「桜井淳基礎事項」
1975年(昭和50年)8月、京都府左京区修学院南代の星野芳郎氏(元立命館大学経済学部教授・技術史家・技術評論家)の自宅を訪問し、技術論研究の指導を受けました。1988-2000年(昭和63年-平成8年)の間、『週刊エコノミスト』『経済評論』等を中心に、星野芳郎氏と対談しました。それらをまとめたものが『桜井淳著作集第6巻-星野芳郎との対話-』です。2006年(平成18年)4月、神奈川県川崎市麻生区の星野芳郎氏(前述肩書きにその後の元帝京大学経済学部教授追加)の自宅を訪問し、技術論研究のライフワークの進捗状況について質問し、技術論研究の今後の課題等について指導を受けました。
専門の物理学以外では20歳台から科学論・技術論・安全論・科学史・科学哲学・哲学の文献を熟読しました。そして、1988年から現在まで集中的に技術論・安全論の研究成果を発表しました。そして、2004年(平成16年)4月から今日まで、これまでの社会科学の研究成果を基に、社会科学で博士論文を作成するため、東京大学大学院総合文化研究科の研究生(2004年4月-2006年3月の2年間)として、科学技術社会論の研究に携わっています)。学位論文執筆中。2009年4月より、東大大学院人文社会系研究科の神学哲学ゼミに出席しています。
技術論・安全論の研究では、それまでの推進・反対という単純な運動論レベルの議論ではなく、設計条件に遡り、技術基準の成立性への疑問まで含め、根源的な問題提起を行いました。原子炉物理学・原子炉安全解析をとおし、原子力の基礎研究に携わったが、一度も推進の旗振りはせず、客観的な立場から安全確保の方法を提示しました。
これまで、理学・工学・社会科学の研究の手法を習得し、現在(2009年4月)、東大大学院人文社会科学系研究科で神学哲学を学んでおり、原研や東大の社会的使命や価値観に制限されたり、その枠内に留まったり、座標系の原点をそこに置こうと考えたことは、一度も有りませんでした。あえて言えば、風力発電などを推進する"ソフトエネルギー推進派"です。2004年以降、東大での研究成果を生かすため、研究の方法や成果の発表方法を転換し、今は、人文社会科学の学術誌を中心に執筆しています。
「建築家安藤忠雄論」(2010.3.9追加)
約7年前の冬、日本原子力学会の研究専門委員会の会合終了後、東大大学院工学研究科の教授と打ち合わせのため、東大本郷へ立ち寄ったところ、偶然にも、安田講堂(定員約1500名)で安藤忠雄教授の退官記念講演が予定されており、開演前、安田講堂前から正門まで数珠つなぎの人並みができており、安藤教授は、講演後、定員オバーで入れなかった約300名に向かって、野外で約30分間の追加講演を行っていましたが、それだけ人々を引き付ける魅力が何なのか、不思議に思ったことがありました。
「建築家安藤忠雄」(新潮社、2008)
2009年6月20-21日の4:00-5:00、NHKFMで、安藤忠雄氏へのインタビューが放送され、インタビューアの質問に応え、安藤氏は、興味深いことを話していました。
要約すると、①子供の頃、大工さんが家を作っている現場を見て、建築というのは面白いと感じた、②高等教育を受けていなかったため、工学部建築学科に通学している友人から使用している教科書を教えてもらい、それらを片っ端読んだところ、ある程度分かるものの、教養が足りないことを痛感、③欧州各国の建築物見学、④帰国後、事務所を構え、仕事のチャンスを待ったが、なかなかなく、それでも、大阪というところはおもしろいところで、何の学歴もなく、何の実績もない若造に仕事を与えてくれた物好きが現れ、大阪だからできたことであり、東京だったら、まず、無理だった、⑤特徴的なコンクリート打ちっぱなし工法は、オリジナルなものではなく、代々木公園の構造物等、多くの例があるが、その工法を独自の哲学で住宅や公共施設に応用した、⑥コンペで採用されたのは、10回応募して1回くらいで、ほとんど落選していたが、それでも、勉強になり、失敗から学ぶようにしてきた、等。
総合すれば、安藤氏は、非常に積極的な人生を歩んできたと解釈できます。
NHKテレビ22:50-23:00の「私の1冊」で、安藤氏は、愛読書として、幸田露伴「五重塔」を挙げ、主人公の五重塔建設に対する考え方、すなわち、「その仕事はオレにしかできず、ぜひ、オレに任せてくれという自信と責任感から学んだ」と語っていました。
安藤氏は、いま、67歳になりますが、少年の目のように、夢を追いかけ、いまなお、キラキラ光っています。安藤氏が、何の学歴がないにもかかわらず、ハーヴァード大客員教授、イェール大客員教授、東大教授に就任できたのは、世界を相手にしたコンペで数十件も採用された実績と世界の建築関係の代表的な賞を十数件も受賞したことです。そこには誰もが認めなければならない客観性があるからです。
