Fri, April 18, 2008 stanford2008の投稿

(3)桜井淳の査読付原著論文・国際会議論文等の学術的実績

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学術的業績とは大学・研究機関等から投稿され、査読付学会論文誌等に掲載された論文かそれに準ずる国際会議論文等を意味し、査読なしの著書等(社会科学の分野ではいくら学術的内容でもそれらはエッセーと位置づけられています)とは、区別しています。


日本原子力研究所在職期間中の論文94編(査読付学会論文誌掲載論文32編(先頭名21編)、国際会議論文50編(先頭名40編)、その他12編)。


30歳台半ば、原研材料試験炉部で実施したJMTRを利用した炉物理実験の結果をまとめ、単独で米原子力学会論文誌"Nuclear Technology"に投稿しました。正確に言えば、その論文は、1981年6月8日に投稿し、同年12月18日に出版受理され、Vo.57, No.3, pp.436-441(1982)に掲載されました。比較的早く掲載されています。 当時は、英文論文作成から修正まで、他人に依存せず、ひとりですべて判断していました。


大学に提出してある論文別刷は査読付学会論文誌掲載論文32編のみです。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-米原子力学会論文誌 桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-ロシア論文誌

米原子力学会論文誌Nucl.Technol.に掲載_____ロシア論文誌に掲載

Thu, April 17, 2008 stanford2008の投稿

(4)(5)(9)(10)(11)桜井淳の著書・共著・編著・監修・学術翻訳書・小説・講演

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【一般書】


(1)単著(刊行順)


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書1 桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書2


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書3 桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書4


1)『これからの原発をどうするか』(電力新報社)

2)『原発の「老朽化対策」は十分か』(日刊工業新聞社)
桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-原発の老朽化対策

3)『原発事故学』(東洋経済新報社)

4)『美浜原発事故-提起された問題-』(日刊工業新聞社)

5)『崩壊する巨大システム』(時事通信社)
桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-崩壊する巨大システム

6)『原発事故の科学』(日本評論社)
桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-原発事故の科学

7)『新幹線「安全神話」が崩れる日』(講談社)
桜井淳カリフォルニア事務所-新幹線安全神話が壊れる日

8)『新幹線が危ない!』(健友社)

9)『原発システム安全論』(日刊工業新聞社)
桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-原発システム安全論

10)『旧ソ連型原発の危機が迫っている』(講談社)

11)『原発のどこが危険か』(朝日新聞社)
桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-原発のどこが危険か

12)『ロシアの核が危ない!』(TBSブリタニカ)
桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-ロシアの核が危ない

13)『事故は語る-人為ミス論-』(日経BP社)

14)『プルサーマル.の科学』(朝日新聞社)
桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-プルサーマルの科学

15)『桜井淳著作集第6巻-星野芳郎との対話-』(論創社)
桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-技術と文明

16)『桜井淳著作集第5巻-安全とは何か-』(論創社)

17)『桜井淳著作集第4巻-市民的危機管理入門-』(論創社)

18)『桜井淳著作集第3巻-科学技術社会論ノート-』(論創社)

19)『桜井淳著作集第2巻-科学技術評論Ⅱ-』(論創社)

20)『桜井淳著作集第1巻-科学技術評論Ⅰ-』(論創社)


(2)共著(刊行順)

1)『原子炉構造材の照射損傷評価と線量測定』(日本原子力学会)

2)『ガンマ線遮蔽設計ハンドブック』(日本原子力学会)

3)『中性子遮蔽設計ハンドブック』(日本原子力学会)

4)『大百科全書』(小学館)

5)『現代用語 知恵蔵』(朝日新聞社)

6)『中国の環境問題』(新評社)

7)『事故は語る』(日経BP社)

8)『Years of Trial: Japan in the 1990s』(Japan Echo Inc.)

9)『激論! 日本人の選択』(小学館)

10)『新版 環境学がわかる本』(朝日新聞社)

11)『重大事故の舞台裏』(日経BP社)

12)『レールが危ない』(金曜日)

13)CD版『モンテカルロ夏期セミナー』(日本原子力学会)(非売品)

14)CD版『クロストークエネルギー』(電気新聞社)(非売品)


(3)監修

1)『原子力事故 自衛マニュアル』(青春出版社)


(4)監修協力

1)『ハイテク辞典』(主婦と生活社)



【エッセー・小説】


社会科学では査読付でない学術論文・著書等は、すべて、エッセーと分類されています。しかし、一般分野では、形式にとらわれず自由に書いたものを意味し、具体的には、随筆やちょっとしたまとめのことです。その意味のエッセーは、『桜井淳著作集第3巻-科学技術社会論ノート-』、『桜井淳著作集第4巻-市民的危機管理入門-』、『桜井淳著作集第5巻-安全とは何か-』に収録されています。小説は出版準備中です。



編著【学術書】


(1)『モンテカルロ計算ガイドライン』(日本原子力研究所)

(2)『第1回「モンテカルロシミュレーション」研究会報文集』(日本原子力研究所)

(3)『モンテカルロ法による粒子シミュレーションの現状と課題』(日本原子力学会)

(4)『モンテカルロ計算法高度化の現状』(日本原子力学会)

(5)『モンテカルロ計算ハンドブック』(日本原子力学会)

(6)編集中『原子力工学のためのモンテカルロ粒子輸送理論』(日本原子力学会)



【学術翻訳書】


著書はあっても、単独での学術翻訳書は1冊もありません。学術翻訳書は、まったくないかと言えば、そうではなく、歴史的な論文の部分訳を担当し、刊行されています。それは、The American Physical Societyが刊行している長文の解説論文を掲載することで世界的に有名な論文誌であるReviews of Modern PhysicsのVol.47, Supplement No.1 Summer(1975)に掲載された"Report to the APS by the study group on light water reactor safety"の翻訳で、「軽水炉の安全性」(小野周訳)として、講談社から1979年に刊行されています。訳者「あとがき」の最後(307p.)に桜井が翻訳に協力したことが記されています。印税もいただいています。その翻訳は、桜井が30歳頃に行ったマスコミ相手の最初の仕事でした。そのため特に印象に残っています。小野周氏は、当時、東大教養学部の教授で理論物理学(熱統計力学)を専攻していました。定年後、群馬大学長を務めました。



【ロシア語訳論文とハングル語訳本】


(1)ロシア語訳論文 АмомнаЯ мехНцка 3а РУЬеЖОм(1983.11). それはNucl.Instr.Methods,Vol.201,pp.439-444(1982)の訳です。
桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-ロシア論文誌


1993年にNHKスペシャル撮影のためにチェルノブイリ原子力発電所の原子炉と同型(RBMK)の原子炉4基運転中(当時)のクルスク原子力発電所(モスクワ南西約650km)を訪問した際、ロシア語論文の存在のおかげで(ロシアでも代表的な論文誌であったために、発電所の図書館にバックナンバーがあり)、ガルブレス副所長とリャービン技師長から大歓迎されました(「ロシアの核が危ない!」、TBSブリタニカ, 1995)。


(2)ハングル語訳本 韓国原子力安全技術院報告書KINS/AR-322(1995). それは「原発のどこが危険か」(朝日選書、1995)の訳です。


これが契機となり、地形的に韓国の中心に位置する大田(テジョン)にある韓国原子力安全技術院から招待され、韓国原子力安全技術院と当時隣接していた韓国原子力研究所、それから、朝鮮半島東端(日本にいちばん近い位置)の霊光(ヨンゴワン)原子力発電所(当時、1号機と2号機(WH社PWR)それに3号機(CE社PWR)が運転中で、4号機(CE社PWRを改良した韓国標準型もどき))を訪問し、韓国の原子力技術を解読することができました(「桜井淳著作集第5巻-安全とは何か-」)。



【講演記録】


(1)一般講演(1988-)

主に経済関係者を対象に約200回(年間約10回のペース、しかし、詳細な記録は残していません)。


(2)政府関係等講演(1988-)

1)内閣安全保障室

2)島根県原子力発電調査委員会

3)参議院経済産業委員会

4)福島県エネルギー政策検討会


(3)学術講演(1988-)

主に大学・産業界関係者を対象に約100回(詳細は「実施している専門家養成のための学術セミナー内容」項参照)。


(4)米国の大学・研究機関での講演(2000-)

約150回(年間約20回のペース)

Thu, April 17, 2008 stanford2008の投稿

(1)桜井淳の学歴・職歴・兼務・兼職・研究教育内容概要

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(1)生年月日 昭和21年9月14日(群馬県太田市)


(2)最終学歴 1971年に東京理科大大学院理学研究科修了(理論物理・素粒子論)・2004-2006年に東京大学大学院総合文化研究科研究生修了(科学技術社会論)。2009年4月より東京大学大学院人文社会系研究科で神学哲学の研究中。


(3)学位 理学博士(東京理科大学大学院理学研究科の審査で論文博士、1983年(昭和58年)10月)・東京大学大学院工学研究科で工学博士論文「核燃料サイクル施設の安全評価法の研究」作成・2004年4月より東京大学大学院総合文化研究科で学術博士論文「技術の社会構成論の研究」作成中。


(4)職歴 日本原子力研究所(原研)(材料試験炉部計画課・サイクル安全工学部臨界安全研究室・安全研究センター原子力エネルギー関連施設ユニット核燃料サイクル施設安全評価研究グループ研究員)・原子力安全解析所(原子炉コード整備第一室・原子炉コード整備第3室・安全解析室副主任解析員)。


(5)兼務歴 原研企画室・原研炉物理委員会委員(遮蔽専門部会)・原研シグマ研究委員会委員(遮蔽SWG・核融合SWG・線量評価SWG)・原研原子力コード研究委員会委員(原子力コード評価専門部会)。


