Secondary  5_Mercury-2

 

 

 

 

 

シンジと一緒にミライを抱いて竹林を歩いていると、
何かが埋まっているのに気づいた。
「何だろこれ?」
シンジが掘り起こすと、プラスチック製の容器が出てきた。
「ポリタンクみたいね?」
「そうみたいだね。んしょっと。」
シンジが地面から出そうとポリタンクを引っ張り上げる。
「重っ!中に何か入ってるね。」
掘り起こしたポリタンクをシンジが置くと、確かに、たぷん、っと中で液体が揺れる音がした。
シンジが、蓋を開けて臭いを嗅いだ。
「うっ!…これ、灯油だ。」
顔をしかめながらシンジが言った。
「どれどれ…」
アタシも試しに臭いを嗅いでみる。
「ホントね。灯油の臭いだわこれ。」
確かに灯油の臭いがした。
シンジが近くにあった岩の上に灯油を少し垂らして、スプレーの火で炙った。
灯油に火がついて、岩の上で燃え出した。
「おおっ、ちゃんと燃えてる。どうやらホントに灯油みたいだね。」
「へぇ〜。でもあの嵐の中、よくこのポリタンク壊れずに済んだわよね。水漏れもしてないみたいだし。」
「だね…。まあ、とりあえず貴重な燃料だし、色々使えそうだから持って帰ろうかな。」

 

 

 

「何、これ…?」
竹林からポリタンクを持って住処に帰ると、家庭菜園が無残にも荒らされていた。
「酷いね…。」
「うん…。ねぇシンジ、これってやっぱり、何かの動物の仕業よね?」
「そうだろうね。猪とか、もしかしたら、熊かもしれない。」
「熊ぁ!!?」
「あぅ…。」
思わず、アタシはミライを強く抱きしめた。
「あくまで、もしかしたらの話だよ。でも、この荒らし方から見て、相当大きな動物がこれをやった事には違いないだろうね。」
シンジが、へし折られた棒を見ながら言った。
「とにかく、此処を荒らしたやつが、まだこの辺りにいるかもしれないのよね?
 危ないから早く上に戻りましょう…」
そう言いながら、アタシは、アタシ達が住んでいる部屋を見上げた。
「え……?」
「……。」
虎が、アタシ達を、アタシ達の部屋の窓から見下ろしていた。
「どうしたのアス……」
シンジが、アタシと同じように上を見上げ、言葉を失った。
「……。」
「……。」
「…虎…だよね…?」
「うん…。」
「……。」
アタシ達を見ていた虎が、窓辺から離れた。
直後、
「逃げるよアスカッ!!!!!ミライッ!!!!!」
シンジが、アタシの手を引いて走り出した。
 

 

 

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」
「はぁ、はぁ…、はぁ、はっ、はぁ…」
ミライを落とさないように必死に抱えながら、無我夢中で森の中を駆けた。
アタシを引いて前を走るシンジは、さっき見つけたポリタンクを手に持ったままだった。
「はっ、はぁ、なんで、虎なんかが日本にいるのよっ…はぁ、はぁ」
「はっ、はっ、そんなのわかんないよっ、はぁ、動物園にいた虎かもしれないし、
 それに、外国にいたものが日本に来ないとは限らないっ、はっ、はっ」
「はぁ…、はぁ…、確かにそうねっ…はっ、はっ、あの虎っ、アタシ達を狙ってたわよねっ、はぁ、はっ」
「はっ、そう考えて間違いないだろうね、はっ、はっ、」

 

 

 

