ある「友愛革命」論者の政治哲学から―小林正弥・著『友愛革命は可能か 公共哲学から考える』をめぐって(4)
では最後に、小林氏のこのような政治的プログラムとさえ言えないような提言が、鳩山政権の実際的諸施策のいかなる評価に繋がるのかを確認したい。私は冒頭で、小林氏がまるで極右が訴えるステレオタイプ化された左派のようだと述べたが、これらの問題についても概ね同様である。
以下にあげる小林氏の諸見解は、一見して、二大政党政治という制度下における効果的な働きかけのための現実的方策、戦略的な漸進主義に見えるかもしれない。小林氏も、おそらくそのつもりでいるだろう。だが実際には、多くの議論は牽強付会で詭弁じみており、論者の解釈次第で、いかなる体制でも擁護できる質のものである。これは限定的な機会主義といってもいい。限定的というのは、こうした議論をなす人びとが他政党に対してはそうした態度をとらず、民主党に対してのみ、それを行うからである。これは明らかにダブルスタンダードである。これらの人々の、鳩山政権に対する過剰な好意と思い入れは、常軌を逸したイデオロギッシュな判断によるものであり、一定層を越え出る支持は得がたい性質のものだろう。具体的に小林氏の発言を確認していこう。
まず、いわゆる「政治と金」をめぐる問題については、鳩山に同情的で、小沢にはやや(本当にやや)批判的である(注22)。氏によれば、鳩山の献金問題については「法律違反」と「政治腐敗」を区別すべきであり、鳩山のそれは「さほど公共的な害はなしていない」から「深刻な政治問題ではない」ということになる。公人の「法律違反」は「公共的な害」には当たらないようだ。また、小沢については、小林氏が批判している政治的恩顧主義の残滓が感じられるので問題であるが、首相の問題とは分けて考えるべきであり、また検察の「不適切な権力行使」があるならば問題だと述べている。
氏によれば、戦前の二大政党制は民主的選挙による政権交代こそ実現していなかったが、それさえも互いの腐敗を攻撃し合うことで政治的幻滅感を広げ、ファシズムの台頭を許してしまったのであり、「政党政治への信頼を失わせない」ことが重視されている(注23)。また、「革命の進行過程においては、常に反革命の嵐が巻き起こるのであり」、「フランス革命にしても、革命の闘士がみな清廉潔白であったわけではない。保守系メディアをはじめとする連日の政権批判の陰には、友愛革命の進行を妨げようとする反革命勢力の蠢動を感じる」と、陰謀論へ足を踏み入れている(注24)。
しかし、ことの是非はおいても、政党政治への信頼など、「無党派」層の数を見れば既に失われていると考えた方がよいのではないだろうか。実際、氏もさすがに政権交代は麻生太郎と自民党への失望によるものだと認めている(注25)。とすると、氏はなんのために鳩山および小沢への批判の矛先を鈍らせようとしているのだろうか。やはり、鳩山内閣が長期化しなければ「友愛」の言論市場における価値が暴落してしまうからだろうか(注26)。私には逆効果に思えるのだが。
「天皇の政治利用」問題についても、「政権交代が開いた政党政治への幻滅を誘うのではないか」という見解は共通している。小林氏は、天皇自身が意思を実現しようとしたり、あるいは非民主的に成立した政権が天皇を利用したりするならば深刻な事態だが、現政権は民意によって成立しているので、天皇制のルールを変えることには何の問題も無いと言いきっている。この論法によるならば、より天皇の政治的機能を強めるような改革も、「民意によって成立」した内閣が、現行憲法の解釈自体を変えつつ行うならば、問題がないことになる。極めて危うい論理構造なのだが、小林氏はむしろ小沢の言動も、「天皇を神聖化する」ような「精神構造の呪縛から解き放たれる」ための「前進」と捉えている(注27)。呪縛から解き放たれたいならば、天皇制を廃止すれば良いとおもうのだが、先述したとおり、小林氏はそのような議論は採らない。むしろ、天皇を京都に「還幸」すれば、政治権力とも距離が出来て、政治利用の危機も、中国や韓国による日本がファシズム化するのではないかという危惧も減少するだろうという。どうやら氏にとって「天皇の政治利用」とは、具体的に天皇が政治に口を出すことであって、象徴的権能を行使することは全く問題ではないらしい。これは氏がスピリチュアルな絶対的超越性を重視していることと無関係ではないだろう。
次に、外交政策については、東アジア共同体を志向することで、日米同盟の比重を相対的に小さくすることを訴えている。そしてアメリカが展開する軍事活動に常に追従しないために、短期的目標として「日米安保体制をその元々の姿に戻すことを目指すべき」だという(注28)。どういうことかといえば、なかなかに衝撃的であるが、日米安保体制は日本が米軍に基地用地を提供する代わりに本土を防衛してもらうというものだったのだから、その後の米日軍事活動の一体化を解消するためにも、その段階に戻せというのである。このような要求を現在のアメリカに呑ませるよりは、むしろ米軍基地の総撤退を実現する方がずっと現実的に思える。しかも、ここでは日米の軍事的一体化が中国や朝鮮にとっての脅威ともなるので、それを解消せねばならないと言っているのだが、そもそも米軍基地があること自体が脅威なのではないだろうか。米軍基地を置くのは米日の軍事一体化ではないのだろうか。そして、当面の基地用地はどこに提供しろというつもりなのだろうか。
また、自衛隊については、彼の「墨守・非攻」の憲法解釈では「合憲」ということになるようだ。しかし中期的な課題としては「国土警備・災害救助・国際協力」の三つの隊に分割し「平和隊に改組」することを訴えている。これは氏も認めるとおり、新党日本の主張に近い。一方で、鳩山が提案したという「自衛艦にNGOの人びとなどを乗せて紛争・災害地域で医療援助活動をする」という「友愛ボート」構想を発展させ、「国際的に平和的な活動を行う「地球的友愛隊」を創設したらどうだろか」とも述べている。どれも言い方を変えればよいというものではないだろうが、特に鳩山の構想は、日本のNGOが自発的に、軍民一体となって世界的に展開していく姿を容易に思い浮かべることができて、なかなか無気味である。
永住外国人の地方参政権については、「ローカルな友愛という観点からみて望ましい」そうである(注29)。ここは明らかに言葉すくなで、すぐに議論を多文化主義一般へと移している。あまり興味が無いのかもしれない。もっとも歴史的な制度の経緯に関心がないのならば、それは必然的な結果である。おそらく小林氏は、仮に現政権下で外国人参政権に何らかの形で限定がついて実現した際でも、その性格を問わず「限定があるのは残念だが大きな一歩だ」という認識を示して、体系的な批判の必要性を一切認めないだろう。小林氏の議論は相当に突飛な点が多いが、その心性は現代日本のリベラル派と共通している。
このほかにも問題と思われる発言は多々あるのだが、逐語的に議論していっても仕方がないのでこの辺りで切り上げる。実のところ、小林氏の議論を個別に批判し続けても、あまり意味がないのだ。多くの見解は、ちょっとした思いつきのようなものであって、深く考えて導かれたものではなく、鳩山政権ないしはそれを継承した民主党中心の内閣を取り巻く状況が変われば、また違う見解がすぐに飛び出してくるであろう。先に、限定的な機会主義と評したのは、そういう意味である。
私が本稿で延々と小林氏の議論について批判を加えてきたのは、幾度か指摘したように、その特異な発想にもかかわらず、氏の議論が現代的なリベラル派の病理を共有したものであると考えたからだ。もちろん、民主党支持者が皆、小林氏のような「神がかり」なものなので良くない、というようなラベリングをしたいのではない。そういう人も少なからずいるかもしれないが、彼らが、これから巨大な支持を得て勢力を伸ばしていくようになることは、おそらく無いだろう。小林氏のような議論は、ある程度の需要はあっても、広範な支持を集めるには、あまりに神秘主義的で、しかもあまりに詭弁に過ぎる点が多いからである。
しかしながら、小林氏を支持しない人々の間でも、主観的な漸進主義を奉じ、社会的変革に先だって内面の変革を唱える秘教的な発想は概ね共有されているように思える。この問題については、また他の具体的事例をもってさらに論じられねばなるまい。
私はなにも、内面の問題が重大ではないと考えているわけではない。私自身は、神的な存在に最終的審理を預けるようなことはしたくないと考えているため、宗教者とは相容れない部分もある。しかし、信仰によって、少なくとも主観的に救われる人間がいることは否定しないし、また、宗教がそのような役割を果たしうることも否定していない。イデオロギーは物理的な現象と相補関係にあると考えているから、厳密には唯物論者ではないことになる。
であるからこそ私は、内面の曖昧さに基づいた、主観的な「善良さ」のみの社会運動には反対する。小林氏の議論に顕著に表れているように、スピリチュアルで非歴史的(マルクス主義については清算主義的ですらある)な発想に基づく政治論は、すべて蒙昧で不誠実なものに終わるだろう。そうした見解は、中長期的にはむしろ政治的幻滅をもたらすことになる。皆がめいめいに好きな側面を見出せる曖昧な政治は、同時に皆が幻滅を味わう場所ともなる。小林氏のいう「友愛革命」は決して成就しない。従って「友愛革命」論者はいつまでも理想主義者として振舞うことができる。しかし人々がそれを聞き続けるとは限らない。より深い幻滅に囚われた人々が、あらゆる政治的変革の可能性を否定し、現状をシニカルに肯定するようになるならば、「前進」など二度と到来しないだろう。
(注22)では民主党で小沢が隠然たる権力を握っていることについてはどう説明されるのかといえば、ここで小林氏はなんと、「聖徳太子と蘇我馬子の関係を思い出す」のだという。「当時の実権は蘇我馬子が握っていたが、聖徳太子はその支持のもとで可能な限りの理想主義的政策を実現させた。同じようなことを鳩山首相には期待したい」(211頁)。これまた恐ろしく雑駁なたとえである。仮にも社会科学者が歴史的事象を引用するならば、もっと精緻な議論が必要だと思うのだが、これもスピリチュアリズムが持つ非歴史的傾向の表れだろうか。あるいは小林氏の思考は、もとからこのような傾向が強く、それがスピリチュアリズムと非常に親和的であっただけなのかもしれない。
(注23)『友愛革命は可能か』169-170頁。
(注24)ここでフランス革命を持ち出しはしても、決してロシア革命は持ち出さない態度だけは首尾一貫している。しかし全体の論理は、より御都合主義的になった。
(注25)『友愛革命は可能か』16頁。
(注26)だが、本書に登場する「友愛」タームの膨大さを考えると、小林氏は自分で「友愛」概念のインフレーションを招いているとしか思えない。適当にページをめくりなおしただけでも、「友愛革命」から始まって、「友愛政治」、「友愛経済」、「日本友愛大革命」、「友愛世界運動」、「友愛共和主義」、「友愛構造改革」、「友愛平和公共国」、「日米友愛連合」、「友愛環境主義」、「友愛福祉」、「地球的友愛税」、「友愛賢人会議」そして「友愛公共哲学」ならびに「友愛公共フォーラム」(2010年2月に発足したらしい)など、「友愛」のバーゲンセールといった感がある。ほとんど「友愛」をつけただけではないかとさえ思える。しかし政治哲学とは本来このようなものではないのではなかろうか。
(注27)『友愛革命は可能か』204-208頁。
(注28)以下、外交・軍事については『友愛革命は可能か』213-221頁より。
(注29)『友愛革命は可能か』201頁。
以下にあげる小林氏の諸見解は、一見して、二大政党政治という制度下における効果的な働きかけのための現実的方策、戦略的な漸進主義に見えるかもしれない。小林氏も、おそらくそのつもりでいるだろう。だが実際には、多くの議論は牽強付会で詭弁じみており、論者の解釈次第で、いかなる体制でも擁護できる質のものである。これは限定的な機会主義といってもいい。限定的というのは、こうした議論をなす人びとが他政党に対してはそうした態度をとらず、民主党に対してのみ、それを行うからである。これは明らかにダブルスタンダードである。これらの人々の、鳩山政権に対する過剰な好意と思い入れは、常軌を逸したイデオロギッシュな判断によるものであり、一定層を越え出る支持は得がたい性質のものだろう。具体的に小林氏の発言を確認していこう。
