【「立川文庫」前からの講談ネタ確認】
本紙に拙文「猿飛佐助のルーツ」が掲載されたのは、1996年12月14日のこと。その概要は、「『猿飛佐助』を、明治末の上方講談師玉田玉秀斎や、その親族山田阿鉄(おてつ)ら立川文庫の執筆集団の創作としている文学辞典などの記述は完全な誤りである」ということであった(※立川文庫は明治末期から大正中期にかけて大阪の立川文明堂から刊行された小型の講談本)。
しかし今年に入っても、一部のローカル紙や古書通販誌、児童文学史などで、相変わらず間違った記述がなされている事を発見。しかもそれらは、私が誤りと指摘しておいた、池田蘭子著の小説「女紋」、並びに足立巻一著「立川文庫の英雄たち」からの引用であった。
幸いにして今春、兵庫県の姫路文学館より立川文庫についての講演依頼があり、少し資料を整理した。そして前回の記述の時に見つけられなかった新資料も出たので、再度発表させて頂く。
「立川文庫の英雄たち」では、明治36(1903)年4月に中川玉成堂より出版された「真田諸国漫遊記」(玉田玉秀斎講演、山田酔神=阿鉄の筆名=速記)を猿飛佐助の初出とし、「女紋」には「阿鉄の頭には・・・四国の石槌(まま)山が浮かんだ。ふもとにかかっている猿飛橋・・・『頭韻を踏んで猿飛佐助、いい名だろう』。みんなそれに賛成した」という記述もある。
私はそれに対し、その前年の35年11月に岡山偉業館が出版した「真田昌幸」(西尾魯山講演、井下士青速記)に「忍術の妙を得たる譜代の家来猿飛佐助・・・」という記述のある事を紹介。それを初出とした。しかし、講談速記本の猿飛佐助の初出は、さらに古くなった。
明治34年2月博多成象堂出版「真田大助」(神田伯龍講演、丸山平次郎速記)の46ページに、「我が家来のうち猿飛佐助と云ふ忍術の妙を得ましたるものを・・・」という記述を発見した。これが私が確認し得る猿飛佐助の、講談本初登場である。
さらにその前年の33年6月発行の「難波戦記夏合戦」(出版事項は真田大助に同じ)の178ページに「かねて己れの幕下につけたる霧隠の才蔵と申合せ」という記述のあるのも見つけた。つまり、猿飛佐助や霧隠才蔵は、立川文庫以前から存在し、講釈師仲間では、ポピュラーであったということなのだ。
立川文庫の「猿飛佐助」は、明治43年9月出版の「猿飛佐助」、それに続く「由利鎌之助」「霧隠才蔵」(いずれも玉秀斎講演、山田唯夫速記、松本金華堂)の3部作のダイジェストにすぎない。また、立川文庫の「真田幸村」は、前述神田伯龍の「難波戦記」「同冬合戦」「同夏合戦」の3部作のダイジェストである。
この当時は、著作権思想もなく、ましてや講談師共有のネタということもあり、各社同じような状況であった。また、立川文庫の表紙の押し型に使われている「蝶々」は、山田家の女紋の「揚げ羽蝶」と言われているが、「大阪百年」(毎日新聞社刊)にあるように、立川文庫の創設者、立川熊次郎が、先行する袖珍文庫の押し型、イチョウをチョウにしたとする方が正しいであろう。
実は立川熊次郎は、立川文庫の同時期に「水戸黄門」を第一編とする傑作文庫を出しており、こちらの表紙の押し型は「鳥」である。私は飛ぶように売れてほしいという、熊次郎の願いがこもっているように思うのである。
拙文「明治期大阪の演芸速記本基礎研究正続」(たる出版)を参照して頂きたいが、書き講談は立川文庫以前から存在していたことも、事実である。立川文庫を「女紋」と「立川文庫の英雄たち」で論ずるのは、危険であると考えている。
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