(6)兼職歴  日本原子力学会(原子炉照射線量評価研究専門委員会委員・遮蔽研究専門委員会委員・原子炉熱流動研究特別委員会委員・モンテカルロ研究専門委員会幹事兼主査・未臨界研究専門委員会主査)・日本原子力産業会議嘱託・原子力安全研究協会環境懇話会委員。


(7)産業施設現場調査 国内産業施設350施設調査(大学・研究機関・コンピュータ・自動車・石油コンビナート・製鉄所・水力発電所・火力発電所・原子力発電所・核燃料サイクル施設・航空機・新幹線・高層ビル・地下鉄シールド掘削・大深度地下利用等)・海外産業施設50施設調査(大学・研究機関・鉄道・原子炉メーカー・原子力発電所・ロシア原子力機密基地・高層ビル等)。


(8)研究・教育内容


(a)原研材料試験炉部計画課で、スパコンを用いて材料試験炉(JMTR)の炉心核計算業務を8年間担当し、運転炉心の安全管理に携わりました。8年間で約10000ジョブの入力作成・出力解釈をしました。炉心核計算業務と並行し、材料試験炉臨界集合体(JMTRC)を用いた炉物理実験研究に携わりました。5年間の炉物理実験研究の成果を体系化して博士論文を作成しました。1976-1984年に、原研材料試験炉部で材料試験炉(JMTR、ウラン濃縮度93w%の兵器級ウラン燃料炉心)の炉心核計算と臨界集合体(JMTRC)を利用した炉物理実験を担当しました。後者の最初の4年間の成果(臨界集合体での実験だけでなく、原研東海の5MeV静電型加速器バンデグラーフVdGを利用した中性子断面積測定、それから、東大原子力工学研究施設の「弥生炉」を利用した炉物理実験)をまとめたものがファーストネームの数編の原著論文とそれらを体系化した博士論文でした。その頃、材料試験炉部の仕事で博士論文を取得した者は、ひとりもおらず、指導者もいないまま、試行錯誤・孤立無援の中で、やむを得ず、仕事を家に持ち帰り、英文の原著論文をまとめていました。今思えば、劣悪な環境にいながら、良く、博士論文がまとまったものだと不思議がっていました。それを可能にしたのは強い問題意識と良い意味での若さでした。それから配偶者からの理解と協力です。前者の仕事(炉心核計算、計算コードシステムは、中性子熱群輸送計算コードTHERMOS-中性子高速群輸送計算コードGGC4-炉心拡散計算コードCITATION)を担当していたのは同年齢の3名です。JMTR運転炉心の炉心構成が提案されると、1ヵ月かけて、スーパーコンピュータで膨大な核計算をして、燃料のHSF・燃料試料のQ・材料試料のnvt等の炉物理特性を検討し、炉心安全性と中性子照射要求条件を満足させる最適炉心構成であることを確認後、部内運転委員会に提出する報告書のまとめに入ります。ひとつの運転炉心の炉心核計算は、主担当者1名と副担当者1名の計2名で担当し、主担当者が責任を持って判断し、報告書をまとめていました。副担当者1名を入れているのは、膨大な数字を扱うため、誤りをなくすため、ダブルチェックのためです。8年間の30運転サイクルの間に、主担当で10炉心、副担当で10炉心を担当しました。8年間で、炉心核計算と炉物理実験解析のため、スーパーコンピュータの入力を約10000ケース作成し、自身でsubmitし、計算出力リストを検討しました(「原発事故の科学」、「まえがき」参照、日本評論社)。


(b)原研サイクル安全工学部臨界安全研究室で5年間、軽水炉炉心を模擬した軽水臨界集合体(TCA)を用いた炉物理実験研究に携わりました。TCAで数百回の臨界・未臨界実験を実施しました。原研で実施した(a)(b)の学術的業績(「桜井淳所長の学術的業績」の項を参照)。


(c)原子力安全解析所で4年間、安全審査のためのクロスチェック安全解析に携わりました。担当したのは、関西電力大飯3号機・4号機、中部電力浜岡4号機、東北電力女川2号機です。


(d)兼務・兼職先の研究のため、スパコン(後に、EWSや高速パソコン)での計算に携わり、約5000ジョブの入力作成・出力解釈をしました。


(e)学術セミナーを企画・実施しました(「桜井淳所長が実施した専門家養成のための学術セミナーの内容」の項を参照)。


(f)東京大学で2004年から今日まで社会科学研究(「桜井淳所長の哲学」の項を参照)。


(g)技術評論(「桜井淳所長の著書・共著・監修」の項を参照)。


(h)国内外の数十大学で講演・教育。


(9)スパコンでの計算回数 1975年から今日まで15000ジョブを自身で入力作成・出力解釈等の経験があります。


(10)教科書作成 リーダーとして委員会で内容を提案し、委員分担執筆後、編集担当して5冊出版(原研・原子力学会)、現在、1冊編集中(原子力学会)。(「桜井淳所長の編著(学術書)」の項を参照)


(11)所属学会 日本原子力学会会員(会員7000名)・科学技術社会論学会会員(会員約500名)・日本ユダヤ学会(会員約100名)・元日本物理学会会員(会員約20000名)・元日本科学史学会会員(1000)。


(12)現職 桜井淳事務所所長(水戸、カリフォルニア、ニューヨーク)・物理学者・社会学者・技術評論家(核燃料サイクル施設の安全性、特に、原子力発電所の事故・故障分析、その他、産業技術全般を研究対象)・哲学者・小説家。兼職として、核燃料サイクル施設の安全解析法と技術基準を検討する日本原子力学会「最適モンテカルロ計算法」研究専門委員会主査(2006年10月-)・同「未臨界実験データ評価」研究専門委員会主査(2007年4月-2009年3月)委員(2009年4月-)・モンテカルロシミュレーション研究会代表(2001年-)・カリフォルニア大学客員研究員(2000年-)・スタンフォード大学客員研究員(2000年-)・茨城新聞社客員論説委員(2009年9月-)。


なお、大学での研究員・客員研究員・名誉教授(大学HPに記さない)は原則無料奉仕です(その利点は、学会発表等の際、大学名を使用できること、中には、逆に、施設や研究資材を利用するために、授業料並みのおカネを支払わねばならないこともあります)。客員教授や特任教授は非常勤講師並みの役割と待遇です(HPに記す大学もあれば、記さない大学もあります)。桜井の場合、大学の講義の際、旅費とわずかばかりの謝礼を受けています。しかし、形式的な権威をすべて捨て去り、名刺を持たず、大学名も使用せず、いつも、学会・国際会議での発表でさえ、所属欄に、物理学者としか記しません。

Thu, April 17, 2008 stanford2008の投稿

(2)桜井淳の哲学

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「桜井淳基礎事項」


1975年(昭和50年)8月、京都府左京区修学院南代の星野芳郎氏(元立命館大学経済学部教授・技術史家・技術評論家)の自宅を訪問し、技術論研究の指導を受けました。1988-2000年(昭和63年-平成8年)の間、『週刊エコノミスト』『経済評論』等を中心に、星野芳郎氏と対談しました。それらをまとめたものが『桜井淳著作集第6巻-星野芳郎との対話-』です。2006年(平成18年)4月、神奈川県川崎市麻生区の星野芳郎氏(前述肩書きにその後の元帝京大学経済学部教授追加)の自宅を訪問し、技術論研究のライフワークの進捗状況について質問し、技術論研究の今後の課題等について指導を受けました。


専門の物理学以外では20歳台から科学論・技術論・安全論・科学史・科学哲学・哲学の文献を熟読しました。そして、1988年から現在まで集中的に技術論・安全論の研究成果を発表しました。そして、2004年(平成16年)4月から今日まで、これまでの社会科学の研究成果を基に、社会科学で博士論文を作成するため、東京大学大学院総合文化研究科の研究生(2004年4月-2006年3月の2年間)として、科学技術社会論の研究に携わっています)。学位論文執筆中。2009年4月より、東大大学院人文社会系研究科の神学哲学ゼミに出席しています。


技術論・安全論の研究では、それまでの推進・反対という単純な運動論レベルの議論ではなく、設計条件に遡り、技術基準の成立性への疑問まで含め、根源的な問題提起を行いました。原子炉物理学・原子炉安全解析をとおし、原子力の基礎研究に携わったが、一度も推進の旗振りはせず、客観的な立場から安全確保の方法を提示しました。


これまで、理学・工学・社会科学の研究の手法を習得し、現在(2009年4月)、東大大学院人文社会科学系研究科で神学哲学を学んでおり、原研や東大の社会的使命や価値観に制限されたり、その枠内に留まったり、座標系の原点をそこに置こうと考えたことは、一度も有りませんでした。あえて言えば、風力発電などを推進する"ソフトエネルギー推進派"です。2004年以降、東大での研究成果を生かすため、研究の方法や成果の発表方法を転換し、今は、人文社会科学の学術誌を中心に執筆しています。



「建築家安藤忠雄論」(2010.3.9追加)


約7年前の冬、日本原子力学会の研究専門委員会の会合終了後、東大大学院工学研究科の教授と打ち合わせのため、東大本郷へ立ち寄ったところ、偶然にも、安田講堂(定員約1500名)で安藤忠雄教授の退官記念講演が予定されており、開演前、安田講堂前から正門まで数珠つなぎの人並みができており、安藤教授は、講演後、定員オバーで入れなかった約300名に向かって、野外で約30分間の追加講演を行っていましたが、それだけ人々を引き付ける魅力が何なのか、不思議に思ったことがありました。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-建築家安藤忠雄
「建築家安藤忠雄」(新潮社、2008)


2009年6月20-21日の4:00-5:00、NHKFMで、安藤忠雄氏へのインタビューが放送され、インタビューアの質問に応え、安藤氏は、興味深いことを話していました。


