甲子園に初出場した4年前、旋風を巻き起こして今年の春には全国制覇。
プロ注目の投手を擁する夏の本命は、県予選準々決勝であっさりと姿を消した。
ここまで強くなった要因、そして歯車が狂うことになるきっかけはどこにあったのか。
佐世保野球場の空をびっしりと覆い尽くした暗雲。
それに加え、この日は、日本では46年ぶりという皆既日食の日だった。午前中だというのに照明に灯が入り、雲間からはときおり月に遮られ、爪の切りかすのようになった太陽が顔をのぞかせていた。どこか非現実的なその現象を眺めていると、古代、人人が日食を凶兆として恐れたのもうなずける。
1回裏に2失点。
あの絶対的なエースが、である。清峰の背番号1を背負う今村猛はこの春、全国制覇を成し遂げた選抜大会では、5試合で計44回を投げ、わずか1点しか奪われていなかった。
甲子園の常連校、長崎日大を相手に0-2からのスタート。重くないはずがなかった。
回はあっという間に進んだ。1-3と2点差で迎えた最終回。清峰は先頭打者が出塁し、にわかに活気づく。が、直後、その走者が盗塁のサインが出たものと勘違いし、単独で走ってしまい二塁タッチアウト。事実上、その時点でゲームは終わっていた。
本番のおよそ10日前、監督の吉田洸二はこんな予言めいた話をしていた。
「選手たちは『今村依存症』っていう病気にかかっているところがある。先発・今村、って言った瞬間、つなぎの意識がなくなっちゃう。夏の大会は、今村も打たれる。今までのように依存していたら、3点取られたら終わりですよ。慌てて、ミスが続出して負ける」
3失点という数字も、それによってミスが続けて出た点も、怖いぐらいに符合していた。
この春、長崎県勢として初めて全国の頂点に立った清峰は、その111日後、らしさをほとんど見せられぬまま、長崎大会の準々決勝で早くも散った。
北松南から「野球が強くなりそうな」清峰へ。
清峰。確かに、どこか高校野球マンガに出てきそうな響きがある。
'03年、現在の校名に改め、2年後に初の甲子園出場。翌春には準優勝し、それをきっかけに駅名改称運動が起こる。2年前より現駅名に
清峰は、'02年までは北松南(ほくしょうみなみ)という校名だった。改称に立ち会った、元校長の川瀬長久が感慨深げに振り返る。
「公募でこの名前に決まったとき、忘れもしません、ある女子生徒が『野球が強くなりそうな名前ですね』って言ったんですよね」
沖縄のモノレールを除く日本最西端の鉄道、松浦鉄道で佐世保から北に揺られること約50分。無人駅「清峰高校前」の目の前に学校はある。一帯はその昔、炭坑で栄えた時代もあったが、今ではすっかり寂れてしまった。そんな過疎地の、とりたててセールスポイントのない公立高校。それが清峰の前身、北松南だった。
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(更新日:2009年8月3日)
筆者プロフィール
中村計
1973年千葉県出身。ノンフィクションライター。某スポーツ紙を経て独立。『Number』(文藝春秋)、『スポルティーバ』(集英社)などで執筆。『甲子園が割れた日 松井秀喜の5連続敬遠の真実』(新潮社)で第18回(2007年度)ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。他に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)などがある。『雪合戦マガジン』の編集長も務める。趣味は、落語鑑賞と、バイクと、競艇。