僕達は、帰ってきた人達から隠れる為に、今まで暮らしていたマンションを離れて山を登り、
山の中腹にある洞窟の中で暮らすようになった。
そこで、人に見つからないよう警戒しながら、
生活の痕跡を残さないよう細心の注意を払いながら、僕達は洞窟での生活を続けた。
山から下の森の様子を毎日眺めた。
綾波とカヲル君を見て二週間経った辺りから、森が切り拓かれ始め、僕達が住んでいたマンションを中心に集落が出来ていった。
人は、確実に帰ってきている。
だけど、どうやら帰ってきた人達の間には、僕がかつて危惧していたような争いも起こってはいない様だ。
それとも、海辺の方では既に争いが起こった後で、ここに来た人達はその争いの生き残りや逃げてきた人達で、
ただ単に争いに疲れてしまっているだけなのかもしれない。
そこから更に一週間も経つと、大きな建物がどんどん建てられていき、集落は街とよべる程に大きくなっていった。
人の数も、増えていってるみたいだ。
人の行動範囲も、どうやら森全体に及んでいるようだった。
僕達の住む山にも、人が踏み込んで来るようになった。
遠目から街を見た様子や、山に来た人達の様子から判断すると、戻ってきた人達はどうやら日本人が殆どのようだった。
人間も、やっぱり基本的に自分が生きていた土地に戻ってくるようだ。
アスカは、植物から搾り出した染料で髪を黒く染めた。
ただでさえ金髪のアスカは目立って見つかりやすい上、もし人に見つかれば、
すぐにエヴァのパイロットだった事がバレる恐れがあるからだった。
瞳の色は流石にどうしようもないけど、髪よりは目立たないし、
それに、もし見つかっても盲人の振りをして目を瞑り続けていれば誤魔化せる。
僕にしてみても、エヴァに乗っていた十四歳当時に比べ体格はかなり大きくなったし、
髪型も変えいるから、僕がサードインパクトを起こした碇シンジだって事はすぐにはバレないだろう。
山に来る人達は定期的に、大きな岩や木の前に食べ物を置いていった。
どうやら山の神様か何かへの御供え物みたいだった。
御供え物は森の動物達が残らず食べていった。
初めの内は抵抗があったものの、時が経つにつれ次第に僕達も御供え物を少し頂くようになった。
山に来る人達は時折そうやって御供え物をしに来るぐらいで、僕達の普段暮らしている所ほど山に深く踏み込む事もなかった。
下の街はどんどん大きくなっていった。
ただ、上から見るとまるで街の一部が森に飲み込まれているように見えるほど、街の中には木々が多く残っていた。
初めは単に、土地が使われていないから偶々木が残っているだけ、
或いは食糧として果実などの作物を栽培する為に残しているだけだと思っていたけど、どうやら違うようだった。
あの心の混じり合った世界で何かあったのだろうか、
山に御供えに来る人達といい、戻ってきた人々はまるで自然を尊重して暮らしていこうと模索しているかのようだった。
人々への警戒心は次第に薄れていき、代わりに僕達は下の街へ行ってみたいと思うようになっていった。
とは言え、僕もアスカも、サードインパクトの発生に深く関っている。
今は穏やかな人々も、僕達がエヴァのパイロットだと知るとどんな感情を抱くかわからない。
どんな目に遭わされるか、わからない。
最悪、僕達の巻き添えでミライにまで危害を加えられるかもしれない。
そう思うと、とても人と接触するなんて事は出来ず、
僕達は遠巻きに街や山に来る人達を見るにとどまっていた。
そうやって人から隠れて洞窟での生活を続けて、三ヶ月と少し程経ったある日。
アスカと一緒に森で山菜を採り、洞窟へと帰る途中、
「碇、シンジさんですね?」
黒服の男が、突然、曲がり角の大きな岩の陰から僕達の前に現れた。
「……。」
「……。」
あまりに唐突に現れた黒服達に一瞬、思考停止に陥った。
すぐに僕はアスカに、アスカは僕に振り向き、お互いの視線を一瞬だけ交差させ、
直後、
「ッ!!!!!」
「っ!!!!」
僕は黒服達の方へと飛び込み、
アスカはミライを抱えて山を降りる方へと走り出した。
「なっ!!?」
驚愕の表情を浮かべる黒服の一人の手を取り、後ろに回り込んで間接を極めた。
そのまま足を払い体勢を崩して、黒服と僕の位置を入れ替えるように転換し、
そして、
「全員動くなっ!!!!」
僕は、黒服の首筋に鎌を突きつけた。
「っ…!!!」
動きかけていた残り四人の黒服達の動きが止まる。
不覚だった。
黒服達の接近に気づけなかった。
人への警戒心が薄れていた事もあるけど、
それよりも大きいのは、おそらくこの黒服達が、完全に無警戒だった山の反対側から来た事だった。
いきなり話しかけられたって事は、黒服達は僕達の接近に気づいていたんだろう。
それに此処に現れて、しかも僕の名前を言ってきたって事は、
僕達がずっと此処で暮らしていた事も、僕達の素性も、この黒服達の所属する組織には既に知られているって事か。
もしも僕達を探しているのがこの黒服達だけで無いとしたら、アスカは、果たして街まで逃げられるだろうか?
僕達に巻き込まれない様、ミライを、誰かに託せるのだろうか?
「落ち着いてくれ!!私達は君達に危害を加えるつもりは無いんだ!!」
黒服の一人が、僕を説得しようと話しかけた。
「……。」
僕はそれを無視した。
代わりに、
「お前達は一体何者だ?
ここに来たのはお前達だけか?
どうして此処に僕達がいる事がわかった?
どうして僕の名前を知っていた?
どうして此処に僕達を訪ねて来た?」
黒服達に矢継ぎ早に質問を投げかけた。
僕に捕らえられている黒服の男が僕の質問に答えようと口を開く。
「…わ、私達は、サードインパクト後に新たに創設されたサードインパクトからの復興を目的とした組織の者だ…。
君達が此処にいる事は、周辺住人より政府に寄せられた情報からわかっていた。
君の名前は、旧ネルフ関係者の方々より窺っている。
今回君達を訪ねたのは、兼ねてより私達が行っている赤い海からの復活時にはぐれてしまった人々の保護活動、
及び、君と、惣流・アスカ・ラングレーさんの捜索活動の一環として君達と接触し、君達が何者か確認する為、
そしてもし君達が希望するならば君達を私達の組織で保護する為だ…。」
「…どうして、二番目の質問に答えなかった?」
「……。」
質問に答えている黒服の男が黙り込む。
他の黒服達も、口を噤んでいる。
こいつらの他にも、誰かがいる。
焦りと、不安と、欺かれかけた怒りで一気に頭に血が昇る。
「もう一度訊く。
ここに来たのはお前達だけか?
違うのなら、お前達の他に誰が、何処にいる?
