2度目の内視鏡手術を受ける日が来た。
昨夜から絶飲食。
午後から内視鏡手術が予定され、翌日の昼から食事が再開される。
「カニさん、検査の順番が繰り上がりました」
担当医のY崎医師が病室に検査が午前中に繰り上がったことを伝えに来ると、慌しく準備が開始された。
「午前中になったということは、明日の朝食から食べられるんですね!?」
「いいえ、昼食からです」
あんだ・・・早くなった意味ないじゃ〜ん。
ベッドに寝かされたまま検査室へ搬送される。
部屋に入ると、多くのスタッフが準備に忙殺されているのだが、女性スタッフの多いこと。
ベテランの女性技師が血圧計を左腕にセットする。
「検査前で緊張してるから、数字が高くても心配しなくていいからね」
女性技師は血圧計のスイッチを入れる。
赤い文字が血圧計の標示窓に浮かび上がった。
「101/61」
なんだこりゃ?高血圧で悩んでいる数字ではない。
「あら!?フサさん落ち着いてるわねえ〜!?低血圧よこれじゃあ!」
普通、病院で血圧を測定すると日常より高くなるというが、人それぞれなんだろう、人生いろいろである。
ラックに大きなベストがたくさん掛けられている。
放射線から人体を保護する鉛を入れたプロテクターのようだ。
女性スタッフが次々と装着していく。
ゴツイ検査機器を備えた診察台に、タイの寝釈迦像のスタイルで横になる。
2度目の経験なので手順はわかっている。
O型のマウスピースを咥え、医師がスプレーのような道具でノドに局所麻酔をかけて行く。
もしこれで天がお与えになった美声を失うようなことがあったら、カラオケ宴会の宝を失うことになってしまう。
ここからがどうしても思い出せないのだが、喉の局所麻酔に次いで全身麻酔が施される。
その麻酔がどんな方法で行われたのか、どうしても思い出せない。
全身麻酔と言っても、外科手術で使用する麻酔とは違うようだ。
麻酔というより強力な睡眠薬なのかもしれない。
内視鏡の経験者に聞くと、鎮静剤だと言っていた。
意識は完全に失われた。
・・・
フ・・・おわ・・・さ・・・サ・・・ました・・・
フサ・・・ん、おわりま・・・たよ・・・
「フサさん、終りましたよ!」
男性医師の声に意識が覚醒してくる。
まだ瞼は半分しか開かない。
女性スタッフの声が耳に入る。
「25分よ!」「25分!新記録じゃない!」
その声は歓声に聴こえた。まるでスタッフがハイタッチでもしているような。
胆管と膵臓を塞いでいた結石は取り除かれた。
後に知るのだが、この内視鏡手術、快心のオペになったのだそうだ。
ベッドに寝かされ、半覚醒状態のまま病室に帰って来た。
ウツラウツラ、そのまま3月12日は終ってくれた。
10.03.13(SAT)
点滴からも完全に開放され、担当のY崎医師が退院について説明に来てくれる。
「今日は一日ユックリしてもらって、日曜日には退院できますが、どうしますか?」
わけあって退院は月曜日にした。
これでもう絶飲食もない。
新聞のテレビ欄を見ていても、今夜はあまり面白そうな番組が見当たらない。
ところが、何気なく見ていたNHKのドラマに心を奪われてしまう。
「火の魚」
平成21年度文科省芸術祭大賞受賞。
原作 室生犀星。
主演 原田芳雄 尾野真千子
製作 NHK広島放送局
年老いた小説家と若い女性編集者。
売れっ子作家として一世を風靡した小説家だったが、都会の暮らしを捨て広島の離島に隠遁していた。
「おい!原稿上がったぞ、取りに来い」
小説家村田省三(原田芳雄)は東京の出版社に電話を入れる。
そして島を訪れたのが女性編集者 折見とち子(尾野真千子)だった。
「なんだ!?近藤はどうしたんだ!?お前なんかに原稿が渡せるか!」
途方に暮れた折見は島の少年と浜辺に絵を描く。
海草を並べ、渚には見事な龍が姿を現した。
「お前が描いたのか」
渚を眼に留めた村田は少年に言う。
「うぅうん!東京から来たお姉ちゃんが描いてくれた!」
