歴史と日本人―明日へのとびら―

日本という国は、悠久の歴史を持つ国である。 この国に生まれた喜びと誇りを胸に、本当の歴史、及び日本のあり方について考察してみたい。 そうすることで、「明日へのとびら」が開かれることだろう。

(小説)ところで、写真について 3

 先日友人が死にました。事件により殺されたのでした。そこで葬式の場で、どうして早く逝ってしまったのですかとまるで急病で亡くなったかのような弔辞を述べている方がいて強い違和感を感じました。殺されたのだからそんなこと遺影に向かって言っても「わからない」としか故人も答えられないだろうに、かわいそうにと思いました。また友人の早すぎる死を号泣して嘆き悲しむ人たちはおかしいのではないかと内心思っておりました。なぜなら私には全く実感がなかったからです。今でもありません。また会えそうな気がしてなりません。どうして涙が出てくるのでしょう。そんなに小利口に人の死を悟れるのでしょうか。そう思って見回すと誰もがドラマのワンシーンを演じているかのように胡散臭く見えてくる。みんな嘘つきなのではないか。

 これも愚かなように言ってしまいましたがあるいは皆自分が実感がわかないことに痛く戸惑っているのではないか。戸惑いと自分の言いようのない感情を表現できずに、悲しみを演じることでそれを紛らわしているのではないか。だとすればやはり未熟者は私の方でしょう。

 しかし結局未熟者はどちらなのか、これもわからないままなのです。

 私は一粒も涙を見せませんでした。最後のお別れにもかかわらず平然としている自分に絶望したりもしました。

 帰りの飛行機の中(飛行機でいったのです)で飛行機が上昇し、雲を突き抜けて眼下に雲を見るようになってようやく悲しみと涙が出てきたのです。あいつがたびたび口にしていた故郷が小さくなり、そして雲まで突き抜けても、どこにもあいつはいなかった。現代の科学技術は雲の上から見守ってくれているという幻想さえ破壊してしまった。あいつはどこにいなく、天国なるものさえなかった。まるで最初からいなかったかのように一度もあいつに会えなかったことだけが残ったのでした。

 あいつと二人で撮った写真が一枚だけ残っています。今見ると私の方が異常に大きく見えます。これはお互いの遠慮から、二人並んで撮ったのに実は私の方が前にせり出しており、ただでさえ細い奴が後ろにいたので、遠近法の関係で私の方が二倍は体積を持っているのではないかというような仕上がりになっています。男女の微妙な距離感がそうさせたのです。あいつはみんなともそのような写真を撮っていたのですから気にする必要はなかったのですが、それでも遠慮に遠慮を重ねてあえて真横に並ばなかった二人は、別の写真を貼り合わせて合成したかのようです。私の後ろめたさがそうさせたのです。私のような人間は、彼女の隣にいるべきでないというつまらない自意識があったのだと思います。

 時に撮られることを意識していても撮られたくない何かが入り込んでしまうこともあるのだなと思いました。

 こっちに帰ってきた後ふらりと下りたこともない学芸大学の駅で降り、開店すぐのてんやで早すぎる昼飯をとり、ブックオフに当てもなく寄りました。そこで重松清の『疾走』をみつけました。あいつは明るくて誰からも好かれていましたが、こういう本も読んでいました。あいつは私に「先輩は読まないでください、死にたくなるから」と言っていました。私は愚かにも言いつけを守って読んでいなかったのです。いやそんな言いつけがあったことさえ、私はその本を見つけるまで忘れていたのでした。もちろん買って読みました。これを読んで私が死ぬとでも思ったのでしょうか。なんだか見くびられたような気持ちにもなりました。

 お前はおれのことを全然わかっていない、それともお前もあのくだらない世間並みの人だったのかい、と罵る相手もなくつぶやいて、私は『疾走』を本棚の手の届きにくい、もう二度と触れないのではないかと思うような奥の奥にしまいこんだ。

(了)

(小説)ところで、写真について 2

 人に迷惑をかけないなどと言いながら、どうして簡単に人は自分の価値観を押し付けてくるのでしょうか。どうしようもなく馬鹿で、信じがたいくらいに無頓着なのです。自分が人に迷惑をかけているなどとこれっぽっちも思っていないのです。私は迷惑をかけていることを自覚しています。自覚しながら、無頓着で凡庸な人間にいら立ってあえて反抗して見せたのでした。しかし彼は気付きもしてないのではないでしょうか。自覚もないのではないでしょうか。そこにいら立つのです。「理不尽なところもあるが世間体に従いなさい」ではないのです。それですら許しがたいのですが、それにすら到達していないのです。

