私はまだ大学生だったが、欠かさず読んでいた。主人公が同年代の学生で、また同時代を背景とした物語だったため、全くのひとごととは思えなかった。

 その小説のモデルになったらしい事件が起こった土地に赴任し、しかも、殺した方も殺された方もどうやら私と同年の生まれ。因縁めいたものを感じた。その因縁を37年後の今日に引きずって、当時の先輩記者を訪ね、天山に登ってきたのだった。

被告も記者も仰天の結末

 37年前も高い場所に登っていた。佐賀県警察本部の西隣、県議会棟の屋根の上だ。先客が1人いた。読売新聞の先輩記者である。10メートル先に、県警捜査2課の取調室の窓があり、収賄容疑で調べられている男の横顔が見えた。

 私のカメラには、35ミリの広角レンズしかついていなかった。先客は200ミリの望遠を構えている。カメラは同じニコンF。「あのー、そのレンズ貸していただけませんか」というと、「朝日の記者が、読売の記者にレンズを貸せっていうかねえ」と笑いながら、手渡してくれた。新人ということで、大目に見てくれたのだろう。

 それが、いまは佐賀県唐津市に住む畦間優(あぜま・すなを)さん(66)。記者室のウナギ調理人であり、勘の鋭い事件記者だった。天山事件でも、逮捕直前の容疑者の自宅に上がりこんで、同じこたつに入り、しみじみ語り合ったりしている。

♪  ♪  ♪

 「青春の蹉跌」が天山の事件をモデルにしていると聞いたとき、私はもう一つの新聞記事を思い出した。作家が自作に関係した土地を再訪するという朝日新聞の特集である。石川達三が、「人間の壁」の舞台・佐賀を訪れたというのを、確か読んだことがある。

 調べてみると、その紙面は68年4月30日付で、「三月二十六日朝、福岡の宿を出て、車で佐賀市に向かう」と書いてある。作家が天山の事件を知ったのはおそらくその時だったろう。

 「日本の法律のなかに、愛という字は一字もないよ。もともと男と女の愛というものは、理由のない感情なんだ……」。「青春の蹉跌」の中で主人公の賢一郎は登美子にそう語る。結婚するつもりは全然なく、それでいて肉体の関係だけは続けたいという身勝手さを正当化するため、いかにも法律を学ぶ学生らしい頭で考え出した理屈だ。

 人間はしょせん法律に支配される生き物だ。それなら、法律を操る側に回って社会の勝者となろうというのが、賢一郎の打算であった。

♪  ♪  ♪

 人間の情と法律とのせめぎ合いは、石川達三の「人間の壁」以来のテーマである。56年から翌年にかけて実際に起こった佐賀県教職員組合の争議をモデルにしたこの小説は、法律の改正で教師の行動と思想を縛ろうとする教育行政と、子どもたちを慈しむ先生の本能的な情動を対比して描いている。

 賢一郎の冷酷な人生観はやがて蹉跌する。つまり、つまずく。不意に悔悟の念にとらわれたのは、康子との内祝言(ないしゅうげん)の席、登美子を殺した翌日のこと。

 「あの女は平凡で通俗で、学問も才能も何もないが、おれを愛し尊敬していた。……そして献身的だった。生涯の妻としては康子より登美子の方が、ずっと良かったのではないかと思った。すると涙が流れてきた」

 人間のジレンマに触れた「青春の蹉跌」と、突発的にも見える天山事件の共通点は、実は少ない。主人公が大学生。相手が妊娠し、結婚を迫られる。マフラーで絞め殺した。それくらいか。小説の舞台は東京で、殺人現場は箱根。作者が3月に天山事件を知ったとして、同じ年の4月から連載を始めるのは、時間的にも無理がある。

 それでも、天山事件をモデルにしていることは疑いようがない。

 賢一郎の蹉跌は悔悟ですむようなものではなかった。登美子の胎児の血液型を調べた結果、賢一郎の子でないことがわかる。本当の相手は不明。

 「純情を装い誠実を装うて、まんまと彼を裏切っていた、あの女の純情づらが憎かった。もう一人の男の子をみごもりながら、妊娠を口実にして彼に結婚を迫った……。今こそ心から、登美子を殺したかった」

♪  ♪  ♪

 天山で殺された女子大学生の胎児の父親は、殺した大学生とは別人。そう明かされたのは、事件の1カ月後、佐賀地方裁判所で開かれた初公判でだった。弁護士の要求で、検察側が血液型の鑑定書を開示する。傍聴していた深川記者も畦間記者もびっくり仰天。

 いちばん驚いたのは、被告の大学生だった。その瞬間、「傍聴席に聞こえるほど“ああ”と深くため息をついて両手で頭をかかえた」。畦間記者が、40年間大切に保存している読売新聞佐賀版の切り抜きにそう残る。

 大学生に同情が集まり、2回目の公判は同級生で満席と、これも畦間記者の切り抜きにある。懲役8年の刑が確定したのは、石川達三が佐賀を訪ねる4カ月ほど前だ。「模範囚として服役、早期に出所」と、これは深川記者が記事にしなかった取材記録である。

 天山の頂上は昼飯時になって続々と人が登ってきた。夫婦連れが目立つ。60歳前後、私と同年配が多い。天山事件の男女も同じ年代だった。こうやって仲よくここに登ってくるという人生の選択もあったはずなのにと思う。

文・穴吹史士 写真・白谷達也
(11/04)
〈ふたり〉

 学園紛争で騒然とする60年代の末、貧乏学生の江藤賢一郎は、資産家の伯父から学資の援助を受け、司法試験を目指している。左翼運動に走る友人を冷ややかに眺めながら、自分は理想主義のワナには落ちない、社会の勝ち組に回るのだという現実的な人生観を貫き、試験に合格する。

 賢一郎の前途が洋々と開けるのを見て、伯父が娘の康子との縁談を持ちかける。気位が高くて人を見下すような康子を好いていたわけではないが、結婚がもたらすであろう経済的安定に、賢一郎とて異存があるはずはなかった。人生は設計図通り、成功と栄光へ向け、着々と突き進んでゆく。

 一方で、かつて家庭教師をしていた娘、大橋登美子と肉体関係を重ねていた。登美子に対しても愛情はなく、若い欲望のただのはけ口に過ぎなかった。しかし、登美子は妊娠、それを理由に結婚を迫る。中絶が可能な時期は過ぎていた。露見すると康子とは破談。進退窮まった賢一郎は、周到にアリバイ工作をしたうえ、登美子を箱根に連れ出し、首を絞めて殺す。

 ブラジル移民を描いた「蒼氓(そうぼう)」で35年に第1回芥川賞を受賞、社会派作家と呼ばれた石川達三(1905〜85)らしく、社会と個人のかかわりに踏み込んだ犯罪小説である。



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