先日友人が死にました。事件により殺されたのでした。そこで葬式の場で、どうして早く逝ってしまったのですかとまるで急病で亡くなったかのような弔辞を述べている方がいて強い違和感を感じました。殺されたのだからそんなこと遺影に向かって言っても「わからない」としか故人も答えられないだろうに、かわいそうにと思いました。また友人の早すぎる死を号泣して嘆き悲しむ人たちはおかしいのではないかと内心思っておりました。なぜなら私には全く実感がなかったからです。今でもありません。また会えそうな気がしてなりません。どうして涙が出てくるのでしょう。そんなに小利口に人の死を悟れるのでしょうか。そう思って見回すと誰もがドラマのワンシーンを演じているかのように胡散臭く見えてくる。みんな嘘つきなのではないか。
これも愚かなように言ってしまいましたがあるいは皆自分が実感がわかないことに痛く戸惑っているのではないか。戸惑いと自分の言いようのない感情を表現できずに、悲しみを演じることでそれを紛らわしているのではないか。だとすればやはり未熟者は私の方でしょう。
しかし結局未熟者はどちらなのか、これもわからないままなのです。
私は一粒も涙を見せませんでした。最後のお別れにもかかわらず平然としている自分に絶望したりもしました。
帰りの飛行機の中(飛行機でいったのです)で飛行機が上昇し、雲を突き抜けて眼下に雲を見るようになってようやく悲しみと涙が出てきたのです。あいつがたびたび口にしていた故郷が小さくなり、そして雲まで突き抜けても、どこにもあいつはいなかった。現代の科学技術は雲の上から見守ってくれているという幻想さえ破壊してしまった。あいつはどこにいなく、天国なるものさえなかった。まるで最初からいなかったかのように一度もあいつに会えなかったことだけが残ったのでした。
あいつと二人で撮った写真が一枚だけ残っています。今見ると私の方が異常に大きく見えます。これはお互いの遠慮から、二人並んで撮ったのに実は私の方が前にせり出しており、ただでさえ細い奴が後ろにいたので、遠近法の関係で私の方が二倍は体積を持っているのではないかというような仕上がりになっています。男女の微妙な距離感がそうさせたのです。あいつはみんなともそのような写真を撮っていたのですから気にする必要はなかったのですが、それでも遠慮に遠慮を重ねてあえて真横に並ばなかった二人は、別の写真を貼り合わせて合成したかのようです。私の後ろめたさがそうさせたのです。私のような人間は、彼女の隣にいるべきでないというつまらない自意識があったのだと思います。
時に撮られることを意識していても撮られたくない何かが入り込んでしまうこともあるのだなと思いました。
こっちに帰ってきた後ふらりと下りたこともない学芸大学の駅で降り、開店すぐのてんやで早すぎる昼飯をとり、ブックオフに当てもなく寄りました。そこで重松清の『疾走』をみつけました。あいつは明るくて誰からも好かれていましたが、こういう本も読んでいました。あいつは私に「先輩は読まないでください、死にたくなるから」と言っていました。私は愚かにも言いつけを守って読んでいなかったのです。いやそんな言いつけがあったことさえ、私はその本を見つけるまで忘れていたのでした。もちろん買って読みました。これを読んで私が死ぬとでも思ったのでしょうか。なんだか見くびられたような気持ちにもなりました。
お前はおれのことを全然わかっていない、それともお前もあのくだらない世間並みの人だったのかい、と罵る相手もなくつぶやいて、私は『疾走』を本棚の手の届きにくい、もう二度と触れないのではないかと思うような奥の奥にしまいこんだ。
(了)
これも愚かなように言ってしまいましたがあるいは皆自分が実感がわかないことに痛く戸惑っているのではないか。戸惑いと自分の言いようのない感情を表現できずに、悲しみを演じることでそれを紛らわしているのではないか。だとすればやはり未熟者は私の方でしょう。
しかし結局未熟者はどちらなのか、これもわからないままなのです。
私は一粒も涙を見せませんでした。最後のお別れにもかかわらず平然としている自分に絶望したりもしました。
帰りの飛行機の中(飛行機でいったのです)で飛行機が上昇し、雲を突き抜けて眼下に雲を見るようになってようやく悲しみと涙が出てきたのです。あいつがたびたび口にしていた故郷が小さくなり、そして雲まで突き抜けても、どこにもあいつはいなかった。現代の科学技術は雲の上から見守ってくれているという幻想さえ破壊してしまった。あいつはどこにいなく、天国なるものさえなかった。まるで最初からいなかったかのように一度もあいつに会えなかったことだけが残ったのでした。
あいつと二人で撮った写真が一枚だけ残っています。今見ると私の方が異常に大きく見えます。これはお互いの遠慮から、二人並んで撮ったのに実は私の方が前にせり出しており、ただでさえ細い奴が後ろにいたので、遠近法の関係で私の方が二倍は体積を持っているのではないかというような仕上がりになっています。男女の微妙な距離感がそうさせたのです。あいつはみんなともそのような写真を撮っていたのですから気にする必要はなかったのですが、それでも遠慮に遠慮を重ねてあえて真横に並ばなかった二人は、別の写真を貼り合わせて合成したかのようです。私の後ろめたさがそうさせたのです。私のような人間は、彼女の隣にいるべきでないというつまらない自意識があったのだと思います。
時に撮られることを意識していても撮られたくない何かが入り込んでしまうこともあるのだなと思いました。
こっちに帰ってきた後ふらりと下りたこともない学芸大学の駅で降り、開店すぐのてんやで早すぎる昼飯をとり、ブックオフに当てもなく寄りました。そこで重松清の『疾走』をみつけました。あいつは明るくて誰からも好かれていましたが、こういう本も読んでいました。あいつは私に「先輩は読まないでください、死にたくなるから」と言っていました。私は愚かにも言いつけを守って読んでいなかったのです。いやそんな言いつけがあったことさえ、私はその本を見つけるまで忘れていたのでした。もちろん買って読みました。これを読んで私が死ぬとでも思ったのでしょうか。なんだか見くびられたような気持ちにもなりました。
お前はおれのことを全然わかっていない、それともお前もあのくだらない世間並みの人だったのかい、と罵る相手もなくつぶやいて、私は『疾走』を本棚の手の届きにくい、もう二度と触れないのではないかと思うような奥の奥にしまいこんだ。
(了)