まず、いわゆる「政治と金」をめぐる問題については、鳩山に同情的で、小沢にはやや(本当にやや)批判的である(注22)。氏によれば、鳩山の献金問題については「法律違反」と「政治腐敗」を区別すべきであり、鳩山のそれは「さほど公共的な害はなしていない」から「深刻な政治問題ではない」ということになる。公人の「法律違反」は「公共的な害」には当たらないようだ。また、小沢については、小林氏が批判している政治的恩顧主義の残滓が感じられるので問題であるが、首相の問題とは分けて考えるべきであり、また検察の「不適切な権力行使」があるならば問題だと述べている。
氏によれば、戦前の二大政党制は民主的選挙による政権交代こそ実現していなかったが、それさえも互いの腐敗を攻撃し合うことで政治的幻滅感を広げ、ファシズムの台頭を許してしまったのであり、「政党政治への信頼を失わせない」ことが重視されている(注23)。また、「革命の進行過程においては、常に反革命の嵐が巻き起こるのであり」、「フランス革命にしても、革命の闘士がみな清廉潔白であったわけではない。保守系メディアをはじめとする連日の政権批判の陰には、友愛革命の進行を妨げようとする反革命勢力の蠢動を感じる」と、陰謀論へ足を踏み入れている(注24)。
しかし、ことの是非はおいても、政党政治への信頼など、「無党派」層の数を見れば既に失われていると考えた方がよいのではないだろうか。実際、氏もさすがに政権交代は麻生太郎と自民党への失望によるものだと認めている(注25)。とすると、氏はなんのために鳩山および小沢への批判の矛先を鈍らせようとしているのだろうか。やはり、鳩山内閣が長期化しなければ「友愛」の言論市場における価値が暴落してしまうからだろうか(注26)。私には逆効果に思えるのだが。
「天皇の政治利用」問題についても、「政権交代が開いた政党政治への幻滅を誘うのではないか」という見解は共通している。小林氏は、天皇自身が意思を実現しようとしたり、あるいは非民主的に成立した政権が天皇を利用したりするならば深刻な事態だが、現政権は民意によって成立しているので、天皇制のルールを変えることには何の問題も無いと言いきっている。この論法によるならば、より天皇の政治的機能を強めるような改革も、「民意によって成立」した内閣が、現行憲法の解釈自体を変えつつ行うならば、問題がないことになる。極めて危うい論理構造なのだが、小林氏はむしろ小沢の言動も、「天皇を神聖化する」ような「精神構造の呪縛から解き放たれる」ための「前進」と捉えている(注27)。呪縛から解き放たれたいならば、天皇制を廃止すれば良いとおもうのだが、先述したとおり、小林氏はそのような議論は採らない。むしろ、天皇を京都に「還幸」すれば、政治権力とも距離が出来て、政治利用の危機も、中国や韓国による日本がファシズム化するのではないかという危惧も減少するだろうという。どうやら氏にとって「天皇の政治利用」とは、具体的に天皇が政治に口を出すことであって、象徴的権能を行使することは全く問題ではないらしい。これは氏がスピリチュアルな絶対的超越性を重視していることと無関係ではないだろう。
次に、外交政策については、東アジア共同体を志向することで、日米同盟の比重を相対的に小さくすることを訴えている。そしてアメリカが展開する軍事活動に常に追従しないために、短期的目標として「日米安保体制をその元々の姿に戻すことを目指すべき」だという(注28)。どういうことかといえば、なかなかに衝撃的であるが、日米安保体制は日本が米軍に基地用地を提供する代わりに本土を防衛してもらうというものだったのだから、その後の米日軍事活動の一体化を解消するためにも、その段階に戻せというのである。このような要求を現在のアメリカに呑ませるよりは、むしろ米軍基地の総撤退を実現する方がずっと現実的に思える。しかも、ここでは日米の軍事的一体化が中国や朝鮮にとっての脅威ともなるので、それを解消せねばならないと言っているのだが、そもそも米軍基地があること自体が脅威なのではないだろうか。米軍基地を置くのは米日の軍事一体化ではないのだろうか。そして、当面の基地用地はどこに提供しろというつもりなのだろうか。
また、自衛隊については、彼の「墨守・非攻」の憲法解釈では「合憲」ということになるようだ。しかし中期的な課題としては「国土警備・災害救助・国際協力」の三つの隊に分割し「平和隊に改組」することを訴えている。これは氏も認めるとおり、新党日本の主張に近い。一方で、鳩山が提案したという「自衛艦にNGOの人びとなどを乗せて紛争・災害地域で医療援助活動をする」という「友愛ボート」構想を発展させ、「国際的に平和的な活動を行う「地球的友愛隊」を創設したらどうだろか」とも述べている。どれも言い方を変えればよいというものではないだろうが、特に鳩山の構想は、日本のNGOが自発的に、軍民一体となって世界的に展開していく姿を容易に思い浮かべることができて、なかなか無気味である。
永住外国人の地方参政権については、「ローカルな友愛という観点からみて望ましい」そうである(注29)。ここは明らかに言葉すくなで、すぐに議論を多文化主義一般へと移している。あまり興味が無いのかもしれない。もっとも歴史的な制度の経緯に関心がないのならば、それは必然的な結果である。おそらく小林氏は、仮に現政権下で外国人参政権に何らかの形で限定がついて実現した際でも、その性格を問わず「限定があるのは残念だが大きな一歩だ」という認識を示して、体系的な批判の必要性を一切認めないだろう。小林氏の議論は相当に突飛な点が多いが、その心性は現代日本のリベラル派と共通している。
このほかにも問題と思われる発言は多々あるのだが、逐語的に議論していっても仕方がないのでこの辺りで切り上げる。実のところ、小林氏の議論を個別に批判し続けても、あまり意味がないのだ。多くの見解は、ちょっとした思いつきのようなものであって、深く考えて導かれたものではなく、鳩山政権ないしはそれを継承した民主党中心の内閣を取り巻く状況が変われば、また違う見解がすぐに飛び出してくるであろう。先に、限定的な機会主義と評したのは、そういう意味である。
私が本稿で延々と小林氏の議論について批判を加えてきたのは、幾度か指摘したように、その特異な発想にもかかわらず、氏の議論が現代的なリベラル派の病理を共有したものであると考えたからだ。もちろん、民主党支持者が皆、小林氏のような「神がかり」なものなので良くない、というようなラベリングをしたいのではない。そういう人も少なからずいるかもしれないが、彼らが、これから巨大な支持を得て勢力を伸ばしていくようになることは、おそらく無いだろう。小林氏のような議論は、ある程度の需要はあっても、広範な支持を集めるには、あまりに神秘主義的で、しかもあまりに詭弁に過ぎる点が多いからである。
しかしながら、小林氏を支持しない人々の間でも、主観的な漸進主義を奉じ、社会的変革に先だって内面の変革を唱える秘教的な発想は概ね共有されているように思える。この問題については、また他の具体的事例をもってさらに論じられねばなるまい。
私はなにも、内面の問題が重大ではないと考えているわけではない。私自身は、神的な存在に最終的審理を預けるようなことはしたくないと考えているため、宗教者とは相容れない部分もある。しかし、信仰によって、少なくとも主観的に救われる人間がいることは否定しないし、また、宗教がそのような役割を果たしうることも否定していない。イデオロギーは物理的な現象と相補関係にあると考えているから、厳密には唯物論者ではないことになる。
であるからこそ私は、内面の曖昧さに基づいた、主観的な「善良さ」のみの社会運動には反対する。小林氏の議論に顕著に表れているように、スピリチュアルで非歴史的(マルクス主義については清算主義的ですらある)な発想に基づく政治論は、すべて蒙昧で不誠実なものに終わるだろう。そうした見解は、中長期的にはむしろ政治的幻滅をもたらすことになる。皆がめいめいに好きな側面を見出せる曖昧な政治は、同時に皆が幻滅を味わう場所ともなる。小林氏のいう「友愛革命」は決して成就しない。従って「友愛革命」論者はいつまでも理想主義者として振舞うことができる。しかし人々がそれを聞き続けるとは限らない。より深い幻滅に囚われた人々が、あらゆる政治的変革の可能性を否定し、現状をシニカルに肯定するようになるならば、「前進」など二度と到来しないだろう。
(注22)では民主党で小沢が隠然たる権力を握っていることについてはどう説明されるのかといえば、ここで小林氏はなんと、「聖徳太子と蘇我馬子の関係を思い出す」のだという。「当時の実権は蘇我馬子が握っていたが、聖徳太子はその支持のもとで可能な限りの理想主義的政策を実現させた。同じようなことを鳩山首相には期待したい」(211頁)。これまた恐ろしく雑駁なたとえである。仮にも社会科学者が歴史的事象を引用するならば、もっと精緻な議論が必要だと思うのだが、これもスピリチュアリズムが持つ非歴史的傾向の表れだろうか。あるいは小林氏の思考は、もとからこのような傾向が強く、それがスピリチュアリズムと非常に親和的であっただけなのかもしれない。
(注23)『友愛革命は可能か』169-170頁。
(注24)ここでフランス革命を持ち出しはしても、決してロシア革命は持ち出さない態度だけは首尾一貫している。しかし全体の論理は、より御都合主義的になった。
(注25)『友愛革命は可能か』16頁。
(注26)だが、本書に登場する「友愛」タームの膨大さを考えると、小林氏は自分で「友愛」概念のインフレーションを招いているとしか思えない。適当にページをめくりなおしただけでも、「友愛革命」から始まって、「友愛政治」、「友愛経済」、「日本友愛大革命」、「友愛世界運動」、「友愛共和主義」、「友愛構造改革」、「友愛平和公共国」、「日米友愛連合」、「友愛環境主義」、「友愛福祉」、「地球的友愛税」、「友愛賢人会議」そして「友愛公共哲学」ならびに「友愛公共フォーラム」(2010年2月に発足したらしい)など、「友愛」のバーゲンセールといった感がある。ほとんど「友愛」をつけただけではないかとさえ思える。しかし政治哲学とは本来このようなものではないのではなかろうか。
(注27)『友愛革命は可能か』204-208頁。
(注28)以下、外交・軍事については『友愛革命は可能か』213-221頁より。
(注29)『友愛革命は可能か』201頁。
ある「友愛革命」論者の政治哲学から―小林正弥・著『友愛革命は可能か 公共哲学から考える』をめぐって(3)
引き続き、教皇庁の見解を引きながら、小林氏の議論を確認していく。
・「多様性」と「統一」をめぐって
「ところで、重要なのは、ニューエイジが、ほとんど世界中で「多様性」が重視されることを特徴とする時代に大きな成功を収めたことです」(62頁)
「あるグループの人たちは、ニューエイジに対して、ニューエイジは陰謀だという非難を行いました。これに対して普通、次のようなこたえが返されます。わたしたちが目の当たりにしているのは、自発的な文化変動であって、その成り行きは、大部分において、人間の手の及ぶ範囲を超えたさまざまの力の影響によって決まると。しかしながら、次のことも強調しておくべきです。ニューエイジは、個別的な諸宗教の座を奪う、ないしそれらを乗り越えるという目標を、多くの影響力のある国際的な組織と共有しています。それは、人類を統一することのできる普遍宗教のために場所を空けるためです。これと密接に関連しているのは、多くの組織によってきわめて協調的に行われている、地球的倫理(グローバル・エシック)を造り出そうとする運動です」(64-65頁)
「彼らは歴史的諸宗教からただエソテリックな核だけを取り出そうとします。彼らはこの核の守護者であると自負しているからです。ある意味で彼らは歴史を否定します。そして、スピリチュアリティが時間の中に根ざしうることも、制度の中に根ざしうることも認めないのです」(68頁)
「真の諸宗教対話は、最初からつねに宗教の多様性を尊重はしても、宗教の違いをあいまいにして、あらゆる宗教的伝統を融合させることを求めたりしません」(106頁)
もし私がこれらの文を小林氏の著書と無関係に読んでいたら、この部分は単なる陰謀論として片付けていたかもしれない。しかし、小林氏のように具体的な運動団体に深く関与している人物の、以下のような言動を見た後では、彼らの恐怖にも合理性があると言わざるを得ない。