要約すると、①子供の頃、大工さんが家を作っている現場を見て、建築というのは面白いと感じた、②高等教育を受けていなかったため、工学部建築学科に通学している友人から使用している教科書を教えてもらい、それらを片っ端読んだところ、ある程度分かるものの、教養が足りないことを痛感、③欧州各国の建築物見学、④帰国後、事務所を構え、仕事のチャンスを待ったが、なかなかなく、それでも、大阪というところはおもしろいところで、何の学歴もなく、何の実績もない若造に仕事を与えてくれた物好きが現れ、大阪だからできたことであり、東京だったら、まず、無理だった、⑤特徴的なコンクリート打ちっぱなし工法は、オリジナルなものではなく、代々木公園の構造物等、多くの例があるが、その工法を独自の哲学で住宅や公共施設に応用した、⑥コンペで採用されたのは、10回応募して1回くらいで、ほとんど落選していたが、それでも、勉強になり、失敗から学ぶようにしてきた、等。


総合すれば、安藤氏は、非常に積極的な人生を歩んできたと解釈できます。


NHKテレビ22:50-23:00の「私の1冊」で、安藤氏は、愛読書として、幸田露伴「五重塔」を挙げ、主人公の五重塔建設に対する考え方、すなわち、「その仕事はオレにしかできず、ぜひ、オレに任せてくれという自信と責任感から学んだ」と語っていました。


安藤氏は、いま、67歳になりますが、少年の目のように、夢を追いかけ、いまなお、キラキラ光っています。安藤氏が、何の学歴がないにもかかわらず、ハーヴァード大客員教授、イェール大客員教授、東大教授に就任できたのは、世界を相手にしたコンペで数十件も採用された実績と世界の建築関係の代表的な賞を十数件も受賞したことです。そこには誰もが認めなければならない客観性があるからです。


東大は、最近、名誉教授の中から、突出した業績を上げた者に特任名誉教授を設けましたが、これまで3名に授与され、そのひとりが安藤氏です。東大は、入学式で、安藤氏にあいさつの機会を与える等、特別扱いしています。東大は、形式的・官僚的だけでなく、安藤氏を特別扱いするだけの柔軟性も備えていることが読み取れます。


私の趣味は、建築学であって、これまで世界の歴史的建築物、さらに、高層ビル等の建設現場や完成した建築物を見学して知識の集積に務めてきましたが、安藤氏の作品や著書等を検討し、やっと、「安藤忠雄論」が書けるようになりました。


安藤忠雄『建築家安藤忠雄』(新潮社、2008)の感想を述べてみたいと思います。「安藤忠雄論」の構想については、先に述べましたが、安藤氏の人生と思想の詳細を把握するために、安藤氏の初めての自伝を熟読してみました。


先に述べたことに、①安藤氏を東大に招聘したのは東大鈴木博之教授(建築史専攻)(232p.)、②安藤氏が設計した東大本郷の福武ホール(赤門と正門の塀ぎわの数十本のクスノキに並列に建設された奥行き約10mで2F2Bの鰻の寝床のような建物)は、20年前に直島プロジェクトの依頼を受けたベネッセコーポレーション(旧福武書店)の福武総一郎元社長からの寄付金によって建設され、人間関係からして、安藤のボランティアによる設計(228p.)であったことを補足しておきます。


この本には、数多くの写真が挿入されていますが、対象が対象だけに、本文との関係で具体的なイメージを作ることができ、理解を助けているように思えます。


安藤氏は、ゲバラの思想に共感し、ゲリラ的建築設計(事務所はゲリラ拠点)をしてきました。情熱家・努力家・勉強家で、野心的な仕事を売り込むのがうまく、関西財界人との人間関係を築き、仕事を拡大して行きました。


安藤氏が建築家として成功したのは、建築への大きな夢、ポジティブ思考、独学精神が高く、大阪という土地柄に助けられ(「大阪では、実績のない若造にも仕事を与えてくれるが、東京ではそうは行かず、東京だったら成功しなかった」と回想しています)、現代社会の不合理面への反逆心が強く、少年のようにキラキラした目(表紙の写真参照)をした永遠に休むことのない努力家という印象を強く受けました。意外と高い建築哲学を持っていることが読み取れます。


安藤氏は、大学ではなく、実務をとおして社会から学ぶ実学派です。「だから、仮に私のキャリアの中に何かを見つけるとしても、それはすぐれた芸術的資質といったものではない。あるとすれば、それは、厳しい現実に直面しても、決してあきらめず、強かに生き抜こうとする、生来のしぶとさなのだと思う」(p.381)。「光と影。それが、40年間建築の世界で生きてきて、その体験から学んだ私なりの人生観である」(p.382)。


安藤氏は、傑出した建築家にとどまらず、大変優れた哲学者でもあります。大変感銘した一冊でした。



「作家五木寛之論」(2010.3.9追加)


私は、「旧約聖書」「新約聖書」や「ナザレのイエス」「ユダヤ教の精神構造」のようなの学術書だけでなく、「新約聖書物語」「神の発見」「梅原猛著作集第9巻三人の祖師」「般若心経について」「チベットのモーツアルト」「ユダヤ教の歴史」のような啓蒙書も読んでいます。特におもしろくて分かりやすいと感じたのは梅原猛・中沢新一・犬養道子・瀬戸内寂聴・五木寛之の解説です。仏教は、専門ではありませんが、比較宗教学の視点から研究しています。


表現法や内容が受け入れられるか否かにかかわりなく、非常に冷静で淡々と語っているのは、作家の五木寛之氏です。


五木氏は、1932年生まれですから、78歳になります。五木氏は、早大文学部露文科卒後、若くしてベストセラー作家となり、代表作として、34歳で「さらばモスクワ愚連隊」(第6回小説現代新人賞)、35歳で「蒼ざめた馬を見よ」(第56回直木賞)、35歳で「青年は荒野をめざす」、36歳で「風に吹かれて」、44歳で「青春の門」(第10回吉川英治文学賞)(この10冊のシリーズは総数2000万部の歴史的ベストセラーとなりました)、49歳で一時休筆して、京都にある浄土真宗(親鸞)の龍谷大学で仏教を学び、その後、文壇に復帰、仏教については、「蓮如-われ深き淵より-」「生きるヒント」「大河の一滴」「人生の目的」「運命の足音」「不安の力」「元気」「気の発見」「神の発見」「人生の覚悟」等の作品があります。


読んで感じることは、五木氏は、人間的に、大変真面目で、誠実で、勤勉で、しかも、がまん強く、常に冷静で、淡々と語り続けており、読者に、人間としての価値・魅力・能力・主張がよく伝わるような表現をしており、希に見る人生への積極的な姿勢が読み取れる作家のひとりのように思えました。作家は、誰しも、自身の体験を題材にしていますが、「青春の門」や「青年は荒野をめざす」には、五木氏の体験の試行錯誤の跡が記されており、五木氏の心の変遷を読み取る上で貴重な資料です。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-龍谷大学本部 桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-西本願寺
JR京都駅近くにある龍谷大学本部______________西本願寺(龍谷大学本部の隣、訪問時閉門)


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-東本願寺金堂
東本願寺(西本願寺の約200m東側)


特に、ベストセラー作家でありながらが49歳で学士入学し、しかも、仏教を学ぶということは、誰にでもできることではありません。人生について特に感じることがあってのことでしょう。その年齢は、人生の一区切りというだけでなく、同時に、迷いが生じ、人生の最終的な目標は何かについて考えるようになります。五木氏が仏教を学ぼうとした心境については、私自身の神学哲学の研究の経験からも、よく分かります。宗教を研究対象にすることと信仰対象にすることは別次元の問題です。


読者の中には、五木氏のように、腰が低くて本音で悟りきったような哲学の展開に、違和感どころか、揶揄すらする者がいますが、私は、どちらかというと、積極的に受け入れる立場にあり、学問や人生に対する積極的な姿勢には、なお、学ぶべきことが多くあるように感じています。五木氏は、全作品をとおして、人間とは、人生とは、について、問いかけているのです。すでに哲学者と言ってもよいでしょう。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-五木寛之「親鸞」
五木寛之「親鸞(上、下)」(講談社、2010)


最近、五木寛之「親鸞(上、下)」(講談社、2010)を熟読しました。上下とも約300頁で、全国27の地方紙に連載されたものです。この作品は、小説であって、史実に忠実な学術書ではありませんが、仏教の高度な専門知識と親鸞の人生と思想遍歴を熟知していなければ、書くことのできない内容です。上巻では8-19歳まで(氏名は忠範から範宴へ)、下巻では19-33歳まで(範宴から間置いて善信へ)の比叡山延暦寺や六角堂での修行(比叡山延暦寺から京都の真ん中の六角堂まで毎日通ったと記され、直線距離で約10kmで可能なように思えますが、その大半は比叡山の勾配のきつい山道であることを考慮すると、不可能な苦行)、越後への流罪(流罪が決まってから自ら親鸞と改名、歴史的には流罪の真の原因は分かっていません)への経緯が記されています。


私には比叡山での苦行の内容(湿気・寒さ・空腹・寝不足については、説明するまでもなく、若い頃には掃除や薪割り、それが済むと読経、さらに、修行が進むと高度ないろいろな経の1000回にも及ぶ繰り返し、選ばれた一部の指導者に対して、究極的には、1000日峰行(最初の3年間は比叡山の山歩きを日に30km100日間、4-5年目は日に30km200日間、6年目は日に60km100日間、7年目は日に60km200日間)等の修行の無限の深さ・・・・・・五木氏の本にはこの記述はありません)が大変参考になりました。反面、五木氏が小説としてさまざまな設定をし、最も大きなウェイトを置き、くどいように展開した救済の本質的解釈については、あまりにも自明なことであり、なぜ、くどくどと繰り返すのか疑問に感じました。下巻の数箇所に見られる度肝を抜かれるストーリー展開に、驚きを通り越し、恐怖さえ感じました。この作品には「青春の門」にはない年齢相応の哲学的思索の成果が記されており、作家として、哲学者として、ライフワークと位置づけられる出来栄えです。