東大は、最近、名誉教授の中から、突出した業績を上げた者に特任名誉教授を設けましたが、これまで3名に授与され、そのひとりが安藤氏です。東大は、入学式で、安藤氏にあいさつの機会を与える等、特別扱いしています。東大は、形式的・官僚的だけでなく、安藤氏を特別扱いするだけの柔軟性も備えていることが読み取れます。
私の趣味は、建築学であって、これまで世界の歴史的建築物、さらに、高層ビル等の建設現場や完成した建築物を見学して知識の集積に務めてきましたが、安藤氏の作品や著書等を検討し、やっと、「安藤忠雄論」が書けるようになりました。
安藤忠雄『建築家安藤忠雄』(新潮社、2008)の感想を述べてみたいと思います。「安藤忠雄論」の構想については、先に述べましたが、安藤氏の人生と思想の詳細を把握するために、安藤氏の初めての自伝を熟読してみました。
先に述べたことに、①安藤氏を東大に招聘したのは東大鈴木博之教授(建築史専攻)(232p.)、②安藤氏が設計した東大本郷の福武ホール(赤門と正門の塀ぎわの数十本のクスノキに並列に建設された奥行き約10mで2F2Bの鰻の寝床のような建物)は、20年前に直島プロジェクトの依頼を受けたベネッセコーポレーション(旧福武書店)の福武総一郎元社長からの寄付金によって建設され、人間関係からして、安藤のボランティアによる設計(228p.)であったことを補足しておきます。
この本には、数多くの写真が挿入されていますが、対象が対象だけに、本文との関係で具体的なイメージを作ることができ、理解を助けているように思えます。
安藤氏は、ゲバラの思想に共感し、ゲリラ的建築設計(事務所はゲリラ拠点)をしてきました。情熱家・努力家・勉強家で、野心的な仕事を売り込むのがうまく、関西財界人との人間関係を築き、仕事を拡大して行きました。
安藤氏が建築家として成功したのは、建築への大きな夢、ポジティブ思考、独学精神が高く、大阪という土地柄に助けられ(「大阪では、実績のない若造にも仕事を与えてくれるが、東京ではそうは行かず、東京だったら成功しなかった」と回想しています)、現代社会の不合理面への反逆心が強く、少年のようにキラキラした目(表紙の写真参照)をした永遠に休むことのない努力家という印象を強く受けました。意外と高い建築哲学を持っていることが読み取れます。
安藤氏は、大学ではなく、実務をとおして社会から学ぶ実学派です。「だから、仮に私のキャリアの中に何かを見つけるとしても、それはすぐれた芸術的資質といったものではない。あるとすれば、それは、厳しい現実に直面しても、決してあきらめず、強かに生き抜こうとする、生来のしぶとさなのだと思う」(p.381)。「光と影。それが、40年間建築の世界で生きてきて、その体験から学んだ私なりの人生観である」(p.382)。
安藤氏は、傑出した建築家にとどまらず、大変優れた哲学者でもあります。大変感銘した一冊でした。
「作家五木寛之論」(2010.3.9追加)
私は、「旧約聖書」「新約聖書」や「ナザレのイエス」「ユダヤ教の精神構造」のようなの学術書だけでなく、「新約聖書物語」「神の発見」「梅原猛著作集第9巻三人の祖師」「般若心経について」「チベットのモーツアルト」「ユダヤ教の歴史」のような啓蒙書も読んでいます。特におもしろくて分かりやすいと感じたのは梅原猛・中沢新一・犬養道子・瀬戸内寂聴・五木寛之の解説です。仏教は、専門ではありませんが、比較宗教学の視点から研究しています。
表現法や内容が受け入れられるか否かにかかわりなく、非常に冷静で淡々と語っているのは、作家の五木寛之氏です。
五木氏は、1932年生まれですから、78歳になります。五木氏は、早大文学部露文科卒後、若くしてベストセラー作家となり、代表作として、34歳で「さらばモスクワ愚連隊」(第6回小説現代新人賞)、35歳で「蒼ざめた馬を見よ」(第56回直木賞)、35歳で「青年は荒野をめざす」、36歳で「風に吹かれて」、44歳で「青春の門」(第10回吉川英治文学賞)(この10冊のシリーズは総数2000万部の歴史的ベストセラーとなりました)、49歳で一時休筆して、京都にある浄土真宗(親鸞)の龍谷大学で仏教を学び、その後、文壇に復帰、仏教については、「蓮如-われ深き淵より-」「生きるヒント」「大河の一滴」「人生の目的」「運命の足音」「不安の力」「元気」「気の発見」「神の発見」「人生の覚悟」等の作品があります。
