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東京都青少年健全育成条例改正についての意見書

投稿者:miyadai
投稿日時:2010-03-17 - 07:51:00
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
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東京都青少年健全育成条例改正についての意見書
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                         2010年3月15日
                             宮台真司


 私は大学で社会学を教える東京在住の大学教員で、3歳と0歳の女児の父親でもある。映画批評や音楽批評や漫画批評に長らく関わってきた者として、今回の条例改正、とりわけ非実在青少年に関わる非罰則規定(第七条 二)について意見を申し上げたい。

第七条 二 年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの(以下「非実在青少年」という。)を相手方とする又は非実在青少年による性交類似行為に係る非実在青少年の姿態を視覚により認識することができる方法でみだりに性的対象として肯定的に描写することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの

【個人的保護法益と無関連な表現規制】
 法律や条例(あわせて法的規制と呼ぶ)にはそれによって保護される利益(保護法益)がある。保護法益が明瞭でない法的規制は無意味であるだけでなく、運用の恣意性を招いたり社会成員の行動や態度の萎縮を招いたりしかねないので、認められない。
 保護法益には個人的法益と社会的法益がある。個人的法益は個人の人権を侵害するか否かに関わる。実在する青少年の性行為や性体験を描くことは、性交合意年齢以前である場合は因より、13歳以上18歳未満の青少年においても個人的法益の侵害を生みやすい。
 日本も批准している子供の権利条約に従って子供や青少年に自己決定権が認められるとしても、自己決定権の行使に必要な尊厳(自己価値)を保全すべく、尊厳を脅かしかねない危険な行為から子供や青少年を隔離することは、子供の権利条約の精神に反しない。
 実在青少年が映画やビデオやゲームなどに出演ないし登場して性行為や性体験をすることは、成人が同行為や体験を行う場合に比べて、後に本人の禍根を残すような錯誤である蓋然性が高いと推定されるのであり、これが規制されるのは合理的である。
 しかるに、非実在青少年の性行為や性体験の描写については、実在青少年とは違って、これによって尊厳を侵害されることを通じて自己決定権を脅かされるような当事者は、存在しない。その意味で、非実在青少年に関わる描写の規制は個人的法益とは無関係である。
 非実在青少年の性行為や性体験を描写した表現によって、衝撃を受けたり、不快を感じたりする蓋然性については、受け取り方の個人差が大きい以上、表現規制ではなく、ゾーニング規制によって対処すべきであり、非実在青少年に関わる表現規制は不要である。

【表現ではなく受容環境の問題】
 個人的法益とは別に社会的法益の概念がある。社会的法益については、これを社会成員間の人権実現の両立可能性や人権実現の共有財(共通の基盤)を保護することを旨とする人権内在説の立場と、人権に外在する秩序の利益があると見る外在説の立場とがある。
 近代社会が成熟するにつれ(上からの近代化が不要になるにつれ)、秩序の利益として人権実現の両立可能性や共通基盤に関わるものを焦点化するリベラルな社会に変化してきた。社会成員への暴力とは無関係な秩序の利益の提唱に慎重たらざるを得ない所以である。
 社会成員間の人権実現の両立可能性や共通基盤を保全するという意味での社会的法益から見た場合、非実在青少年に関わる表現規制が如何なる意味で社会的法益の保護に資するのかが不明瞭であり、社会的法益についての一定の思い込みがあると推定せざるを得ない。
 どんな思い込みがあるのかをさらに推定してみることにしよう。最もありそうな思い込みの一つは、実在青少年の性行為や性体験が望ましくないのだとして、非実在青少年の性体験や性行為を描いた表現がそれを奨励し誘発するのではないか、というものである。
 暴力・性表現が暴力・性行為を誘発するとの立場を、マスコミ効果研究で強力効果説という。これに対し、素因を持つ者の行為の引き金を引くに過ぎない、あるいは一定の社会関係に置かれた者に対する誘発機能を果たすに過ぎないとの立場を、限定効果説という。
 後者から見ると、対人ネットワークの有無が、マスコミ効果を左右することが知られる。具体的には、家族や仲間と一緒に受容する場合、また事後に家族や仲間と内容について話し合う場合、マスコミ効果が中和されることが知られる。このことの含意が重要である。
 その含意は、メディア表現自体を規制するのでなく、メディア表現に接触する機会自体を制御することを推奨するものである。即ち子供が単独でゲームやビデオに接触し、あるいは接触した後に誰ともそれについて話し合わないような環境を、問題視するものである。
 これを踏まえて前者について言えば、子供が対人ネットワークによって保護されないままメディアと直接的に向かい合うような環境の継続こそが、素因を形づくるのではないかと見做す。ここでも素因の制禦は、対人ネットワークに関係づけられている。
 今日では、モノではなく関係性を、即ち、表現自体ではなく表現の受容環境を、制御することの重要性が広く認識されている。受容環境の制御が困難であるがゆえの次善の策として表現規制を持ち出す道理があり得るが、今回の条例改正はかかる道理を採っていない。
 こうした次善の策が適切か否かは、実際に受容環境の制御に関わる行政的施策がどれだけとられているかによって異なる。次善ならざる最善の策についての施策を放置したまま、次善の策に飛びつくのであれば、これは行政的怠慢の尻拭いに過ぎないというべぎである。