五木氏は、大江健三郎氏とともに、作家として、哲学者として、最も高い位置に登りつめた作家です。「親鸞」を読むとそのことが良く分かります。


なお、親鸞は、流罪を勅免された直後、45歳の時、家族とともに、常陸の国(今の茨城県)の稲田(今の笠間市稲田)の西念寺を中心に、常陸の国、特に、北部一帯(今の常陸太田と常陸大宮)等で、約20年間、布教活動をしていた時期があり、常陸の国の24の寺には、親鸞や弟子の遺跡が残されています。私の住む水戸市にも徒歩で訪れることのできる関係する寺院が三箇所(信願寺・善重寺・報仏寺)あります。園部公一「常陸の親鸞」」(東泠書房、2004)を手がかりに、信願寺(2010.1.26訪問、バックナンバー写真参照)や笠間市稲田の西念寺(2010.1.29訪問、バックナンバー写真参照)の他、これから県内のすべての関係寺院を訪ね歩きたいと考えています。



「作家大江健三郎論」(2010.3.9追加)


作家の大江健三郎氏は、30歳の時、「ヒロシマ・ノート」(岩波新書、1965)を発表しました。その書は、これまで83刷に達し、多くの人々に思考の深さを知らしめました。大江氏は、その前の年に、自身の長男が障害を持って生まれ、失意の中、それをテーマにした純文学作品「個人的体験」(1964年に書き下ろし、新潮社からは1994年に刊行)を発表しました。次ぎの仕事として、やはりお子さんを亡くして悲しみの中の「世界」編集部の安江良介氏とともに、広島を訪問しました。大江氏のそのレポートは、実によく人間を考察し、重厚な社会科学の論文になっており、改めて大江氏の実力を再確認しました。大江作品は、人間の根源的な「生きる力」をテーマにしていますが、それは、自身のお子さんへの愛と苦悩をとおし、人一倍、人間に対する優しさのようなものが育まれた結果です。実に力強い作品に仕上がっています。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-大江健三郎「個人的な体験」
大江健三郎「個人的体験」(新潮社、1994)


私は大江作品をすべて熟読・吟味しています。大江氏は、思考が深く、人間の本質を追究しており、哲学の世界です。大江氏の「沖縄ノート」(岩波新書、1970、56刷)等には、思わず、震え上がる真実が記されています。


大江氏は、他の作品の中で、訪問先の広島の爆心地の川で行われた死者の霊を弔うための"精霊流し"に、生存している長男の氏名を記して流したと告白しています。障害を持った長男に対する苦悩の表現と解釈できます。しかし、この話は、ここで終わらず、大江氏は、つぎに広島を訪れた時、自身のそれまでの行為を恥て、今度は、自身の氏名を記して流したと告白しています。それは、家族や長男への謝罪の意思表示だけでなく、さらに、自身の弱さの克服であり、震え上がるような真実です。


普通の人は、安易な選択をしたかもしれませんが、大江氏は、あえて、困難に積極的に対面し、克服するための人間の強さを作品を通して表現してきました。そのことに最大限の賞賛を送ります。私は、大江氏が、なぜ、ノーベル賞を受賞できたのか、良く理解できます。作家は、一般の人間と異なり、自身の人生のネガティブな側面を題材に、 人間の本質を掘り下げています。大江氏は、何も隠さず、そのことを積極的に語りかけています。



「千寺巡礼」(2010.3.9追加)


作家の五木寛之氏には「百寺(ひゃくじ)巡礼(1,2,3,4,5,6,7)」(講談社文庫)という作品があります。大変良い作品です。桜井淳は、2009年4月(東大大学院人文社会系研究科で神学哲学の研究を開始)より、比較宗教学の視点から独自の研究視点を基に、改めて、京都・奈良・鎌倉・北鎌倉のみならず、全国の寺や神社を対象とした「千寺(せんじ)巡礼」を開始しました(巡礼には信仰に基づくという意味がありますが、いまでは、特別な信仰がなくても、誰でも自由にしています)。


都内では、どのような歴史的経緯でどのような位置づけなのか、台東区谷中1-7丁目(14寺、2009.1.15と4.10に訪問)と台東区西浅草1丁目(16寺、2010.2.22に訪問、面積当たりの密度からすれば他に例がない)に小さな寺が集中しています。「千寺巡礼」の対象は、大きくても小さくても、有名でも無名でも、いっさい関係なく、ただ、問題を整理する謙虚な旅です。


桜井淳カリフォルニア事務所-浅草寺の修理中の観音堂 桜井淳カリフォルニア事務所-浅草寺五重塔
聖観音宗浅草寺の修理中の観音堂(2010.2.22)__聖観音宗浅草寺五重塔(2010.2.22)


桜井淳カリフォルニア事務所-増上寺中門
浄土宗増上寺三門(2010.2.22)



「宗教論」(2010.3.9追加)


数年前から、哲学を究めたいと考え、東大大学院人文社会系研究科を目指して準備していました。一次資料に遡ってプラトン哲学の研究を考えていました。A先生とメールのやり取りをしていました。しかし、考えが徐々に変わり、プラトンに遡るならば、徹底的に遡り、人類最古の哲学にしようと考え、2009.1.15に、同研究科宗教史・宗教学研究室のB先生に会いました。

宗教学(ユダヤ教・ヒンドゥー教・仏教・キリスト教・イスラーム教)について、ある程度のバックグラウンドはありましたが、それを契機に、宗教学の学術書を何冊も熟読吟味しました。宗教史・宗教学研究室で研究している宗教学は、たとえば、ハーヴァード大学大学院神学研究科などと同様、一次資料を解読し、歴史や記載内容の解釈・考察が主です。私もそのようにしています。ゼミで専門的な議論を行うのと並行して、1年間かけて、「東大宗教学年報」や日本宗教学会論文誌「宗教研究」のバックナンバーを熟読しました。内容は純粋な基礎哲学です。

日本宗教学会の入会は他の学会と異なっています。これまでの経験に拠れば、入会の意思のある者は、学会に「入会申込書」を提出すれば、許可されます。ただし、会員2名の推薦者を求めているところもあります。日本宗教学会は、きびしく、会員2名の推薦者だけでなく、推薦者のひとりは大学の先生でなければならず、なおかつ、その先生の推薦文がなければなりません。大学によって基準は異なるのでしょうが、東大宗教史・宗教学研究室の先生の基準は、修士論文の審査通過を条件にしています。ですから、「東大宗教学年報」に1編掲載されていれば条件をクリアできます。日本には、宗教関係者が多くいるにもかかわらず、日本宗教学会の会員数は、わずか、2000名にすぎません。それは会員になれるハードルが他の学会より高くしてあるためです。

宗教学の世界は、無限に広く深く、本質にたどり着いた者は、歴史的開祖者だけです。各教の聖典・経典を熟読して気づくのは、共通点が多いということです。複雑な体系を整理してみると、ふたつのキーワードで表現できます。それは「倫理」と「救済」です。「倫理」とは好ましい行いのことです。「救済」とは心の癒しと身体の治癒です。小さい共通点を挙げたら枚挙に暇がありません。

ユダヤ教・ヒンドゥー教・仏教・キリスト教・イスラーム教の中でひとつだけ、他と異なるものがあります。それは仏教です。仏教は人間の苦行により到達できる現実の世界です。しかし、体系の中には、各教と同様、独特の考え方(業=カルマや輪廻=サンサーラ)や飛躍があります。それが哲学です。

ここで本論に入りましょう。

聖典・経典の基礎理論(省略)
ユダヤ教
ヒンドゥー教
仏教
キリスト教
イスラーム教


仏教の各宗派開祖者の基礎理論(省略)

迦(仏教開祖者)

最澄(天台宗開祖者)
空海(真言宗開祖者)
法然(浄土宗開祖者)

親鸞(浄土真宗開祖者)
道元(漕洞宗開祖者)

日蓮(日蓮宗開祖者)


(神道を理解するために「古事記」を熟読しました。伊勢神宮には日本神話の神の天照大神などが祀ってあります。出雲大社には日本神話の日本武尊などが祀ってあります。しかし、神社の中で、そのような日本神話の神を祀っているのは少なく、大部分は、歴史上の人物を祀っています。明治神宮には明治天皇・皇后が祀ってあります。靖国神社や護国神社には戦没者が祀ってあり、祀られているものが神です。稲荷神社には狐が祀ってあります。偕楽園に隣接して常盤神社と茨城県護国神社があります。常盤神社には水戸藩三代藩主の徳川光圀(日本史編纂)と八代藩主の徳川斉昭(弘道館と偕楽園の創設)が祀ってあります。茨城県護国神社には茨城県出身の65000人の戦没者が祀ってあります。神社の初詣の参拝者や日常的な参拝者は、そこに何が祀ってあり、何に願いをかけているのか認識しているのだろうか。考えてみると不思議な世界です。)

仏教の研究は、専門ではありませんが、人間の思考の深さと哲学を感じる最高の世界です。比較宗教学の視点から、五木寛之の「百寺巡礼」(講談社文庫)を参考に、「千寺巡礼」を行っています(巡礼には信仰に基づくという意味がありますが、いまでは、信仰に関係なく、誰でも自由にできるようになっています)。あまりあくせくせず、各地への講演や旅行のついでに、楽しみながら、寺や神社に立ち寄り、仏教哲学を読み取る旅にしたいものです。

子供の頃、誰もがするように、意味も分からず、寺や神社で遊びました。定期的に、花や水やお団子(釈迦が亡くなった時、弟子たちが、旅の途中、お腹がへってはと思い、心を込めて備えた食べ物)を持って、家族と墓参りに行ったり、迎え盆では迎い灯をもらい家に戻り、送り盆ではその灯を寺に戻していました。子供の頃、お盆は、いつもと違い、親戚の人たちが来て、おはぎ(その形が、春の牡丹の花に似ているため"ぼたもち"、秋の萩の花に似ているため"おはぎ")など、ご馳走を食べられる特別な行事くらいに感じていました。