答えろっ!!!!!!!!」
僕は激昂し、捕らえている黒服の男の首筋を少し切った。
首から、少し血が滲む。
「わ、私達の他に来たのは…」
残った四人の黒服の内の一人が、僕の質問に答えようとして、
「おいバカっ!!!やめろっ!!!!」
僕に捕らえられている黒服の男が、それを止めた。
「黙れ。」
僕は、鎌の刃を首筋に強く押し付けた。
「っ……」
捕らえられている黒服が、口を噤む。
「続きを言え。」
さっき喋りかけていた黒服に向けて僕は言った。
「くっ…」
「早くっ!!!!!!!」
「…わ、私達の他に、今、あ…」
「やめろっ!!!!俺の事は気にしなくていいっ!!!!だから喋るなっ!!!!」
再び、捕らえている黒服が怒鳴る。
「……。」
喋りかけていた黒服は、再び口を噤んだ。
焦りが、更に僕の心に募る。
こうやっている今にも、アスカとミライは…。
「……もういい。これ以上お前達に付き合っていても時間の無駄だ。
僕が今こうしている間にもアスカとミライが危険に晒されているかもしれない。なら、いっそ…」
いっそこいつらを殺して、アスカを守りに行った方が手っ取り早い。
僕は心を、黒く黒く染めていく。
「……。」
そして僕は、捕らえている黒服の首を掻き切ろうとした。
「やめっ…」
他の黒服達が、僕を止める為に駆け寄ろうとする。
その時、
「やめなさいシンジ君っ!!!!!」
聞き覚えのある女の人の怒鳴り声が聞こえ、僕は手を止めた。
黒服達の動きも止まる。
「なっ…?」
振り向いて声の主を見た黒服達に、ざわ…、と動揺が広がった。
僕も、声の主の方を見る。
「あなたは…」
声の主、それは、
「お久しぶりね。シンジ君。」
「リツコさん…。」
赤木リツコさん、その人だった。
「いけません赤木博士っ!!今の彼は激昂していて…」
「大丈夫よ。」
黒服達の制止を他所に、リツコさんは僕の方へと歩み寄る。
「彼を放してあげて、シンジ君。」
「…出来ません。止まってください。」
リツコさんが、僕の言葉を受けて歩みを止める。
「彼らが私の存在を隠していたのは、あなたが私に危害を加えるような事になるのを防ぐ為よ。
決してあなた達に対しての害意があったからではないわ。」
「……。」
「お願いだからそんな事は止めて頂戴。
あたし達があなた達を訪ねて来たのも、本当にただ純粋に、あなた達を助ける為に来たのよ。」
「信用できません。」
「なら、あなたが今捕まえている彼の代わりに、アタシを人質にしなさい。」
「なっ?!!」
リツコさんの言葉に、黒服達が動揺する。
「おやめください赤木博士っ!!!!!私の代わりに人質になるなどそのような…」
僕に捕らえられている黒服が、リツコさんに向かって叫ぶように言った。
「黙りなさい。あなた達の指揮権限は私にあります。
あなた達には私の行動に口を出す権限はありません。」
リツコさんが、叫ぶ黒服に毅然として言い放った。
「しかしっ…」
「青島、私を信用しなさい。」
リツコさんは、僕が捕らえている青島という黒服に向かって、諭すように言った。
「……。」
青島という名の黒服の男が、黙り込む。
「シンジ君。御覧の通り、彼らの指揮権限は全て私にあります。
人質にするのなら、そこの青島よりも私の方がずっと適しているはずよね?」
僕を真っ直ぐにみつめながら、リツコさんは言った。
「……。」
嘘を言っているような様子はない。
今までの様子から見ても、黒服達が演技をしているような事は無いだろう。
疑問は幾つか残るけど、
どうやら本当に僕達に危害を加えるつもりは無いみたいだ。
「確かに、そうですね…。
ですが…」
だけど、納得できなかった。
あなた達を助ける為に来ただって?
僕とアスカをエヴァに乗せて、あんな辛い運命に巻き込んだ張本人の一人が、
今更、どんなつもりで僕達の前に現れて、そんな事を言っているんだ?
勝手だ。
さっきまであった僕の中の黒服達への怒りは、その矛先をリツコさんに向け始める。
そうだ。
この人達のせいで、アスカは心に深い傷を負った。
この人達のせいで、僕は償い切れない大きな罪を背負う事になってしまった。
この人達のせいで、人のいない世界で僕達は何度も危険に晒された。
信用できない。
心の奥底に眠っていた辛い記憶が、リツコさんに対する怒りと不信を僕の中で煽る。
そうだ。
その言葉が嘘で無いなんて、どうして言える?
僕達を裏切らない保障があるなんて、どうして言える?
人間は、いつだって他者を騙して裏切り続けてきた。
なら、
「ですが、もし、僕がリツコさんを人質にした後、リツコさんの事を殺すと言ったらどうします?」
「なっ?!!!」
黒服達がざわめいた。
青島とよばれていた黒服が一瞬抵抗の気配を見せ、僕は強く押さえ込みそれを制した。
「っ!!!」
リツコさんは一瞬驚愕に大きく目を見開き、
「……。」
そして、すぐに表情を元に戻し、ざわめく黒服達を手で制した。
「…下手なブラフね。
そんな事を今言ったら、私が人質になるのをやめるかも知れない。
もし本当に私を殺すつもりなら、あなたがそんな事を言うはずがないわ。」
「勘違いしないでください。
わざわざあなたを人質にしなくても、僕はあなたを殺すつもりです。
例え此処にいる全員を殺す事になっても、刺し違えてでもね。」
「っ!!!」
黒服達が、身構える。
「……。」
リツコさんは表情を崩さずに、僕を見据えている。
だけど、顔から血の気が引いて蒼ざめていき、内心動揺しているのが見ていてはっきりとわかった。
「同じなんですよ、どっちでも。
リツコさんを人質にして殺すのも、リツコさんごと此処にいる全員を殺すのもね。
ただ、できるなら僕はリツコさん以外の関係の無い人間は殺したくない。
だから、リツコさんを殺す事をあらかじめ言ったんです。
ここにいる全員が犠牲になるか、リツコさんだけが犠牲になるか、リツコさん自身に選んで貰う為にね。」
「……。」
「リツコさん、僕はあなたの事を信用していないし、憎んでいますよ。
わかるでしょう?
あなたが僕達に課してきた事を考えればね。
だから、もし人質になるというのなら覚悟して下さい。」
「……。」
「さあ、どうするのか決めてください。リツコさん。」
そして僕は、心をドス黒く染め上げ、
ありったけの殺気を込めて、リツコさんを睨みつけた。
そうだ。
人は、簡単に嘘や裏切りを繰り返す。
なら、試してやる。
その言葉に、本当に嘘が無いのか。
僕達を裏切らない誠意と覚悟があるのかどうか。
リツコさんが、本当に信用に足るかどうかを。
「……。」
リツコさんの顔は、血の気が引きすぎて真っ白になり、
指や脚が震えていた。
だけどその目は、しっかりと僕の目を見つめている。
「……。」
僕は、引き続き殺気を放ち続ける。
やがて、
「…わ、……私が、人質になります。
だから、そこの青島を放してあげて、シンジ君。」
リツコさんは、絞り出すような、震える声でそう言った。
「……。」
もう、いいよな。
リツコさんは、きっと大丈夫だ。
それに、僕の気も済んだ。
もう、許してあげよう。
「嘘ですよ。」
僕は、殺気を消してリツコさんに言った。
「え…?」
リツコさんは、あっけに取られた顔で固まっていた。
初めて見たな、この人のこんな顔。
「リツコさんを殺そうだなんてもう思ってませんよ。
信じていいのかわからなくて、リツコさんを試してみただけです。
でも、どうやらリツコさん達を信じても良いみたいですね。」
「……。」
リツコさんも、黒服達もみんな呆気に取られている。
「青島さん、手荒な真似をしてごめんなさい。」
そう言って、僕は青島さんを解放した。
「お、おう…。」
青島さんが、皆の方に戻った。
「リツコさん、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。
他の皆さんも、嫌な思いをさせてしまいすいませんでした。」
僕は頭を下げて謝った。
「え…ええ…。」
リツコさんはそう言って、
脱力してその場でペタンと座り込んだ。
「赤木博士っ!!!」
黒服達がリツコさんに駆け寄る。
「大丈夫よ。ちょっと腰が抜けただけ…。柴田、ちょっと肩を貸して。」
「は、はいっ!」
柴田とよばれた黒服の女の人に支えられながら、リツコさんは立ち上がった。
「ちょっとそこの岩まで運んで。」
「はいっ!」
リツコさんは、柴田さんに支えられながら岩まで歩くと、そこに腰掛けた。
「情け無い所を見せちゃったわね…。」
岩に腰掛けながら、力なくリツコさんが僕に話し掛けた。
「いえ、情け無いなんて事は無いと思います。リツコさんにしてみれば、殺されるかもしれなかったわけですし…。」
「そうね。シンジ君、凄い迫力だったからさっきは本当に死を覚悟したわ。」
「すいません…。そんなに僕、怖かったですか?」
「ええ、睨まれるだけで背骨が凍るかと思うぐらい怖かったわ。実際、腰が抜けたもの。」
「すいません…。」
再び僕はリツコさんに謝った。
「気にしなくていいわよシンジ君。
怖かったって言っても、死ねば「何処」に行くのかわかっていたから、死ぬ事自体に対する恐怖はそれ程大きくはなかったしね。
それに私は、あなたやアスカを何度も死の恐怖に晒したわけだし、例え殺されていたとしても自業自得とすら言えるわね。」
「……。」
「シンジ君。
私達ネルフは、まだ子供だったあなた達を何度も死の危険に晒し、辛い思いをさせてきた。
その挙句、人のいない過酷な世界に何年もの間、あなた達を残す事になってしまった。
ごめんなさい。
まだ幼なかったあなた達をこんな過酷な運命に巻き込んだ罪は、
決して償い切れるものではないとわかってる。
だから、許して欲しいとは言わない。
でも、せめてこれから、私達に出来る限りの償いを、あなた達にさせて欲しい。」
そう言って、リツコさんは僕に向かって深々と頭を下げた。
きっと、本心から僕に謝ってくれているんだろう。
さっき僕に見せた覚悟といい、今目の前にいるリツコさんは、僕が知っている以前のリツコさんとは、
精神的な面で大きく変わっていた。
やっぱりサードインパクトの後、何かがあったんだろうか?