「文明間の宗教的・政治的対立の問題を克服することも、やはり今後の世界のために非常に大事である。そのために、私は「グローバル・スピリチュアリティー(地球的霊性・精神性)」という考え方を提案している。さまざまな宗教や倫理・道徳の根底に、共通の地球的なスピリチュアリティーが存在し、多様な宗教は一つの実在の顕現形態だと思うのである。これは、ユニテリアニズムやキリスト教神学における多元的宗教論(ジョン・ヒック)と共通性が大きい考え方であり、インド哲学をはじめとする東洋思想ではむしろ主流に近い思想である。
地球的友愛の理念は、このような精神的原理ないし哲学的世界観に基礎づけられる。地球的友愛公共哲学は、地球的なスピリチュアリティーという哲学的な考え方によって、さらに確固たるものとなることができるのである。
地球的友愛公共哲学が地球全体で共有されれば、宗教的・国家的・民族的対立を克服して、地球という惑星が愛のもとで一つになることができるだろう。恒久平和を達成することができるだろう。地球が友愛の惑星となり、政治的には地球連邦が実現して、地球規模で友愛政治経済が成立していくことだろう。これが、「地球的友愛世界」のビジョンである」(注14)。
小林氏は『友愛革命は可能か』において、第4章をまるごと、賀川豊彦のユニテリアリズムに基づくキリスト者としての活動の説明に割いている(注15)。もちろん、本来西洋社会に基盤をもつキリスト教の信仰が別の場所で根ざすためには、ある種の変形が必然である。近世アジアにおけるキリスト教の土着化は、やがて独自の様式を生んで、後々再到来した西洋の布教者たちを、時おり戸惑わせた。特に、キリスト教弾圧の歴史を持つ日本においては、開国以降しばらくして、西洋諸国との関係から基本的には信仰が解禁されたとはいえ、それでもなお国家神道との緊張関係を常に生きねばならなかったキリスト者の思想が、カトリックから見て異端であるからといって、それ自体を責めるには当たらない。
問題はそれを現在、小林氏がいかに利用しようとしているかである。教皇庁の文書が注意を促しているように、小林氏は賀川のユニテリアリズムを引き合いに出すことによって、むしろ非歴史的な普遍宗教を導き出そうとしている。しかし「多様性の尊重」とは、教皇庁が述べている通り、あいまいな折衷主義ではない。
「真の愛が存在するためには、自分と異なる他者がいなければなりません。真のキリスト信者は、愛が与えられることを受け入れることも拒むこともできる他者の能力と自由の内に一致を求めます。キリスト教において、合一とは交わりであり、一致とは共同性です」(93頁)。
これはキリスト教の布教史を思い起こせば、なにやら口当たりの良すぎる言明であるが、一般的な議論としては参考になる。
小林氏による諸アイデンティティの折衷的な「友愛」観は、コミュニタリアンを名乗る彼がそう呼ばれることを好まないであろうにもかかわらず、現代日本の「リベラル」の病理をほぼ共有したものだと言える。試みに、宗教的確信を民族主義やナショナリズムといった概念に置き換えてみるといい。たちまち、外国人の民族的アイデンティティや祖国への帰属意識を、偏狭で時代遅れのものとみなすリベラル派の議論にたどり着くだろう。これは彼が別の場所では階級闘争を完全に否定していることとも相似をなしている。要するに小林氏は歴史的・制度的な文脈のもとに存在する各種の対立軸を意図的に無視し、あいまいな融合を訴えかけていることになる。それは実質的な多数派支配が、より強力に継続することを意味するだろう。これが小林氏の「友愛」の核心である。
さて、ここまで長々と、カトリックによるニューエイジ批判と小林氏の議論を対位法的に見てきた。それでは何故、小林氏はここまでスピリチュアリズムに傾倒したのだろうか。端的に言うならば、それは彼のマルクス主義および唯物論の否定に根ざしていると思われる。別段本人がマルクス主義者でなくとも、その成果を完全に否定してしまえば、たちまち変革のための論理が削減されてしまわざるを得ない。既に小林氏が、「大きな物語」の否定を批判しつつ、その批判対象と同じロジックでマルクス主義を否定していることは述べたが、それだけに氏にとっては変革のための「大きな物語」を代補するものを探すことが最重要の課題となったのだろう。
しかしながら、近代以降の日本人にとって最も「大きな物語」は、天皇制であった。小林氏は天皇制については廃止の立場をとっていない。氏によれば共和主義は「専制を回避するための制度的工夫」なので、専制的王権でさえなければ王制との共存は可能だということになる(注16)。ならば戦後の象徴天皇制を「大きな物語」として利用しようとする一昔前の宮台真司のような立場が論理内在的にはもっともストレートな回答のように思えるのだが、小林氏はかつて宮台を批判する著作に執筆を行っていたので(注17)、そうも行かないのだろう。
ゆえに別の理念が必要になる。それが「友愛」というわけである(注18)。しかしその霊感源となっているクーデンホーフ=カレルギーやエーリッヒ・フロムなどの「友愛」ないしは「愛」の定義は、当然ながら西洋人としてキリスト教の影響下にある。これに対し、日本ではキリスト教はメインストリームの「物語」たりえていないので、直接に導入することは困難である。ユニテリアンである賀川豊彦の存在は、ある程度は利便性があるが、その賀川もあくまで歴史性に根ざした人物なので(注19)、小林氏の希求する「超越性」は、ユニテリアニズムからさらに非歴史性へと踏み出した、消費社会に瀰漫するニューエイジ思想で代補されざるをえないのである。これが、複数の思想家を引いておきながら、小林氏による「友愛」の定義が定まりきらず、氏の裁量次第で何でも取り込むことができる、曖昧なものになってしまう、最大の理由である(注20)。
従って小林氏の議論は、今後もさらに雑駁かつ「神がかり」的な方向へと傾斜していくだろう。困ったことだが、このような精神主義的で没論理的な思考は、ある種の市民運動の中に着実に根を下ろしているから、冒頭で書いたように、ある程度の需要が確実に存在する。この種の人びとは、学者や知識人を呼んで話を聞くことはするが、自分たちで進んで学習した上で、その内容について議論するということをしない。だから運動方針は結局、一部の中間インテリ層に握られてしまう。そして、この手の中間インテリ層は、社会運動に対して相対的に熱心な人であれ冷笑的な人であれ、自らの文化資本蓄積に空疎なプライドを持っているので、実質的に批判が受け入れられない。また、彼らはよりイデオロギッシュな社会運動(右派・左派を問わない)や新宗教団体には概ね冷笑的だが、ニューエイジ的な自己啓発やオカルティズムを消費することには違和感を持っていない(注21)。こういう現場では、極めて明瞭な形のエリーティズムが確立されやすい。
(注14)『友愛革命は可能か』246頁。しかし「地球連邦」とやらが実現される過程についての具体的プログラムがまったく説明されていないのには驚かされる。まるで小林流「友愛」が全面的に顕現すれば(そこに至る経緯すら説明されていないが)、即座に惑星規模での変革が完了するかのようだ。このような説明に首肯できる人間は、いったいどのくらいいるのだろうか。これはほとんど、モノリスかオーバーロードが突如として出現し、人類を救済するのを前提に、政治について論ずるようなものではないのか。小林氏はマルクスやエンゲルスによる「科学的社会主義」の成果を批判する一方、初期社会主義の再評価を求めているが、フーリエやサン=シモンもここまで「空想的」ではなかっただろう。
(注15)この章で小林氏が、賀川のマルクス主義批判を詳細に解説する一方で、賀川が天皇制に対してとった態度について一言の解説もないことは、なにやら暗示的ではある。小林氏の天皇制に対する立場については後述する。
(注16)『友愛革命は可能か』188頁および204頁。
(注17)小林正弥「『性的リベラリズム』批判」『〈宮台真司〉をぶっとばせ!“終わらない日常”批判』諸富祥彦・編著、トランスパーソナルな仲間たち・著(コスモス・ライブラリー、1999年)。もっとも本書は「日本の伝統」やら「道徳」やらを持ち出して、宮台の援助交際論を批判するような、どちらかといえば保守派の色彩が強い論者が目立つ構成ではあった。
(注18)『友愛革命は可能か』208頁。
(注19)なお、小林氏は、鳩山由紀夫がかつて中曽根康弘から、「愛とか友愛とかって、政治というのは、そんな甘っちょろいものではない。お天道様の陽に当たれば溶けてしまうソフトクリームのようなものだ。政治的なくわだては、ひそかにおこない、ここぞと思うときに、一気に打ち出すものだ」と「酷評」された経緯を紹介しつつ、しかし賀川豊彦による「友愛」の議論を克明に引用して、それがむしろ厳しい「実践の理念」であることが分かるだろうと反論している(125頁)。しかし鳩山は賀川ではないのだから、これは反論の体をなしていない。小林氏が鳩山を賀川の思想的直系に位置づけているならともかく、氏は別の場所で、賀川の思想をクーデンホーフ=カレルギーから鳩山家へ至る、貴族的友愛の系列とは異なるとしつつ、この二者が合流することで「新しい友愛思想と運動が発展する」としているのだから、論理が錯綜していると言わざるを得ない。
(注20)あらゆる既存の信仰から距離をとっているつもりの人が、結局のところ既存の権威を信仰してしまう危うさについては、阿満利麿がその諸著作で論じている。
(注21)筆者の経験から記すならば、たとえば、ある集会の場で役員が、SMAPの「世界でひとつだけの花」をみんなで歌おうと言い出したので、私がいくつかの理由に基づいてそれをやめて欲しいと訴えたことがある。これに対する役員の一人の回答は、概ね以下のようなものだった。「貴方がイヤならばやめるが、私はSMAPが好きだし、そんな意味があるとは思えず、腹立たしい。貴方の言っていることはおかしいと思う」。私は個人的な好き嫌いのことを言った覚えはないし、彼/彼女らの個人的な趣味を云々したつもりもなかったのだが、どうやらその人は徹頭徹尾、個人的な攻撃だと捉えたらしい。公的な文脈における議論が成り立たないのである。また、このようなこともあった。2009年の衆院選で「幸福の科学」が「幸福実現党」として候補者を擁立し、各地に事務所を増やして、街宣活動を活発に行っていた頃、とある「自覚ある市民」が新宗教団体一般を揶揄する発言を盛んに行っていた。しかし私はその人が普段、風水や人相学に言及しているのを知っていた。ちなみにその人物が「自覚ある市民」を自称できる根拠は、選挙となると極右候補者の当選を防ぐべく訴えていたから(しかし同時に共産党や社民党にも投票しないよう注意を呼びかけることも忘れなかった)らしいのだが、その訴えは「世の中にはバカが多くて、ああいうのに騙される人間が多いから、私たちがしっかりしなくていけない」というような、噴飯もののエリート主義であった(実際にはもっと強烈な表現をしていたのだが、書くことが躊躇われたので、これでも少し穏やかにした)。秘教的エリーティズムの心性とニューエイジ志向の親和性の高さを物語る事例と言えよう。なお、このようなドグマの占有感覚は、極右の「偏向メディア批判」にも顕著に見られる傾向であることを最後に強調しておく。
・「多様性」と「統一」をめぐって
「ところで、重要なのは、ニューエイジが、ほとんど世界中で「多様性」が重視されることを特徴とする時代に大きな成功を収めたことです」(62頁)
「あるグループの人たちは、ニューエイジに対して、ニューエイジは陰謀だという非難を行いました。これに対して普通、次のようなこたえが返されます。わたしたちが目の当たりにしているのは、自発的な文化変動であって、その成り行きは、大部分において、人間の手の及ぶ範囲を超えたさまざまの力の影響によって決まると。しかしながら、次のことも強調しておくべきです。ニューエイジは、個別的な諸宗教の座を奪う、ないしそれらを乗り越えるという目標を、多くの影響力のある国際的な組織と共有しています。それは、人類を統一することのできる普遍宗教のために場所を空けるためです。これと密接に関連しているのは、多くの組織によってきわめて協調的に行われている、地球的倫理(グローバル・エシック)を造り出そうとする運動です」(64-65頁)
「彼らは歴史的諸宗教からただエソテリックな核だけを取り出そうとします。彼らはこの核の守護者であると自負しているからです。ある意味で彼らは歴史を否定します。そして、スピリチュアリティが時間の中に根ざしうることも、制度の中に根ざしうることも認めないのです」(68頁)