「…アスカ!!ちょっと止まって!!」
森の中にあった草むらを抜けると、シンジが立ち止まり、来た道を振り返った。
アタシも、シンジと一緒に立ち止まって振り返る。
草に阻まれて見えにくいけど、
虎は、まだ追いついてはいないみたい。
シンジはポリタンクの蓋を開けて、中の灯油を草むらに撒き始めた。
「何してんの、シンジ?」
「灯油を撒いて僕達の臭いを誤魔化す。気休めかもしれないけど、このまま進むよりはマシなはずだ。」
シンジは灯油を撒き終わると、空になったポリタンクを遠くに投げ捨てた。
「アスカ、ミライをこっちに。僕が抱いて走るよ。」
「うん。ほら、ミライ。」
「…ぅ…。」
無我夢中で走っていて気づかなかったけど、
ミライは、不安で仕方ないって顔をしていた。
それでも声をあげて泣かなかったのは、きっと、子供心に泣いちゃいけない、って悟ったからなんだろう。
「怖い思いさせてごめんね、ミライ。」
そう言って、アタシはミライをシンジに渡した。
そして、アタシ達は再び走り出した。

 

 

 

 

「くそっ…。」
「そんな…。」
後方の森の木の陰に、小さく虎の姿が見えた。
「…アスカ、止まろう。多分もう逃げても無駄だ。」
そう言ってシンジは、走るのをやめて立ち止まった。
「な?!バカッ!!!何諦めて…」
「諦めてなんかないよっ!!!
 でも、もうそこまで虎が来てる以上、これ以上逃げてもすぐに追いつかれる。
 今から隠れても、多分すぐに見つかる。
 きっともう、戦う他に道は無いんだ。
 だから、僕は戦う。」
「たっ、戦うって、勝てるわけ無いじゃない!!!
 相手は虎なのよ?!!しかも、こっちは武器になるものなんて殆ど何も無いじゃない!!!」
かろうじて武器になりそうなのは、あのスプレー缶と、野草を採る為に持ってきていた鎌だけだった。
「大丈夫だよ。」
シンジはさらりと言った。
まるで、本当に心の底からそう思ってるみたいに。
「大丈夫なんかじゃ無いわよ!!!何甘い事言って…」
「甘い事言ってるのはそっちだろ!!!
 もうこうするしか道は無いんだよ。
 アスカだってホントはそんな事わかってるだろ?」
「……。」
「アスカ、もう時間が無いんだ。虎は、もうすぐここにやって来る。」
森の奥。
虎の姿はさっきよりも大きく見えた。
確実に、虎はアタシ達を目指していた。
「……。」
「わかってよアスカ。」
「……。」
アタシは、何も答えられない。
「……。」
シンジは、黙ってミライをアタシに渡した。
「アスカ、僕が戦っている間にミライを連れてなるべく遠くまで…」
「嫌…」
「……。」
「嫌よ…、シンジが戦うんなら、アタシも戦う…、
 戦っているシンジを置いて、シンジを置いて逃げるくらいなら…、アタシは…」
「……。」
シンジはそっと、ミライを指差した。
「ミライ…。」
「アスカ、ミライを頼むよ。」
そう言って、シンジはアタシ達に踵を返し、虎の方を向いた。
そして、虎に向かって歩きだそうとした。
嫌だ。
未練がましくても、間違ってても、それだけは…。
それだけは…。
「……。」
アタシは、シンジの服を掴んだ。
シンジの足が止まる。
「……。」
「シンジが、ミライを守ってよ…。
 アタシが、シンジの代わりにあの虎と戦うから…。
 だから、お願いだから行かないでよ…。」
「……。」
「殺されるかもしれないのよ…?
 生きたまま、食べられちゃうかもしれないのよ…?
 嫌よ…。
 シンジが、アタシみたいな目に遭うなんて嫌なのよ…。
 あんな思い、シンジにして欲しくなんか無いのよ…。」
貪られながら殺された、痛みの記憶。
あんな思い、シンジにして欲しくない。
シンジがそんな思いをするくらいなら、例えもう一度あんな思いをしても、アタシが…。
「だからっ…」
「アスカ。」
シンジが、叫ぼうとしたアタシの頭を撫でた。
そして、
「大丈夫だから。」
そう、アタシに優しく笑いかけた。
「……。」
どうしてだろう。
シンジのその笑顔を見ると、アタシは何も言えなくなって、身体から力が抜けて
掴んでいた手を、離してしまった。
「ありがとう、アスカ。」
そう言うと、シンジは振り返って今度こそ虎の方へと駆けて行った。
「……どうして。」
掌を見ながら、呟いた。
アタシは、どうしてこの手を離してしまったんだろう。
後悔が、じわじわと心を覆い始める。
どうして。
どうして…。
「どうして…、どうして…、どうして…、どうして…」
「まま…。」
ミライの小さな手のひらが、アタシの頬に触れた。
「まま…。」
ミライは、心配そうにアタシをみつめていた。
アタシを、いたわってくれていた。
「ミライ…。」
ミライをみつめながら、頬に触れるその小さな手を掴んだ。
「そっか…。」
そう呟いて、アタシは、ミライに微笑みかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

