訳註
[1]
ここでの「意味」は、BedeutungとSinnのBedeutung、つまり語の指示対象のことです。ウィトゲンシュタインは『論考』で、BedeutungとSinnの区別に基づく対応説的な意味論を展開しましたが、『探究』ではこの方向からのアプローチは採用されません(一貫して二つの用語は頻出しますが)。代わりに提示されるのが、一種行動主義的な「語の使用を見る」アプローチです。
行動主義については
第307節と
第308節も参照。
[2]
以下の文章も参照。
「クレタの嘘つき。」「私は嘘をついている」と言う代わりに、「この命題は偽である」とも書くことができよう。それに対する答えはこうなろう。「よろしい、だがあなたはどの命題を意味しているのか。」 ―― 「この命題である。」 ―― 「なるほど、しかしそのうちのどの命題が問題なのか。」 ―― 「これである。」 ―― 「なるほど、それでこれとはどの命題を指しているのか。」等々。彼は完全な命題に到達するまで、自分が何を意味しているのかを私たちに説明できまい。 ―― また次のように言うことができる。つまり、その根本的な誤りは、ある言葉、例えば「この命題」という言葉がそれの対象を表さないで、その対象をいわば暗示する(遠くから指し示す)ことができる、と考えていることにある、と。
(『断片』第691節)
[3]
微分幾何学では直線や点は曲線の「退化した」形と見なされます。
[4]
フレーゲは、命題の書き手が当の命題が真であることを主張するかしないかによって、主張力を持つ命題と、ただイメージを喚起するだけの記号結合を区別しました。前者が「判断」、後者が「表象結合」または「内容」(ウィトゲンシュタインがここで言う「想定」のこと)と呼ばれます。この結果、字面は同じに見える命題も、判断か表象結合のどちらかに分類されることになります。以下にフレーゲ自身の言葉を引用します。
判断は、常に、記号
|―
を用いて表現するものとする。そしてこれは、判断の内容を示す記号または記号結合の左に書かれる。水平な線の左端にある小さな垂直な線を省くと、この判断は単なる表象結合に変わり、[判断の]書き手は、それを真と認めるか否かについては何も表現しないことになる。たとえば、
|―A
が、「反対の磁極は互いに引き合う」という判断を意味するものとしよう。すると、
―A
は、この判断を表現するのではなく、反対の磁極は互いに引き合うという表象を単に読み手のうちに呼び起こすにすぎないのであるが、それは、たとえば、そこから帰結を導き、そして、これによって思想の正しさを吟味するためである。われわれは、このような場合には、「―ということ」あるいは「―という命題」という語で書き換える。
(『概念記法』pp.10-11)
フレーゲの「内容」と「主張」の区別は、日本語の文法形式に慣れている人間にとって、決して自明とはいいがたいものですが、ドイツ語や英語を母語とする場合は自然な発想です。というのも、「内容」とか「想定」というのは、文法単位として見れば、ドイツ語のdass節、または英語のthat節に対応するからです。
「that he is kind」というthat節は、これだけでは真偽を主張する力を持たない、これが主張力を持つためには、「I think」、「It is not the case」などの句を付け加える必要がある、フレーゲはそう考えたのでしょう。
[5]
この段落においてウィトゲンシュタインが表明しているのは、フレーゲの文脈原理 ―― 語の意味は文全体の中で問うべきであり、語の意味を孤立させて問うてはならない ―― の支持です。最初の段落にも、「これこれであること」は言語ゲームにおける指し手ではない、という言葉があります。これも、言語ゲームにおいて有効な指し手は必ず文でなくてはならず、文節や句ではないという、ウィトゲンシュタイン流の文脈原理の表明です。ただし、フレーゲが数字、図形の形態、直線の方向など限定された表現にのみ文脈原理を適用したのに対し、ウィトゲンシュタインは適用範囲を最大限に一般化し、任意の語に対して文脈原理を適用します。
ウィトゲンシュタインはかつて『論考』において文脈原理の支持を表明しましたが、この節は『論考』以後それが現れる最初の箇所です。
第41節と
第49節も参照。
[6]
ラッセルが「論理的原子論の哲学」で述べた考えです。ラッセルは、固有名もまた「省略された確定記述句」であり、本来の固有名(論理的固有名)は「これ」とか「あれ」だけである、と考えました。ラッセルがこのような思想に到達した理由を理解するには、『数学の原理』の存在論と、「表示について」におけるその修正を理解せねばなりません。一言で言えば、「現在のフランス国王」のような空な確定記述句に対応する存在者の存在が否定されたことを受けて、「ペガサス」のような空な固有名に対応する存在者も承認されなくなったためです。詳しくは、「論理的固有名を求めて」『言語哲学大全』第I巻を参照。
[7]
Satzzusammenhang は、フレーゲが『算術の基礎』の
序文で文脈原理を主張するときに使った造語です。従ってこれを「文脈」と訳してもいいのですが(実際、黒崎訳ではそうなっている)、日本語で文脈と言うと通常は「複数の文の間の関係」や「発話状況」の意味になってしまうので、「文という関連」と訳しました。
[8]