「頭を上げてください、リツコさん。」
「……。」
リツコさんは、ゆっくりと頭をあげて僕を見た。
「謝らなくてもいいですよ。
エヴァには僕達しか乗れませんでしたし、使徒から人類を守るには、僕達がエヴァに乗って戦わなければならなかった。
それに僕とアスカは自分から望んでエヴァに乗っていたわけですし、リツコさん達はリツコさん達で必死だった。
僕達がこうなった事は、半ば仕方の無い事だったんですよ。
それでもリツコさん達の事を少しは恨んでましたけど、それも、さっきの事で僕の気は済みました。
だから、償いとかも、別にいいです。」
「ありがとう、シンジ君。
優しいのね…。
でも、それじゃあ私の気が済まないわ。
お願いだから、私に、あなた達の為に何かをさせて欲しい。」
リツコさんは、真っ直ぐに僕を見つめて言った。
「別にいいですよ。気にしないでくださいリツコさん。僕は…」
「私は、ネルフにいたあの頃、シンジ君やアスカの事を、単なるエヴァの部品ぐらいにしか思っていなかったわ。」
僕の言葉をさえぎって、リツコさんが言った。
「……。」
僕は思わず喋るのを止め、リツコさん睨みつけた。
「……。」
リツコさんは、僕の目を真っ直ぐ見据え続けた。
どうやら本当に、僕が何かしらしないと気が済まないようだ。
「はぁ…、しょうがないですね…。
わかりました。
じゃあ、リツコさんの事、叩かせて下さい。それで全部チャラにします。良いですか?」
「シンジ君が良いなら、それで良いわ。」
僕は頬を叩ける距離までリツコさんの傍に行く。
「じゃあ行きますよ、リツコさん。」
「ええ、ありがとう、シンジ君。」
リツコさんが、目を閉じて歯を食いしばる。
「ふ〜っ…」
僕は一度、大きく深呼吸をした後、
「せーのっ!!!」
「っ!!!!!」
おそらく怪我をしないだろうという程度の力で、リツコさんの頬を叩いた。
「すいません、強すぎました。」
リツコさんの頬が腫れた。
「いいわよ気にしなくて。むしろこれじゃ足りないぐらいだもの。」
腫れた頬に、さっきリツコさんを運んだ柴田という黒服の女の人が湿布を貼って、テープで固定していく。
「できました〜。」
「いいテーピングね。ありがとう柴田。もう下がっていいわよ。」
「はい〜。わかりました〜。」
妙な抑揚の発音でそう言って、柴田さんは下がった。
「一発だけで、アスカの分まで叩かなくて良かったの?」
リツコさんが、僕に訊いた。
「はい。僕はそれでケジメをつけたって事にしました。
それに、アスカはアスカです。
僕がアスカの分のケジメを付けるのは筋違いです。
アスカの分のケジメは、アスカにつけて貰ってください。」
「そう…。わかったわ。」
リツコさんが呟いた。
そこで、僕はハッと気づいた。
「そういえば、アスカは今…」
「ああ、それならきっと大丈夫よ。アスカなら多分今頃…」
「はっ、はっ、はっ、はっ、…はぁ、はっ…」
ミライを抱いて、山の斜面を木々の間を縫うように下っていく。
シンジは今頃、どうなっているんだろう?
考えるな。
アタシは、シンジにミライを託されたんだ。
今はただ、街に着く事だけ、ミライを無事に誰かに預ける事だけを考えなきゃ。
斜面の傾斜はなだらかになっていき、やがて森の奥に、人が造ったんだろう整った道が見えた。
やった。
あの道を辿っていけば、きっと街までいける。
アタシは、道に向かって駆け出そうと茂みに脚を踏み入れた。
その時、
「クエェ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!」
突然茂みから何かが飛び出して来て、アタシの顔に貼り付き、視界を覆った。
「きゃあああああああああああああああああああっ!!!!!!」
驚いてアタシは悲鳴をあげた。
「クエッ!!クエエッ!!クエ〜ッ!!!」
「いやぁああああ!!!!何よこの動物ぅ〜〜〜!!!!!ふかふかするぅ〜!!!!」
振り払おうと頭をブンブン振るけどいっこうに離れてくれない。
「でかしたペンペンッ!!!!もう戻ってきていいわよっ!!!!」
聞き覚えのある声が聞こえた。
っていうか、ペンペン?
「クエェ〜〜〜ッ!!!!」
と鳴いて、顔を覆っていた動物はアタシから離れ、声の主の方へ跳ねるように向かった。
「やっぱり、アスカだったのね。」
「アンタは…」
声の主、それは…、
「ミサトッ!!!」
アタシ達の元保護者にして元同居人、葛城ミサトだった。
「お久しぶりね、アスカ。」
ミサトはそう言って、アタシに優しく微笑んだ。
「ミサト…っ…」
懐かしさで胸がいっぱいになった。
不安で張り裂けそうだった分、安心して泣きそうになる。
でも、
「アスカ…」
ミサトが、目に涙をためて、アタシの方へと歩み寄る。
「止まって、ミサト。」
アタシは、ミライを片腕で抱いたまま、シンジから預かった拳銃を、ミサトに向けて構えた。
弾は入っていない。
あくまで、脅しの為の物だ。
「アスカ…。」
ミサトの顔が、悲しそうに少しだけ歪んだ。
心が、痛い。
でも、簡単には信用できない。
「上の、黒服達は一体何なの?」
銃を向けながら、アタシはミサトに質問した。
「彼らは私達の部下よ。
あなた達を見つけて、保護する為について来て貰ったの。」
「部下って、じゃあアンタは今…」
「アタシとリツコは今、ネルフじゃなくて日本政府の下で復活した人々を助ける為の活動をしてるの。
上にいる彼らも、アタシ達と同じよ。
だから安心して、アスカ。」
ミサトは、真っ直ぐにアタシをみつめてそう言った。
ミサトは、きっと嘘は言ってない。
直感で、そうだとわかった。
でも、
「簡単に信用なんてできないわ。
アタシとシンジは、アンタ達ネルフやゼーレとか言う組織のおかげで酷い目にあったのよ?
そんなアンタ達を今更信用なんて出来ないし、許せるわけないわよ!!!!」
そう言って、アタシは銃の撃鉄を引いた。
ブラフだ。
本当にミサトが信用に足るかどうか、試してやる。
「アスカ…、ごめんなさい。」
ミサトが悲しそうに顔を歪めて、アタシに謝る。
「今更謝ったって遅いわよ!!!!!