「真の諸宗教対話は、最初からつねに宗教の多様性を尊重はしても、宗教の違いをあいまいにして、あらゆる宗教的伝統を融合させることを求めたりしません」(106頁)
もし私がこれらの文を小林氏の著書と無関係に読んでいたら、この部分は単なる陰謀論として片付けていたかもしれない。しかし、小林氏のように具体的な運動団体に深く関与している人物の、以下のような言動を見た後では、彼らの恐怖にも合理性があると言わざるを得ない。
「文明間の宗教的・政治的対立の問題を克服することも、やはり今後の世界のために非常に大事である。そのために、私は「グローバル・スピリチュアリティー(地球的霊性・精神性)」という考え方を提案している。さまざまな宗教や倫理・道徳の根底に、共通の地球的なスピリチュアリティーが存在し、多様な宗教は一つの実在の顕現形態だと思うのである。これは、ユニテリアニズムやキリスト教神学における多元的宗教論(ジョン・ヒック)と共通性が大きい考え方であり、インド哲学をはじめとする東洋思想ではむしろ主流に近い思想である。
地球的友愛の理念は、このような精神的原理ないし哲学的世界観に基礎づけられる。地球的友愛公共哲学は、地球的なスピリチュアリティーという哲学的な考え方によって、さらに確固たるものとなることができるのである。
地球的友愛公共哲学が地球全体で共有されれば、宗教的・国家的・民族的対立を克服して、地球という惑星が愛のもとで一つになることができるだろう。恒久平和を達成することができるだろう。地球が友愛の惑星となり、政治的には地球連邦が実現して、地球規模で友愛政治経済が成立していくことだろう。これが、「地球的友愛世界」のビジョンである」(注14)。
小林氏は『友愛革命は可能か』において、第4章をまるごと、賀川豊彦のユニテリアリズムに基づくキリスト者としての活動の説明に割いている(注15)。もちろん、本来西洋社会に基盤をもつキリスト教の信仰が別の場所で根ざすためには、ある種の変形が必然である。近世アジアにおけるキリスト教の土着化は、やがて独自の様式を生んで、後々再到来した西洋の布教者たちを、時おり戸惑わせた。特に、キリスト教弾圧の歴史を持つ日本においては、開国以降しばらくして、西洋諸国との関係から基本的には信仰が解禁されたとはいえ、それでもなお国家神道との緊張関係を常に生きねばならなかったキリスト者の思想が、カトリックから見て異端であるからといって、それ自体を責めるには当たらない。
問題はそれを現在、小林氏がいかに利用しようとしているかである。教皇庁の文書が注意を促しているように、小林氏は賀川のユニテリアリズムを引き合いに出すことによって、むしろ非歴史的な普遍宗教を導き出そうとしている。しかし「多様性の尊重」とは、教皇庁が述べている通り、あいまいな折衷主義ではない。
「真の愛が存在するためには、自分と異なる他者がいなければなりません。真のキリスト信者は、愛が与えられることを受け入れることも拒むこともできる他者の能力と自由の内に一致を求めます。キリスト教において、合一とは交わりであり、一致とは共同性です」(93頁)。
これはキリスト教の布教史を思い起こせば、なにやら口当たりの良すぎる言明であるが、一般的な議論としては参考になる。
小林氏による諸アイデンティティの折衷的な「友愛」観は、コミュニタリアンを名乗る彼がそう呼ばれることを好まないであろうにもかかわらず、現代日本の「リベラル」の病理をほぼ共有したものだと言える。試みに、宗教的確信を民族主義やナショナリズムといった概念に置き換えてみるといい。たちまち、外国人の民族的アイデンティティや祖国への帰属意識を、偏狭で時代遅れのものとみなすリベラル派の議論にたどり着くだろう。これは彼が別の場所では階級闘争を完全に否定していることとも相似をなしている。要するに小林氏は歴史的・制度的な文脈のもとに存在する各種の対立軸を意図的に無視し、あいまいな融合を訴えかけていることになる。それは実質的な多数派支配が、より強力に継続することを意味するだろう。これが小林氏の「友愛」の核心である。
さて、ここまで長々と、カトリックによるニューエイジ批判と小林氏の議論を対位法的に見てきた。それでは何故、小林氏はここまでスピリチュアリズムに傾倒したのだろうか。端的に言うならば、それは彼のマルクス主義および唯物論の否定に根ざしていると思われる。別段本人がマルクス主義者でなくとも、その成果を完全に否定してしまえば、たちまち変革のための論理が削減されてしまわざるを得ない。既に小林氏が、「大きな物語」の否定を批判しつつ、その批判対象と同じロジックでマルクス主義を否定していることは述べたが、それだけに氏にとっては変革のための「大きな物語」を代補するものを探すことが最重要の課題となったのだろう。
しかしながら、近代以降の日本人にとって最も「大きな物語」は、天皇制であった。小林氏は天皇制については廃止の立場をとっていない。氏によれば共和主義は「専制を回避するための制度的工夫」なので、専制的王権でさえなければ王制との共存は可能だということになる(注16)。ならば戦後の象徴天皇制を「大きな物語」として利用しようとする一昔前の宮台真司のような立場が論理内在的にはもっともストレートな回答のように思えるのだが、小林氏はかつて宮台を批判する著作に執筆を行っていたので(注17)、そうも行かないのだろう。
ゆえに別の理念が必要になる。それが「友愛」というわけである(注18)。しかしその霊感源となっているクーデンホーフ=カレルギーやエーリッヒ・フロムなどの「友愛」ないしは「愛」の定義は、当然ながら西洋人としてキリスト教の影響下にある。これに対し、日本ではキリスト教はメインストリームの「物語」たりえていないので、直接に導入することは困難である。ユニテリアンである賀川豊彦の存在は、ある程度は利便性があるが、その賀川もあくまで歴史性に根ざした人物なので(注19)、小林氏の希求する「超越性」は、ユニテリアニズムからさらに非歴史性へと踏み出した、消費社会に瀰漫するニューエイジ思想で代補されざるをえないのである。これが、複数の思想家を引いておきながら、小林氏による「友愛」の定義が定まりきらず、氏の裁量次第で何でも取り込むことができる、曖昧なものになってしまう、最大の理由である(注20)。
従って小林氏の議論は、今後もさらに雑駁かつ「神がかり」的な方向へと傾斜していくだろう。困ったことだが、このような精神主義的で没論理的な思考は、ある種の市民運動の中に着実に根を下ろしているから、冒頭で書いたように、ある程度の需要が確実に存在する。この種の人びとは、学者や知識人を呼んで話を聞くことはするが、自分たちで進んで学習した上で、その内容について議論するということをしない。だから運動方針は結局、一部の中間インテリ層に握られてしまう。そして、この手の中間インテリ層は、社会運動に対して相対的に熱心な人であれ冷笑的な人であれ、自らの文化資本蓄積に空疎なプライドを持っているので、実質的に批判が受け入れられない。また、彼らはよりイデオロギッシュな社会運動(右派・左派を問わない)や新宗教団体には概ね冷笑的だが、ニューエイジ的な自己啓発やオカルティズムを消費することには違和感を持っていない(注21)。こういう現場では、極めて明瞭な形のエリーティズムが確立されやすい。
(注14)『友愛革命は可能か』246頁。しかし「地球連邦」とやらが実現される過程についての具体的プログラムがまったく説明されていないのには驚かされる。まるで小林流「友愛」が全面的に顕現すれば(そこに至る経緯すら説明されていないが)、即座に惑星規模での変革が完了するかのようだ。このような説明に首肯できる人間は、いったいどのくらいいるのだろうか。これはほとんど、モノリスかオーバーロードが突如として出現し、人類を救済するのを前提に、政治について論ずるようなものではないのか。小林氏はマルクスやエンゲルスによる「科学的社会主義」の成果を批判する一方、初期社会主義の再評価を求めているが、フーリエやサン=シモンもここまで「空想的」ではなかっただろう。
(注15)この章で小林氏が、賀川のマルクス主義批判を詳細に解説する一方で、賀川が天皇制に対してとった態度について一言の解説もないことは、なにやら暗示的ではある。小林氏の天皇制に対する立場については後述する。
(注16)『友愛革命は可能か』188頁および204頁。
(注17)小林正弥「『性的リベラリズム』批判」『〈宮台真司〉をぶっとばせ!“終わらない日常”批判』諸富祥彦・編著、トランスパーソナルな仲間たち・著(コスモス・ライブラリー、1999年)。もっとも本書は「日本の伝統」やら「道徳」やらを持ち出して、宮台の援助交際論を批判するような、どちらかといえば保守派の色彩が強い論者が目立つ構成ではあった。
(注18)『友愛革命は可能か』208頁。
(注19)なお、小林氏は、鳩山由紀夫がかつて中曽根康弘から、「愛とか友愛とかって、政治というのは、そんな甘っちょろいものではない。お天道様の陽に当たれば溶けてしまうソフトクリームのようなものだ。政治的なくわだては、ひそかにおこない、ここぞと思うときに、一気に打ち出すものだ」と「酷評」された経緯を紹介しつつ、しかし賀川豊彦による「友愛」の議論を克明に引用して、それがむしろ厳しい「実践の理念」であることが分かるだろうと反論している(125頁)。しかし鳩山は賀川ではないのだから、これは反論の体をなしていない。小林氏が鳩山を賀川の思想的直系に位置づけているならともかく、氏は別の場所で、賀川の思想をクーデンホーフ=カレルギーから鳩山家へ至る、貴族的友愛の系列とは異なるとしつつ、この二者が合流することで「新しい友愛思想と運動が発展する」としているのだから、論理が錯綜していると言わざるを得ない。
(注20)あらゆる既存の信仰から距離をとっているつもりの人が、結局のところ既存の権威を信仰してしまう危うさについては、阿満利麿がその諸著作で論じている。
(注21)筆者の経験から記すならば、たとえば、ある集会の場で役員が、SMAPの「世界でひとつだけの花」をみんなで歌おうと言い出したので、私がいくつかの理由に基づいてそれをやめて欲しいと訴えたことがある。これに対する役員の一人の回答は、概ね以下のようなものだった。「貴方がイヤならばやめるが、私はSMAPが好きだし、そんな意味があるとは思えず、腹立たしい。貴方の言っていることはおかしいと思う」。私は個人的な好き嫌いのことを言った覚えはないし、彼/彼女らの個人的な趣味を云々したつもりもなかったのだが、どうやらその人は徹頭徹尾、個人的な攻撃だと捉えたらしい。公的な文脈における議論が成り立たないのである。また、このようなこともあった。2009年の衆院選で「幸福の科学」が「幸福実現党」として候補者を擁立し、各地に事務所を増やして、街宣活動を活発に行っていた頃、とある「自覚ある市民」が新宗教団体一般を揶揄する発言を盛んに行っていた。しかし私はその人が普段、風水や人相学に言及しているのを知っていた。ちなみにその人物が「自覚ある市民」を自称できる根拠は、選挙となると極右候補者の当選を防ぐべく訴えていたから(しかし同時に共産党や社民党にも投票しないよう注意を呼びかけることも忘れなかった)らしいのだが、その訴えは「世の中にはバカが多くて、ああいうのに騙される人間が多いから、私たちがしっかりしなくていけない」というような、噴飯もののエリート主義であった(実際にはもっと強烈な表現をしていたのだが、書くことが躊躇われたので、これでも少し穏やかにした)。秘教的エリーティズムの心性とニューエイジ志向の親和性の高さを物語る事例と言えよう。なお、このようなドグマの占有感覚は、極右の「偏向メディア批判」にも顕著に見られる傾向であることを最後に強調しておく。
ある「友愛革命」論者の政治哲学から―小林正弥・著『友愛革命は可能か 公共哲学から考える』をめぐって(2)
ここで、しばらく議論を迂回させることを許されたい。小林氏の顕著なスピリチュアリズムへの傾倒の意味を、いま少し深く考えてみたいからである。
氏の上記のような議論は、おそらく少なからぬ読者をして、「神がかり」的なものを感じさせ、また首を傾げさせるのではないかと思う。しかし「神がかり」的であるという批判は、一般読者個々人がそれを受け入れない論拠としては充分なものだが、公的な批判の言論としては不備なところが残る。なぜならば小林氏本人を前にして「あなたは神がかっている」と批判したところで、氏は「その通り。だから良いのである」と応答して、小揺るぎもしないだろうからである。科学的思考の限界性を訴え、感性の世界へと移行するとは、そういうことである。