ここで批判されている「語が指示する対象を語の意味とみなす」ことは、一般に「意味の物化(hypostatization, reification)」と呼ばれます。この方向を突き詰めると、初期ラッセルのように「あらゆる語の意味はそれが指示する存在者である」という極端な実在論へ傾くことにもなります。しかし、この方針を採用する意味論には大きな困難がつきまとうため、いくら直観的に理解しやすくとも、採用するべきではありません。
後にクワインも、「名指すこと(naming)と意味すること(meaning)を混同している」として意味の物化を批判しました。「何があるのかについて」『論理学的観点から』(岩波書店 1972)を参照。
[9]
「命題の分析」とは、複合命題をより単純な命題の真理関数によって表現しなおすことです。この分析を究極まで推し進めた結果得られる命題が要素命題です。前期のテキストである『草稿』
1914年9月20日も参照。
[10]
家族的類似性は可能無限を支持する構成主義の立場から生まれたものだと、個人的には考えています。ウィトゲンシュタインはここで「全てのゲームに共通のもの」、伝統的な哲学の用語を使うなら「イデア」と呼ばれる概念を批判しますが、それはイデアが実無限を前提しているからです。現実に存在するゲームの数は常に有限で、常に新しいゲームが生まれる余地があるのに、どうして「全てのゲーム」という飛躍した観念の存在を許容することが正当化できるでしょう? それゆえ、人間に許されることはただ、現実に存在するゲーム同士の間の共通項を数え上げることだけです。その共通項は、ひょっとすると現存のゲームの全てについて”偶然”当てはまるかもしれません。しかし、明日新しいゲームが考案されたときには、それが当てはまらないこともありえます。人間の持ち駒を現実のゲームの集合という有限集合だけに限る立場では、イデアという実無限的な概念が許容される余地はありません。
[11]
例えばフレーゲの以下の文章を参照。
我々は、次のようなことを要求します。つまり、概念はどの項に対しても値として一つの真理値をもつこと、どの対象に対しても、それが当の概念に帰属するか否かが確定されているということです。換言すると、我々は、概念に関してはその明確な境界づけを要求しているのであり、この要求が充足されないならば、概念に関する論理法則を定めることが不可能となるでありましょう。
(G.フレーゲ「関数と概念」[1891]『フレーゲ著作集 第4巻』p.32)
[12]
ウィトゲンシュタインがここでイメージしている立方体の見取り図は下図のようなものです。
「これを持ってこい!」と言われたとき、この図を立方体として解釈した人はサイコロを持ってくるでしょうし、平面図として解釈した人は、こういう形の紙の切抜きをもってくるでしょう。
[13]
「異なる分野の表現形式の間の類比」とは、例えば、「川が流れる」という表現から、「時が流れる」という表現を作り出すことです。日常言語にはこのような類比的表現が多くありますが、そのほとんどは類比に正当な理由があって使われるのではなく、慣用としてほとんど無自覚に使われます。(時を川のように流れるものとイメージすることに正当な理由があるかどうか、日常生活の中で気にする人は少ないでしょう。)
[14]
「ある表現形式を別の表現形式で置き換えること」で念頭におかれているのは、恐らくラッセルの記述理論です。記述理論については、
79節およびラッセルの
「表示について」を参照。
[15]
第93節-
第95節には、興味深い見解が示されています。まず注意しなくてはならないのは、命題(Satz)と命題記号(Satzzeichen)が区別されて使われていることです。命題がタイプ、命題記号がトークンに当たりますが、
ラムゼイも指摘するように、ウィトゲンシュタインは既に『論考』のときから一貫して、命題をトークンとして捉えています。
これと同じ見解が、
『青色本』でも述べらています。ただし、こちらではキマイラの代わりに「影」という語が使われています。
[16]
以下を参照。
私たちの日常言語の全ての命題は、事実そのあるがままの姿で、論理的に完全に秩序づけられている。 ―― 私たちがここで述べるべきかの最も単純なものは、真理の似姿ではなく、真理そのものである。
(私たちの問題は抽象的ではなく、おそらくは存在するもののうちで最も具体的な問題である。)
(『論考』5.5563)
[17]
第95節と
第114節も参照。
[18]
命題変項は命題関数のことです。『論考』3.313、3.314、3.316などを参照。
[19]
ここでウィトゲンシュタインは、フレーゲとラッセルによる数の定義を念頭に置いていると思われます。二人は、自然数を定義する際、0から始めて順次帰納的に定めるという方法を採用しました。そのため自然数は「帰納的数」(ラッセル)とも呼ばれます。この節の「命題の帰納的系列」という表現は、そうした自然数の定義と比較させるためのものでしょう。フレーゲとラッセルの数の定義方法の詳細については、ラッセルの
「無限公理」および、私の解説
「世界には何個のものがあるのか」を参照。
[20]
以下141節までが、有名な心理主義批判の議論です。
この議論ををまとめた文章がありますのでそちらも参照。
[21]
