第8章 プログレ・ハードと産業ロック

1.アメリカのロック事情
 
70年代後半になると、アメリカではエアロスミスとキッスを核に、ハードロック・バンドは続々とニュー・バンドがデビューしたが、クラシック・ミュージックを基礎とした、複雑で難解なプログレッシヴ・ロックはアメリカの国民には理解できないのではないかと思われていた。現にアメリカのバンド達は、みな一様に明るくポップで単純(悪い意味ではない)なものが多かったし、イエスやジェスロ・タルなども、アメリカではハードロックへ分類されていたのだから・・・。それがアメリカの国民性と言えばそれまでだが、アメリカでももちろんクラシックを聴く人もいれば、オペラへ通う人だっている。理解できないのではなく、好きな人が少なかっただけなのだ。それゆえプログレというカテゴリー自体が、あまり浸透しなかったと言えよう。
 しかし、早くからプログレ的なアプローチで注目されていたアーチストもいることはいた。75年に登場したジャーニー(左写真)やボストンは、共にハードロックに独特のスペイシーな味付けを施し、他のアメリカン・ハードとは一線を画していた。70年から活動していたスティックスもまた、75年にプロコル・ハルムやジェスロ・タルの仕事をしていたマネージャーを採用したことで、徐々にサウンドが変化し、プログレ的なエッセンスとポップ・センスをうまく融合させ大成功してゆく。後には、これらアメリカから出たプログレ・テイストのサウンド・スタイルを、アメリカン・プログレと呼ぶようになった。

2.プログレ・ハードとでも形容したくなる異端児
 上記のバンド達とは別に、アメリカではほぼ時を同じくして、クラシカルなファンタジックさと、転調、変拍子、複雑な曲構成などを特徴とするカンサスと18世紀文学における宇宙崇拝思想をドラマ仕立てに表現したカナダの3人組ラッシュ(右写真)の出現によって、しだいに本格的なプログレ・サウンドも認知されだした。カンサスは、77年「永遠の序曲」(Leftoverture)を全米アルバム・チャート5位に送り込み、ラッシュは76年〜78年スペース3部作と呼ばれるアルバムを3枚連続でリリースし話題となった。
 だが、彼らの生み出すサウンドはかなりハードで、やはりヨーロッパのプログレとはどこか違っていた。そのため、日本やヨーロッパでは、本家の純然たるプログレとは区別するため、それらをプログレ・ハードと呼んでいる。当然のことながら、アメリカではそういった区分けは存在しない。

3.AORブーム
 イギリスと違って、音楽市場が席巻されるほどパンクの影響を受けなかったアメリカでは、70年代も末期に近づくにつれ、より自然な流れの中でロックがポップ化していった。また70年代半ばから流行し始めたクロス・オーヴァー・サウンドのテイストもこれに加わり、お洒落で都会的で洗練されたポップ・ロックが誕生した。特に日本では、当時カフェ・バーというカクテルを中心とした、こ洒落た飲み屋が大流行していて、そのバック・ミュージックにピッタリだったこともあり、これらの音楽は一大ブームとなった。そこで日本では独自にこれらの音楽をAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)と呼び、他のロックと差別化した。ちなみに本国アメリカでは、アダルト・コンテンポラリー、または中庸という意味のMOR(Middle of the Road)と呼ばれ、ジャズやポップ・ミュージシャンなどとゴチャ混ぜになっている。
 AORの火付け役となったのは、76年にアルバム「シルク・ディグリーズ」を全米2位に送り込んだボズ・スキャッグスで、スティーリーダンで活躍していた後のTOTOのメンバー達をバックに起用して、次々とヒットを連発した。日本では、78年に現れるミスターAORことボビー・コールドウェル(左写真)によってピークを迎え、その後80年代初頭までブームは続く。

4.最後のギター・ヒーロー
 これまでロックの進化とともに、さまざまなギター・ヒーローが登場し、そのテクニックと早さを競ってきたが、その究極とも言える1人の革命児によって、ギタリスト花形時代は終焉を迎える。そのギタリストとは、ライト・ハンド奏法でロック界のみならず全てのギタリストに衝撃を与えた、エドワード・ヴァン・ヘイレン(右写真)だ。メジャー・デビュー前から、すでにこの奏法を編み出していた彼は、マネされないようにライヴでは後ろを向いてギターを弾いていたという。78年に彼が率いるヴァン・ヘイレンがセンセーショナル・デビューするや否や、あっという間にバンド自体もビッグ・スターになり、ライト・ハンド奏法も瞬く間に広まった。しかし、彼らはまたハードロック最後の大スターでもあり、サウンド自体は極めて古典的で、出現自体がその後のヘヴィ・メタル・ブームを予兆するものでもあった。

5.あまりにも売れすぎたバンド達への皮肉
 70年代末期になると、ロックはますますポップ化の道をたどり、それまでのロックの常識を越えたシングル大ヒットを連発するようになっていった。中でもデビュー以来、なかなか芽が出なかったテクニカル集団ジャーニーは、リーダーである若き天才ギタリスト、ニール・ショーン(g)の才能に惚れ込んだマネージメント・オフィスやCBSレコードが、試行錯誤を繰り返しながら一丸となって彼らをサポートし、ついに77年の「インフィニティ」でプラチナ・ディスクを獲得。それを起に出世3部作と呼ばれる「エヴォリューション」(全米20位)、「ディパーチャー」(全米8位)も驚異的なセールスを記録し、81年には「エスケイプ」で念願の全米制覇を成し遂げる。また、スタジオ・ミュージシャンが集まって結成されたTOTO(左写真)も同じ頃に大ヒット・シングルを連発し、大成功を収めていた。しかし、こういったポップ・チャート上位にシングルを何枚も送り込むようなやり方は、本来のロックのあるべき姿ではないとする、古典ロック好きジャーナリスト達は、彼らのことを「産業ロック」と言って非難した。
 彼らはともに、AORっぽいバラードをアルバムに数曲ちりばめ、シングル・ヒットを狙って成功していたが、この手法はロック・バンドがビッグ・セールスを記録するためのよい見本となり、後続のロック・バンド、とりわけヘヴィ・メタル系のバンド達に多大なる影響を与えた。