…証明して見せてよミサト。
アンタがアタシ達に悪いと思ってるなら、もし今此処でアタシに殺されたって、文句は言え…」
「構わないわ。」
アタシが言葉を言い切る前に、真っ直ぐにアタシを見据えながら、ミサトは言った。
迷いが無い。
「言ったわね。」
アタシは、引き金に指を掛けた。
「……。」
ミサトは何も言わずに、アタシを見据えたままだ。
「……。」
アタシは、引き金を引いた。
「ッ!!!!」
引いた瞬間、ミサトが少し顔を歪めた。
弾が入っていないから当然、カチッと音がしただけで、何も起こらない。
「……?」
ミサトが、訝しげに銃を見ながら歪めた顔を戻していく。
「な〜んてっ、撃つわけ無いじゃん。
本当にミサトが信用できるかどうか、試してみただけよ。」
「アスカ…」
「その様子だと嘘は言ってないみたいだし、
上にいるシンジも、どうやら無事みたいね。」
「アスカ…ありがとうっ…」
ミサトが目に、涙をためている。
「悪かったわね、ミサト。
もうアタシはミサトの事、恨んでなんてないわよ。」
アタシは、ミサトに向かって微笑んだ。
「…っ…うっ、…あ、アスカぁ〜」
ミサトが、目に涙をいっぱいにためて、今にも泣きそうな顔でアタシに抱きついてきた。
「きゃあ!ちょっとミサトッ!?」
「…ごめんアスカっ…ホンドに、ごめんなざい。…うっ、ううっ、ううううっ…」
ミサトが、アタシに抱きついて泣き出した。
「まったく、大げさなんだから…。」
そう言いながらも、アタシの目から涙が流れていく。
アタシは、銃を持つ方の手で、泣いているミサトを抱きしめてあげた。
「それにしても、随分大きくなったわね〜アスカ。
昔よりもずっと綺麗になってるし、髪だって黒く染めてるし、最初誰だかわかんなかったわよ。」
泣き止んでしばらくしてから、ミサトがアタシに言った。
「そりゃあ、最後に会ってから何年も経ってるからね。
あの時はまだ成長期の途中だったんだし。」
「そーね。
おまけに、子供まで出来ちゃってるし。
この子、シンジ君との子供?」
ミサトが、ミライを見ながらアタシに尋ねた。
こうやって人に訊かれるのって、案外恥ずかしいわね。
嬉しいけど。
「う、うん…。」
アタシは、少し照れながら答えた。
アタシがそう言うと、ミサトは顔に満面の笑みを浮かべた。
「やったじゃないアスカ!!!シンジ君の事、ずっと好きだったんでしょ?!!」
なっ!?
「な、何でミサトがそんな事知ってんのよ!!!?」
赤面しながら、思わず訊き返した。
「んっふっふ〜♪
いわゆる女の勘ってヤツぅ♪。
曲りなりにも私はあなた達二人の元保護者だったしね。
もっとも、アスカは加持君にばっかり甘えてたし、シンジ君を邪険に扱って気持ちを隠していたから、
最初は薄々そんな気がしてたってだけだったけどね。確信したのはサードインパクトの時にあなた達の記憶を見た時だし。
それにしても〜、そんなに真っ赤になって訊いてくるなんて、今でもよっぽどシンジ君の事が好きみたいね〜♪」
「っ……。」
アタシは、恥ずかしくて何も言えなくなった。
ミサトめ…。
再開早々この辱め…、屈辱だわ。
いつか覚えてなさいよ…。
「まぁ、あなた達が見事にラブラブになってくれてて良かったわ。
「最後の記憶」のまま、あなた達が憎みあったままだったらと思うと、死んでも死にきれなかったしね。」
「ミサト…。」
ミサトは、本当にアタシ達の事を心配してくれていたんだ。
嬉しくて、胸がじ〜んとして、暖かくなった。
「それにしても、まさかアスカに追い越される事になるとはね〜。
ねぇねぇアスカ、この子の名前、なんて名前なの?」
ミライを見ながら、ミサトがアタシに訊いた。
「ミライよ。シンジが考えてくれたのよ。」
未来。
アタシ達が、求めていたもの。
その名前の通りに、今、ホントにアタシ達に未来が訪れてる。
「へぇ〜、ミライちゃんかぁ。良い名前ね。」
「ありがと。ミサト。」
「はじめまして、ミライちゃん。ミサトおばちゃんですよ〜。」
ミサトが、ミライに向かって話しかけた。
っていうか、今自分で自分の事おばちゃんって言ったわねミサト…。
「あう…」
それまで黙っていたミライが、ミサトを見て呟く。
「ほらミライ。ミサトよ、ミ・サ・ト。」
「みさと?」
「そうよ、ミ・サ・ト。」
「みさとっ!」
「うん。よく言えましたね〜。私の名前、よんでくれてありがとね、ミライちゃん。」
ミサトが、そう言ってミライに微笑んだ。
「きゃあきゃあ♪」
ミライが、ペンペンの毛を引っ張って遊んでいる。
「クェエッ!クエッ!クエッ!クエッ!」
ペンペンはとても迷惑そうに鳴いている。
「こらこらミライ、ペンペン嫌がってるでしょ?」
そう言ってアタシはミライをペンペンから引き離した。
「うぅ〜。ペンペン〜…。」
ミライが、名残惜しげにペンペンの方を見て言った。
「クエェ〜〜…」
ペンペンが、ミライから身を隠すようにミサトの後ろに隠れた。
「よしよし、ペンペン。災難だったわね〜。」
「クエェ〜。」
ミサトが、頭を撫でてペンペンを慰めた。
「…そういやミサト、よくペンペンとまた会えたわよね?
あの海から帰って来た時期だって、バラバラだったんでしょ?」
「ああ、それがねこの子、あの赤い海の世界でずっと私の傍に付いててくれて、
私が帰ってくるのを一緒に待っててくれたのよ。」
「へぇ〜〜、じゃあ、待ってたって事は、
ミサトが帰って来たとき、ペンペンは既にミサトの傍にいたって事?」
「うん。あの赤い海から人が帰って来るとき、
私とペンペンみたいに、飼ってたペットと一緒に帰ってきた人が大勢いたの。
ペットだけじゃなくて、人間同士でも、親子や夫婦や親戚、恋人や友達といったように、
大抵の人は自分と縁の深い人と一緒に帰って来たわ。
多分、一人で帰って来た人はいないんじゃ無いかしらね。」
「へぇ〜〜、
…だったら、赤ちゃんとお母さんがはぐれるって事も、もしかして起こってないの?」
「残念ながら、赤ちゃんだけが帰ってくる場合や、逆に、お母さんだけが帰って来る場合はあるの。」
「そっか…。」
シンジが気にしていた事は、実際に起こっている訳か…。
「まあ、幸い、赤ちゃんにしろお母さんにしろ、必ず他の誰かと一緒に帰ってきてるから、
せっかく帰って来た赤ちゃんがまた死んじゃう、なんて事は起こって無いんだけどね。」
「そうなんだ…。」
じゃあ、シンジが気にしてるような事は、やっぱり起こって無いんだ。
「良かった…。」
アタシは、小さな声で安堵をもらした。
後で、シンジにこの事を言ってあげなきゃね…。
「……ねぇ、アスカ。
私は、私達ネルフは、本当にあなた達に酷い事をしてきたわよね…。」
「何よまたいきなり…」
「私は、まだ幼いあなた達を使徒と戦わせて、何度も危険な目に遭わせてきた。