ところで、ニューエイジについては、カトリックの総本山である教皇庁の、文化評議会および諸宗教対話評議会が公式の見解を発表している。これは日本でも『ニューエイジについてのキリスト教的考察』(カトリック中央協議会、2007年)という書籍で読むことができる(注5)。
私はキリスト者ではないのだが、本書で示されている、ニューエイジに傾倒する人々の「飢餓感」を認めつつも、それがニューエイジによってはついに満たされないものであることを訴える論理展開には、かなりの説得力を覚えた(注6)。以下、ニューエイジ的な反科学主義と不可知論に対して、客観的かつ説得的な批判を展開している部分を中心に示しつつ、適宜コメントを付していく。
・非理性主義とエリート支配について
「ある研究者によれば、ガイア仮説は「個人主義と集団主義の奇妙な総合です。ニューエイジは、人間を断片的な政治から引き離すや否や、ただちにその人間をグローバルな精神の大鍋に投げ込まずにはいられないかのようです」。グローバルな精神は、統治のための政治体制、いいかえると世界政府を必要とします。「現代の諸問題を解決するために、ニューエイジは、プラトンが『国家』で述べるような、秘密結社によって指導される霊的な貴族政治を思い描いています」 。これはいいすぎかもしれませんが、多くの証拠は、グノーシス主義的なエリート思想とグローバルな統治が、国際政治の多くの問題において符合することを示しています」(53〜54頁)
「ニューエイジは、理性を冷たく打算的で非人間的なものとして非難することによって、多くの人の心をとらえてきました。これは、人間のさまざまな能力が釣り合いのとれたものでなければならないことを主張する点では、的を射ています。だからといって、完全な意味での人間の生活にとって不可欠な能力を遠ざけてよいことにはなりません。合理性は普遍的であるという利点をもっています。理性はだれもが自由に用いることができるものです。それが、秘儀的かつ魅惑的な性格をもつ、エソテリックな、ないしグノーシス的な「神秘的」宗教との大きな違いです」(101頁)
ここで言われている「グノーシス主義」とは、同書で「知性的でなく、幻視的・神秘的な知識の形態。啓示を必要とし、人間を神の神秘と結びつけるとされる」と定義されている(120頁)。こうした秘教主義(同書ではいま少し広い意味で「エゾテリスム」と表記されている)は、当然ながらそのドグマを伝授する、極めて強権的な教導者を必要とする。ニューエイジ的な団体がそのような性格をもつ閉鎖的カルト集団となりやすいことについては、概ね異論のないところだろう。同様に、小林氏のように超国家的な主権の創造をも訴える社会運動が、不可知論や反科学・非理性主義を基盤に持つことは、実際にその組織内で既に指導的立場にある人間(ベテランの学者はそうなりやすい)の裁量で、運動(ないしは仮に「世界政府」が樹立されたならば、その政策)の方針そのものが左右される危険性を示唆している(注9)。
それにしても、どうやら伝統的宗教者の方が、現代の「友愛」政治学者よりも、よほど「理性的」であるらしい。繰返し強調するが、「友愛」の最終的な定義を拒み、情動と感性の方向へと運動の舵を取ることは、紛れもなく運動原理の秘教化をもたらすものである。それは端的にいって民主的ではない。
このようなことを書いていると、中には小林氏がかつての左翼と同じ轍を踏んでいるので良くない、と考える人もいるかもしれない。しかし私はそうは考えていない。むしろ小林氏の議論はどんな教条的左翼よりも、より一層危険なものである。
歴史的な事実として、マルクス主義の「正統な」解釈が特定の権力によって占有され、それによって各種の団体や個人が振り回される悲惨な結果に陥ったことは認めねばなるまい。しかし、少なくともマルクス主義のような理論は、いかに「金科玉条」化しようと、公開された原理をその基盤に置いている以上、同一の理論による批判を示すことが可能である。これはちょうど、いかに歴史的にキリスト教が異教および有色人種を弾圧する論拠を提供してきたとしても、その内在的論理の展開において、それを批判し超克していく解釈が導き出される余地があったことと同じである。
しかし、定義によらない情動的な「友愛」論は、そうはいかない。たとえば小林氏は、鳩山家の「友愛」は未だ上層としてのイメージが強く、また鳩山家の資産が桁外れであるため、そのままでは貧困問題に悩む人々を失望させるだろうと予測する。従って彼は、鳩山由紀夫が「弱者・少数者のための友愛」を唱えたことを高く評価し、そうした「友愛」を実現すれば「鳩山家の資産がどうであれ、多くの人びとはその政治を喜び、「友愛」を自らのものとして感じることができるだろう」と述べている(注9)。しかし別段、仮に鳩山がこれを口約束だけのものとして実質的には反故にし、かつての支援者たちを切り捨てたとしても、それは鳩山の「友愛」観が、小林氏の無軌道な認識に収まらなかっただけである。それは小林氏が蒙昧であったことしか意味しない。鳩山は一般の有権者に対して不誠実であっても、小林氏に対して不誠実であることにはならない。むしろ小林氏が読者(および運動の参加者)に対して不誠実なのである。しかし鳩山と小林氏が今後すれ違いを見せたとして、小林氏がそれでも鳩山にすりより続けていった時(確実にそうなるだろうが)、小林氏の協力者には既に、「友愛」を楯にしてその不誠実さを非難する余地が残されていない。「友愛」とは何のためにある、いかなるものかという、しっかりと公開された定義が存在しないため、小林氏がその時々で意義・文脈を変化させれば、むしろ批判者の方が「友愛」の敵ということになるだろう(注10)。
・内面の変革から社会変革へと至る議論について(1)
「問題は、思考の変化と現実の変化は比例するかどうか、また、内面の変容が外的世界に与える影響がどの程度証明できるかということです。それが証明できないといわないまでも、次のような言明を含む場合に、この理論がどの程度科学的かを問わずにはいられません。「自律した人間の社会では、戦争が起こるとは考えられません。自律した人間は、すべての人類が結びついていることを見いだしており、異なる思想、異なる文化を恐れず、また、あらゆる革命は内面から始まり、自分の覚醒のしるしをだれに押しつけることもできないことをしっているからです」(注11)。あることを考えることができないという事実から、あることが起こりえないと結論づけるのは、非論理的です。このような推論は真の意味でグノーシス主義的といえます。それは知識と意識を過大視するからです。こういうからといって、科学的発見において意識の発展がもつ根本的かつ中心的な役割を否定したいわけではありません。ただ、まだ心の中に存在するにすぎないことを外的現実に投影することに対して注意を促したいのです」(55頁)
カトリックの、非常に事実実証的な考え方に驚かされる。おそらく「秘教的」でない宗教の伝道者は、本来このように論理的に人を説得する術を持つべきなのであり、この起草者たちはそれを実践しているのだろう。しかし、文中で引用されているニューエイジ論者の言説が、まるで小林氏の議論の要約のようであることが空恐ろしくもある。この傾向は以下、さらに顕著となっていくだろう。
・内面の変革から社会変革へと至る議論について(2)
「多くのニューエイジの著作は、人は世界を変えるために(直接には)何も出来ないが、自分を変えるためには何でもできると述べています。個人の意識を変えることは世界を変えるための(間接的な)方法だと考えられるのです。社会を変えるためのもっとも重要な手段は、個人の模範です。世界中の人がこうした個人の模範を認めることによって、集合的精神の変革が起こります。そして、こうした変革こそ、現代においてわたしたちが達成した主要な成果だとされます。(中略)人は内面を見つめることによって、世界を「知る」だけでなく、世界を「変える」のです。しかし、内面を見つめれば見つめるほど、政治敵領域は狭まっていきます。これは、人々が新しい地球秩序に民主的な形で参加していくことをうまく言い表したものなのでしょうか。それとも、それは無意識的かつ巧妙な形で人々を無力化し、操作されやすい存在にしているのでしょうか」(56-57頁)
煩雑になるが、小林氏の『友愛革命は可能か』のあとがきから、この指摘に該当する箇所(251頁)を続けて引用しよう。
「この本の表題は「友愛革命は可能か」とした。私自身の答えは、「それは私たち一人ひとりの努力によって可能である」というものであり、私としてはそれが実現することを願い、そのために学者として微力を尽くしたいと思っている。そして、友愛革命とは、単に日本の政治的構造転換だけを意味するのではなく、まずは一人ひとりの心の内における「愛の革命」から始まって、全世界に及ぶ「愛の政治経済」の実現へと発展すべきものである」
『ニューエイジについてのキリスト教的考察』の著者たちは、ニューエイジが現代社会に生きる人々の精神的飢餓感によって求められていることを率直に認めている。しかし同時にそれが、内面の問題へと秘教化されることで政治的認識を狭め、かえって社会変革の主体となることを諦念させる機能を持つだろうと述べている。ニューエイジの思想とそれがもたらす結果は、いわばマッチポンプの関係にある。小林氏が訴える一人ひとりの「愛の革命」は、おそらく決して全世界的な「愛の政治経済」には結実しない(しても困るが)。具体的で地道なプログラムを欠いているのだから当たり前だが、しないからこそこのような情動的な言説は、永遠に価値を失わないとも言える。ちょうど極右の求める世界観が決して実現し得ない非現実的なものであるがゆえに、常に彼らが攻撃性を失わずにいられるのと同じである。
また、近年、日本のサブカルチャー論者たちは、個人と世界の運命とが無媒介に連続している物語を「セカイ系」などと名づけて、肯定的であるにせよ批判的であるにせよ、なにやら新しい試みが出てきたものとして議論を交わしているようだが、なんのことはない、これは既に70年代以来実践されてきたニューエイジ思想の文化的一典型例である。一部のJポップや漫画、アニメ、青少年向けジュブナイル小説、ゲームなどに宗教的な表象が多々見られることは、ニューエイジと消費文化の極めて密接な関係を示唆している。ニューエイジが強調する精神的飢餓は、ニューエイジ的文化商品の消費によって癒されように見えるがゆえに、それを生み出す文化産業にとって都合がよいものである。またニューエイジ思想は消費文化の形態をとることで、その歴史上かつてないほどの爆発的な浸透力を利用して、世俗社会に対する影響力を行使できるのである(注12)。これに対しては、以下のような教皇庁の批判が適切であろう。
「彼らはまた、個人主義への傾向と、すべてのものを消費の対象としてみる傾向に簡単に屈服します。(中略)神秘的な合一への夢想は、実際には、単なる仮想的な合一に終わるように思われます。仮想的な合一は、結局のところ、人々にいっそう孤独と不満を感じさせるだけです。」(70頁)。
小林氏は『友愛革命は可能か』および『非戦の哲学』において、現代消費文化による比喩を幾度も使っている(注13)。おそらく一般書であることを意識したものなのだろうが、坂本龍一やウルトラマン、また、大河ドラマの直江兼続や坂本龍馬のような喩えを持ち出すことは、議論の雑駁さに拍車をかけているだけではなく、彼の議論が今後向かう帰趨を暗示しているように思われる。おそらく彼は、前述したような現代消費文化における宗教的表象の氾濫を寿ぎ、日本が「愛の革命」へと既に向かいつつあったのだとするような議論を展開するのではないだろうか。もっとも私は、小林氏の議論を全て抑えているわけではないので、このような論説自体が2010年4月現在、既に書かれている可能性もある。
(注5)ISBNのついた一般書籍であるため、品切れでもなければ、誰でも購入することが可能である。
(注6)もちろん本書の議論は、最終的にはニューエイジに傾倒することなくキリスト教徒としての節を全うするよう訴えるためのものではある。そのため、「魔女」やシャーマニズム、自然崇拝など、キリスト教会が過去に弾圧し、また悪しきものとして取り込んだ異教・異端の信仰の再評価に対しても、些か冷淡な態度を示す部分には肯んじ得ないものもある。
(注7)原注:Michel Lacroix, L’Ideologia della New Age, Millano(il Saggiatore)1998, p.84f.