大人になり、人間は、なぜ、立派な寺を建立し、立派な仏像を収め、個人的には、立派なお墓を設け、祖先と現在を結びつけるのか、さらに、決まりきった仏教行事(たとえば、死者に対して、初7日=不動明王である秦広王による書類審査、二7日=釈迦如来である初江王からの審問、三7日=文殊菩薩である宋帝王による審判、四7日=普賢菩薩である五官王が罪の重さを量る、五7日=地蔵菩薩である閻魔王による中陰の旅、六7日=弥勒菩薩である変生王の裁き、七7日=薬師如来である泰山王による忌明け、百箇日=観世音菩薩である平等王による行事、一周忌=勢至菩薩である都市王による行事、三回忌=阿弥陀如来である五道転輪王都による行事、七回忌=阿しゅく仏による行事、十三回忌=大日如来による行事、三十三回忌=虚空蔵菩薩による行事)の意味を考えるようになりました。そのため、学術書を熟読するだけなく、奈良・京都・鎌倉・北鎌倉の多くの寺を訪問しました。

内村鑑三は、宗教の解釈には、「そのひとの人生が凝縮されている」と主張していますが、確かにそのとおりであり、祖先に対する思いやりは、深い哲学によって支えられています。仏教は、過去と現在を日常的に結ぶ、哲学の世界です。

煩悩の数(数珠の数)が108というのはこじつけです。108の絶対的な意味は他にあります。三十三間堂の33の意味は、建物の外から見た柱と柱の間の数(35)ではなく(建物の構造上、内側から見ると確かに33)、仏の化身の数です。

高校生の頃、修学旅行で奈良や京都に行き、多くの寺を見学しました。32歳の時、欧州各地を回り、歴史的遺跡や寺院を見学しました。バルセロナの聖家族教会の展望台にも立ちました。40歳台には、講演のため、地方にも行き、主催者の案内で伊勢神宮や出雲大社等にも行きました。米国には、仕事で、頻繁に行きました。写真を撮ったのは、40歳台前半までであり、その後は、忙しくて、写真を撮る余裕がありませんでした。と言うよりも、あまりにも日常的で見飽きていたため、価値を見出せなくなったためです。しかし、今考えると、残念なことをしたと後悔しています。

携帯電話のカメラ機能で手軽に写真が撮れ(あまり画質はよくありませんが、記録にはなります)、パソコンにファイル化でき、容易に利用できるようになった数年前から、また、写真を撮るようになり、約200枚になりました。その半分は奈良や京都の寺の建築様式や仏像の写真です。写真を見ていると、何のために立派な寺を建立するのか、何のために仏像を設けるのか、その意味が浮かび上がってきます。いま、昔、普通のカメラで撮った欧米の寺院の写真をいかにパソコンにファイル化するか、検討中です。

私の目指している学問は、科学や技術、その社会的接点で発生する問題を研究する科学技術社会論に留まらず、哲学者の梅原猛氏の「梅原猛著作集」(小学館)の体系のように、歴史・文学・民俗学・宗教・哲学まで網羅する大きな体系です。そろそろライフワークを目指して、人生後半の著作活動に専念しなければなりません。


「哲学者梅原猛論」(2010.3.12追加)


桜井淳カリフォルニア事務所-梅原猛「隠された十字架」「水底の歌」

梅原猛「隠された十字架-法隆寺論-」(新潮文庫、1981)と

「水底の歌-柿本人麻呂論-(上)」(新潮文庫、1983)


哲学者の梅原猛氏は、1925年(大正15年)生まれですから、85歳になります。京大哲学科卒、西田(幾多郎)哲学の系譜に属するひとりです。自宅は、和辻哲郎の旧宅で、比叡山の麓の銀閣寺に通じる"哲学の道"の近くにあります。いまでも精力的に執筆や講演をこなしています。私は、梅原哲学を手本としており、22歳年上の梅原氏の活躍には、大いに勇気づけられています。


梅原氏の研究分野は、大変広範囲にわたり、縄文時代から近代まで、文学・歴史・民俗学・宗教等に及び、"梅原日本学"と位置づけられています。「梅原猛著作集」(小学館)は実に読みやすい作品集です。


梅原氏は、厖大な文献をていねいに読みこなし、それまでの学界の定説をひとつひとつ覆すような問題提起を行っています。梅原哲学は学問的に非常にラジカルです。それらの論文は、査読なしの文芸誌「すばる」等に発表されたエッセーであるため、学界では原著論文とは位置づけられておらず、記載内容に対しても、歴史研究者や国文学研究者から否定的な反論がなされています。しかし、たとえ学界からの"梅原仮説"への疑問が投げかけられたとしても、それに代わる説得力のある有力な仮説が提案されない限り、"梅原仮説"は、否定されたとは言えず、今でも生き続けています。


私が最も大きな刺激を受けたのは「隠された十字架法-隆寺論-」と「水底の歌-柿本人麻呂論」(いずれも新潮文庫)です。実にスケールの大きな問題提起です。前者については以下に説明します。後者では、定説を覆すような、(1)柿本猿と柿本人麻呂は同一人物、(2)柿本人麻呂は水刑で死亡したと主張しています。


私は、2009年7月、法隆寺を訪れ、梅原氏が問題提起した事項を心ゆくまで調査・観察してきました。大変充実した時間を過ごすことができ、仏教建築や仏教美術(仏像)への新たな視点を得ることができ、梅原氏には心より感謝しています。


「隠された十字架法-隆寺論-」の論点は三つあります。(1)法隆寺中門の中央にある柱の意味(聖徳太子の霊を閉じ込める)、(2)夢殿にある聖徳太子をモデルとした救世観音には光背(仏像の後光を表現した物)を釘で頭に固定しておりその意味(聖徳太子の霊に致命傷を与える)、(3)聖霊会(聖徳太子の霊を祀る祭り)の意味です。(1)(2)(3)は、独立ではなく、すべてつながっています。すなわち、再建された法隆寺は、聖徳太子の霊を閉じ込めるために藤原家によって建立された陰謀寺という解釈です。しかし、歴史研究者は、法隆寺再建の頃の7世紀には、日本には霊を閉じ込めるという考え方はなく、8世紀になってから出てきた考え方と反論しています。


私は、(1)については、構造的に必要な構造材であり、陰謀寺論から除外できると考えています。(3)は"梅原仮説"でなくてもその意義を説明できるため、陰謀寺論から除外できると考えています。しかし、奈良や京都の寺の仏像をいくら調査しても、(2)は、どのように考えても、崩せません。(3)を完全に崩せない限り、(1)と(2)も明確に崩せたことにはなりません。


光背は、普通、百済観音のように仏像の背後に設けた構造材の上部に固定する(百済観音方式)か、東寺の金堂にある仏像等のように肩や背中に固定しており(ここでは仮に東寺方式と呼んでおこう)、頭に釘で固定している(救世観音方式)のは、梅原氏が指摘するように、救世観音だけです。私の調査の他にも、仏像の専門家や奈良・京都の有名の寺に質問しても、納得できる説明が得られず(彼らはまともな回答すらできませんでした)、この事実は、崩せませんでした。


しかし、歴史的に考えると、梅原氏が指摘しているとおり、救世観音が造られる前、救世観音とまったく同じ固定法ではありませんが、金具で直接、頭に固定している例は、あります。それらは法隆寺金堂に収められている釈迦三尊の周囲に配置されている四天王像(持国天・増長天・広目天・多聞天)です。光背を頭に固定する方式は、固定方が単純であるため、合理的なように見えますが、仏像学からすれば、仏像の身体、特に、頭に釘を打ち込むことは、たとえ、小さな金具や釘であっても、許されることではありません。


仏像師の趣味や思いつきとして片づけられないくらい大きな意味があるのです。


学界の定説のように、たとえ、7世紀に、霊の閉じ込めの考えがないとしても、それは、文献に残されていないということであり、存在していなかったことの必要十分な論証には、なっていません。矛盾点を解決しようとする”梅原仮説”は唯一の建設的な考え方です。梅原哲学の魅力は、学界の定説に盲従することなく、矛盾点に対して、厖大な文献を読みこなし、大胆な仮説を組み上げ、世の中に問題提起している点にあると言えます。ぜひ、お目にかかりたい研究者のひとりです。



「FBR論」(2010.3.12追加)


最初、三菱FBRシステムズが提案した"世界標準FBR"の概念図と説明文を読んだ時、驚きました。それは、これからのFBRは、軽水炉と競合できる経済性を追求するために、冷却系配管をできるだけ短くできるタンク式が主流だったからです。「もんじゅ」のようなループ型は、運転管理に便利ですが、商業炉には、結びつかない技術です。しかし、三菱重工業がそのために設立した三菱FBRシステムズは、ループ型の経験と技術を積極的に生かすために、"世界標準FBR"には、ループ型を採用しました。そればかりか、三菱重工業が技術を蓄積してきたPWRシステム構成をそのまま採用しています。


原子炉からの液体ナトリウム冷却材は、ニ系統のループ型配管により、それぞれ、ポンプを介して循環させます。ポンプ部分に特徴があり、原子炉からの液体ナトリウム冷却材は、ポンプ内蔵の中間熱交換器で熱を二次側に伝達して、原子炉に戻ります。原子炉二次側の液体ナトリウムは、蒸気発生器に導かれます。


液体ナトリウムは、配管から漏れると、空気と反応して、爆発現象を生じ、取り扱いが困難であるめ、"世界標準FBR"には、そのための工学的対策として、冷却配管を二重配管にしてあります。「もんじゅ」と同様、中間熱交換器を設けるのは、蒸気発生器の一次側の液体ナトリウムと二次側の水が反応し(伝熱管破断事故)、爆発で生じた衝撃波を緩和するためのクッションです。 そうすれば、炉心への影響は、中間熱交換器が健全に維持されている限り、無くせるか、極めて小さく出来るためです。