「東京から来たお姉ちゃん?」
「先生、手ぶらでは編集室に帰れません」
最終の連絡船が出る間際、折見は再び独り暮らしの村田を訪ねる。
「・・・あの龍を描いたのは、お前か・・・」
「はい・・・」
村田は折見の前にバサリ、仕上がった原稿を投出した。
「読んでみろ、お前だいたい俺の書いたの読んだことなんてねえんだろ!?」
「いいえ、処女作から全て読まさせて戴いております」
折見は原稿を読み始めた。
「先生、ありがとうございました」
「どうだ?」
「・・・この連載は最低です、先生の前期作品のような輝きがありません、特に主人公の“金魚女”はいやらしいだけで、前期の作品に登場した女性のような色気がありません」
「・・・そうか・・・わかった、持って行け」
こうして老小説家村田と、折見とち子の不思議な時間が始まるのだった。
「おい!原稿出来たぞ!取りに来い最終回だ!」
村田は折見に電話口で怒鳴る。
「お前は、愛想のない女だな?学生時代は何をやってたんだ?」
村田は最終回の原稿を読み終わった折見を見詰めて言う。
「先生、突然の最終回でしたね?」
「・・・ふん、金魚女はお前に殺された」
「私は・・・学生時代、仲間達と影絵芝居のサークルをやっていました、子供達やお年寄りの施設を周ったりしていました」
「影絵芝居?」
「はい」
「・・・そうか・・・おい、島で影絵芝居をやれ!すぐ用意して来い!」
「はい?」
折見の影絵芝居は、島の子供と親たちを集め村田の書斎で始まった。
それは命を物語りに語られる美しい童話。
見る者の心を惹きつけ、書斎の片隅にいる村田の眼が変わった。
「先生、新刊の装丁などにご希望はございますか?」
金魚女を単行本とする打ち合せに折見は島に来ていた。
「なんでもいいさ、お前に任せた」
村田は金魚鉢のランチュウを見ながら呟く。
「承知致しました、それでは社に戻ってデザイナーを決定させていただきます」
立ち上がろうとする折見に村田の声が飛んだ。
「おい、ちょっと待て!お前は魚には殺していい魚と、殺しちゃいけない魚がいると思ってるだろう!?」
「はい?」
「この金魚は殺しちゃいけない魚だと思ってるんだろう?よし決めた、本の装丁は、この金魚の魚拓にする!お前が魚拓を取れ!」
村田は折見の父親が釣好きで、幼い頃から魚拓作りの手ほどきを受けたのを聞いていた。
金魚鉢に両手を入れ赤いランチュウを掴み取る折見。
やがて美しいランチュウの魚拓が写しとられた。
死んではいけない魚が、死んだ。
「新作の一回目の原稿が上がった、折見に取りに来させろ」
村田は東京の出版社に電話を入れる。
「先生、折見は今ちょっと休暇をとっていまして、はい」
「休暇?」
「えぇ、私近藤です、私が頂に伺わせて戴きます!」
「折見はどうしたんだ!?」
十年ぶりに村田は東京行きのチケットを握った。
捨てたはずの東京。
売れっ子作家時代に放蕩を尽くした東京。
村田は赤いバラの花束を抱え歩く。
「ここか・・・」
折見の名前がある病室に入る。
だがそこに折見の姿はない。
途方に暮れる村田は、病院の吹き抜けロビーに点滴スタンドを傍らにニット帽を被った折見の姿を見つける。
あわてて階段を駆け下りるが、折見は姿を消していた。
村田は病院の庭園の階段に呆然と腰を降ろしていた。
「先生」
点滴スタンドを転がした折見の笑顔があった。
「折見・・・」
「先生、私、ガンなんです」
村田は折見とち子という女に、自分の心がが堕ちていることを気づかされるのだった。
それは容姿でも肉体でもない、折見の心象世界だった。
折見とち子、この女だったら確かに年齢差など関係なく惹かれると思ってしまった。
演じた尾野真千子も実に見事!
久し振りに折見とち子という女に惹かれてしまった。
ラストシーンは人間の生命と愛情が実に胸に迫る。
偶然観たドラマに心奪われた。
私の病状は間違いなく回復に向かっていた。
By初代フサフサ