戦後の日本を代表する国際ジャーナリスト、大森実さんが3月25日、88年の生涯を閉じた。国際報道に携わる者にとって、はるかかなたに峻厳(しゅんげん)とそびえる山のような存在だった。ジャーナリストとして半世紀以上を日米のはざまに生きた大森さん。私への「遺言」は、「日本はそろそろ真に独立すべきだ」だった。
私が大森さんを訪ねたのは08年1月。ニューヨーク特派員として赴任して8カ月になるころだった。ロサンゼルスから車で1時間半ほどの高級住宅地、ラグナビーチの高台にある自宅に入ると、大森さんは介護のフィリピン女性に連れられ、ゆっくりと姿を現した。酸素を送り込むチューブを鼻に入れている。00年に心臓まひを起こし医師から「臨終宣告」されたが、手術で一命を取り留めた。
大森さんは終戦と同時に毎日新聞記者になった。大阪本社社会部を経てニューヨーク、ワシントンの特派員を経験、66年に退職している。その2年前に生まれた私は、外信部長として指揮した連載「泥と炎のインドシナ」に代表される大森さんの記者としての実績を同時体験しているわけではない。しかし、学生時代から国際報道に関心を持ち、どこかで大森さんの存在を漠然と意識し、入社の動機の一部には、「泥と炎のインドシナ」があったように思う。
しかし、実際に記者になって特派員の道に進むと、大森さんの成し遂げたことの大きさに圧倒された。60年のアイゼンハワー米大統領の訪日(安保闘争の混乱で途中で中止)に同行して特ダネを連発、ボーン国際記者賞(現在のボーン・上田記念国際記者賞)を受賞。65年1月からの連載「泥と炎のインドシナ」で新聞協会賞に輝いた。インドネシアのスカルノ大統領(当時)と会見してハノイ訪問のあっせんを依頼、同年9月、西側記者として初めて北爆下のハノイからリポートした。このうちのどれか一つでも、記者としては評価されるはずだ。まさしく近寄りがたいほど大きな先輩だった。
だが、眼下に太平洋の広がるリビングで話す老ジャーナリストは最初から、親しみのこもった笑顔で応対してくれた。私は関西生まれで、学生時代を関西で過ごし、入社後も大阪本社社会部から外信部に移りニューヨーク特派員になった。大森さんの跡をなぞるような「後輩」であることを喜んでくれたようだった。
最初は穏やかだった大森さんだが、1時間ほどすると話に熱が入った。米国の「対テロ戦争」や米大統領選挙について目を輝かせた。そして、話題が退社経緯に及ぶと、さらにヒートアップし、40年以上前の出来事にもかかわらず、当時の会社幹部の名前を挙げて不満をぶちまけた。大森さんは、ハノイ報道をライシャワー駐日米大使(当時)に名指しで批判され、その際の社の対応に抗議して退社している。大森さんの執念と、会社への愛憎を感じた。
話は3時間以上になり、口からは何度も、長いよだれが流れ落ちた。大森さんはそれに気づかないようだった。話は明快だが、体力の衰えは隠せなかった。疲れを心配した私が辞去を申し出ると、大森さんは話し足りないのか、「まだ時間あるでしょう」と夕飯に誘ってくれた。
妻恢子(ひろこ)さんの運転で、近くのレストランに向かった。車から降りる大森さんの体を外から抱き上げると、思いのほか軽かったのを覚えている。ローストビーフを食べながら大森さんはここでも終始上機嫌。常に酸素を鼻から注入しなければならない体となったため、「もう二度と日本に帰ることはできない」と言った。
別れ際、大森さんからの遺言のつもりで、「日本人に言っておきたいことはありますか」と聞くと、答えは間髪を入れず返ってきた。「日本はまだ、米国から完全に独立していない。戦争の清算は済んでいないんだ。そろそろ真の独立をするべきだね」
戦後、国家の安全保障を米国に委ねる一方、米国の世界支配の一端を担い続ける日本。ベトナムからイラクまで、米国の政策に翻弄(ほんろう)される祖国に、両国を熟知するジャーナリストとして、強いいら立ちを感じているようだった。
昨年暮れ、2年ぶりの再訪を思い立ち電話を入れたが、大森さんは風邪をこじらせ、面会はならなかった。普天間問題などで揺れる日米関係を、大森さんならどう考えただろう。答えが聞けない今、失ったものの大きさを改めて感じている。(外信部)
毎日新聞 2010年4月8日 0時07分