読んで感じることは、五木氏は、人間的に、大変真面目で、誠実で、勤勉で、しかも、がまん強く、常に冷静で、淡々と語り続けており、読者に、人間としての価値・魅力・能力・主張がよく伝わるような表現をしており、希に見る人生への積極的な姿勢が読み取れる作家のひとりのように思えました。作家は、誰しも、自身の体験を題材にしていますが、「青春の門」や「青年は荒野をめざす」には、五木氏の体験の試行錯誤の跡が記されており、五木氏の心の変遷を読み取る上で貴重な資料です。
JR京都駅近くにある龍谷大学本部______________西本願寺(龍谷大学本部の隣、訪問時閉門)
東本願寺(西本願寺の約200m東側)
特に、ベストセラー作家でありながらが49歳で学士入学し、しかも、仏教を学ぶということは、誰にでもできることではありません。人生について特に感じることがあってのことでしょう。その年齢は、人生の一区切りというだけでなく、同時に、迷いが生じ、人生の最終的な目標は何かについて考えるようになります。五木氏が仏教を学ぼうとした心境については、私自身の神学哲学の研究の経験からも、よく分かります。宗教を研究対象にすることと信仰対象にすることは別次元の問題です。
読者の中には、五木氏のように、腰が低くて本音で悟りきったような哲学の展開に、違和感どころか、揶揄すらする者がいますが、私は、どちらかというと、積極的に受け入れる立場にあり、学問や人生に対する積極的な姿勢には、なお、学ぶべきことが多くあるように感じています。五木氏は、全作品をとおして、人間とは、人生とは、について、問いかけているのです。すでに哲学者と言ってもよいでしょう。
五木寛之「親鸞(上、下)」(講談社、2010)
最近、五木寛之「親鸞(上、下)」(講談社、2010)を熟読しました。上下とも約300頁で、全国27の地方紙に連載されたものです。この作品は、小説であって、史実に忠実な学術書ではありませんが、仏教の高度な専門知識と親鸞の人生と思想遍歴を熟知していなければ、書くことのできない内容です。上巻では8-19歳まで(氏名は忠範から範宴へ)、下巻では19-33歳まで(範宴から間置いて善信へ)の比叡山延暦寺や六角堂での修行(比叡山延暦寺から京都の真ん中の六角堂まで毎日通ったと記され、直線距離で約10kmで可能なように思えますが、その大半は比叡山の勾配のきつい山道であることを考慮すると、不可能な苦行)、越後への流罪(流罪が決まってから自ら親鸞と改名、歴史的には流罪の真の原因は分かっていません)への経緯が記されています。
私には比叡山での苦行の内容(湿気・寒さ・空腹・寝不足については、説明するまでもなく、若い頃には掃除や薪割り、それが済むと読経、さらに、修行が進むと高度ないろいろな経の1000回にも及ぶ繰り返し、選ばれた一部の指導者に対して、究極的には、1000日峰行(最初の3年間は比叡山の山歩きを日に30km100日間、4-5年目は日に30km200日間、6年目は日に60km100日間、7年目は日に60km200日間)等の修行の無限の深さ・・・・・・五木氏の本にはこの記述はありません)が大変参考になりました。反面、五木氏が小説としてさまざまな設定をし、最も大きなウェイトを置き、くどいように展開した救済の本質的解釈については、あまりにも自明なことであり、なぜ、くどくどと繰り返すのか疑問に感じました。下巻の数箇所に見られる度肝を抜かれるストーリー展開に、驚きを通り越し、恐怖さえ感じました。この作品には「青春の門」にはない年齢相応の哲学的思索の成果が記されており、作家として、哲学者として、ライフワークと位置づけられる出来栄えです。
五木氏は、大江健三郎氏とともに、作家として、哲学者として、最も高い位置に登りつめた作家です。「親鸞」を読むとそのことが良く分かります。
なお、親鸞は、流罪を勅免された直後、45歳の時、家族とともに、常陸の国(今の茨城県)の稲田(今の笠間市稲田)の西念寺を中心に、常陸の国、特に、北部一帯(今の常陸太田と常陸大宮)等で、約20年間、布教活動をしていた時期があり、常陸の国の24の寺には、親鸞や弟子の遺跡が残されています。私の住む水戸市にも徒歩で訪れることのできる関係する寺院が三箇所(信願寺・善重寺・報仏寺)あります。園部公一「常陸の親鸞」」(東泠書房、2004)を手がかりに、信願寺(2010.1.26訪問、バックナンバー写真参照)や笠間市稲田の西念寺(2010.1.29訪問、バックナンバー写真参照)の他、これから県内のすべての関係寺院を訪ね歩きたいと考えています。
「作家大江健三郎論」(2010.3.9追加)