 高校時代ということで思い出しました。高校三年の時、先生は「戦争をなくすにはどうすればいいか」ということを作文のお題として出しました。その答えの中である善良な女子生徒が「武器をなくせば戦争にならない」などと滔々と述べていたのです。私は驚愕しました。なんという薄ら馬鹿が、仮にも進学校とされる高校に巣食っていたものだと。武器! そんなもの世界のどこにでも転がっているのです。銃がなくなれば刀をとり、刀がなくなれば棒きれをとり、石をとり、しまいには己の拳で殴りあうのです。武器をなくすには全人類手足を切断せねばなりますまい。それを主張するなど、大胆不敵すぎて私には到底思いつかないことでした。

 戦争をなくすのは簡単です。人類を滅亡させればよいのです。あるいは生命体をすべて焼失させればよいのです。しかしそんなことをしてもしょうがないではありませんか。戦争ともおりあって生きていくよりないのです。人の命は地球より重いと言いながら、飢えで死んでゆく子供たちを差し置いて自分が飯をたらふく食っているのが人間です。あるいは命は大事だと言いながらゴキブリは殺して! と絶叫し、獣肉をむさぼり、それでいて飼い犬の死には自分の家族の死と同等に嘆き悲しんでしまうのが人間です。矛盾しているが、そうとするより仕方ありません。それに気づかない方がおかしいのです。

 ここまで書きながら私は不思議な気持ちになってきました。周り全部が馬鹿であるかのように書いてきましたが、本当にそうなんだろうか、と。そんなわけないではないか、と。周りの人は既存の価値観の欺瞞を知りながらあえてそれに従っているのではないか、と。あえて従っているのだとすれば餓鬼で愚かなのは私の方でしょう。そのようにも見えます。しかし結局のところどちらかわからないのです。

(続)

(小説)ところで、写真について

 私にはわからないことがいくつかあります。そのひとつに世の人が共通に思っている「常識」なるものがわからないのです。世間では「常識」と思われているであろうことが私にはいたく不可解で、理不尽なものにしか思えないのです。それに気づいたときに私は自分の心以外の何物にも従わない決意をしたのです。

 集合写真という奴はどうしてああも嘘ばかりなのでしょう。撮られるものが皆撮られることを意識していながら、それでいて虚構の自覚がないあの空間は異常ではないでしょうか。私はあれが大嫌いです。

 旅行なんかで「思い出」と称してどうして写真など撮りたがるのでしょう。本当に後々まで語り合うほどの記憶ならば、写真など必要としないのではないでしょうか。結局大したことのない記憶だからこそ人は写真を撮るのです。でもなければ撮られることを意識していない日常をおさめるべきでしょう。

 高校の修学旅行の時、友人と喧嘩をしました。私の高校の修学旅行は班が完全に分裂しました。もちろん私とそれ以外です。
 もめごとは空港から起りました。私は何を持っていたのか忘れましたが、薄いプラスチックのようなもの、定期券のような、飛行機の乗車券だったでしょうか、そういうものを手に飛行機の搭乗待ちをしていたのでした。私はせっかちで退屈が嫌いなものですからその乗車券をかぱかぱやってずっとイライラしておりました。
 すると班長が、「それやめよう」とあろうことか私に指図してきたのでした。私は無言で彼を見つめ、五秒間の沈黙の後またかぱかぱを再開しました。乗車券でかぱかぱ音を立てることよりも人に口出しする彼の方が迷惑でしょう。彼はその後私に空港で「班の写真を一枚撮ろう」と言い出したのでした。もちろん私は身の毛もよだつ思いでそれを拒否しました。すると彼は数秒私をみて、「とろう」ともう一度言ったのでした。私は無言で聞こえないふりをして、かぱかぱやり続けたのでした。

 おそらく世間的に非常識なのは私の方でしょう。しかしなぜ私の方が非常識なのでしょうか。人に迷惑をかけないという観点からいえば、私は彼の言動に充分迷惑しているのです。口もききたくもなければ視界に入るだけでも不愉快なのに、同じ方向をにらんでじっとしてろなどと、狂気の沙汰ではないでしょうか。