それは必要な事ではあったけど、でも決して許されるような事じゃないわ。
それにアスカ、あなたには私、ちゃんと向き合って無かった。
あなたが苦しんでるのをわかっていたのに、アタシは何もしてあげようとしなかった。
本当に、ごめんなさい。」
そう言って、ミサトは深々とアタシに頭を下げた。
「ちょっとミサト…。
アタシはもう、別にミサトの事を恨んで無いって言ってるじゃない。
エヴァに乗ってたのだって、アタシが自分の意思で乗ってたんだし。」
「それじゃあ、私の気が済まないのよ…。
アスカ、私はね、あなたの事を、ホントはずっと、少し疎ましいと思っていた。
あなたがどんなに苦しんでも、あなたが潰れても、どうでもいいと思っていた。
だから、私はずっとあなたに構ってあげなかった。
あなたとちゃんと向き合う事を、拒否し続けていたの…。」
「……。」
「だから、私はあなたに…」
「はいっ!!!ストーップ!!!」
「……。」
「頭を上げて、ミサト。」
「……。」
ミサトは、下げていた頭を上げた。
目には、涙がたまっていた。
「あのね、ミサト。
あの時のアタシは、わがままで、口が悪くて、高飛車で、そりゃあ、ミサトに疎ましいって思われても仕方なかったわよ。
それに、アタシだってミサトのことを疎ましいと思ってたんだし…。
加持さんの事も、あったしね。」
「……。」
「それにアタシが苦しんでいる時、ミサトは加持さんが死んだせいでそれどころじゃ無かったんだし、
アタシには、ミサトのことを責められる理由なんて無いわ。そんな気にもなれないしね。
だからこれ以上、昔の事を蒸し返すのなんてやめましょ?ミサト。」
「……。」
ミサトは、ずっと黙ったままだった。
きっと、納得できてないんだろう。
しょうがないわね。
「はぁ…、しょうがないわね。
ま、ケジメつけなきゃ、こういう事は納得できないわよね。」
「アスカ…。」
「わかったわ。
ミサトの事、叩かせてもらう。
それで、全部チャラにする。それで、これ以上昔の事は蒸し返さない。
貸し借りは無し。
それでいい?」
「うん。」
ミサトが、肯いた。
「じゃあ、行くわよ。」
アタシは、ミサトに歩み寄る。
「……。」
ミサトが目を瞑り、歯を食いしばる。
「…せーのっ!」
「ッ!!」
アタシは、ミサトの頬をぺシンッ、と軽く叩いた。
「……。」
「はいっ、これでさっきミサトが言っていた事は全部チャラ。」
身構えていたミサトが、目を開けてアタシを見た。
「アスカ…、ごめん…。ありがとう。私…」
ミサトが、アタシの方へと歩み寄ろうとした。
「ちょっと待ってミサト、まだ終わって無いわよ。」
「へ?」
ミサトの動きが、止まった。
「ねぇミサト、ミサトにはまだ、アタシに謝ってない大きな「貸し」が一つ残ってる事、気づいてる?」
「いえ…。あ…シンジ君の分?」
「違うわよ。シンジはシンジだもの、アタシがシンジの分までミサトにケジメをつけるのは、筋違いだわ。
そうじゃなくて、もっと他の事よ。」
「……ごめんなさい。わからないわ。」
ミサトがそう言って、静かに首を横に振った。
「そっか…。じゃあ、もっかい目、瞑って。」
「う、うん。」
ミサトが、再び目を瞑った。
「歯、食いしばって。」
「……。」
ミサトが、言われたとおりに歯を食いしばった。
「いい?ミサト?
さっきのは、あくまでミサトが謝ってくれた分。
そしてこれが…」
アタシは、手を大きく振りかぶった。
「これがっ、人の男にツバつけた分よっ!!!!!!」
そして、アタシは渾身の力でミサトの頬をぶった。
麓の方で、まるで発砲音のような、澄んだ大きな音がした。
「……。」
ああ、この音は…。
相手は多分、ミサトさんか。
だとしたらミサトさん、ご愁傷さまです。
「銃声!!?まさかミサトのやつ…」
リツコさんが、驚いて立ち上がる。
「ああ、違いますよリツコさん。これは多分、アスカがミサトさんを叩いた音かと…。」
「何言ってるのよシンジ君!!?
人間の身体からこんな音が出るわけ……だけど、確かにミサトのやつ、銃なんて持ってなかったわよね…。」
リツコさんが、そう言って考え込んだ。
「…とにかく、何かがあった事には違いないわ。
青島、室井、樋口はミサトの元に向かって。
柴田、真山は来た道を戻って和久や野々村達にシンジ君を発見した事を連絡、
それと不測の事態を想定して、救援を要請しておいて頂戴。」
「はいっ!!!」
そう一斉に返事をして黒服達が、リツコさんの指示通りに移動して行った。
僕は、アスカ達の方に向かう青島さん達を見た後、
振り返って柴田さんと真山さんが去った方を見つめた。
「あの黒服の人達、みんな良い人達ですね。」
僕がリツコさんを脅していた時、青島さんだけじゃなく、
あの黒服の人達全員がリツコさんを守る為、命を懸けて盾になる覚悟をしているのが「視え」た。
それも、決して義務感からではなく、本心から。
「ええ、自慢の部下達よ。」
リツコさんは、口の端を少し緩めて小さく微笑んだ。
やっぱり、リツコさんは精神的に大きく変わってる。
「そういやリツコさん、今更ですけど、髪の色、金色に染めなくなったんですね。」
リツコさんの髪は、以前のような金髪じゃなく、少し赤みを帯びた黒髪になっていた。
きっと、これがリツコさんの本当の髪の色なんだろう。
「え?ええ…。金色に染めるような染料も無いし、それにもう、染める気にもなれないしね…。」
リツコさんはそう言うと、憂う様に少しだけ視線を落とした。
「あ…、でも、昔みたいな金髪より、今の方が、リツコさんにはずっと似合ってると僕は思います。
雰囲気も、ずっと柔らかくなってますし。」
「ふふっ…、ありがと、シンジ君。」
僕を見て、リツコさんは柔らかく微笑んだ。
以前はいつも何処かにあった張り詰めた感じが、何処にもない笑顔だった。
「……変わりましたね、リツコさん。」
そう言いながら、僕もリツコさんに微笑み返した。
「ええ。
…シンジ君。
私だけじゃなくて、あの海から帰ってきた人達がみんな以前よりも、
ずっと他人や、自然を思いやるようになってるって事に気づいてる?」
「やっぱり、帰って来た人達はみんな、そんな風に変わっていたんですね…。
街の様子や、山にたまに来る人達、それにリツコさん達の様子を見れば、そうなんだろうと思っていました。
でも、どうしてなんですか?
サードインパクトの時の、あの心の混じり合った世界を味わったら、
もっと殺伐として、お互いに憎みあっていてもおかしくは無いのに…。」
「…シンジ君。「アバドン」って知ってる?」
リツコさんが唐突にそんな事を訊いてきた。
「「アバドン」ですか…?
確か、キリスト教の「ヨハネ黙示録」の中で、「最後の審判」の時、
蝗の大群を引き連れて地の底から出て来る「奈落の王」とされる天使ですよね?