傾向性は、潜性、傾性とも訳され、物や人間の持つ潜在的性質を意味します。例えば、「ゴムは茶色である」と言われるときの「茶色」という色が顕在的性質であるのに対し、「ゴムは絶縁体である」というときの絶縁性は潜在的性質です。つまり、物がある特定の状態にあることではなく、ある特定の条件下に置かれるならばある特定の状態になることを意味するのが、この傾向性という概念です。
しかし、顕在的性質と潜在的性質の区別は明確につけられるのか、その有無を感覚によって判断できないのに存在を認めるべきか、など色々と問題含みの概念のため、ライル、カルナップ、グッドマンら多くの哲学者(特に現象主義的な哲学者)が分析の対象としました。
[22]
なぜ理解が心的過程ではなく、痛覚の増減や音を聴くことが心的過程であるのか。ウィトゲンシュタインはその違いを、持続時間の有無を基準として判断しています。
第151節で、「理解は一瞬のうちに起こる」と述べられています。つまり理解は時間の長短という性質を持ちません。一方、痛覚の増減や音を聴くことは、明らかに、必ず一定の持続時間を必要とします。
[23]
ここでは、像の適用方法(解釈方法)には多用な種類がありえるのであり、ただ一つの適用方法だけが像にあらかじめ結びついているのではない、という事実に読者の注意を向けさせています。機械の像には、普通、ある一つの動作が結びついていると考えられています。しかし、それ
だけが可能な動作の全てだと言うことは、誰にもできません。
像とその適用方法の多様性という主題については、
第85節と
第139節も参照。
[24]
もし意図するという行為(A)の後に意図された行為(B)が続くことが経験的な関係であるとすれば、「AならばB」という命題は経験的命題です。そして経験的命題は、それを偽にする可能的状況を記述することができます。例えば、「私はチェスをしようと意図した。そして実際には将棋をした」という状況が可能である、ということです。しかし現実にこんなことが起こるとは考えられません。(「心変わりをして急に将棋をしたくなったらそういう状況も起こりうるのではないか?」という反論は、認められません。その場合でも将棋をする直前には「将棋をしよう」という意図が存在するはずだからです。) ゆえに、AとBの関係は経験的関係ではありえない、ということになります。
[25]
クリプキがその独自の解釈を展開する始点として注意を喚起したことで知られる一文です。ここでウィトゲンシュタインは「懐疑論的パラドクス」を提出し、なおかつそれを受け入れているのだ、というのがクリプキの解釈です。彼の解釈が誤解であることは既に常識とされていますが、その議論の持つ影響力は大きなものでした。『ウィトゲンシュタインのパラドクス』を参照。
[26]
計算の芸術家(Kunstrechner)は、
第233節の授業に登場する生徒たちと同じ種類の人間です。彼らは芸術家のようにインスピレーションに従い、作曲するように計算を行います。そして正しい結果に到達しても、その方法を他人に説明することができません。インスピレーションに従うことは伝達可能な技術ではないからです。
しかし、もし計算がこのような仕方で行われるものだとしたら、その方法もまた伝達不可能であり、日々小学校で行われている算術の授業は全くの無駄であることになります。ところが私たちは、算術を教え、教わることが可能であることを、経験的に知っています。ゆえに「インスピレーションに従うことと規則に従うことは同じではない」(
第232節)ということになります。
[27]
この命題は、ア・プリオリな命題の例としてカントがよく使ったものです。
私は分析的判断を作るために、その判断において私のもっている主語概念のそとへ出ていく必要はない。それだからまた経験の証言を必要とするものでない。「物体は拡がりをもつ」という命題はア・プリオリに確立されている。従ってこの命題は、経験判断ではない。
(『プロレゴメナ』(岩波書店 2003)p.36)
[28]
シュレミールは、シャミッソーの『影をなくした男』(1814)の主人公です。彼は無尽蔵に金貨を生む「幸運の金袋」と引き換えに、悪魔に影を売り渡します。
[29]
ブラウワーが決定不能問題の例としてよく引用したものの変形です。井関清志・近藤基吉『現代数学 ―― 成立と課題』(日本評論社 1977) p.163も参照。
[30]
1920年代後半から30年代前半にかけてのテキストである『考察』やその当時の講義で頻繁に登場していた「検証」の概念は、『探究』ではほとんど姿を消します。この節は数少ない例外です。検証主義についてはシュリックの
「意味と検証」が分かりやすいでしょう。
[31]
司教とアーデルハイトは、ゲーテの戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の登場人物です。この戯曲の第ニ幕第一場は、二人の勝負が終盤に差し掛かったところから始まります。
[32]
「思考は命題において知覚可能な形で表現される」(『論考』3.1)
[33]
日本語だと何を言っているのか分かりませんが、ドイツ語では「der Mensch ist
ein guter(この人はいい人だ)」のように、名詞にかかる形容詞 gut が名詞の性に引っ張られて変化します(この例だと、一見、述語的用法に見えますが、冠詞 ein が付いているので、Mensch が省略されていると考えてください)。これと同様の変化が、フランス語では形容詞が述語として使われるときにも起こる、という意味です。