作家の大江健三郎氏は、30歳の時、「ヒロシマ・ノート」(岩波新書、1965)を発表しました。その書は、これまで83刷に達し、多くの人々に思考の深さを知らしめました。大江氏は、その前の年に、自身の長男が障害を持って生まれ、失意の中、それをテーマにした純文学作品「個人的体験」(1964年に書き下ろし、新潮社からは1994年に刊行)を発表しました。次ぎの仕事として、やはりお子さんを亡くして悲しみの中の「世界」編集部の安江良介氏とともに、広島を訪問しました。大江氏のそのレポートは、実によく人間を考察し、重厚な社会科学の論文になっており、改めて大江氏の実力を再確認しました。大江作品は、人間の根源的な「生きる力」をテーマにしていますが、それは、自身のお子さんへの愛と苦悩をとおし、人一倍、人間に対する優しさのようなものが育まれた結果です。実に力強い作品に仕上がっています。
大江健三郎「個人的体験」(新潮社、1994)
私は大江作品をすべて熟読・吟味しています。大江氏は、思考が深く、人間の本質を追究しており、哲学の世界です。大江氏の「沖縄ノート」(岩波新書、1970、56刷)等には、思わず、震え上がる真実が記されています。
大江氏は、他の作品の中で、訪問先の広島の爆心地の川で行われた死者の霊を弔うための"精霊流し"に、生存している長男の氏名を記して流したと告白しています。障害を持った長男に対する苦悩の表現と解釈できます。しかし、この話は、ここで終わらず、大江氏は、つぎに広島を訪れた時、自身のそれまでの行為を恥て、今度は、自身の氏名を記して流したと告白しています。それは、家族や長男への謝罪の意思表示だけでなく、さらに、自身の弱さの克服であり、震え上がるような真実です。
普通の人は、安易な選択をしたかもしれませんが、大江氏は、あえて、困難に積極的に対面し、克服するための人間の強さを作品を通して表現してきました。そのことに最大限の賞賛を送ります。私は、大江氏が、なぜ、ノーベル賞を受賞できたのか、良く理解できます。作家は、一般の人間と異なり、自身の人生のネガティブな側面を題材に、 人間の本質を掘り下げています。大江氏は、何も隠さず、そのことを積極的に語りかけています。
「千寺巡礼」(2010.3.9追加)
作家の五木寛之氏には「百寺(ひゃくじ)巡礼(1,2,3,4,5,6,7)」(講談社文庫)という作品があります。大変良い作品です。桜井淳は、2009年4月(東大大学院人文社会系研究科で神学哲学の研究を開始)より、比較宗教学の視点から独自の研究視点を基に、改めて、京都・奈良・鎌倉・北鎌倉のみならず、全国の寺や神社を対象とした「千寺(せんじ)巡礼」を開始しました(巡礼には信仰に基づくという意味がありますが、いまでは、特別な信仰がなくても、誰でも自由にしています)。
都内では、どのような歴史的経緯でどのような位置づけなのか、台東区谷中1-7丁目(14寺、2009.1.15と4.10に訪問)と台東区西浅草1丁目(16寺、2010.2.22に訪問、面積当たりの密度からすれば他に例がない)に小さな寺が集中しています。「千寺巡礼」の対象は、大きくても小さくても、有名でも無名でも、いっさい関係なく、ただ、問題を整理する謙虚な旅です。
聖観音宗浅草寺の修理中の観音堂(2010.2.22)__聖観音宗浅草寺五重塔(2010.2.22)
浄土宗増上寺三門(2010.2.22)
「宗教論」(2010.3.9追加)
数年前から、哲学を究めたいと考え、東大大学院人文社会系研究科を目指して準備していました。一次資料に遡ってプラトン哲学の研究を考えていました。A先生とメールのやり取りをしていました。しかし、考えが徐々に変わり、プラトンに遡るならば、徹底的に遡り、人類最古の哲学にしようと考え、2009.1.15に、同研究科宗教史・宗教学研究室のB先生に会いました。
宗教学(ユダヤ教・ヒンドゥー教・仏教・キリスト教・イスラーム教)について、ある程度のバックグラウンドはありましたが、それを契機に、宗教学の学術書を何冊も熟読吟味しました。宗教史・宗教学研究室で研究している宗教学は、たとえば、ハーヴァード大学大学院神学研究科などと同様、一次資料を解読し、歴史や記載内容の解釈・考察が主です。私もそのようにしています。ゼミで専門的な議論を行うのと並行して、1年間かけて、「東大宗教学年報」や日本宗教学会論文誌「宗教研究」のバックナンバーを熟読しました。内容は純粋な基礎哲学です。
日本宗教学会の入会は他の学会と異なっています。これまでの経験に拠れば、入会の意思のある者は、学会に「入会申込書」を提出すれば、許可されます。ただし、会員2名の推薦者を求めているところもあります。日本宗教学会は、きびしく、会員2名の推薦者だけでなく、推薦者のひとりは大学の先生でなければならず、なおかつ、その先生の推薦文がなければなりません。大学によって基準は異なるのでしょうが、東大宗教史・宗教学研究室の先生の基準は、修士論文の審査通過を条件にしています。ですから、「東大宗教学年報」に1編掲載されていれば条件をクリアできます。日本には、宗教関係者が多くいるにもかかわらず、日本宗教学会の会員数は、わずか、2000名にすぎません。それは会員になれるハードルが他の学会より高くしてあるためです。