(続)

心意気に共感―たちあがれ日本―

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 「たちあがれ日本」という政党が旗揚げされた。既存の報道機関では老人の政党であるとかまともな政策は打ち出せないとか散々な言われようであるが、そうやって言われると却って応援したくなってしまうのが中田耕斎という男である。

 実のところ私もこの新党には疑問を持つところが多かった。もちろん平沼氏と与謝野氏の見解の相違や未だに自民党に秋波を送っている様など賛同できないところが多いからだ。消費税を増税しようなどという考えもあると言うから許しがたい思いである(私は増税するなら必ず富裕者から取るべきと思う)。

 しかしこの記者会見の模様を動画で拝見するにつけて既存の報道機関がこの新党に対して否定的で足を引っ張る揶揄しかしないことに憤りを感じた。おそらく石原氏が報道関係者に対してかなり批判的なか意見をしていたから、その報復のつもりだろうが、彼らを叩くことが日本人の心意気に合うのだろうか。

 政策に納得できないものを感じつつも心意気に共感する。

 ぜひ動画を見てから判断していただきたい。




 それにしてももう少し真面目に報道してもらいたいものだ。

思想の実践について

 私は思想は実践しなければならないという考えの持ち主である。ただしそれがいわゆる「政治運動」に限定されたり、「運動家の理屈」になることを強く警戒する。

 「現状に満足しない」という心が大事なことのように思われる。あらゆる実践においてそれが形式にこだわり魂を込めなくなることが一番問題な態度であろう。そうしたことしかできない人間に本当に強い思いがあるのかどうかを疑うのである。

 私は正直なところ街頭に出て叫べばいいというものではないと考えている。むしろ人はそれぞれ己ができることを一つ一つ実践していくことが大事なことのように思われる。例えば家族を大事にするとか、そういう些細なこともまた一つの大事な実践の型であろう。こういうことを軽蔑して「外来勢力(もしくは反日勢力)と戦え」と叫ぶだけならば、運動が成功することは永久にありえない。それこそデモや街宣といった運動を遊園地化した態度である。日常と違う異空間に入りびたり、そこに入ろうとしないものを軽蔑しているに過ぎない態度のように思われる。

 思想の実践においては誰の目にも一目瞭然の「成果」を提出できるのが理想ではあると思うが、実際のところそれを簡単に出せる程世の中は甘くない。なかなか回りすべてを納得させることは難が、各人が「能動的主体的意志と情熱」を持って今自分にできることに全力で取り組むことが大事なように思われるのである。

 結果を出さずに人を笑う態度は実にみっともないですが、一方で私はあまり「結果」で評価したくないという思いがある。結果云々でいえばどの団体も個人も一般人の生活を激変させることもなく認知度も少ないのだから五十歩百歩といえないだろうか。むしろ現状に甘んぜず自己改良に努めているか否かに求めたい。そちらの方が未来に可能性がある。

*この記事は某所にコメントとして書いたものを記事として再構成したものである。

半端な態度は不毛

 まだ指摘は出ていないようですが「中田耕斎は基礎所得(「ベーシック・インカム」)に賛成の再配分論者なのか、それとも無政府主義者なのか、結局どちらなのだ」と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれないので予め答えておこうと思う。

 答えを言ってしまうと馬鹿馬鹿しいが、どっちもなのである。なかなか自分の中で結論が見えないままに書いているから、矛盾した両概念を抱え込むことになってしまっている。

 だが基本的には私をそういう意見に駆り立てるものは同朋への情とあまりにも画一的な生き方を強いる社会への憤りである。金銭が人の生き方に大なり小なり影響を及ぼすのは仕方のないことである。また、金銭をかけるからこそ真剣になれるという部分もある。

 しかし生活を盾に人が人の人格や生き様を否定するような世の中であってはあまりに悲しいように思われる。

 そうならないためにあれこれ方策を考えているが、なかなかこれといったものが明確な形で見えてこないことがもどかしい。

 再配分といっても民主党などがなっているようなお小遣い程度では意味がないどころか借金が増えるばかりでむしろ害であるし、また自民党やみんなの党程度のカイカクでは弱肉強食の資本主義社会をより一層強めることにしかならない。