虎の方へと駆けた。
小さく見えていたその姿が、大きくなっていく。
僕は走りながら、腰に結び付けていた鎌とスプレー缶を取り出して、鎌を右手に、スプレー缶を左手にそれぞれ持った。
 

 

アスカは、ミライを連れて逃げていてくれてるだろうか?
もし僕が負けても、僕が戦っているその間にアスカ達はなるべく遠くに逃げられる。
上手く隠れる時間も、もしかしたら出来るかもしれない。
虎が僕を食べるなら、その時間はもっと稼げる。
僕を食べる事で満足して、アスカとミライを見逃してくれる事だってあり得る。
それに、

 

虎の姿が、どんどん大きくなっていく。
想像していた大きさよりも、虎は大きかった。
虎は、変わらないペースでこっちに向かって歩いている。
 

 

それに、何だか負ける気がしなかった。
多分大丈夫だって、根拠も無くそう思えた。
そうだ。
今までだって、エヴァに乗ってではあるけど、使徒っていうよくわからない怪物と僕はずっと戦ってきたんだ。
何度も使徒と戦って、ずっと勝ってきたんだ。
そうだ。
単なる虎なんて、使徒にくらべれば全然大した事ないじゃないか。
そうだ。
きっと、今までみたいに何とかなる。
きっと、大丈夫だ。
大丈夫。
何とかなる。
勝てる。

 

どんどん虎が近づいてくる。
後ほんの少し走れば、僕は虎と戦うことになる。
緊張や不安は、やっぱりあまり感じない。
僕は、そのまま虎に向かって走り続ける。

 

突然、こちらに向かっていた虎が、身体を小さく縮こませながら地面に伏せた。
そして、まるで伸びるように、僕に向かって駆け出した。
 

 

「――――――ッ」
脚に思い切り力が入って、僕は止まる。
本能が、全力で止まる事を選択した。
同時に、さっきまでの楽観は一瞬で何処かに吹き飛んで、
代わりに、膨張した恐怖心が僕の心の大部分を占めた。

 

虎は、どんどん加速しながらこっちに走ってくる。
想像以上の疾さだった。
あっという間に虎は、僕から三メートル程の距離にまで近づき、そこから一気に僕に飛び掛かった。
近づいてくる虎は、恐ろしく巨大に見えた。

 

低い、唸り声。
獣の臭い。
開かれた顎門からは、強い、肉の臭い。
僕を捉える、冷たい光を湛えた金色の瞳。
目を合わせた時、虎は僕を、単なる獲物としか見ていないのがわかった。
冷たい、凍えるような殺気。
死の予感。
エヴァ越しにじゃない、生身に感じる、確かな死の気配。
エヴァに守られる事の無い、やり直しのきかない、確実な、死。