世界標準FBRは「もんじゅ」で経験のあるループ型と三菱重工業で経験のあるPWRの両者の良いとこ取りの無難なシステム構成のように解釈できます。それは、旧動燃(その後、サイクル機構に改組)がナショナル・プロジェクトとして推進してきた開発成果をそのまま引き継ぐ政治的に方向付けされた選択と解釈できます。米国で開発された軽水炉が世界制覇できたわけは、安全性と経済性に優れていることだけでなく、人類が使い慣れ、性質を良く把握している軽水(普通の水)を中性子減速材と炉心冷却材に採用したことにあります。軽水の安定性と透明性は、燃料交換作業を容易にし、配管から漏れても取り扱いが容易になります。


原研は、これまで、新たな原子炉概念を提案し(高転換軽水炉・低減速軽水炉(いわゆる軽水増殖炉))、それに関する炉物理研究とシステムの概念設計をしてきましたが、単に、研究者が論文を書くための実験・試験止まりに終わり、何ひとつ実用化に結びついていません。


高転換軽水炉(HCLWR)は、軽水炉の燃料棒をいまよりもより周密構造にすることにより(中性子減速材の軽水を排除)、また、MOX燃料を採用することにより、中性子エネルギースペクトルを高速増殖炉のそれに近づけられ、増殖とまではいかなくても、軽水炉の転換比0.6よりもはるかに高い0.95くらいまで可能とされています。


低減速軽水炉(軽水増殖炉(LWFBR))は、高転換軽水炉よりもはるかに燃料棒配列を徹底的に周密化することにより(中性子減速材の軽水を徹底的に排除)、FBR並みの増殖比約1.2が実現できます。しかし、技術的に難しいのは、周密化することによって、冷却材喪失事故時に炉心に注水して安全な炉心冷却が困難になることです。そのため、緩和策として、軽水炉のように燃料棒を4mにないで、約1mにし、その代わり、炉心の直径を約6mにしなければなりません。そうすると原子炉圧力容器の直径が約7mにもなり、いまの軽水炉の原子炉圧力容器よりも製造がはるかに困難になります。


私は、軽水増殖炉に期待しており、徹底的に周密化しても軽水炉のような大きさの炉心にできるような技術開発等、将来の実用化のための技術開発をすべきだと考えています。よって、FBR実用化は、世界標準FBRの開発リスクまで考慮し、もうひとつの可能性として、冷却材に軽水を利用でき、これまでの軽水炉での技術蓄積を有効に生かせる軽水増殖炉の実用化に向けた開発体制を立ち上げるべきです。



「SCC論」(2010.3.12追加)


歴史的に見れば、ステンレススチールの基本的な組成の考え方は、20世紀に入る直前には、すでに、できており、鉄・ニッケル・クロムの割合のうち、クロムの割合によって、鉄よりもはるかに優れた特性を有する合金が生成される事が示されましたが、20世紀前半の期間では、まだまだ、高価な特殊な合金と位置付けられており、特別に耐久性を要求されるような部品に採用される程度でした。


本格的に大量に採用され始めたのは、米国の最初の商業用軽水炉(加圧水型原子炉)であるシッピングポート原子力発電所であって、それまで、火力発電所や石油化学コンビーナート等では、鉄製の機器・配管等が利用されており、特に防腐の必要のあるタンクについては、内面に鉛を施す事により、何とか難をしのいでいました。しかし、シッピングポート原子力発電所では、運転開始1年後には、蒸気発生器のステンレススチール製伝熱管に応力腐食割れ(Stress Corrosion Cracking ; SCC)が発見され、その後、米国で二番目の商業用軽水炉(沸騰水型原子炉)のドレスデン原子力発電所でも、毎年のように配管に応力腐食割れが発見され、この頃には、米国を中心に、日本を初め、世界で、軽水炉の発注が進められ、日本の先行炉(敦賀1号機、美浜1号機、福島第一1号機)もこの頃に発注されました。


ふたつの原子力発電所で発見された応力腐食割れが、発電所の建設段階や選択した製品に特有なものか、それとも一般性のあるものかということは、まったく分かっておらす、日本では、1970年代に、沸騰水型原子炉を中心に、応力腐食割れが続発し、取り替えやすい原子炉外の配管等については、改良材(SUS316やSUS316L)への取り替え、それが済むと、今度は、1990年代後半に、原子炉内の放射化されて取り扱いの困難なシュラウドやジェットポンプの取り替えをしました。


原子力界の特に材料研究者の間では、応力腐食割れの問題には、解決の目途がついたように解釈されていたところ、東京電力の福島第二原子力発電所や柏崎刈羽原子力発電所の改良材を採用していたシュラウドでも応力腐食割れが発見され、東京電力は、その意味とメカニズムが説明できなかったため、長期にわたりって隠蔽し、海外で同様の問題が生じてから、特に、修理に携わったGE社子会社の日本人エンジニアの内部告発によって、情報公開の道が開かれました。


ステンレススチール(stainless steel)のstainには、"汚れ"という意味があり、化学の研究者は、化学反応の過程でできる着色や生成物の付着等のことをよくstainと呼びます。それに打ち消しの意味を有するlessをつないで、stainlessとし、"汚れない"の直訳を意訳して、"錆びない"という意味を込めたものです。逆に、stainedとして利用している例は、それにglassをつなげstainedglassとし、"汚れたガラス"の直訳を"色付きガラス"と意訳し、さらに、そのまま"ステンドグラス"と呼んでいます。


ところで、女性の化粧品のひとつに、ステン水というのがありますが、stain水のことで、この場合のstain汚れは、水にかかるのではなくて、省略されている言葉、すなわち、"汚れた顔を綺麗に拭き取るための水"の意であるために、汚れたは顔にかかります。


ステンレススチールのことをSUSと略しますが、これは何の略かと言えば、米国にあるUS Steelの頭文字の順序入れ替えの略ではなくて、金属分類法の順序において、金属種Steel /用途Use、呼称Stainless Steelの頭文字を略したもので、Useは、"特殊目的"の意味が込められており、ステンレススチールよりもSUSの方が語呂が良いので普及したものと推察されます。

Thu, April 17, 2008 stanford2008の投稿

(6)(7)桜井淳の新聞掲載コメント回数・テレビニュース出演回数

テーマ:ブログ

【新聞掲載コメント回数】


1988年(昭和63年)以降、朝日・読売・毎日・日経・産経・東京・地方紙・海外紙に、計約500回(そのうち20回は一面に掲載されました)。ただし、掲載紙を入手してないものも数十回あります。内訳は、朝日約100回・読売約70回・毎日約100回・日経約70回・産経約30回・東京約60回・地方紙約30回・海外紙約10回。 切り抜きはファイルして保存してあります。


【テレビニュース出演回数】


1988年(昭和63年)以降、NHK総合テレビ・日本テレビ・TBSテレビ・フジテレビ・テレビ朝日・テレビ東京・地方テレビ・海外テレビに、計約280回。内訳は、NHK総合テレビ約70回・日本テレビ約50回・TBSテレビ約30回・フジテレビ約50回・テレビ朝日約50回・テレビ東京約10回・地方テレビ約20回・海外テレビ数回。映像は録画して保存してあります。


1991年に発生した関西電力美浜1号機蒸気発生器伝熱管ギロチン破断事故の時、NHKが夜の「7時のニュース」で、1ヵ月に20回くらい出演機会を演出したために、しばらくは、NHKだけにしか出演しなかったのですが、その後、民放から出演依頼が激増し、NHKも特に反対しなかったため、民放にも出演するようになりました。私の考え方が偏っているわけではないため、あらゆるテレビ局が、朝から深夜の番組まで、幅広く出演依頼してきました。どのテレビ局のどの番組に対しても、役割(視聴率を上げること)を認識し、そつなくこなしました。


新聞・テレビ・週刊誌等から特に多くのインタビューがあった事故・故障・不祥事・自然災害は以下のとおりでした(手帳にノートしていた概数)。


桜井淳カリフォルニア事務所-新幹線安全神話が壊れる日
「新幹線「安全神話」が崩れる日」(講談社、1993)


【過去20年間の主なマスコミ対応】


(1)美浜2号機蒸気発生器伝熱管ギロチン破断事故(1991)・・・1ヵ月半に約150件(特に多かった理由は、事故の半年前に、「週刊エコノミスト」で「原発の脆弱性は克服されたのか」で事故を予言していたためです)

(2)「のぞみ」事故・故障(1992-93)・・・2年間に約150件(特に多かった理由は、著書「崩壊する巨大システム」で事故・故障を予言していたためです)

(3)阪神大震災(1995)・・・1ヵ月半に約50件

(4)「もんじゅ」事故(1995)・・・1ヵ月半に約50件

(5)再処理工場附属施設火災爆発事故(1997)・・・1ヵ月半に約150件

(6)独新幹線ICE脱線転覆事故(1998)・・・1ヵ月半に約30件

(7)JCO臨界事故(1999)・・・1ヵ月半に約150件

(8)地下鉄日比谷線脱線事故(2000)・・・1ヵ月半に約50件

(9)東京電力シュラウド亀裂隠し不祥事(2002)・・・1ヵ月半に約50件

(10)関西電力美浜3号機復水配管破裂・作業者死亡事故(2004)・・・1ヵ月半に約50件

(11)新潟県中越地震(2004)・・・1ヵ月半に約30件

(12)JR西日本尼崎脱線転覆事故(2005)・・・2週間半に約430件(テレビのスタジオ出演約20回・録画出演約20回)(過去に例がないくらい特に多かった理由は、107名も死亡した事故であるため、さらに、世の中で新幹線の安全性を初めて技術論レベルで分析した著書「新幹線「安全神話」が崩れる日」「新幹線が危ない!」「崩壊する巨大システム」があったためです)