 その両者の道ともに進んではならない。

魂の声を聞け

 人には皆、道徳心というものがある。

 物事の道理を見極める力がある。

 しかしつまらないそろばん勘定がこの道理の声を聞こえなくさせる。

 つまらぬ打算や、先のことを考える保身の心ではなく、自分自身が本当は今何をしたいのか、耳を澄ませば聞こえるはずである。

 自分自身の芯からの情を最大限くみ取ってやればよい。

 己の心のままに生きるのがよい。

 約束を破るとは人を裏切るのではなく、まずその時これをしようと思った自分をも裏切る行為である。人との信義を貫こうとした自分を裏切る行為である。

 己の心のままに生きるという行為が他者を拒絶するということになるとは限らない。あるいは仮面をかぶって他者に応対することは本質的に相手に対し無関心であるということにもなる。仮面の社交性が必ずしも友好的とは言い切れない。

 私の本心は誰にも抑えることもできないし、禁じることもできない。

 私の心を「危険」とみなす人間がいたとしてもかまわない。事実社会の単純な安寧、平穏を願うだけの立場からしたら私の心は危険である可能性の方が強い。

 もっと過激に、根底から社会構造を考えたい。

 自分の中で「尊皇無政府主義」というものができてきて、それが徐々に大きくなってきている。皇室は日本民族の結集のためにも、歴史の担保としても、権威の源泉としても必要である。だが政府は必要だろうか。政府があるからこそ私たちの生活は貧しくなっているのではないだろうか。一説には税金を完全になくせば我われの所得は倍になるのである。

 心のままに生き、心のままに発言する世の中で暮らしたい。

 自らの心を押し殺すほどまでには働かなくてもよい、ということだ。

 そういう世の中の方がよいに決まっているではないか。
 

異邦人の孤独

 私は異端として生きるよりないのかもしれない。

 異端として生きることは決して嫌なことではない。

 多くのものを失う代わりに、己の魂を守るのだ。

 ただし自分の生活の糧までも奪われるのは苦しい部分ではある。

 百姓をして生きるなどの選択肢が現代日本ではなくなってしまったからだ。

 そして自分が独りで生きていけるほど優秀でもなく、強くもないにもかかわらず独りで生きなくてはならないことへの何とも言い難い気持である。



 夕闇せまる雲の上 いつも一羽で飛んでいる

 鷹はきっと悲しかろ

 音も途絶えた風の中 空をつかんだその翼

 休めることは できなくて

 こころを何にたとえよう 鷹のようなこのこころ

 こころを何にたとえよう 空を舞うよな悲しさを

 雨のそぼ降る岩陰に いつも小さく咲いている

 花はきっとせつなかろ

 色もかすんだ雨の中 薄桃色の花びらを

 愛でてくれる手もなくて

 こころを何にたとえよう 花のようなこのこころ

 こころを何にたとえよう 雨に打たれるせつなさを

 人影絶えた野の道を 私とともに歩んでる

 あなたもきっと寂しかろ

 虫の囁く草はらを ともに道行く人だけど

 耐えてもの言うこともなく

 こころを何にたとえよう 独り道行くこのこころ

 こころを何にたとえよう 一人ぼっちの寂しさを 


 萩原朔太郎の詩を基にしたものだけにこころに沁みてよい。

 ただし三番の「耐えてもの言うこともなく」は「絶えてもの言うこともなく」というのが本物らしいが、「人影絶えた」と「絶えた」がかぶってしまうし、文意も判然としないので上記のようにした。
 三番は一人で歩いているのか、二人で歩いているのか全く合理的ではないが、誰といても一人のように感じてしまうあたりはかえって人生の実像に迫っているかもしれない。

失望する方もする方だと言ってやりたい

■「民主に失望」7割、内閣「評価しない」54%
(読売新聞 - 04月02日 07:41)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1162499&media_id=20

民主党に対する「失望」感が広まっていると言うが、なんだか鼻白む思いとしか言いようがない。

政治とカネの問題など選挙前から指摘されていたことではないか(特に小沢一郎に関しては)。民主党が「反自民」なだけで政策に関しても何の一致もない烏合の衆でしかないことも明白だろう。