その蝗は「サソリの尾」を持っていて、刺されると五ヶ月もの間死ぬ事も出来ずに苦しみ続けるっていう…」
「そう、その「アバドン」よ。
シンジ君、あの海にはね、その「アバドン」が、
…いえ、アバドンが引き連れた「蝗の群れ」がいたの。」
「どういう事ですか…?」
僕がそう聞くと、リツコさんは一度黙り、少し呼吸を置いてから、再びゆっくりと語り始めた。
「…サードインパクトの後、私達人間を含む全ての生命は「魄」、「自我の境界線」を示すATフィールドを失い、
「魂」だけの存在になって、あの赤い海の世界を漂っていた。
自分が何者なのかもわからない、とても希薄な感覚の中でね。」
「……。」
「だけどそうやって「魂」は漂っている内に、希薄な感覚は徐々に鮮明になっていって、
みんな「自分」が何者だったのかを思い出し、「自我」を取り戻し始めた。
「魂」が、「魄」、「自我の境界線」を示すATフィールドを再びつくり始めたの。」
「……。」
「「自我」の形成には、周囲の環境、他の生命との関係が大きく関わっている。
だから、微生物や植物のように殆ど他の生命と関わりを持たずに存在する事が出来る、
食物連鎖の下層に位置する単純な生命ほど、自我を取り戻し、元の姿に戻るのは早かった。
そして食物連鎖の上位、他の生命に依存しなければ生きていけない生命になるにつれ、
「自我」の形成には周囲の、自分以外の生命との関わりが大きく複雑で、「自我」を取り戻すのに時間がかかり、
元の姿に戻るのも遅かった。
当然、食物連鎖の最上位にいて最も他の生命に依存し、更に「社会」という複雑な関係性の中で生きる生命である私達「人間」が、
全ての生命の中で「自我」を取り戻すのが最も遅かった。」
「……。」
「私達人間は、徐々に鮮明になっていく意識の中で、他の生命の心や記憶を見ていた。
そうやって膨大な量の情報の奔流の中を漂いながら、私達は自分が何者かを、徐々に思い出し始めた。
そして、私が「赤木リツコ」だとはっきり自覚できるようになった頃、他の全ての人達も同様に、
自分が何者なのか、はっきりと自覚できるようになっていた。
お互いの心が、繋がったままね。
私達は、自分の心の醜さを、過去の過ちの記憶を、全て曝け出す事になった。
同時に、自分以外の人々の心の醜さを、過去の過ちを、全て見せ付けられる事になった。
サードインパクトの時、心の補完が進む際に起こった様にね。」
「……。」
僕は、サードインパクトの中、アスカと争った時の事を思い出した。
「でも、その規模はサードインパクトの時とは比べ物にならないほど、遥かに大規模だった。
私はあの海にいた全ての人に心と記憶を見られて、同時に、人々の心と記憶を見せ付けられた。
過去に死んだ人々のものも含めてね。」
「死んだ人もですか?」
僕は思わず訊き返した。
「ええ、あの海には、今までこの星に生まれたほぼ全ての人、ほぼ全ての生命の魂があった。
シンジ君、魂はね、科学では生命が死んで身体から抜け出した後は消えてしまって、
無に還ってしまうものだとずっと思われていたの。
でも本当は違った。
魂は、無に還るどころか、この星の何処かに隠れて、いえ、「廻りながら」ずっと存在していた。」
「……。」
「あの海の中に魂が無い人もいた。
先にこの世界に帰って来たシンジ君やアスカみたいにね。
でも、そのいなくなった人々の記憶も、全てあそこにはあった。
「魂魄」に刻まれた「過去の記憶」は全て、オカルトの世界でいう「全ての事象が記録されている場所」である、
「アカシックレコード」といわれるような場所に記録されていたの。
……だから、私達人類の過去の悪業は何もかも、全て明るみに出る事になった。」
「……。」
「心で思った事が全て伝わる世界だから、例え相手に思いやりやいたわりを持っていても、
ほんの少しでも相手を責める心があれば、たちまちお互いに責め合うようになり、思いやりやいたわりは消え去っていった。
どんなにお互いにわかり合ったように思っていた親友同士も、どんなに愛し合っていた夫婦も、
どんなにお互いをいたわり合っていた親子も、いつしかお互いに憎みあうようになった。
人の間にあった絆は、成す術もなく全て断ち切られていった。
あの世界では誰もが、自分の味方は自分しかいなかった。
自分以外の全ての人が、敵になった。」
「……。」
「肉体の制約を離れ、心が直接繋がったたあの世界では、知識や知能の差も消滅し、
私達人類は膨大な量の情報を瞬時にやり取りし、処理する事が出来た。
無数の人が私を責めて、同時に、無数の人を私は責めた。
私は、無数の「蝗」に食い荒らされる一本の「麦」であり、同時に、麦を食い荒らす大量の「蝗」の内の一匹だった。
イメージ的にはちょうど、セカンドインパクト直前まで、
コンピュータネットワーク上で興勢を極めていた、匿名で好き勝手に書き込める掲示板なんかで、特定の人を晒し上げ、
それ以外の大勢でその人を責める「祭り」や「炎上」なんて呼ばれていた現象に近いわね。
そこに責め手として参加する人々は、「ネットイナゴ」なんて呼ばれてもいたしね。
もっとも、今回の場合は、責め手である「蝗」達は、責められる「麦」でもあったんだけど。」
「……。」
それが、「アバドンの蝗」なんだろうか?
「私達はお互いに責めあい、罵り合い、憎み合った。
終わる事の無い議論の果て、憎しみの果てに、やがて私達人類の誰もが願うようになる、
「自分の痛みや苦しみ、悲しみや恐怖を、自分以外の人達にも思い知らせたい」と。
…憎しみは愛と表裏一体なんてよく言われるけど、それはどちらも自分の「感情」を相手に伝え、
相手にも自分と同じ「感情」を持って欲しい、
「自分の気持ちをわかって欲しい」という「願い」から来る欲求だから。
その伝えたい「感情」が、愛の場合は「やすらぎ」や「快楽」や「喜び」で、
憎しみの場合、「恐怖」や「苦痛」や「悲しみ」であるという違いだあるだけ。
だから憎しみの本質は、相手に自分の「恐怖、痛み、苦しみ、悲しみ」を味合わせたいという「願い」で、
人々の「願い」が憎しみの果てにそこに帰結するのは自明の理だった。
…そして、「奇跡」が起きた。
私達の「願い」が、かなったのよ。」
「……。」
「私達は、「クオリア」、自分が感じた「感覚そのもの」を、伝えようと思った相手に伝える「力」を手に入れた。
全ての「蝗」達が、自分が受けた「恐怖、苦痛、悲しみ」という「心の毒」を、
相手に流し込む「サソリの尾」を手に入れた。
ちょうど、「アバドン」が引き連れた「蝗」達のようにね。
そして、地獄の釜の蓋が開いた。
いえ、地獄の底が更に「抜けた」と言った方が、適しているわね。
私達は、自分以外の他人が感じた恐怖や苦痛、悲しみ「そのもの」を、味わう破目になった。」
「それは…」
僕は、思わず声を洩らした。
僕がサードインパクトの時体験した世界は、
あくまで相手の記憶や心で思っていた事が伝わってきただけで「感覚そのもの」は、伝わってはこなかった。
それはちょうど、テレビでドラマを見るように、他人の人生を見ていたようなものでしかない。
でも、リツコさん達が体験したように「クオリア」、「感覚そのもの」が伝わるという事は、
テレビで見ていただけだったドラマの中の登場人物を、自分が演じる事になると言う事、
他人の「体験」を、自分も味わう事になるという事だ。
しかも、例え自分がどんな人間であろうと、その人生のドラマを演じていた本人の「主観」、「感覚」自体を味わう事になる。
そしてそれが多くの人の、しかも苦痛や恐怖、悲しみの体験ばかりを主に味わう事になるとしたら…。
それがどれほどの地獄なのかは、想像を絶する。
「私達は、自分以外の人々にサソリの尾を「刺し」た。
当然、最も憎い相手から順番にね。
でも、「刺せ」ば必ず「刺し返され」た。
自分の「クオリア」を相手に流し込めば、相手の「クオリア」が、自分に流れ込んできたの。
憎んだ相手が、どんな気持ちで生きてきたのかを、味わう事になった。
同情したなら、それ以上は憎む事は出来なくなった。
嫌悪感や怒りを感じたなら、更にその嫌悪感や怒りが「クオリア」として相手に流れ込んだ。
多くの人が私に「クオリア」を流し込んだ。