宗教学の世界は、無限に広く深く、本質にたどり着いた者は、歴史的開祖者だけです。各教の聖典・経典を熟読して気づくのは、共通点が多いということです。複雑な体系を整理してみると、ふたつのキーワードで表現できます。それは「倫理」と「救済」です。「倫理」とは好ましい行いのことです。「救済」とは心の癒しと身体の治癒です。小さい共通点を挙げたら枚挙に暇がありません。
ユダヤ教・ヒンドゥー教・仏教・キリスト教・イスラーム教の中でひとつだけ、他と異なるものがあります。それは仏教です。仏教は人間の苦行により到達できる現実の世界です。しかし、体系の中には、各教と同様、独特の考え方(業=カルマや輪廻=サンサーラ)や飛躍があります。それが哲学です。
ここで本論に入りましょう。
聖典・経典の基礎理論(省略)
ユダヤ教
ヒンドゥー教
仏教
キリスト教
イスラーム教
仏教の各宗派開祖者の基礎理論(省略)
釈迦(仏教開祖者)
最澄(天台宗開祖者)
空海(真言宗開祖者)
法然(浄土宗開祖者)
親鸞(浄土真宗開祖者)
道元(漕洞宗開祖者)
日蓮(日蓮宗開祖者)
(神道を理解するために「古事記」を熟読しました。伊勢神宮には日本神話の神の天照大神などが祀ってあります。出雲大社には日本神話の日本武尊などが祀ってあります。しかし、神社の中で、そのような日本神話の神を祀っているのは少なく、大部分は、歴史上の人物を祀っています。明治神宮には明治天皇・皇后が祀ってあります。靖国神社や護国神社には戦没者が祀ってあり、祀られているものが神です。稲荷神社には狐が祀ってあります。偕楽園に隣接して常盤神社と茨城県護国神社があります。常盤神社には水戸藩三代藩主の徳川光圀(日本史編纂)と八代藩主の徳川斉昭(弘道館と偕楽園の創設)が祀ってあります。茨城県護国神社には茨城県出身の65000人の戦没者が祀ってあります。神社の初詣の参拝者や日常的な参拝者は、そこに何が祀ってあり、何に願いをかけているのか認識しているのだろうか。考えてみると不思議な世界です。)
仏教の研究は、専門ではありませんが、人間の思考の深さと哲学を感じる最高の世界です。比較宗教学の視点から、五木寛之の「百寺巡礼」(講談社文庫)を参考に、「千寺巡礼」を行っています(巡礼には信仰に基づくという意味がありますが、いまでは、信仰に関係なく、誰でも自由にできるようになっています)。あまりあくせくせず、各地への講演や旅行のついでに、楽しみながら、寺や神社に立ち寄り、仏教哲学を読み取る旅にしたいものです。
子供の頃、誰もがするように、意味も分からず、寺や神社で遊びました。定期的に、花や水やお団子(釈迦が亡くなった時、弟子たちが、旅の途中、お腹がへってはと思い、心を込めて備えた食べ物)を持って、家族と墓参りに行ったり、迎え盆では迎い灯をもらい家に戻り、送り盆ではその灯を寺に戻していました。子供の頃、お盆は、いつもと違い、親戚の人たちが来て、おはぎ(その形が、春の牡丹の花に似ているため"ぼたもち"、秋の萩の花に似ているため"おはぎ")など、ご馳走を食べられる特別な行事くらいに感じていました。
大人になり、人間は、なぜ、立派な寺を建立し、立派な仏像を収め、個人的には、立派なお墓を設け、祖先と現在を結びつけるのか、さらに、決まりきった仏教行事(たとえば、死者に対して、初7日=不動明王である秦広王による書類審査、二7日=釈迦如来である初江王からの審問、三7日=文殊菩薩である宋帝王による審判、四7日=普賢菩薩である五官王が罪の重さを量る、五7日=地蔵菩薩である閻魔王による中陰の旅、六7日=弥勒菩薩である変生王の裁き、七7日=薬師如来である泰山王による忌明け、百箇日=観世音菩薩である平等王による行事、一周忌=勢至菩薩である都市王による行事、三回忌=阿弥陀如来である五道転輪王都による行事、七回忌=阿しゅく仏による行事、十三回忌=大日如来による行事、三十三回忌=虚空蔵菩薩による行事)の意味を考えるようになりました。そのため、学術書を熟読するだけなく、奈良・京都・鎌倉・北鎌倉の多くの寺を訪問しました。
内村鑑三は、宗教の解釈には、「そのひとの人生が凝縮されている」と主張していますが、確かにそのとおりであり、祖先に対する思いやりは、深い哲学によって支えられています。仏教は、過去と現在を日常的に結ぶ、哲学の世界です。
煩悩の数(数珠の数)が108というのはこじつけです。108の絶対的な意味は他にあります。三十三間堂の33の意味は、建物の外から見た柱と柱の間の数(35)ではなく(建物の構造上、内側から見ると確かに33)、仏の化身の数です。