【社会的意思表示機能を評価する場合のバランス】
 もう一つあり得る思い込みは、表現の登場人物が実在しようがしまいが、一定の行為や体験が許容されないことについての社会的意思表示として、そうした行為や体験を描いた表現を規制することが意味を持つのではないか、というものである。これについて述べる。
 法理学の世界では、刑事に関わる(刑事罰を伴う)法律や条例は複数の機能を果たすとされる。第一は抑止機能。第二は感情的回復機能。第三は社会的意思表示機能である。第一と第二はとばして第三について言えば、集合体全体としての規範的意思の表明にあたる。
 こうした集合的な規範的意思表明という点から見れば、非実在青少年を登場させる表現の規制は、表現の登場人物が実在しなくても、あるいは今回の条例改正案のように罰則規定がなくても、単に無意味だというわけにいかない。むしろ一定の合理性があるだろう。
 しかし話はそれでは済まない。複雑な社会システムにおける合理性は、その複雑さに應じて多様な物差しで測られるべきである。非実在青少年を登場させる(視覚的)性表現が許されないというのであれば、従来一流とされてきた漫画作品の多くが許容されなくなる。
 ここでは一流か否かに焦点があるのではない。非実在青少年を登場させる性表現を通じてしか描けない大人や社会についての批判的描写があり得るということである。そうした描写が村上春樹の最新小説には許されて、漫画作品には許されないのは、不合理であろう。
 ことほどさように、非実在青少年を登場させる性表現の規制は、社会的意思表示機能を果たす「だけでなく」、社会の文化的な豊かさを支える表現を不公正に萎縮させる機能「をも」果たす。この場合、社会的意思表示機能を担う代替的行為があるか否かが問題になる。
 青少年の性行為や性体験に関する社会的意思表示機能について言えば、ことさらに非実在青少年に関する表現を通じてしか社会的意思表示ができないわけでは因よりない。むしろ社会的意思表示は、条例を改正するまでもなく本条例において遂行されてきたと言える。
 あり得る反論の一つは、非実在青少年を登場させる露骨な性表現が許容されていること自体が期せずして社会的意思表示になりかねないとの危惧に関わるものだ。この危惧は故なしとしない。だがこの危惧への対処が、表現規制でなければならない必然性はなかろう。
 先に触れたが、表現規制でなく、厳格なゾーニング規制(表現に接触可能な人・時間・場所の制限)を施すこと自体によっても、こうした社会的意思表示の機能を果たし得る。であれば、表現規制がもたらし得る副作用を回避しつつ、果実を獲得できることになろう。