それを差し置いて「期待」する人間の脳みその方に問題があると言わざるを得ない。民主党政権になぜ「期待」するのか、そしてなぜいまさら「失望」するのか。そんな日本国民に「失望」する。

ちなみに民主党政権になったら外国人参政権や人権擁護法案、沖縄ビジョンが成立してしまう! などと危機感を撒く手合いにも「失望」を感じざるを得ない。今の烏合の衆の民主党政権でそのような重要な決定など何一つ実現できるはずがない。

民主党政権自体がただただ国会を空転させた、時間とカネの無駄なのである。それ以上でもそれ以下でもない。民主党政権に危機感を募らせる人は彼らを過大評価していないか。ちなみに自民党政権もいまやただの「反民主」でしかないから、彼らに政権を任せようなどということも妄想からくる発言と言ってよい。

今求められているのは諸団体の利益を代表する政治団体ではなく政治思想を代表する政治団体なのである。
みんなの党や共産党など、私は具体的思想は支持できないがそういう「色」のある小政党にまだ良心を感じる。アメリカでもイギリスでも政党は利益の代表というより政治思想の代表ではないか。政治思想があって初めてそこに利益が絡むのである。政治思想による政界再編こそが今一番求められているのである。

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この記事に対するコメント

のぶ 2010年04月02日 14:33

ご尤も賛同します。

スノウホワイト 2010年04月02日 20:00
思想の時代ですね。大衆とは流れる水であり、とめどなく流れる水に一定の形などありません。形なきもの・信念なきものに政治を任せてはならないと思います。私も耕齋先生に同感です。

ワタヌキ 2010年04月02日 23:33

吉野作造も日本の政党政治が政策本位になっていないことを嘆いておりましたが、あまり状況は変わっていないようですね。
寧ろ我が国憲政の伝統は揚げ足取りや人気取りなのではないかと自虐的な冗談を言いたくなります(笑)もっとも私とてその国を担いでいる人間の1人なので自己批判が必要ですが…。

理想と現実―前から生きることは虚しかった―

 一時期、共産主義が力を持った。

 なぜ共産主義は広まったのか。

 ときおりわかった顔をして「共産主義は弱者の怨念が生み出した思想だ」などという論客がいます。くだらないことを言うなぁとあきれ返るほかないのです。弱者の嫉妬という部分もあるのかもしれません。しかしそれを言うなら資本主義も民主主義も弱者の嫉妬に支えられてここまでもっているのではありませんか。

 共産主義の「理想」に対して「現実」を対置することのいかに虚しいか。

 現実はいつも陰惨だからです。

 生きることはいつも残酷で、くだらないからです。

 共産主義はなぜ栄えたのか。それは理想が持つ輝き、力に魅せられてのことです。決して理想を軽視すべきではありません。「現実」を重視してしまえば無限の現状の追認ににしかなっていかないのです。時代を作る力となりえないのです。

 日本において共産主義運動に挺身したのは学生が多かったのですが、やはり学生という中途半端な身分は一番理想のきらめきに弱い部分があることは確かでしょう。

 現実を離れた理想など存在しえません。同時に理想を離れた現実も存在しえないのです。理想と現実は二つにして一つです。だからこそ理想を語る能力を持った人間が求められるのです。

 人々が己の望む道をかなえられる社会にしたい。

 人が他者をモノ扱いしないしない社会にしたい。

 どちらも最低限度の所得保障あってこそかなえられる。

 基礎所得を制度化することに私は賛成である。
管理人について

陸羯南翁


中田耕斎

明治期の国民主義者、陸羯南(くがかつなん・写真)の思想に共鳴する。西洋嫌いの対外硬論者。近代日本思想史専攻の大学院生。二十三歳。古今東西の政治思想書・古典を読むことを日課とする。連絡先:kousuke_60422@yahoo.co.jp
*当ブログは管理人・中田耕斎の思索の記録です。そのため各記事はすべてどこかで問題意識が繋がったものとなっています。なるべく過去記事のリンクをつけるようにしますが、過去記事に書いた部分では、ご理解いただいているものとして論証を省いて書くこともありますので、ご容赦ください。また、コメントに関しては原則削除は行いませんが、間違って二重に書き込まれた場合などは編集または一つ削除する場合がございますのであらかじめご了承ください。荒しは事前に通告の上、削除することがあります。



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