現在位置:
  1. asahi.com
  2. エンタメ
  3. 映画・音楽・芸能
  4. コラム
  5. 小原篤のアニマゲ丼
  6. 記事

ヤマトは「文芸もの」だった?

2010年4月12日

  • 筆者 小原篤

写真拡大勝間田具治監督写真拡大DVD「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」(バンダイビジュアル)写真拡大西崎義展プロデューサー写真DVD「ちいさこべ」(東映ビデオ) 大火で無一文になった江戸の大工・茂次と、浮浪児たちを養う下女おりつの物語

 前回の本欄で触れた夕刊連載「ニッポン人脈記:いつもアニメが」の取材では、紙面に載せられなかったけどとても興味深いお話を、いろいろうかがいました。その一つをご紹介しましょう。勝間田具治監督が語る「宇宙戦艦ヤマト」です。

 映画第2作「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」(78年公開)は、東映アニメーションがオフィス・アカデミーから受託製作した作品です。「監督」は松本零士さんと舛田利雄さんで、勝間田さんは「アニメーション・ディレクター」として参加しました。西崎義展プロデューサーのご指名だったそうで、勝間田監督はその後もヤマトの劇場版を手がけてます。

 「西崎さんは僕のやった『マジンガーZ』を見たそうで、『お前のがよかったからお前にしたんだよ』と言ってた。実は今度の『復活篇』もやらないかって話が来たんだけど、別の映画の企画を持っていたから断ったんです」

 奇しくも勝間田さんのインタビューの1週間後、「宇宙戦艦ヤマト復活篇」(09年12月公開)の取材で西崎さんにお話をうかがう機会がありました。「勝間田さんの『マジンガー』の担当回がよかったんだ。ドラマを盛り上げるツボを心得ている。エンターテインメントが好きなんだろうね。復活篇も、彼が引き受けてくれないんでしょうがない、僕が監督もすることになっちゃった。彼がいたらもっと楽できたのに」

 勝間田さんは、東映京都撮影所で黄金時代の娯楽映画の現場を踏み、その後、何人かの助監督と共に東映アニメに移って草創期から数多くのテレビアニメを手がけてきました。その人が、従来の子供向け作品とは違う、青年層に向けたアニメをどういう考えで作っていたのか?

 かねて私が聞きたかった問いに対し、実に意外な答えが返ってきました。

 「僕は京都で、マキノ雅弘監督らチャンバラ映画の方の助監督につくことが多かったけど、田坂具隆監督の『ちいさこべ』にもついたんだ。文芸ものをやってみたくてね。で、『ヤマト』をやった時あれはドラマ的でしょ。『ああチャンバラじゃなく、これは文芸ものか』と、そう思いましたね」

 なんと、ファンたちは「新たな若者文化の誕生だ」などと息巻いていたのに、手練れの演出家の目から見れば、昔からある映画の一つのタイプに過ぎなかったとは。うーむ、恐るべし「京都組」のキャパシティ。

 ちなみにアニメブームのもう一つの峰「銀河鉄道999」(79年)のりんたろう監督は、人脈記の取材でこう答えて下さいました。「僕はもともとテレビアニメでも『子供向け』って意識なかったし、好き勝手にやってたから、『若者向け』というのはむしろ気楽。自分がこの映画の観客だったらと考えて作ったね」

 ちなみに当時の私は、「999」など東映の作る松本零士原作の映画と西崎プロデューサーによるヤマト劇場版を、ブームの覇を競い合うライバルのように思っていたので、後に両方とも東映アニメ製作と知って(クレジットをしっかり見てりゃ分かるはずなのですが)拍子抜けしました。西崎さんによれば「岡田さん(当時の東映本社の岡田茂社長)商売が上手いから、1年の半分はヤマトやって、あとの半分は自分のところの作品を作って、うまく人を回してもうけた」ということになるそうです。そういえば、勝間田さんは東映アニメの受託製作によるビデオアニメシリーズ「人間革命」(95年〜04年)の監督もしていますが、その一方で東映本社は「幸福の科学出版」製作のアニメ映画シリーズを配給したりもしてますね。私は毎年あれを見るのが楽しみで、って余計な話に脱線しそうなので、今回はここでお終い。

プロフィール

写真

小原 篤(おはら・あつし)

1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。09年4月から報道局文化グループ記者。

検索フォーム

おすすめリンク

今も色あせない松本零士の世界に再度触れてみよう

劇場版ガンダム10作品が「30thアニバーサリーコレクション」として期間限定リリース

「ハチクロ」の作者が将棋を題材に描く。将棋監修は棋士の先崎学八段


朝日新聞購読のご案内