(注8)小林氏は『非戦の哲学』で、かつての左翼的諸運動が、「文化的な愛や潤い」に欠け、上意下達の官僚的機構であり、また暴力的であるがゆえに失敗したと総括している(198-199頁)。また『友愛革命は可能か』でも近代革命および共産主義・社会主義革命が暴力的手段を伴っていたことを問題視し、日本共産党などが議会主義を採用したにもかかわらず、新左翼の内ゲバなどにそれが極端に表れ出たのだと述べている(163頁)。しかし彼の情動的かつ無軌道な反権威主義は日本の新左翼崩れのそれに極めて近い。また、学生運動経験者が後々述懐しているように、新左翼の運動は確かに組織的統制を嫌った。しかしこのことは、それゆえ逆に、偶さか組織内でヘゲモニーを握った人間が非公式の権力を振るう温床となった。しばしば左翼の暴力革命と集団主義の末路として語られる「連合赤軍事件」などは、むしろ明確な組織的展望が不在ゆえの迷走として捉えられるべきである。このような蒙昧主義は現在、今のところ殺人こそおきないものの、市民運動内での一部指導者の専横という事例に顕著に見られるようになっている。
(注9)『友愛革命は可能か』193-195頁。それにしても、最後の一文はまずあり得ないのではないだろうか。論旨上は削ってもよい文だったのだが、あまりにも凄まじい認識だったので、思わず引用してしまった。
(注10)逆に小林氏のお墨付きさえあれば、外国人労働者の排除は「国民的友愛」として、女性差別は「ブラザーフッド」として肯定しうることになる。
(注11)原注:Marilyn Ferguson, The Aquarian Conspiracy. Personal and Social Transformation in our Time, Los Angels(Tarcher)1980, p.411.
(注12)おそらく消費社会の到来以降においては、超越的な権力の持続の如何は、こうした消費文化と概ね友好的な関係を築けるか否かにかかっているだろう。たとえば既に大衆メディアへの露出自体を厭わなくなって久しい天皇制は、逆にその強度を増したと考えるべきである。宮内庁が時折、報道の「行き過ぎ」や、ウェブ上での「ネタ」的な消費のされ方に難色ないしは困惑を示すことはあっても、それは消費されること自体への批判ではない。また天皇制にまつわるイコンの消費は、権力の意味をズラして相対化し、その権威を貶めるラディカルな実践であるよりは、むしろ消費を通した支持と親愛の情の表明ですらある。
(注13)ただし、小林氏は小林氏なりに、市場原理に基づく経済的淘汰を批判してはいる。これもなかなか特徴的な議論なので、軽く説明しておく。彼は市場原理に任せきると、「精神的には非常に有意義な商品」やそれを作る会社が淘汰され、「逆に精神的には堕落を招くような商品が大いに売れてそのような商品を作る会社が繁栄したりする」と述べている。「精神的には非常に有意義な商品」や「堕落を招くような商品」とは、具体的に何をさしているのか全く不明なのだが、これもたとえば、情動的・没論理的なタイプの消費者運動には受けのよい議論かもしれない。自分の定義を各々が勝手に当てはめつつ読めばよいのだから。
氏の上記のような議論は、おそらく少なからぬ読者をして、「神がかり」的なものを感じさせ、また首を傾げさせるのではないかと思う。しかし「神がかり」的であるという批判は、一般読者個々人がそれを受け入れない論拠としては充分なものだが、公的な批判の言論としては不備なところが残る。なぜならば小林氏本人を前にして「あなたは神がかっている」と批判したところで、氏は「その通り。だから良いのである」と応答して、小揺るぎもしないだろうからである。科学的思考の限界性を訴え、感性の世界へと移行するとは、そういうことである。
ところで、ニューエイジについては、カトリックの総本山である教皇庁の、文化評議会および諸宗教対話評議会が公式の見解を発表している。これは日本でも『ニューエイジについてのキリスト教的考察』(カトリック中央協議会、2007年)という書籍で読むことができる(注5)。
私はキリスト者ではないのだが、本書で示されている、ニューエイジに傾倒する人々の「飢餓感」を認めつつも、それがニューエイジによってはついに満たされないものであることを訴える論理展開には、かなりの説得力を覚えた(注6)。以下、ニューエイジ的な反科学主義と不可知論に対して、客観的かつ説得的な批判を展開している部分を中心に示しつつ、適宜コメントを付していく。
・非理性主義とエリート支配について
「ある研究者によれば、ガイア仮説は「個人主義と集団主義の奇妙な総合です。ニューエイジは、人間を断片的な政治から引き離すや否や、ただちにその人間をグローバルな精神の大鍋に投げ込まずにはいられないかのようです」。グローバルな精神は、統治のための政治体制、いいかえると世界政府を必要とします。「現代の諸問題を解決するために、ニューエイジは、プラトンが『国家』で述べるような、秘密結社によって指導される霊的な貴族政治を思い描いています」 。これはいいすぎかもしれませんが、多くの証拠は、グノーシス主義的なエリート思想とグローバルな統治が、国際政治の多くの問題において符合することを示しています」(53〜54頁)
「ニューエイジは、理性を冷たく打算的で非人間的なものとして非難することによって、多くの人の心をとらえてきました。これは、人間のさまざまな能力が釣り合いのとれたものでなければならないことを主張する点では、的を射ています。だからといって、完全な意味での人間の生活にとって不可欠な能力を遠ざけてよいことにはなりません。合理性は普遍的であるという利点をもっています。理性はだれもが自由に用いることができるものです。それが、秘儀的かつ魅惑的な性格をもつ、エソテリックな、ないしグノーシス的な「神秘的」宗教との大きな違いです」(101頁)
ここで言われている「グノーシス主義」とは、同書で「知性的でなく、幻視的・神秘的な知識の形態。啓示を必要とし、人間を神の神秘と結びつけるとされる」と定義されている(120頁)。こうした秘教主義(同書ではいま少し広い意味で「エゾテリスム」と表記されている)は、当然ながらそのドグマを伝授する、極めて強権的な教導者を必要とする。ニューエイジ的な団体がそのような性格をもつ閉鎖的カルト集団となりやすいことについては、概ね異論のないところだろう。同様に、小林氏のように超国家的な主権の創造をも訴える社会運動が、不可知論や反科学・非理性主義を基盤に持つことは、実際にその組織内で既に指導的立場にある人間(ベテランの学者はそうなりやすい)の裁量で、運動(ないしは仮に「世界政府」が樹立されたならば、その政策)の方針そのものが左右される危険性を示唆している(注9)。
それにしても、どうやら伝統的宗教者の方が、現代の「友愛」政治学者よりも、よほど「理性的」であるらしい。繰返し強調するが、「友愛」の最終的な定義を拒み、情動と感性の方向へと運動の舵を取ることは、紛れもなく運動原理の秘教化をもたらすものである。それは端的にいって民主的ではない。
このようなことを書いていると、中には小林氏がかつての左翼と同じ轍を踏んでいるので良くない、と考える人もいるかもしれない。しかし私はそうは考えていない。むしろ小林氏の議論はどんな教条的左翼よりも、より一層危険なものである。
歴史的な事実として、マルクス主義の「正統な」解釈が特定の権力によって占有され、それによって各種の団体や個人が振り回される悲惨な結果に陥ったことは認めねばなるまい。しかし、少なくともマルクス主義のような理論は、いかに「金科玉条」化しようと、公開された原理をその基盤に置いている以上、同一の理論による批判を示すことが可能である。これはちょうど、いかに歴史的にキリスト教が異教および有色人種を弾圧する論拠を提供してきたとしても、その内在的論理の展開において、それを批判し超克していく解釈が導き出される余地があったことと同じである。
しかし、定義によらない情動的な「友愛」論は、そうはいかない。たとえば小林氏は、鳩山家の「友愛」は未だ上層としてのイメージが強く、また鳩山家の資産が桁外れであるため、そのままでは貧困問題に悩む人々を失望させるだろうと予測する。従って彼は、鳩山由紀夫が「弱者・少数者のための友愛」を唱えたことを高く評価し、そうした「友愛」を実現すれば「鳩山家の資産がどうであれ、多くの人びとはその政治を喜び、「友愛」を自らのものとして感じることができるだろう」と述べている(注9)。しかし別段、仮に鳩山がこれを口約束だけのものとして実質的には反故にし、かつての支援者たちを切り捨てたとしても、それは鳩山の「友愛」観が、小林氏の無軌道な認識に収まらなかっただけである。それは小林氏が蒙昧であったことしか意味しない。鳩山は一般の有権者に対して不誠実であっても、小林氏に対して不誠実であることにはならない。むしろ小林氏が読者(および運動の参加者)に対して不誠実なのである。しかし鳩山と小林氏が今後すれ違いを見せたとして、小林氏がそれでも鳩山にすりより続けていった時(確実にそうなるだろうが)、小林氏の協力者には既に、「友愛」を楯にしてその不誠実さを非難する余地が残されていない。「友愛」とは何のためにある、いかなるものかという、しっかりと公開された定義が存在しないため、小林氏がその時々で意義・文脈を変化させれば、むしろ批判者の方が「友愛」の敵ということになるだろう(注10)。
・内面の変革から社会変革へと至る議論について(1)
「問題は、思考の変化と現実の変化は比例するかどうか、また、内面の変容が外的世界に与える影響がどの程度証明できるかということです。それが証明できないといわないまでも、次のような言明を含む場合に、この理論がどの程度科学的かを問わずにはいられません。「自律した人間の社会では、戦争が起こるとは考えられません。自律した人間は、すべての人類が結びついていることを見いだしており、異なる思想、異なる文化を恐れず、また、あらゆる革命は内面から始まり、自分の覚醒のしるしをだれに押しつけることもできないことをしっているからです」(注11)。あることを考えることができないという事実から、あることが起こりえないと結論づけるのは、非論理的です。このような推論は真の意味でグノーシス主義的といえます。それは知識と意識を過大視するからです。こういうからといって、科学的発見において意識の発展がもつ根本的かつ中心的な役割を否定したいわけではありません。ただ、まだ心の中に存在するにすぎないことを外的現実に投影することに対して注意を促したいのです」(55頁)
カトリックの、非常に事実実証的な考え方に驚かされる。おそらく「秘教的」でない宗教の伝道者は、本来このように論理的に人を説得する術を持つべきなのであり、この起草者たちはそれを実践しているのだろう。しかし、文中で引用されているニューエイジ論者の言説が、まるで小林氏の議論の要約のようであることが空恐ろしくもある。この傾向は以下、さらに顕著となっていくだろう。
・内面の変革から社会変革へと至る議論について(2)
「多くのニューエイジの著作は、人は世界を変えるために(直接には)何も出来ないが、自分を変えるためには何でもできると述べています。個人の意識を変えることは世界を変えるための(間接的な)方法だと考えられるのです。社会を変えるためのもっとも重要な手段は、個人の模範です。世界中の人がこうした個人の模範を認めることによって、集合的精神の変革が起こります。そして、こうした変革こそ、現代においてわたしたちが達成した主要な成果だとされます。(中略)人は内面を見つめることによって、世界を「知る」だけでなく、世界を「変える」のです。しかし、内面を見つめれば見つめるほど、政治敵領域は狭まっていきます。これは、人々が新しい地球秩序に民主的な形で参加していくことをうまく言い表したものなのでしょうか。それとも、それは無意識的かつ巧妙な形で人々を無力化し、操作されやすい存在にしているのでしょうか」(56-57頁)
煩雑になるが、小林氏の『友愛革命は可能か』のあとがきから、この指摘に該当する箇所(251頁)を続けて引用しよう。