【表現規制が一般に伴う運用恣意性の危険】
 最後に、性に関する表現規制に伴いがちな運用恣意性に関する危惧について触れる。私はかねて猥褻物頒布を禁じる刑法175条に異論を唱え、この立場から国会や裁判所などで幾度も意見を述べてきた経緯がある。これを再説し、一部追加的な論点を記すことにする。
 社会学的にいえば猥褻なるものは物の属性や実体ではない。寝室でなされる夫婦の営みは猥褻行為ではないし、学会でスライド映写される局部は猥褻物ではない。猥褻物についていえば、それが猥褻物として機能するか否から社会的文脈次第だと言わねばならない。
 加えて、猥褻観念は、非性的であるべき空間や関係や対象に性的なものが持ち込まれ当てがわれる場合に生じる性的感情に関係するが、どんな社会的文脈がどんな性的感情を惹起するかは人それぞれであり、かつ感情それ自体が制御や裁きの対象になってはならない。
 それは東浩紀氏の意見書が述べる近代社会の原則そのもの--外形に現れる行為のみを裁くのであって内面は断かない--に関係する。かように重大な事柄であるがゆえに、近代国家の多くでは、猥褻規制という表現規制でなくゾーニング規制が採用されてきたのである。
 これは憲法上は幸福追求権に算入されることになったが、見たくないものを見せられないで済む権利(子供に見せたくないものを親が見せないで済む権利)、一言でいえば「不意打ちを食らわない権利」を実現するための方策が、ゾーニング規制だと考えられている。
 加えて、何が猥褻(物)であるか--劣情を催させるか否か--の判断が恣意性の危険を伴うことも、表現規制でなくゾーニング規制が推奨されるべき理由になる。ゾーニングにも同じ恣意性が伴うが、表現規制に比べれば明らかに副作用が少ないからである。
 表現規制の最大の危険は、何が表現規制の対象になったのかが、表現規制ゆえに市民によって検証できなくなるところにある。ゾーニング規制の恣意性は市民による検証(による異議申し立て)の対象になるが、表現規制はそうした回路を切断してしまうのである。

【描写対象が非実在青少年であることによる危険の増幅】
 以上のようなことはすでに各所で述べてきたところであるが、今回の条例改正案にある非実在青少年に関わる視覚表現の規制が固有にはらむ問題について若干補足しておく。実在青少年に比して、非実在青少年に関わる視覚表現は年齢判断の恣意性が極度に高まる。
 設定上は成人なのに青少年にしか見えない登場人物もあれば、青少年という設定で成人にしか見えない登場人物もある。これらの場合、設定がポイントであるのか、青少年に見えるかどうかがポイントであるのかが、判然としない。これは重大な疑義につながり得る。
 日本の漫画やアニメの文化が世界的に受容されてきた背景の一つは、欧米の漫画やアニメと違って、設定が成人か青少年かに関係なく、キャラクターが「未成熟でカワイイ」ところにある。かかる文化的特性ゆえに、非実在青少年に関わる規定は問題をはらみやすい。
 設定が問題だというのであれは、極端な話、漫画の冒頭部分に「これは成人の登場人物によるコスプレごっこです」と断り書きすれば済むことになり、因より意味をなさない。見え方が問題だというのであれば、成人の性を描いた作品の多くさえNGになってしまう。
 法律や条例の立法を考える場合、わかりやすいケースではなく、こうしたわかりにくいケースがもたらす行政的裁量の恣意性を問題にせねならない。とりわけ今回の非実在青少年に関わる規定においては、わかりにくいケースは例外的どころかむしろ通常的たりうる。
 行政的裁量の恣意性を市民が常々監視しやすい条件を整えておくことが肝要である以上、非実在青少年を登場させる表現についての表現規制は極めて危険なものだと言わねばならない。かかる危険を賭してまで非実在青少年を問題視すべき合理的理由は存在しない。