多くの人に私は「クオリア」を流し込んで、相手の「クオリア」が逆流してきた。
あの海に「魂」の残っている人達だけじゃなくて、
いなくなった人達や、先に帰ってきた生命の記憶に意識が向けば、彼らの記憶の中の「クオリア」まで流れ込んできた。」
「……。」
「とても耐えられないほど膨大な量の他人の痛み、苦しみ、悲しみ、恐怖を、
私達は目を逸らす事も、耳を塞ぐ事も、逃げる事も、気が狂う事も、壊れる事も、消える事も出来ずに味わい続けた。
その中で、いつしか私達の多くは他人への憎しみを失っていった。
自分がいかに勝手で、何も知らない人間だったのかを、誰もが思い知った。
他人の「心」から伝わる痛みに怯え、己の愚かさや醜さに絶望して、
「憎む強さ」を、「憎める根拠」を失っていったの。
誰もが「他人」に怯え、「自分自身」に絶望した。
痛みや苦しみや悲しみ、恐怖から逃れたくて、自分の愚かさや醜さから目を逸らしたくて、
やがて私達は、他人の心に触れないように自分だけの「理想の世界」を造り上げて、
まどろむ様に、夢を見る様にそこに引き篭もった。
その世界には「偽り」しか無いと、わかっていながらもね。」
「……。」
「その「偽りの理想の世界」にいる内に、私は次第に自分が何者なのか、わからなくなっていった。
それでも良かった。
他人が、他の生命が、怖かった。
もう一度、何者でも無い「無」に、還りたかった。
こんな醜い自分を、捨て去ってしまいたかった。
こんな自分が許せなくて、「蝗の毒」に侵されながら、そのまま消えてしまいたかった。
…でも、どうしてかしらね。
いつからか、もう一度、私は会いたいと思っていた。
例え苦痛の中にのたうつ事になっても、他人の恐怖に再び晒される事になっても、悲しみに再び襲われても、
自分の愚かさや醜さに、再び絶望する事になっても、
もう一度、私の事を思ってくれた人達や生き物達に会いたいと思った。
私が好きだった人達や生き物達に、もう一度会いたかった。
こんな私でも、その人達や生き物達の為にまだ何かが出来るって、
もう一度だけ、自分の事を信じてみようって、思ったの。
…そして気がつけば、私はミサト達と一緒に海辺に倒れていた。」
「……。」
「最初は、お互いに目も合わせられないほど気まずかったわ。
あの海の世界で、散々罵り合って憎み合った後だったしね。
でも、すぐに私達はわかりあう事が出来た。
あの海で他人の痛みを感じた事で、自分の醜さを見せ付けられた事で、
以前よりもずっと、私達はお互いにわかり合い、労わり合う事が出来るようになっていたから。
誰もが他人の痛みや苦しみ、悲しみや恐怖を、自分のものの様に感じるようになっていたから。
それに憎み合っていた分だけ、気持ちが通じ合った時の喜びはずっと大きかったし、
人に優しくされた時、以前よりもずっと感謝の念を持つ事が出来るようになったしね。
他の人達も、みんな私と同じような体験をしてこの世界に帰って来た。
みんな、他の誰かや他の生命に会いたいと、他の誰かや他の生命の為に生きたいと願ってこの世界に帰って来たの。
例えもう一度、苦痛や恐怖、悲しみの中に飲み込まれる事になったとしても、
自分の醜さを見せ付けられる事になっても、それを受け入れて乗り越える覚悟を持ってね。
だから、帰って来た人達は、みんな以前よりもずっと他人に優しくなった。
人間以外の生命の「クオリア」も味わったから、他の生命に対してもね。
それが、この世界に帰って来た人達が、他人や自然に以前より思いやりや労わりを持つようになった理由よ。」
「そう、だったんですか…。
でも、まだ僕にはわからない事があります。
サードインパクトは、僕が起こしたようなものです。
リツコさん達があの海で受けた苦しみの原因は、僕にあります。
しかも、僕がそれを起こした張本人であるにも関わらず、僕は「アバドンの蝗」達に刺されるような事は無かった。
リツコさん達のような苦しみを、受ける事は無かった。
なのにどうして、リツコさん達は僕を全く恨んでいないんですか?
いくら優しくなったからって、そんな…」
「あの海で受けた苦しみの記憶は、今はもう私達の中では、遠い過去の記憶のように、殆どが「頭」では思い出す事が出来ない、
ぼんやりとしたものになっているの。
あの苦しみは、確かに私達の「魂」に刻まれているけど、それでも、あくまで過ぎ去ってしまった過去の苦しみでしか無いのよ。
そもそも私達が苦しんだのは、元々私達が持つ愚かさや心の醜さのせいで、自業自得のものだった。
だからわざわざ過去の事を穿り返してまで、シンジ君を槍玉にあげて責める気になんて誰もなれないわよ。
それに、シンジ君は既にもう、私達と同じ、いえ、それ以上に苦しんでいた事をあの世界で見たんだから、尚更にね。」
「僕はリツコさん達が受けた以上の苦しみなんて受けていません。
確かにエヴァに乗っている時は苦しかったけど、
それでもそんな他の人達の苦しみを味わうような体験よりは、ずっと楽だったと思います。」
「エヴァの事じゃないわよ。
シンジ君、あなたは私達以上の苦しみにずっと耐えてきた、エヴァに乗る遥かずっと以前からね。
だから、貴方が「選ばれた」の。
憶えていないのは、無理も無い事だけどね。」
「……。」
「貴方だけじゃない、アスカや、いなくなった他の人達もみんなそうだった。
だから、あの苦しみから逃れる事を許されていたの。
この世界を創り上げた「神様」によってね。」
「……。」
「あの海で最も多くの人達や生命の「過去の記憶」に「サソリの尾」で刺されたのは、
自分以外の事は考えず、平気な顔で簡単に他者や自然を踏みにじるような人達だった。
あの海での出来事は、「裁き」だったのよ。
私達人間が、過去の業を全て清算する為の、罰だったの。
でも、裁いたのは「神様」なんかじゃない。
人が、人を裁いたの。
そして、最後に自分を裁いたのは、自分自身だった。
「神様」はただ、そうなる状況を創り出しただけ。
もしかしたら、あれこそがユダヤ教やキリスト教、イスラム教なんかでいう所の、真の「最後の審判」であり、
同時に、真の「最後の聖戦」、「全ての人の魂の戦い」だったのかもしれないわね。」
「……。」
「サードインパクトが起こることは、私達人類が避けられない、いえ、きっと避けてはいけない「運命」だった。
起こるべくして起こった事だったのよ。
だからシンジ君は、サードインパクトを起こしてしまったことを悔やむ必要なんて無いのよ。
少なくとも、シンジ君が一人で抱え込むべきような罪じゃ無いわ。」
リツコさんは、労わるように僕に向けてそう言ってくれた。
「リツコさん…」
リツコさんの言葉を聞いて、気持ちがずっと軽くなった。
心に残っていた不安や罪悪感が、解けていった。
「あの、ありがとうございます。リツコさんにそう言って貰えて、気持ちが楽になりました。」
「そう。シンジ君の気持ちが少しでも楽になったのなら良かったわ。
でも、シンジ君にお礼を言われる程の事じゃ無いわ。
私達は、あのアバドンの蝗の毒を受けた事で、それを乗り越えて帰ってきた事で、
大きく変わることが出来た。
他人や自然を思いやれる優しさを、持つことが出来るようになった。
多くの信頼できる人達を手に入れて、
サードインパクトが起こる前よりも、ずっと幸せで、充実した生活を手にする事が出来た。
だから、お礼を言うべきなのはむしろこっちの方なのよ。」
リツコさんは、優しく微笑みながら僕にそう言った。
今のリツコさんは、確かにセカンドインパクト以前よりも、ずっと幸せそうに見えた。
多くの信頼出来る人達。
ミサトさんや、あの黒服の人達がきっとそうなんだろう。
僕は、ふいに、泣いているリツコさんの後ろ姿を思い出した。
父さんによって泣かされたリツコさんの姿を、思い出した。
父さん。
その信頼できる人達の中には、もしかしたら父さんも…。
「リツコさん。
…もしかして父さんも、この世界に帰って来ているんですか?」
僕がリツコさんにそう訊くと、
リツコさんの表情に、少しだけ陰が差した。
「いえ、あの人はいないわ。」
「いない?じゃあ父さんはまだあの海に…」
「いいえ、あの海にも、あの人はいなかった。
あの人もまた貴方やアスカと同じ、「選ばれた」人だったから。」
「…じゃあ、父さんは一体何処に?」
