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浅田真央の表現力とは2010.03.07 Sunday
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バンクーバーで銀メダルを獲得した浅田真央の芸術性、表現力というものを感じ取れない人が、私には気の毒でならない。
フィギュアが採点競技であり、五輪が国同士の代理戦争であると考える人がいる以上、メダルはほぼ政治力で決まる。演技構成点とGOEという客観性のカケラもないもので、基礎点をほぼ無意味なものにして、あれほど素晴らしいプログラムを、安っぽいスカスカのプログラムより劣ると決めつけた愚かで恥を知らないジャッジたちによって、フィギュアはここまで犯されてしまった。
しかも日本のマスコミは、「鐘」を理解できないせいで、曲の選択を間違っていたかのような書き方をし、彼女がここまでくるのにどれほどの絶望と苦しみを乗り越えてきたのかをまったく無視して、銀メダルに賞賛すら贈ろうとしない。
この3年間、ルールは浅田と安藤の弱いところを徹底的に突いた。彼女たちはルールが変わる度にそれに合わせて修正を余儀なくされ、3−3のジャンプを捨てるしかなくなった。それをきちんと書いた新聞があっただろうか。
浅田の3Aが確実性を増すごとに、タラソワによって彼女の表現力が飛躍的に伸びたのを見るごとに、ジャッジたちは「まったくジャンプ構成が変わってもいないし、飛躍的に完成度が高まったわけでもない」選手の得点を、どんどん上げていった。客観性のカケラもない(しかもジャッジを匿名性にまでして誤魔化すという念の入りよう)、演技構成点と加点というものをフルに利用して。
浅田選手に、「いくらがんばっても無理」と思わせるには充分の点数。それを彼女に突きつけたのだ。それは、「五輪でのあんたの金メダルはないから」と言ってるも同然だった。
そのときに何よりも愚かだったことは、日本のスケート連盟がこの銀河点を「受け入れた」ことだ。
数か月前の演技と何ら変わっていない、フリーではいつものようにジャンプミスもした。なのに点数だけが飛躍的に伸びたのだ。
それについて、腰抜けの日本のスケ連は抗議をしなかった。それどころか、そのときにスケ連がしたことは、浅田選手に対しての200点超えの厳命だ。アホでしょ、もうとんでもない、どあほう!
そのときにタラソワは決心したんじゃないかと思う。
採点法に見合ったプログラムを作り、浅田のファンが期待するような透明感のある曲を使ったところで、絶対に勝ちはないことに。特定の選手だけに与えられるあの異常な加点を日本のスケ連が認めてしまった以上、それとはまったく逆のものを作らないことには意味がないと。
それはとんでもない挑戦だった。
そして、まだ19歳の浅田真央も、その挑戦の意味をしっかりと理解していたのだ。
理不尽なルールに3年間翻弄された彼女は、滑ることでそれを表現していた。
上っ面のポーズや、あらかじめ決められていた表情ではない。
彼女の内から溢れるもの、音楽と見事に寄り添い、身体全体を使って表現していた。
あんなに素晴らしいプログラムを滑れる選手を誇りに思うこともせずに、1位の人よりも一段劣るかのような書き方までする。
どうかここを見てくださっている方だけは、そんなマスコミの言うことなどに惑わされずにいてほしいです。
以下のブログは、芸術というものを知っている方の素晴らしい浅田真央論です。
ぜひお読みください。
作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへの一筆箋
福山知佐子のブログ 見ること、瞬間の脆弱
Risa's 音楽雑記
尚、この日記に関してはコメントは受け付けません。言いっぱなしです。(コメントに煩わされたくないので)ご理解ください。
また一部、加筆修正いたしました。(3/7、21:30)