高校生の頃、修学旅行で奈良や京都に行き、多くの寺を見学しました。32歳の時、欧州各地を回り、歴史的遺跡や寺院を見学しました。バルセロナの聖家族教会の展望台にも立ちました。40歳台には、講演のため、地方にも行き、主催者の案内で伊勢神宮や出雲大社等にも行きました。米国には、仕事で、頻繁に行きました。写真を撮ったのは、40歳台前半までであり、その後は、忙しくて、写真を撮る余裕がありませんでした。と言うよりも、あまりにも日常的で見飽きていたため、価値を見出せなくなったためです。しかし、今考えると、残念なことをしたと後悔しています。
携帯電話のカメラ機能で手軽に写真が撮れ(あまり画質はよくありませんが、記録にはなります)、パソコンにファイル化でき、容易に利用できるようになった数年前から、また、写真を撮るようになり、約200枚になりました。その半分は奈良や京都の寺の建築様式や仏像の写真です。写真を見ていると、何のために立派な寺を建立するのか、何のために仏像を設けるのか、その意味が浮かび上がってきます。いま、昔、普通のカメラで撮った欧米の寺院の写真をいかにパソコンにファイル化するか、検討中です。
私の目指している学問は、科学や技術、その社会的接点で発生する問題を研究する科学技術社会論に留まらず、哲学者の梅原猛氏の「梅原猛著作集」(小学館)の体系のように、歴史・文学・民俗学・宗教・哲学まで網羅する大きな体系です。そろそろライフワークを目指して、人生後半の著作活動に専念しなければなりません。
「哲学者梅原猛論」(2010.3.12追加)
梅原猛「隠された十字架-法隆寺論-」(新潮文庫、1981)と
「水底の歌-柿本人麻呂論-(上)」(新潮文庫、1983)
哲学者の梅原猛氏は、1925年(大正15年)生まれですから、85歳になります。京大哲学科卒、西田(幾多郎)哲学の系譜に属するひとりです。自宅は、和辻哲郎の旧宅で、比叡山の麓の銀閣寺に通じる"哲学の道"の近くにあります。いまでも精力的に執筆や講演をこなしています。私は、梅原哲学を手本としており、22歳年上の梅原氏の活躍には、大いに勇気づけられています。
梅原氏の研究分野は、大変広範囲にわたり、縄文時代から近代まで、文学・歴史・民俗学・宗教等に及び、"梅原日本学"と位置づけられています。「梅原猛著作集」(小学館)は実に読みやすい作品集です。
梅原氏は、厖大な文献をていねいに読みこなし、それまでの学界の定説をひとつひとつ覆すような問題提起を行っています。梅原哲学は学問的に非常にラジカルです。それらの論文は、査読なしの文芸誌「すばる」等に発表されたエッセーであるため、学界では原著論文とは位置づけられておらず、記載内容に対しても、歴史研究者や国文学研究者から否定的な反論がなされています。しかし、たとえ学界からの"梅原仮説"への疑問が投げかけられたとしても、それに代わる説得力のある有力な仮説が提案されない限り、"梅原仮説"は、否定されたとは言えず、今でも生き続けています。
私が最も大きな刺激を受けたのは「隠された十字架法-隆寺論-」と「水底の歌-柿本人麻呂論」(いずれも新潮文庫)です。実にスケールの大きな問題提起です。前者については以下に説明します。後者では、定説を覆すような、(1)柿本猿と柿本人麻呂は同一人物、(2)柿本人麻呂は水刑で死亡したと主張しています。
私は、2009年7月、法隆寺を訪れ、梅原氏が問題提起した事項を心ゆくまで調査・観察してきました。大変充実した時間を過ごすことができ、仏教建築や仏教美術(仏像)への新たな視点を得ることができ、梅原氏には心より感謝しています。
「隠された十字架法-隆寺論-」の論点は三つあります。(1)法隆寺中門の中央にある柱の意味(聖徳太子の霊を閉じ込める)、(2)夢殿にある聖徳太子をモデルとした救世観音には光背(仏像の後光を表現した物)を釘で頭に固定しておりその意味(聖徳太子の霊に致命傷を与える)、(3)聖霊会(聖徳太子の霊を祀る祭り)の意味です。(1)(2)(3)は、独立ではなく、すべてつながっています。すなわち、再建された法隆寺は、聖徳太子の霊を閉じ込めるために藤原家によって建立された陰謀寺という解釈です。しかし、歴史研究者は、法隆寺再建の頃の7世紀には、日本には霊を閉じ込めるという考え方はなく、8世紀になってから出てきた考え方と反論しています。
私は、(1)については、構造的に必要な構造材であり、陰謀寺論から除外できると考えています。(3)は"梅原仮説"でなくてもその意義を説明できるため、陰謀寺論から除外できると考えています。しかし、奈良や京都の寺の仏像をいくら調査しても、(2)は、どのように考えても、崩せません。(3)を完全に崩せない限り、(1)と(2)も明確に崩せたことにはなりません。