「ああああああああああっ!!!!!」
とっさに、力いっぱい右手の鎌を横に薙いだ。
恐怖からだった。
虎は、地に伏せていとも容易く僕の鎌をかわした。
「おおおおおっ!!!!!」
大きく空振った鎌の勢いを、力ずくで無理矢理殺して鎌を止める。
痛みと共に、右腕をはじめ、右半身の筋繊維がブチブチと千切れていく感触。
そのまま腕を返して、僕は鎌を逆に薙ぐ。
下方から、何かが伸び上がるのが見えた。
虎の前足だった。
まるで軌道を読んだように、前足の爪は正確に、鎌を持つ僕の右手を狙ってきていた。
「っ!!!」
とっさに鎌を放した。
瞬間、手を離れた鎌が、取っ手の部分を虎の爪に弾かれ、そのまま僕の斜め後ろに飛んでいった。
虎と距離をとろうと、僕は後方に跳ねる。

 

後ろに跳んで、着地するまでの一瞬の間に、虎がもう一度、地に伏せて縮み込むのが見えた。
僕が着地したその瞬間、虎は、そのしなやかな筋肉に溜め込んだ力を解放して、再び僕に飛び掛った。
迅い。
虎の身体が、伸び上がる。
僕の頭よりも、ずっと高く。
僕の頭に上から齧り付こうと、虎の顎門が大きく開く。
二つの前足が、僕の身体を抱え込もうと挟み込む様に迫る。
左手、スプレーから炎を出して退けようと思った。
だけど、虎の牙は、爪は、確実にそれより速く、僕に届く。
無理矢理に動かした右腕は痺れて動かず、
もう、防御すら間に合わない。
そう気づいた時、
僕は、今此処で死ぬのだと悟った。

 

 

 

 

 

 

 

目の前に迫る虎の動きが、酷くゆっくりに見えた。
同時に、開かれた口の中が、生えている牙の数がわかる程、とても鮮明に見えていた。
 

 

 

 

 

 

僕は、思い出していた。
父さんと母さんに可愛がってもらった子供の頃を。
母さんが、エヴァの中に取り込まれた時の事を。
父さんに捨てられた時の事を。
先生の所にいた時の、何も無い日々を。
父さんに呼ばれて、エヴァに乗って戦った、辛く苦しい日々を。
生命がいない世界での、アスカとの幸せな日々を。
細菌が戻ってきた後の、アスカを傷つけ続けてしまった日々を。
洪水の後、便利な物はなくなったけど、満ち足りていた日々を。
ミライが生まれて、二人が三人になって、喜びに満ちた日々の事を。
記憶が、僕の脳裏を一瞬で駆け抜けていく。

 

 

 

 

 

 

そっか。
これが、走馬灯っていうやつか。
やっぱり、僕はこれから死ぬんだろうな。
あっけない、
情けない。 

 

 

ごめん、アスカ。ミライ。
悲しい思いをさせてしまう。
最後の最後までは、僕にはアスカとミライを護り切れなかった。 

 

でも、悪くない。
このまま、例え生きたまま、貪られながら殺されても。
勝手だな。
だけど、
アスカとミライを護りながら逝けるのなら、
それに、

脳裏をよぎったのは、バラバラにされた弐号機と、
過去の記憶に苛まれ、錯乱するアスカの姿。

それに、
アスカと同じ苦しみを、最後に味わいながら死ねるのなら、悪くない。

 

 

 

恐怖心が、融けていく。
身体から力が抜けて、楽になっていく。
 

 

 

牙が、ゆっくりと迫ってくる。
でも、もうあんまり怖くない。
痛みも、死も、全て受け入れよう。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……。」
痺れて動かなかったはずの右腕を、
僕はいつの間にか、虎の前に差し出ていた。
自分でも、いつ動かしたのかわからなかった。
虎が右腕に噛み付き、牙が、腕に食い込んでいく。
左手が、勝手に動いた。
右腕に噛み付いている虎に噴射口を向け、スプレーの頭を押す。
炎が、虎の顔を炙る。
「があっ!!!!!!!」
そう唸って、虎は右腕から口を離して僕から跳び退った。
跳び退る際、虎の爪がかすって、左腕の皮膚が少し切り裂かれた。