(13)JR東日本羽越線脱線転覆事故(2005)・・・1ヵ月半に約30件

(14)新潟県中越沖地震・東京電力柏崎刈羽発電所震災(2007)・・・1ヵ月半に約50件


世の中でこのくらい数が多かったのは故・高木仁三郎氏(原子力だけ)と私(原子力・新幹線・航空機・産業事故・自然災害)くらいでしょう。東大の先生でも不祥事当たり数件くらいですから、一桁以上も多くこなしています。世の中の大きな不祥事や自然災害は、20年間の経験から、2年に一度の割合で発生しています。なお、新聞の場合、コメントが氏名入りで掲載されるのは、経験的に、3回に一度の割合でした。

Thu, April 17, 2008 stanford2008の投稿

(8)桜井淳事務所の業務内容紹介

テーマ:ブログ

桜井淳事務所は三つあります。三つとも所長は設立者の桜井淳(さくらい・きよし、物理学者・社会学者)です。ひとつは1988年4月に設立された桜井淳水戸事務所です。現在の施設は水戸市千波町の団地内にある旧自宅です。スタッフ間では"水戸"と呼んでいます。ふたつめは、米国進出のために、2000年9月に設立された桜井淳カリフォルニア事務所です。現在の施設は、カリフォルニア大学バークレー校とスタンフォード大学の業務のしやすいサンフランシスコ市街地ノースビーチ地区にある小さな事務所です。スタッフ間では"カリフォルニア"と呼んでいます。三つめは2008年9月に設立された桜井淳ニューヨーク事務所です。現在の施設は、ニューヨーク州都のアルバーニィ近くのトロイ郊外にある小さな事務所です。スタッフ間では"ニューヨーク"と呼んでいます。三つの事務所間ではメールにより相互に情報交換がなされています。



桜井淳事務所の業務内容はつぎのとおりです。

(1)大学・学会研究活動

(2)受託研究

(3)調査・検討

(4)コンサルタント

(5)講演(一般講演・学術講演)

(6)批評(新聞・テレビ等のマスコミ対応)

(7)学術セミナー開催(専門家養成)

(8)毎月メルマガ発行

(9)その他



このHPにはつぎのような情報を掲載します。

(1)桜井淳所長の学歴・職歴・兼務・兼職

(2)桜井淳所長の哲学

(3)桜井淳所長の学術的業績

(4)桜井淳所長の著書・共著・監修(一般書)

(5)桜井淳所長の講演記録

(6)桜井淳所長の新聞掲載コメント回数

(7)桜井淳所長のテレビニュース出演回数

(8)桜井淳所長が実施している専門家養成のための学術セミナー内容

(9)桜井淳所長の編著(学術書)

(10)桜井淳所長のエッセー・小説

(11)桜井淳所長の学術翻訳書



(A)桜井淳水戸事務所(水戸市郊外の団地内にある旧自宅)スタッフ

所長(物理学、原子力、社会学)桜井淳(専任1)

副所長(英米文学)、非常勤A

スタッフ(電気工学)(第五世代、専任2)

スタッフ(機械工学)(第五世代、専任3)

スタッフ(法学)、非常勤B


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-水戸事務所書籍棚 桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-水戸事務所応接室
30年経った古い水戸事務所の書籍棚(上半分)__30年経った古い水戸事務所の応接室兼会議室(定員10名)

桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-水戸事務所庭園
30年経った古い水戸事務所の庭園の一部


茨城県那珂郡東海村で1999年9月30日に発生したJCO臨界事故の原因と企業内教育レベルの低さを重く受け止めました。さらに、日本原子力学会に設置した「モンテカルロ法による粒子シミュレーション」研究専門委員会(1998.10-2002.9)の委員指名において、大学・研究機関・原子炉メーカー等の研究者・エンジニアだけに声をかけ、JCOのような核燃料サイクル施設を構成する燃料加工工場のエンジニアには声をかけませんでした。そのため、LANLで開発されたMCNPをインストールした高速PCを利用して、厳密な三次元臨界計算が容易に実行できることをすべての関係者に知らしめる機会を作ることができませんでした。


そのような問題を克服し、日本のどの組織も高い安全解析能力を備えるために、「第1回 モンテカルロ法による核燃料サイクル施設の未臨界安全解析セミナー」を開催し、つぎに、炉物理理論を中心とした「第1回 モンテカルロ基礎理論セミナー」、・・・・と計8種類に及びました。何度も繰り返し開催することによって、レクチャー内容と計算演習内容を充実させ、これまでに約400名の修了者に達しました。


参加者は、最初、研究機関・原子炉メーカー・ソフト会社の研究者・エンジニアでしたが、最近の数年間は、大学教員・修士院生・博士院生が半数以上を占めるようになりました。そのため、桜井淳水戸事務所は、日本で最大のモンテカルロ計算・安全解析の専門家を養成するための研究・教育機関となりました。これまでの約8年間に、それらの研究成果をまとめ、Trans. At. Energy Soc. Japan,に3編が掲載され、さらに、臨界国際会議(ICNC2003)で1回発表(そのプロシーディング論文1編)、それから、「炉物理の研究」(No.61, 2009.3)に1編掲載されました。いまでも、たとえ、事務所の研究予算は少なくとも、哲学とアイディアだけで、1年に1編の割合で、論文を発表し続けています。


(1)セミナー申込先及び申込法(事務所の電話・ファクシミリ・メール・住所は世の中に公開済み)

①電話

②ファクシミリ

③メール(事務所メール、あるいは、本欄右端のメール)

④郵便


(2)申込者報告事項

①所属組織名・所属部門(組織に所属していない場合にはそのことを明記)

②住所

③連絡先(電話・ファクシミリ・メール・住所)

④専門(分野及び経験年数)

⑤参加目的


(3)参加者決定

①参加申込者に対し、セミナー事務局担当者からメールでいくつかの質問をして、的確な回答をした者のみ参加許可します。


(4)開催案内

①日本原子力学会メーリングリスト(約4700名対象)(2003年以降の学会メーリングリスト配信資料のバックナンバー参照)

②本欄


(5)年間総開催回数

約20-50回。


(6)参加者総数

約600名(2002-2006年に開催した各種モンテカルロセミナー参加者の約400名に対しては、研究データを得るために、参加費ゼロの完全ボランティアでしたが、2007年からは、研究的意味が少なくなったために、配布資料代込みの参加費を得るようにしました)。


(7)修了証書等

経費削減のために特に発行していません。


(8)第1回モンテカルロ夏季セミナー参加者

第1回の実施内容は、原研研究報告書JAERI-Review 2000-034(2000)とTrans. At. Energy Soc. Japan,Vol.2, No.2, pp.116-120(2003)にまとめられています。


(9)過去に学会論文誌等掲載済み関係原著論文

特記すべき成果は、参加者への事前アンケートや当日の聞き取り調査の結果等を含む「モンテカルロ教育法」についての論文が、Trans. At. Energy Soc. Japan,Vol.4, No.4, pp.16-26(2005)に掲載されたことです。


(10)過去に企画・編集済み関係学術成果報告書

特記すべきことは、許認可のガイドラインの企画と内容を提案し、分担執筆(分担は巻頭言に相当する内容の論文「モンテカルロ計算の哲学」)をとおして、日本原子力学会の成果報告書(『モンテカルロ計算ハンドブック』(2006))として取りまとめと編集を担当したことです。


(11)最近の参加者の傾向

最初の参加者は、原研・サイクル機構・大手企業・ソフト会社等の研究者やエンジニアが主で、大学院生や大学教員はわずかでしたが、最近の参加者は、8割が大学院生・大学教員(北大・東大・東大原工施・京大・京大原子炉・阪大・名大・東工大・武蔵工大・近大原子炉・駒沢大(衛生学部では、放射線技師等の養成をしている関係で、教員には放射線物理実験や放射線輸送計算を実施している者がおり、参加した学生と教員は、大変優秀でした)・福山大(どのような組織で参加者がどのような研究をしているのか把握しておりません))になっており、結果的には、日本の大学院における計算科学・モンテカルロ教育の大きな分担を担っています(初期の頃の大学からの参加者名は原研研究報告書JAERI-Review 2000-034(2000)に記載されています)。


(12)参加者名簿

2000年夏に試験的に実施した第1回モンテカルロ夏期セミナーに参加した約120名の氏名・所属・メールアドレスは、研究機関の学術報告書附録として、公表してあります。学術セミナーへの参加であるため、機密事項ではありませんので、公表しても支障ありませんが、その後、世の中に個人情報の保護の傾向が強くなったために、名簿の公表は、可能な限り、差し控えています。試験的実施の2000年から今日までの参加申し込みメールの内容と実際の参加者氏名・所属の記録は、プリントアウトされた文書として、ファイル化され、桜井淳水戸事務所に保管されています。


(13)今後の課題(数年計画で順次実施)

①電子・陽子・重イオン等の高エネルギー荷電粒子輸送計算セミナーの開催(電子の制動放射にともなう光子の発生・輸送の医療照射場の試計算を実施しましたが、荷電粒子の輸送計算は、相互作用の多さから、中性子・光子の計算時間の約100倍もかかるために、1日のセミナーでは、計算演習が困難なため、何らかの工夫が必要です)。

②医療施設設計・照射場設計・最適照射条件決定のための医療モンテカルロセミナーの開催(同上)。

③過去に数回、海外大学から開催要請があったため、実施セミナーの英文テキストを作成して海外でも主要セミナーの開催ができるようにすることです(特に、高エネルギー輸送計算)。

④"桜井学校"の専門分野別・研究テーマ別の生徒募集(これは、"桜井学校"の最終的な目的ですが、原則として大学院生等の研究者の卵の十数名の受け入れです。"桜井学校"の最終的な体制・組織・授業料等の詳細事項は検討中です。生徒募集は日本原子力学会誌と日本原子力学会メーリングリスト配布資料として掲載するようにします。)