光背は、普通、百済観音のように仏像の背後に設けた構造材の上部に固定する(百済観音方式)か、東寺の金堂にある仏像等のように肩や背中に固定しており(ここでは仮に東寺方式と呼んでおこう)、頭に釘で固定している(救世観音方式)のは、梅原氏が指摘するように、救世観音だけです。私の調査の他にも、仏像の専門家や奈良・京都の有名の寺に質問しても、納得できる説明が得られず(彼らはまともな回答すらできませんでした)、この事実は、崩せませんでした。
しかし、歴史的に考えると、梅原氏が指摘しているとおり、救世観音が造られる前、救世観音とまったく同じ固定法ではありませんが、金具で直接、頭に固定している例は、あります。それらは法隆寺金堂に収められている釈迦三尊の周囲に配置されている四天王像(持国天・増長天・広目天・多聞天)です。光背を頭に固定する方式は、固定方が単純であるため、合理的なように見えますが、仏像学からすれば、仏像の身体、特に、頭に釘を打ち込むことは、たとえ、小さな金具や釘であっても、許されることではありません。
仏像師の趣味や思いつきとして片づけられないくらい大きな意味があるのです。
学界の定説のように、たとえ、7世紀に、霊の閉じ込めの考えがないとしても、それは、文献に残されていないということであり、存在していなかったことの必要十分な論証には、なっていません。矛盾点を解決しようとする”梅原仮説”は唯一の建設的な考え方です。梅原哲学の魅力は、学界の定説に盲従することなく、矛盾点に対して、厖大な文献を読みこなし、大胆な仮説を組み上げ、世の中に問題提起している点にあると言えます。ぜひ、お目にかかりたい研究者のひとりです。
「FBR論」(2010.3.12追加)
最初、三菱FBRシステムズが提案した"世界標準FBR"の概念図と説明文を読んだ時、驚きました。それは、これからのFBRは、軽水炉と競合できる経済性を追求するために、冷却系配管をできるだけ短くできるタンク式が主流だったからです。「もんじゅ」のようなループ型は、運転管理に便利ですが、商業炉には、結びつかない技術です。しかし、三菱重工業がそのために設立した三菱FBRシステムズは、ループ型の経験と技術を積極的に生かすために、"世界標準FBR"には、ループ型を採用しました。そればかりか、三菱重工業が技術を蓄積してきたPWRシステム構成をそのまま採用しています。
原子炉からの液体ナトリウム冷却材は、ニ系統のループ型配管により、それぞれ、ポンプを介して循環させます。ポンプ部分に特徴があり、原子炉からの液体ナトリウム冷却材は、ポンプ内蔵の中間熱交換器で熱を二次側に伝達して、原子炉に戻ります。原子炉二次側の液体ナトリウムは、蒸気発生器に導かれます。
液体ナトリウムは、配管から漏れると、空気と反応して、爆発現象を生じ、取り扱いが困難であるめ、"世界標準FBR"には、そのための工学的対策として、冷却配管を二重配管にしてあります。「もんじゅ」と同様、中間熱交換器を設けるのは、蒸気発生器の一次側の液体ナトリウムと二次側の水が反応し(伝熱管破断事故)、爆発で生じた衝撃波を緩和するためのクッションです。 そうすれば、炉心への影響は、中間熱交換器が健全に維持されている限り、無くせるか、極めて小さく出来るためです。
世界標準FBRは「もんじゅ」で経験のあるループ型と三菱重工業で経験のあるPWRの両者の良いとこ取りの無難なシステム構成のように解釈できます。それは、旧動燃(その後、サイクル機構に改組)がナショナル・プロジェクトとして推進してきた開発成果をそのまま引き継ぐ政治的に方向付けされた選択と解釈できます。米国で開発された軽水炉が世界制覇できたわけは、安全性と経済性に優れていることだけでなく、人類が使い慣れ、性質を良く把握している軽水(普通の水)を中性子減速材と炉心冷却材に採用したことにあります。軽水の安定性と透明性は、燃料交換作業を容易にし、配管から漏れても取り扱いが容易になります。
原研は、これまで、新たな原子炉概念を提案し(高転換軽水炉・低減速軽水炉(いわゆる軽水増殖炉))、それに関する炉物理研究とシステムの概念設計をしてきましたが、単に、研究者が論文を書くための実験・試験止まりに終わり、何ひとつ実用化に結びついていません。
高転換軽水炉(HCLWR)は、軽水炉の燃料棒をいまよりもより周密構造にすることにより(中性子減速材の軽水を排除)、また、MOX燃料を採用することにより、中性子エネルギースペクトルを高速増殖炉のそれに近づけられ、増殖とまではいかなくても、軽水炉の転換比0.6よりもはるかに高い0.95くらいまで可能とされています。