「この本の表題は「友愛革命は可能か」とした。私自身の答えは、「それは私たち一人ひとりの努力によって可能である」というものであり、私としてはそれが実現することを願い、そのために学者として微力を尽くしたいと思っている。そして、友愛革命とは、単に日本の政治的構造転換だけを意味するのではなく、まずは一人ひとりの心の内における「愛の革命」から始まって、全世界に及ぶ「愛の政治経済」の実現へと発展すべきものである」
『ニューエイジについてのキリスト教的考察』の著者たちは、ニューエイジが現代社会に生きる人々の精神的飢餓感によって求められていることを率直に認めている。しかし同時にそれが、内面の問題へと秘教化されることで政治的認識を狭め、かえって社会変革の主体となることを諦念させる機能を持つだろうと述べている。ニューエイジの思想とそれがもたらす結果は、いわばマッチポンプの関係にある。小林氏が訴える一人ひとりの「愛の革命」は、おそらく決して全世界的な「愛の政治経済」には結実しない(しても困るが)。具体的で地道なプログラムを欠いているのだから当たり前だが、しないからこそこのような情動的な言説は、永遠に価値を失わないとも言える。ちょうど極右の求める世界観が決して実現し得ない非現実的なものであるがゆえに、常に彼らが攻撃性を失わずにいられるのと同じである。
また、近年、日本のサブカルチャー論者たちは、個人と世界の運命とが無媒介に連続している物語を「セカイ系」などと名づけて、肯定的であるにせよ批判的であるにせよ、なにやら新しい試みが出てきたものとして議論を交わしているようだが、なんのことはない、これは既に70年代以来実践されてきたニューエイジ思想の文化的一典型例である。一部のJポップや漫画、アニメ、青少年向けジュブナイル小説、ゲームなどに宗教的な表象が多々見られることは、ニューエイジと消費文化の極めて密接な関係を示唆している。ニューエイジが強調する精神的飢餓は、ニューエイジ的文化商品の消費によって癒されように見えるがゆえに、それを生み出す文化産業にとって都合がよいものである。またニューエイジ思想は消費文化の形態をとることで、その歴史上かつてないほどの爆発的な浸透力を利用して、世俗社会に対する影響力を行使できるのである(注12)。これに対しては、以下のような教皇庁の批判が適切であろう。
「彼らはまた、個人主義への傾向と、すべてのものを消費の対象としてみる傾向に簡単に屈服します。(中略)神秘的な合一への夢想は、実際には、単なる仮想的な合一に終わるように思われます。仮想的な合一は、結局のところ、人々にいっそう孤独と不満を感じさせるだけです。」(70頁)。
小林氏は『友愛革命は可能か』および『非戦の哲学』において、現代消費文化による比喩を幾度も使っている(注13)。おそらく一般書であることを意識したものなのだろうが、坂本龍一やウルトラマン、また、大河ドラマの直江兼続や坂本龍馬のような喩えを持ち出すことは、議論の雑駁さに拍車をかけているだけではなく、彼の議論が今後向かう帰趨を暗示しているように思われる。おそらく彼は、前述したような現代消費文化における宗教的表象の氾濫を寿ぎ、日本が「愛の革命」へと既に向かいつつあったのだとするような議論を展開するのではないだろうか。もっとも私は、小林氏の議論を全て抑えているわけではないので、このような論説自体が2010年4月現在、既に書かれている可能性もある。
(注5)ISBNのついた一般書籍であるため、品切れでもなければ、誰でも購入することが可能である。
(注6)もちろん本書の議論は、最終的にはニューエイジに傾倒することなくキリスト教徒としての節を全うするよう訴えるためのものではある。そのため、「魔女」やシャーマニズム、自然崇拝など、キリスト教会が過去に弾圧し、また悪しきものとして取り込んだ異教・異端の信仰の再評価に対しても、些か冷淡な態度を示す部分には肯んじ得ないものもある。
(注7)原注:Michel Lacroix, L’Ideologia della New Age, Millano(il Saggiatore)1998, p.84f.
(注8)小林氏は『非戦の哲学』で、かつての左翼的諸運動が、「文化的な愛や潤い」に欠け、上意下達の官僚的機構であり、また暴力的であるがゆえに失敗したと総括している(198-199頁)。また『友愛革命は可能か』でも近代革命および共産主義・社会主義革命が暴力的手段を伴っていたことを問題視し、日本共産党などが議会主義を採用したにもかかわらず、新左翼の内ゲバなどにそれが極端に表れ出たのだと述べている(163頁)。しかし彼の情動的かつ無軌道な反権威主義は日本の新左翼崩れのそれに極めて近い。また、学生運動経験者が後々述懐しているように、新左翼の運動は確かに組織的統制を嫌った。しかしこのことは、それゆえ逆に、偶さか組織内でヘゲモニーを握った人間が非公式の権力を振るう温床となった。しばしば左翼の暴力革命と集団主義の末路として語られる「連合赤軍事件」などは、むしろ明確な組織的展望が不在ゆえの迷走として捉えられるべきである。このような蒙昧主義は現在、今のところ殺人こそおきないものの、市民運動内での一部指導者の専横という事例に顕著に見られるようになっている。
(注9)『友愛革命は可能か』193-195頁。それにしても、最後の一文はまずあり得ないのではないだろうか。論旨上は削ってもよい文だったのだが、あまりにも凄まじい認識だったので、思わず引用してしまった。
(注10)逆に小林氏のお墨付きさえあれば、外国人労働者の排除は「国民的友愛」として、女性差別は「ブラザーフッド」として肯定しうることになる。
(注11)原注:Marilyn Ferguson, The Aquarian Conspiracy. Personal and Social Transformation in our Time, Los Angels(Tarcher)1980, p.411.
(注12)おそらく消費社会の到来以降においては、超越的な権力の持続の如何は、こうした消費文化と概ね友好的な関係を築けるか否かにかかっているだろう。たとえば既に大衆メディアへの露出自体を厭わなくなって久しい天皇制は、逆にその強度を増したと考えるべきである。宮内庁が時折、報道の「行き過ぎ」や、ウェブ上での「ネタ」的な消費のされ方に難色ないしは困惑を示すことはあっても、それは消費されること自体への批判ではない。また天皇制にまつわるイコンの消費は、権力の意味をズラして相対化し、その権威を貶めるラディカルな実践であるよりは、むしろ消費を通した支持と親愛の情の表明ですらある。
(注13)ただし、小林氏は小林氏なりに、市場原理に基づく経済的淘汰を批判してはいる。これもなかなか特徴的な議論なので、軽く説明しておく。彼は市場原理に任せきると、「精神的には非常に有意義な商品」やそれを作る会社が淘汰され、「逆に精神的には堕落を招くような商品が大いに売れてそのような商品を作る会社が繁栄したりする」と述べている。「精神的には非常に有意義な商品」や「堕落を招くような商品」とは、具体的に何をさしているのか全く不明なのだが、これもたとえば、情動的・没論理的なタイプの消費者運動には受けのよい議論かもしれない。自分の定義を各々が勝手に当てはめつつ読めばよいのだから。
ある「友愛革命」論者の政治哲学から―小林正弥・著『友愛革命は可能か 公共哲学から考える』をめぐって(1)
私が読んだ小林正弥氏の最初の著作は、2003年に発刊されたちくま新書『非戦の哲学』であった。率直に言って、私はこの時、論壇やウェブ上の極右勢力が、左翼をわざと「誤って」表象してみせる、そのステレオタイプに見事合致してしまうような学者が存在することに大変驚かされるとともに、頭を抱えた 。ほとんど雪男かツチノコでも目撃してしまったような気分であった(注1)。
小林氏は東京大学法学部を卒業し、同大学の助手を務めた後に、千葉大学法経学部・助教授となり、さらに『非戦の哲学』公刊後に教授へと昇進して現在に至る。「公共哲学」を掲げ、リベラリズムに対するコミュニタリアリズムの立場を明示し、「地球平和公共ネットワーク」等、複数の社会運動に積極的に関与している人物である。その社会的影響力がどの程度のものなのか、今ひとつ計り知れないところがあるのだが、運動が持続し、各種NPOとの交流やテレビへの出演なども続いているところを見ると、その議論には一定の需要があるものと思われる。
私は小林氏の学術的な著書には目を通していない。講演録やエッセイ的な小文を読んだことはあるが、氏の議論が政治学の分野で専門的にいかに位置づけられているのかについては知識が無い(注2) 。従ってここでは、氏の一般的著作である新刊『友愛革命は可能か』(平凡社新書、2010年)を中心に、適宜、既刊『非戦の哲学』も引きつつ、あくまで一般的な運動論、現代社会論としての彼の議論を追ってみたい。
なお、引用文中の太字による強調は、すべて筆者が行ったものである。また、一文以上の引用については、本文との混同を避けるため、小林氏の本は青字で、それ以外の本については赤字で示している。
ではまず、小林氏の新著『友愛革命は可能か』の全体の構成を確認しよう。本書は全6章からなっている。まず第1章で、2009年の政権交代により「友愛」を訴える鳩山内閣が誕生したことの「歴史的意義」が訴えられる。続く第2章では「友愛」概念の歴史的展開がまとめられている。そして第3章では汎ヨーロッパ主義者のクーデンホーフ=カレルギーから鳩山一郎、そして鳩山由紀夫へと至る貴族的友愛主義の系譜が、第4章ではキリスト者である賀川豊彦の「友愛」思想とその実践が説明される。ここまでが「友愛」概念を小林氏なりにまとめた部分であり、以降が氏による政治的提言ないしは社会運動論となっている。第5章は「友愛革命による日本ルネッサンスを」と題され、「友愛」に基づく諸変革の重要性が説かれる。そして第6章「友愛世界への道」では、さらに具体的に、日本における「友愛」的政策の理想像が説かれていく。
小林氏が『友愛革命は可能か』および『非戦の哲学』で展開する具体的議論からは、いくつかの特徴が抽出できる。おおむね以下のようなものである。
・平和主義の要として、「反戦」に代えて「非戦」・「墨守非攻」を提唱
・地球的規模での「友愛」ネットワーク構築による社会変革を目指す
・マルクス主義の全面的否定
・スピリチュアリズムへの傾倒および、精神の重視
つまり、戦争の否定と平和主義の立場に立って、地球的規模での「友愛」を唱え、その基盤としては旧来の左翼思想に代わるものとして、精神のあり様そのものを重視していることになる。理論的には後の二つが核心にあり、前の二つはその具体的顕現であると言えるかもしれないし、あるいは前の二つを導くためには、必然的に後の二つの論理が必要とされたのかもしれない。
氏の著作では、従来の左翼思想一般の否定という傾向が顕著である。「反戦」や「平等」、「連帯」といった言葉を使うことを避け、「非戦」、「公平」、「友愛」といったタームを用いているのも、極めて意識的なものである。たとば「自由・平等・博愛」という理念は、氏によれば「友愛・自由・公平」へと置き換えられる(注3)。
更に具体的な一文もある。以下に引用を示す。
「史的唯物論が誤りであり、階級闘争史観もまちがいであり、労働価値説も誤謬であり、したがって搾取論も誤りであり、またプロレタリアート独裁という革命論も、民主集中制を始めとする組織論も運動論も、ことごとく誤りである」
これは『非戦の哲学』226頁からの引用だが、私はこの一文を見たとき、この著者は本当に東京大学で政治哲学を体系的に修めた人物なのだろうかと訝しく思った。どうも権威主義的な考え方で恥ずかしいのだが、東京大学を卒業し、地方の国立大学へ天下るような学者であるならば、たとえ保守的であっても、このような雑駁な物言いはしないで欲しいと思ったのだ。
上記の一文は、リオタールなど、いわゆるポスト・モダニストによる「大きな物語」の否定に対する再批判として差し出された議論の一部である。小林氏によれば、マルクス主義の「大きな物語」が誤りだっただけであり、それをもって「大きな物語」一般を否定することは出来ない、ということになる。なるほど理論的なレベルにおいては的を射た考え方である。