(14)学術セミナー開催で得られたいくつかの成果(2009.5追加)

学術セミナー開催で得られたいくつかの成果のうちのひとつは、①モンテカルロ基礎理論セミナーや計算セミナーに計3回参加した東大大学院工学研究科原子力国際専攻D3(現在)の矢形朋由さんを日本原子力学会「最適モンテカルロ計算法」研究専門委員会(主査桜井淳)の委員と同「未臨界実験データ評価」研究専門委員会(主査桜井淳)の委員に抜擢したことです。委員の資格は、最低、矢形さんくらいの経歴と実力を有すること、あるいは、大学・研究機関・企業で10年以上の勤務経験があって複数の原著論文・研究報告書・技術報告書の業績があることです。これまで、原子力研究施設や核燃料サイクル施設の安全審査にモンテカルロ輸送計算の採用に積極的でなかった東大から委員を出せたことは大きな成果と位置づけています。②二番目の成果は、最近の第28回モンテカルロ基礎理論セミナーに参加する東大大学院工学研究科原子力国際専攻D1年の小川達彦さんに対し、「最適モンテカルロ計算法」研究専門委員会第12回会合(2009.6.23、原子力学会会議室)で1時間の講演「高エネルギー放射線場における放射化のFLUKAを用いた評価」の機会を与えたことです。小川さんにその機会を与えた理由は、第28回モンテカルロ基礎理論セミナーに参加するに当たり、事務局や私とのメールのやり取りの過程から、それ相当の知識とモンテカルロ計算(MCNP,EGS,FLUKA,PHITS)の経験があることが確認され、モンテカルロ応用計算例としてなら、委員会での発表に値すると判断したためです。小川さんの実績では、まだ、委員は無理ですが、その一歩手前の常時参加者(開催案内を受け、会合に出席でき、討論も自由にできます)として、委員会に参加してもらい、その後、D2になったら、本人の意思を確認後、委員に抜擢することも考えています。③三番目は、モンテカルロ基礎理論セミナーに参加したJANUSの浅野和仁さんを「最適モンテカルロ計算法」研究専門委員会と「未臨界実験データ評価」研究専門委員会の常時参加者にしたことです。浅野さんは、30歳台半ばのエンジニアで、大変優秀でした。④四番目は、数年前になりますが、当時、京大大学院工学研究科M2に在学していた大西世紀さんが、モンテカルロ基礎理論セミナーに参加し、その後、国土交通省の船舶技術研究所(現、海上技術研究所)に就職して遮蔽研究を担当し、必要により、遮蔽計算セミナーにも参加しましたが、M2当時と就職後のセミナーでの対応が非常に良く、優秀であったため、研究所での実績を考慮し、いまの委員会の前の委員会「モンテカルロ計算高度化」研究専門委員会の委員にしました。そして、今の委員会にも引き続き委員として参加していましたが、原研のFNS(核融合中性子研究施設)に出向になり、委員辞退の申し出がありました。FNSからはすでに委員がひとり出ていたため、辞退しなければならない立場にありました。出向期間後、また、元の研究に復帰した時には、委員を依頼します。委員や常時参加者は、セミナー参加者なら誰でもなれるわけではなく、10人に1人の特に優秀な人しかなれません。委員の目安は学位取得が可能な実力かそれに近い条件を備えていることです。以上の方々の他にも委員や常時参加者での参加要請をしましたが、業務との関係で、組織から許可が得られず、実現できなかった例もありました。⑤五番目の成果は、現在、「最適モンテカルロ計算法」研究専門委員会で分担執筆中の学部生・院生・研究者を対象とした標準的教科書「原子力工学のためのモンテカルロ輸送理論」(原子力学会から刊行予定)の目次・内容を決めるためのバックグラウンドになったことです。⑥六番目は、セミナーで得た研究成果を数編、原子力学会和文論文誌や国際会議プロシーディングに投稿し、掲載されたことです。その他、原子力学会研究専門委員会の成果報告書に数回、分担執筆しました。⑦七番目は、弘道館・自然探訪セミナー開催のために集めた文献を基に、将来、著書がまとまるレベルに達したことです。反面、有料セミナーは、世界不況の原因となったサブプライム問題が発生した2007年秋頃から本格的に開始したため、まだ、事務所のビジネスとして、採算の合うレベルには達していませんが、大学院で行うようなセミナー内容をカバーしており、現に、院生の参加が多いため、今後、セミナーテーマを拡張して、最低でも数年間継続し、採算が合うようにする方針です。



(B)桜井淳カリフォルニア事務所(カリフォルニア州サンフランシスコ市街地ノースビーチ地区(面積は水戸市千波町の約三分の一)コロンブス通り丘の上の貸し民家、他人の私的所有物のため建物の写真不可)スタッフ

所長(物理学、原子力、社会学)桜井淳

副所長(英米文学)、非常勤A

スタッフ(英米文学)(第三世代、専任4)

スタッフ(経済学)(第三世代、専任5)

スタッフ(法学)、非常勤B


事務所は、サンフランシスコにあるのに、なぜカリフォルニアかと言えば、それには、ふたつの意味を重ねており、ひとつは、カリフォルニア州にある事務所の意、もうひとつは、サンフランシスコ市街地を東西に走る最大のカリフォルニア通り(チャイナタウンの南側を通り、サンフランシスコの高層ビル街の真ん中を貫いています)の意で、桜井所長とスタッフの心の中には、サンフランシスコの代名詞として、カリフォルニア通りを位置づけています(事務所近くの南北約1.5kmのコロンブス通りとその先のモントゴメリ通りを介して約1km先で交差)。


他のふたつの事務所と異なる点は、平地にあるのではなく、と言って、山と言うほど高くなく、丘と言うほど低くない位置にあり、窓から眺めると、サンフランシスコ市街地が一望でき、近くのcolumbus av.の斜め向かい側の遠くには、San Francisco Art Institute、通りのこちら側の遠くには、St. Peter Paul's Church(欧州先進国の立派なカテドラルほどではなく、中規模のごく普通の教会)、山の上に目を転ずれば、遠く、North Beach地区のシンボル的存在のTelegraph Towerが見え、眺めは良いのですが、columbus av.から入り込み、斜面を歩いて上るのに、やや、疲れを感じます。


2010年3月1日から使用させていただいているブログ巻頭写真は、カリフォルニア事務所附近の光景に少し似ていますが、実際には、海(サンフランシスコ内海)は事務所のある山の反対側にあり、日常的には見えず、建物も壁の白いこじんまりした雰囲気で、写真のように立派な青いドームではありません。海・山・白い家が共通点です。


業務上の移動手段は、通常、2km範囲であれば、30分間徒歩で済ませるようにしていますが、疲れている時には、近くから乗れるケーブルカーのパウエル-メイソン線を利用し、大学関係の業務でカリフォルニア大学バークレーへ行く時には、パウエル-メイソン線でマーケット通りにあるパウエル駅まで行き、そこから湾岸領域高速列車バート(Bay Area Rapid Transit ; BART)に乗り、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジに並行に海底地下を走り、もっと遠くに移動する場合には、レンタカーか鉄道か飛行機を利用し、しかし、一番多く利用しているのは、最も効率的で経済的なケーブルカーとバートです。


スタッフを連れて、時々、徒歩20分のところにあるチャイナタウンに行きます。最初の頃は戸惑っていました。と言うのは、日本で食べていた中華料理やラーメンとは、まったく異なっており、それが本格的な中華とは分かっていましたが、なかなか受け入れられなかったようです。おいしくなかったため、わざわざ、日本的ラーメンを特注しようとしていました。


そう言えば、1995年に中国へ旅行した時、内陸部の小都市のホテルのレストランでラーメンを注文し、話が伝わらず(チャイニーズヌードルと言ったらやや分かったようですが)、日本的ラーメンとはどのようなものであるか、ていねいに説明し、特注で、それらしきものを作ってもらったことがあると話していました。出てきたものは、どんぶり形のおわんに、スープの中に麺があり、その上にひき肉が乗っているだけで、日本のラーメンとは似て非なるものだっようです。北京や上海のような大都市では通じるのかも知れませんが、地方の小都市では通じなかったようです。


なお、サンフランシスコと言えば、「想い出のサンフランシスコ」という曲が有名で、歌詞はつぎのとおりです。


I LEFT MY HEART IN SAN FRANCISCO


The loveliness of Paris
Seems somehow sadly gay
The glory that was Rome
Is of another day
I've been terribly alone
And forgotten in Manhattan
I'm going home to my city by the bay.


I left my heart in San Francisco
High on a hill, it calls to me.
To be where little cable cars
Climb halfway to the stars!
The morning fog may chill the air
I don't care!
My love waits there in San Francisco
Above the blue and windy sea
When I come home to you, San Francisco,
Your golden sun will shine for me!



(C)桜井淳ニューヨーク事務所(ニューヨーク州ハドソン河上流約150kmにある州都アルバーニィの近郊の地方都市トロイの郊外の貸し民家、他人の私的所有物のため建物の写真不可)スタッフ

所長(物理学、原子力、社会学)桜井淳

副所長(英米文学)、非常勤A

スタッフ(英米文学)(第一世代、専任6)

スタッフ(政治学)(第一世代、専任7)

スタッフ(法学)、非常勤B



事務所の詳細な業務内容は、2009年6月より、毎月発行するメルマガ「桜井淳&事務所スタッフの作業内容」により、1988年より取引のある大学・研究機関・マスコミ関係者等230名に送信しています。メルマガ購読希望者は、右欄の「メッセージを送る」によって、氏名・住所・電話番号・メルアドを記して申し込んでください。


アメンバー読者希望者は、右欄の「アメンバー読者」によって、氏名・住所・電話番号・メルアドを記して申し込んでください。



2010年3月20日にブログ形式からHP形式に変更しました。ブログとして記した記事はすべて事務所専用ファイルに退避して保存してあります。



(2010.3.20に変更事項の追加)