「そうね、おそらく…」
そう言って、リツコさんは空を見上げた。
「やっぱり、君はあの人よりも、ユイさんに似てるわね。」
リツコさんが、僕の顔を見つめていった。
「そうですか…。」
「ええ…。」
そう言って、リツコさんは目を伏せた。
何故か、胸が痛んだ。
「あの…、リツコさん。父さんがすいませんでした。」
僕は、リツコさんに頭を下げて謝った。
泣いているリツコさんの姿。
父さんは、リツコさんを傷つけて、そのまま何処かに行ってしまった。
だから、せめていなくなった父さんの代わりに、息子である僕が謝ろうと思った。
何の慰めにもならないかもしれないけれど。
「ふふっ、シンジ君が謝る事じゃないわよ。私は納得していたもの。納得して、傷つけられたんだもの。
だからあの人の事を、今更恨んでなんか無いわよ。」
「リツコさん…。」
「それに、きっとこれで良かったのよ。」
そう言ったリツコさんの顔は、ほんの少しだけ寂しげではあるけれど、吹っ切れたような清々しいものだった。
きっとリツコさんは、本当に心の底から納得しているんだろう。
「……。」
そんなリツコさんを見ていると、僕はそれ以上は何も言えなかった。
「シンジッ!!!」
突然、アスカの声が聞こえた。
声の方を振り向くと、ミライを抱いたアスカが僕の方に駆けてきていた。
「アスカ!ミライ!」
アスカは、ミライを抱いたまま僕に抱きついた。
「ただいまシンジっ!」
「おかえり。アスカ、ミライ。」
僕は、アスカをミライごと抱きしめた。
「あらあら、お熱いわね〜。」
アスカが来た方から、よく知っている女の人の声。
「この声はミサトさ…」
振り向くと、そこには左頬をリツコさんの三倍程パンパンに腫らしたミサトさんの姿があった。
ああ、やっぱり…。
「お久しぶりですミサトさん。あの、大丈夫ですか…?」
「お久しぶりシンジ君。ええ、何とか大丈夫よ…。」
ミサトさんが、頬を押さえながら言った。
「クエエッ!!」
ミサトさんの後ろから、ペンペンが出てきた。
「おおっ!ペンペンまで!!」
「クエェ!!」
ペンペンまで、僕に抱きついてきた。
「ただいまリツコ。…またこっぴどくやられたわね。」
「おかえりミサト。貴方ほどじゃ無いわよ…。」
ミサトさんとリツコさんは、そう言いあうとお互いに、
「「ふふっ。」」
と、笑った。
それから、ミサトさんとリツコさんは、改めて僕達に謝った。
僕はミサトさんの、アスカはリツコさんの、それぞれ、まだ叩かれていない方の頬を叩いた。
それで、僕達とミサトさん達の間の事については、全てのケジメをつけた事にした。
「それにしても、ほんとに大きくなったわね。シンジ君。」
僕達の住んでいる洞窟の前で、ミサトさんが僕に言った。
復旧した第二新東京市に移動する為に、僕達の荷物をまとめて、洞窟の中を片付ける為だった。
「ええ、流石にあれから五年以上経っていますしね。」
「まあね。でも、私達にしてみればサードインパクトから一年ぐらいしか経ってないって感覚だから、
何かシンジ君とアスカがいきなり大きくなったみたいで変な感じねぇ。」
「それは僕も同じですよ。
僕より背の高かったミサトさんを、こうやって見下ろす事になるなんて、変な感じがします。」
「そっか。
…それはそうとぉ、シンジ君、なぁにちゃっかりアスカとやることやってんのよ〜。
子供までできちゃってるし〜。」
ミサトさんが、冷やかすように言った。
「っ!!!」
「いや〜、シンちゃんもちゃんと男の子だったのね〜♪
アスカから色々聞いたわよん♪」
な、何ミサトさんに喋ってるんだよアスカ!
恥ずかしさで、顔が熱くなっていく。
「冷やかさないで下さいよ。ミサトさん…。」
「照れない照れない。い〜じゃない、お互い好き同士で、あんな二人だけの世界に住んでたんなら、
そ〜なるのは当然なんだしさ。それに、アスカも幸せそうだしね。
しっかし、あのアスカがここまでシンジ君にベタ惚れになるとはねぇ〜〜。」
ミサトさんが、アスカに叩かれて腫れた左頬を撫でた。
「……。」
僕は、恥ずかしくて赤面した。
「……。」
不意に、ミサトさんが、真剣な表情になった。
そして、
「…ねぇシンジ君。あの時の約束、憶えてる?帰ってきたら続きをしましょう、っていう…」
ミサトさんが、唐突にそんな事を僕に訊いた。
「え…?」
「……。」
ミサトさんは、真剣なまなざしで僕をみつめていた。
「ミサトさん…、…ごめんなさい。僕は、アスカを裏切りたくありません。
だからミサトさんとのその約束は、僕には守れません。
だから、ごめんなさい。」
僕がそう、ミサトさんに謝ると、
「そっか。」
ミサトさんは、ふっと、微笑んだ。
「……。」
「ねぇシンジ君。
今だから言うけど、私は、シンジ君の事が好きだった。
一緒に暮らしていたあの時、私は淡い恋心のようなものをシンジ君に抱いていた。
いつの間にか、自分でも気づかないうちにね。」
「ミサトさん…」
「あくまで昔の話よ。
今はもう、そんな事は無いから安心して。
…でも、言えてよかったわ。スッキリした。聞いてくれてありがとね。シンジ君。」
ミサトさんは、そう言って笑った。
吹っ切れたような、清々しい笑顔だった。
「……、そうだミサトさんっ!忘れてました、これ…」
そう言って僕は、あの時ミサトさんに渡して貰った白い十字架のペンダントを取り出した。
「これ、ありがとうございました。」
「ああ…、返してくれなくってもいいわよ。それ、シンジ君にあげたんだもの。」
「でも、これって確か、ミサトさんのお父さんの形見なんじゃ…」
「気にしなくていいわよ。私にはもう必要無い物だしね。それに…」
そう言いながらミサトさんは、
「新しいの、貰っちゃったしね。」
ニッコリと笑って、僕の持っているものとは少しデザインの違う白い十字架のペンダントを取り出した。
「…わかりました。このペンダントは頂く事にします。ありがとうミサトさん。」
僕はミサトさんに微笑み返して、ペンダントをしまった。
「な〜に二人でコソコソ話してんのよ。」
突然、アスカがミライを抱いたまま、僕とミサトさんの間に割り込むように現れた。
「アスカ…。」
「ああ、ちょっとさっきの事でね。」
ミサトさんがアスカに向けて言った。
「さっきの?…ああ、あの事ね。
で、どうだったのミサト?」
「うん、おかげさまでスッキリしたわ。ありがと、アスカ。」
「そっか。」
そう言い合って、ミサトさんとアスカはお互いに笑いあった。
アスカの計らいだったのかよ…。
「…そういえば、まだ二人、いえ、三人には、大切な事を言ってなかったわね。
おかえりなさい。シンジ君、アスカ、ミライちゃん。」
ミサトさんが、僕達三人に向かって言った。
「ただいま。ミサトさん。」
「ただいま。ミサト。」
「だいまっ!みさとっ!」
僕達は、ミサトさんに向かって一緒に言った。
それから、僕達は荷物をまとめて、第二新東京市に用意して貰った住居に移動した。
僕達は、帰って来た。
もう戻れないと思っていた、人々のいる日常の中に。
ミサトのシンジへの告白について。
庵野監督がインタビューにおいて、旧エヴァのミサトはトラウマから14歳当時で実は精神的な成長が止まっている部分があり、
それ故に14歳のシンジに対して、思春期に近しい同年代の異性に持つような淡い恋心を抱いていて、
もしシンジが受け入れていればミサトは加持ではなくシンジを選んでいた。と言っていたそうで、
(すいません真偽のほどは未確認です。)
確かに旧作でのミサトの作中での描写は、(エヴァに乗せる為ということもあるとはいえ)シンジに迫ったり、
TV版では補完の最中に加持とのセックスをシンジに見て欲しいと思っていたりと、
(歪んではいますが)恋愛感情を持っているっぽい描写は多々あり、これはあながちそういう感情をミサトが持っていたとしても不思議では無いなと思い、
迷った末に、書く事に決めました。
リツコの言っていた好きだった生き物達について。
リツコの飼っていた猫達の事です。
ちなみに、この猫達はペンペンと同様にリツコと一緒に復活しています。
人の復活前に他人のクオリアが流れ込むというこの展開は、
このLASSSの構想最初期に思いついたものの一つです。
2009年12月10日 たう