しかしながら、小林氏の議論は驚くほどに悪しきポスト・モダニストのそれに近い。特に科学的・理論的な思考は「唯物論的」であるとして、その限界性を唱え、感性による行動の価値を見直すよう呼びかける態度は、むしろ「大きな物語」一般への批判(社会を包括的に把握・説明できる理論などないという認識)であると同時に、ポスト・モダニズムの淵源たる1960年代後半から70年代初頭のかけての資本主義先進国における「反乱」がもっていた、ニューエイジへの関心を共有しているだろう。
実際、小林氏の議論では、前述したようにスピリチュアリズムへの傾倒が顕著である。本人もそれを隠そうとしていないばかりか、読者に対して積極的にその価値を訴えている。これからあげる具体的事例は、あまりにも常軌を逸していると思われる向きもあるかもしれないので、予め断っておきたいのだが、これは私が氏の議論を誇張し戯画化しているのではない。
私にとって最も衝撃的だった具体的事例をあげよう。氏は2009年に誕生した鳩山政権の意義を高く評価しているのだが、鳩山由紀夫個人に対しても、相当に好意的である。たとえば2010年1月29日の施政方針演説についても「魂が震えるような感動を呼び起こすだろう」と述べ、反応が冷淡なメディアを通してではなくその原文にあたれば「日本政治において、新しい可能性が誕生しつつあることを心で感じることができるだろう」と絶賛している。もともと小林氏がかかげていた「友愛革命」なる概念(すでに『非戦の哲学』に、この用語は見られる)と重なり合うかのように、「友愛」をキーワードとする鳩山が新政権の首相職に就いたのだから、困ったことに思わず熱狂してしまっているのかもしれないが、それだけではない。
小林氏は鳩山由紀夫の配偶者である鳩山幸が雑誌『ムー』で対談を連載した経緯があり、またそれが単行本としても刊行されていることを紹介している。もちろん批判的ないしは揶揄的な意味があるのではない。むしろ「鳩山由紀夫氏は、科学の限界を自覚しているだけではなく、不可視の超越的な世界の存在を信じているようである」、「鳩山首相が夫人の感化もあって、スピリチュアルな「友愛」の理念を抱懐するようになったのは、素晴らしいことだと思われる」といった記述に見られるように(注4)、小林氏はニューエイジや不可知論に、大きな意義を見出しているのである。それにしても、文理を問わず現代科学の理論一般に未だ不足な点があることは確かだろうが、それをもって科学的思考の一般的かつ永久的な「限界性」の証拠であると訴えるのは、彼が批判していた、マルクス主義の不備を論拠に「大きな物語」一般の意義を否定する議論と同様の飛躍ではないだろうか。
(注1)もっとも氏を「左翼」と評することは、左翼から見た場合はもちろん、当人にしてみても不本意なことだろう。
(注2)小林氏の論考は、千葉大学学術成果リポジトリに、いくつかPDFファイルがアップロードされており、ウェブ上で閲覧することが可能である。新刊の内容に近いものとしては、「公共的霊性と地球的平和:新しい平和運動の構築に向けて」などがあるが、これも50ページ近い講演録なので、読み通すには、なかなかの覚悟と忍耐を要するかもしれない。
(注3)語句の順が変わっていることも、おそらく重要である。
(注4)繰返すが、これは私の捏造ないし誇張ではない。どうしても本文にあたって確認したいという慎重な方は、『友愛革命は可能か』100〜104頁、「愛の政治―――夫婦愛と超越的理念」の項を読まれたい。なお、小林正弥氏の研究室のオフィシャルサイトには「日本史上初の「選挙による本格的政権交代」:「友愛革命」への起点となりうるか?」という時事論が掲載されている。この論考の注(4)では、鳩山幸が「大衆的雑誌や右派的雑誌」から、「オカルト的」であると「揶揄」されたとの指摘がある。もちろん小林氏は、これらの「揶揄」に批判的なのだろう。
小林氏は東京大学法学部を卒業し、同大学の助手を務めた後に、千葉大学法経学部・助教授となり、さらに『非戦の哲学』公刊後に教授へと昇進して現在に至る。「公共哲学」を掲げ、リベラリズムに対するコミュニタリアリズムの立場を明示し、「地球平和公共ネットワーク」等、複数の社会運動に積極的に関与している人物である。その社会的影響力がどの程度のものなのか、今ひとつ計り知れないところがあるのだが、運動が持続し、各種NPOとの交流やテレビへの出演なども続いているところを見ると、その議論には一定の需要があるものと思われる。
私は小林氏の学術的な著書には目を通していない。講演録やエッセイ的な小文を読んだことはあるが、氏の議論が政治学の分野で専門的にいかに位置づけられているのかについては知識が無い(注2) 。従ってここでは、氏の一般的著作である新刊『友愛革命は可能か』(平凡社新書、2010年)を中心に、適宜、既刊『非戦の哲学』も引きつつ、あくまで一般的な運動論、現代社会論としての彼の議論を追ってみたい。
なお、引用文中の太字による強調は、すべて筆者が行ったものである。また、一文以上の引用については、本文との混同を避けるため、小林氏の本は青字で、それ以外の本については赤字で示している。
ではまず、小林氏の新著『友愛革命は可能か』の全体の構成を確認しよう。本書は全6章からなっている。まず第1章で、2009年の政権交代により「友愛」を訴える鳩山内閣が誕生したことの「歴史的意義」が訴えられる。続く第2章では「友愛」概念の歴史的展開がまとめられている。そして第3章では汎ヨーロッパ主義者のクーデンホーフ=カレルギーから鳩山一郎、そして鳩山由紀夫へと至る貴族的友愛主義の系譜が、第4章ではキリスト者である賀川豊彦の「友愛」思想とその実践が説明される。ここまでが「友愛」概念を小林氏なりにまとめた部分であり、以降が氏による政治的提言ないしは社会運動論となっている。第5章は「友愛革命による日本ルネッサンスを」と題され、「友愛」に基づく諸変革の重要性が説かれる。そして第6章「友愛世界への道」では、さらに具体的に、日本における「友愛」的政策の理想像が説かれていく。
小林氏が『友愛革命は可能か』および『非戦の哲学』で展開する具体的議論からは、いくつかの特徴が抽出できる。おおむね以下のようなものである。
・平和主義の要として、「反戦」に代えて「非戦」・「墨守非攻」を提唱
・地球的規模での「友愛」ネットワーク構築による社会変革を目指す
・マルクス主義の全面的否定
・スピリチュアリズムへの傾倒および、精神の重視
つまり、戦争の否定と平和主義の立場に立って、地球的規模での「友愛」を唱え、その基盤としては旧来の左翼思想に代わるものとして、精神のあり様そのものを重視していることになる。理論的には後の二つが核心にあり、前の二つはその具体的顕現であると言えるかもしれないし、あるいは前の二つを導くためには、必然的に後の二つの論理が必要とされたのかもしれない。
氏の著作では、従来の左翼思想一般の否定という傾向が顕著である。「反戦」や「平等」、「連帯」といった言葉を使うことを避け、「非戦」、「公平」、「友愛」といったタームを用いているのも、極めて意識的なものである。たとば「自由・平等・博愛」という理念は、氏によれば「友愛・自由・公平」へと置き換えられる(注3)。
更に具体的な一文もある。以下に引用を示す。
「史的唯物論が誤りであり、階級闘争史観もまちがいであり、労働価値説も誤謬であり、したがって搾取論も誤りであり、またプロレタリアート独裁という革命論も、民主集中制を始めとする組織論も運動論も、ことごとく誤りである」
これは『非戦の哲学』226頁からの引用だが、私はこの一文を見たとき、この著者は本当に東京大学で政治哲学を体系的に修めた人物なのだろうかと訝しく思った。どうも権威主義的な考え方で恥ずかしいのだが、東京大学を卒業し、地方の国立大学へ天下るような学者であるならば、たとえ保守的であっても、このような雑駁な物言いはしないで欲しいと思ったのだ。
上記の一文は、リオタールなど、いわゆるポスト・モダニストによる「大きな物語」の否定に対する再批判として差し出された議論の一部である。小林氏によれば、マルクス主義の「大きな物語」が誤りだっただけであり、それをもって「大きな物語」一般を否定することは出来ない、ということになる。なるほど理論的なレベルにおいては的を射た考え方である。
しかしながら、小林氏の議論は驚くほどに悪しきポスト・モダニストのそれに近い。特に科学的・理論的な思考は「唯物論的」であるとして、その限界性を唱え、感性による行動の価値を見直すよう呼びかける態度は、むしろ「大きな物語」一般への批判(社会を包括的に把握・説明できる理論などないという認識)であると同時に、ポスト・モダニズムの淵源たる1960年代後半から70年代初頭のかけての資本主義先進国における「反乱」がもっていた、ニューエイジへの関心を共有しているだろう。
実際、小林氏の議論では、前述したようにスピリチュアリズムへの傾倒が顕著である。本人もそれを隠そうとしていないばかりか、読者に対して積極的にその価値を訴えている。これからあげる具体的事例は、あまりにも常軌を逸していると思われる向きもあるかもしれないので、予め断っておきたいのだが、これは私が氏の議論を誇張し戯画化しているのではない。
私にとって最も衝撃的だった具体的事例をあげよう。氏は2009年に誕生した鳩山政権の意義を高く評価しているのだが、鳩山由紀夫個人に対しても、相当に好意的である。たとえば2010年1月29日の施政方針演説についても「魂が震えるような感動を呼び起こすだろう」と述べ、反応が冷淡なメディアを通してではなくその原文にあたれば「日本政治において、新しい可能性が誕生しつつあることを心で感じることができるだろう」と絶賛している。もともと小林氏がかかげていた「友愛革命」なる概念(すでに『非戦の哲学』に、この用語は見られる)と重なり合うかのように、「友愛」をキーワードとする鳩山が新政権の首相職に就いたのだから、困ったことに思わず熱狂してしまっているのかもしれないが、それだけではない。
小林氏は鳩山由紀夫の配偶者である鳩山幸が雑誌『ムー』で対談を連載した経緯があり、またそれが単行本としても刊行されていることを紹介している。もちろん批判的ないしは揶揄的な意味があるのではない。むしろ「鳩山由紀夫氏は、科学の限界を自覚しているだけではなく、不可視の超越的な世界の存在を信じているようである」、「鳩山首相が夫人の感化もあって、スピリチュアルな「友愛」の理念を抱懐するようになったのは、素晴らしいことだと思われる」といった記述に見られるように(注4)、小林氏はニューエイジや不可知論に、大きな意義を見出しているのである。それにしても、文理を問わず現代科学の理論一般に未だ不足な点があることは確かだろうが、それをもって科学的思考の一般的かつ永久的な「限界性」の証拠であると訴えるのは、彼が批判していた、マルクス主義の不備を論拠に「大きな物語」一般の意義を否定する議論と同様の飛躍ではないだろうか。
(注1)もっとも氏を「左翼」と評することは、左翼から見た場合はもちろん、当人にしてみても不本意なことだろう。
(注2)小林氏の論考は、千葉大学学術成果リポジトリに、いくつかPDFファイルがアップロードされており、ウェブ上で閲覧することが可能である。新刊の内容に近いものとしては、「公共的霊性と地球的平和:新しい平和運動の構築に向けて」などがあるが、これも50ページ近い講演録なので、読み通すには、なかなかの覚悟と忍耐を要するかもしれない。
(注3)語句の順が変わっていることも、おそらく重要である。
(注4)繰返すが、これは私の捏造ないし誇張ではない。どうしても本文にあたって確認したいという慎重な方は、『友愛革命は可能か』100〜104頁、「愛の政治―――夫婦愛と超越的理念」の項を読まれたい。なお、小林正弥氏の研究室のオフィシャルサイトには「日本史上初の「選挙による本格的政権交代」:「友愛革命」への起点となりうるか?」という時事論が掲載されている。この論考の注(4)では、鳩山幸が「大衆的雑誌や右派的雑誌」から、「オカルト的」であると「揶揄」されたとの指摘がある。もちろん小林氏は、これらの「揶揄」に批判的なのだろう。