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その執筆の遅さはつとに知られ、自ら「遅筆堂」を名乗っていた。劇作家の井上ひさしさんである。台本なしには芝居は稽古(けいこ)も始まらない。演出家の栗山民也さんはあるとき、焦る思いで、カンヅメ状態で執筆中の旅館を訪ねたそうだ▼ふすまの隙間(すきま)から井上さんが見えた。裸電球の卓上ランプをともして原稿用紙を積み上げ、机に15センチほどまで顔を近づけて、必死のさまで一字一字を刻んでいた。言葉が生まれる血のにじむような光景に、「私は涙がこぼれそうになりました」と回想している(『演出家の仕事』岩波新書)▼戯曲に小説に評論に、幅広い仕事を残して井上さんが亡くなった。言葉の持つ力をとことん信じた人だった。戯曲を一つ仕上げると体の肉がげっそり落ちたという。平易な一語一語に最大の力を宿らせるための、命を削るような闘いだったのだろう▼4年前にお会いしたのは、庶民の戦争責任を問う「夢の痂(かさぶた)」を上演したあとだった。戦犯を悪者にして知らぬ顔を決め込んだ日本人の戦後を、滑稽(こっけい)味をまじえて問う劇である▼脚本を書くうち、日本語を問題にすることになったと話していた。「日本語は主語を隠し、責任を曖昧(あいまい)にするのに都合が良い。その曖昧に紛れて多くの人が戦争責任から遁走(とんそう)した」と。日本語を様々な角度から見つめてやまない人だった▼「むずかしいことをやさしく」と言い、さらに「やさしいことをふかく」と踏み込む。故人が求めた極意に、われ至らざるの思いばかり募る。遥(はる)かなその背中を、もうしばし追わせてほしかった。