低減速軽水炉(軽水増殖炉(LWFBR))は、高転換軽水炉よりもはるかに燃料棒配列を徹底的に周密化することにより(中性子減速材の軽水を徹底的に排除)、FBR並みの増殖比約1.2が実現できます。しかし、技術的に難しいのは、周密化することによって、冷却材喪失事故時に炉心に注水して安全な炉心冷却が困難になることです。そのため、緩和策として、軽水炉のように燃料棒を4mにないで、約1mにし、その代わり、炉心の直径を約6mにしなければなりません。そうすると原子炉圧力容器の直径が約7mにもなり、いまの軽水炉の原子炉圧力容器よりも製造がはるかに困難になります。
私は、軽水増殖炉に期待しており、徹底的に周密化しても軽水炉のような大きさの炉心にできるような技術開発等、将来の実用化のための技術開発をすべきだと考えています。よって、FBR実用化は、世界標準FBRの開発リスクまで考慮し、もうひとつの可能性として、冷却材に軽水を利用でき、これまでの軽水炉での技術蓄積を有効に生かせる軽水増殖炉の実用化に向けた開発体制を立ち上げるべきです。
「SCC論」(2010.3.12追加)
歴史的に見れば、ステンレススチールの基本的な組成の考え方は、20世紀に入る直前には、すでに、できており、鉄・ニッケル・クロムの割合のうち、クロムの割合によって、鉄よりもはるかに優れた特性を有する合金が生成される事が示されましたが、20世紀前半の期間では、まだまだ、高価な特殊な合金と位置付けられており、特別に耐久性を要求されるような部品に採用される程度でした。
本格的に大量に採用され始めたのは、米国の最初の商業用軽水炉(加圧水型原子炉)であるシッピングポート原子力発電所であって、それまで、火力発電所や石油化学コンビーナート等では、鉄製の機器・配管等が利用されており、特に防腐の必要のあるタンクについては、内面に鉛を施す事により、何とか難をしのいでいました。しかし、シッピングポート原子力発電所では、運転開始1年後には、蒸気発生器のステンレススチール製伝熱管に応力腐食割れ(Stress Corrosion Cracking ; SCC)が発見され、その後、米国で二番目の商業用軽水炉(沸騰水型原子炉)のドレスデン原子力発電所でも、毎年のように配管に応力腐食割れが発見され、この頃には、米国を中心に、日本を初め、世界で、軽水炉の発注が進められ、日本の先行炉(敦賀1号機、美浜1号機、福島第一1号機)もこの頃に発注されました。
ふたつの原子力発電所で発見された応力腐食割れが、発電所の建設段階や選択した製品に特有なものか、それとも一般性のあるものかということは、まったく分かっておらす、日本では、1970年代に、沸騰水型原子炉を中心に、応力腐食割れが続発し、取り替えやすい原子炉外の配管等については、改良材(SUS316やSUS316L)への取り替え、それが済むと、今度は、1990年代後半に、原子炉内の放射化されて取り扱いの困難なシュラウドやジェットポンプの取り替えをしました。
原子力界の特に材料研究者の間では、応力腐食割れの問題には、解決の目途がついたように解釈されていたところ、東京電力の福島第二原子力発電所や柏崎刈羽原子力発電所の改良材を採用していたシュラウドでも応力腐食割れが発見され、東京電力は、その意味とメカニズムが説明できなかったため、長期にわたりって隠蔽し、海外で同様の問題が生じてから、特に、修理に携わったGE社子会社の日本人エンジニアの内部告発によって、情報公開の道が開かれました。
ステンレススチール(stainless steel)のstainには、"汚れ"という意味があり、化学の研究者は、化学反応の過程でできる着色や生成物の付着等のことをよくstainと呼びます。それに打ち消しの意味を有するlessをつないで、stainlessとし、"汚れない"の直訳を意訳して、"錆びない"という意味を込めたものです。逆に、stainedとして利用している例は、それにglassをつなげstainedglassとし、"汚れたガラス"の直訳を"色付きガラス"と意訳し、さらに、そのまま"ステンドグラス"と呼んでいます。
ところで、女性の化粧品のひとつに、ステン水というのがありますが、stain水のことで、この場合のstain汚れは、水にかかるのではなくて、省略されている言葉、すなわち、"汚れた顔を綺麗に拭き取るための水"の意であるために、汚れたは顔にかかります。
ステンレススチールのことをSUSと略しますが、これは何の略かと言えば、米国にあるUS Steelの頭文字の順序入れ替えの略ではなくて、金属分類法の順序において、金属種Steel /用途Use、呼称Stainless Steelの頭文字を略したもので、Useは、"特殊目的"の意味が込められており、ステンレススチールよりもSUSの方が語呂が良いので普及したものと推察されます。