 

「……。」
何が起こったのか、わからなかった。
身体が、自然に動いていた。
そして、

 

目の前の景色、木々の、その揺れる葉の一つ一つ、その揺れ方、葉を揺らす微かな風の「流れ」まで、
全てが鮮明に、スローモーションで「視えて」いた。
いや、目の前の景色だけじゃない。
頭の後ろ、見えないはずの景色、その「動き」まで今、確かに僕には「視えて」いる。
視覚だけじゃない。
葉が、微かに揺れて擦れる音。
流れる風の音と匂い。
皮膚に触れる微かな風の感触。
僕の心臓が拍動する音、感触。
体中の血管を血が巡る音、感触。
全身の筋肉が微かに動く音、感触。
骨が軋む音、感触。
その全てがはっきりと、鮮明に感じられた。
視覚が、聴覚が、嗅覚が、触覚が、全ての感覚が研ぎ澄まされて、
僕の世界に、音が、光が、全てが溢れていた。
普通なら、とても処理しきれないほどの、莫大な量の情報の渦。
なのに、僕にはその全てが理解できた。
それでいて、それが何処までも普通な、当たり前の事だと感じていた。
 

 

自然に、身体が前へと進む。
飛び退いた虎を目指して。
 

虎の息遣い、筋肉の動き、目線の動き、血管を流れる血の音に到るまで、その全てが視えて、聞こえてくる。
そして、心の動きも。
期待。
興奮。
喜悦。
驕り。
悪意。
殺意。
驚愕。
混乱。
警戒。
怒り。
恐怖。
めまぐるしく展開し変遷する、感情の流れ。
色として、音として、匂いとして、感触として、味として、それ以外の、例え難い何かとして、
五感の延長として、五感の統合として、五感を超越した感覚として、僕は虎の心の流れを感じていた。
その心の流れが、次に何処へ向かうかさえも。
 

 

 

虎が体勢を立て直し切るその前に、僕は大きく踏み込んで虎に近づく。
虎の心は、まだ混乱の色が大部分を占めていた。
僕の接近に気づき、警戒と、怒りと、ほんの僅かな恐怖心が、虎の心から混乱を押しのけた。
感情の発動。
爪が振り下ろされるイメージ。
それを制するように、僕は炎を吹き付けた。
虎の毛皮の上辺を、少し撫でる程度の大きさの炎。
低い唸り声を上げながら、虎は炎から逃れようと再び身を翻して後退する。
虎の心が、混乱から警戒の色が強く占めるように変化する。
僕は虎が逃れた方へと、更に進む。
身を翻していた虎が、こちらを振り向こうとした。
その前に、さっきよりも虎に熱が伝わるように、
さっきよりほんの少し強くスプレーの頭を押して、虎に炎を吹き付けた。
虎は振り返ろうとするのを止め、炎から逃れようと、僕とは逆の方向に駆け出した。
逃げたんじゃない。
体勢を立て直す為だ。
虎の心に恐怖の色は僅かしかなく、その心は期待と怒りと驕りが未だに大部分を占めていた。
まだこの虎は、僕を殺す事を諦めていない。
虎は、僕の炎の射程距離を遥かに越える十五メートルほど先まで走ると、再び僕に振り返った。
混乱、そして僅かに芽生えて育ちつつあった恐怖が消えていき、
代わりに、怒りと敵意が、虎の心に強く現れはじめる。
「ッ!!!!!」
僕はスプレーを構え、虎へと一直線に駆けた。
九メートル、
八メートル、
七メートル、
六メートル、
五メートル、
四メートル、
三メートル、
警戒心と驕りの狭間で、虎の心はそこで僕を攻撃する事を決断した。
虎が僕に飛び掛る。
それより一瞬早く、僕は左手のスプレーを押して炎を出した。
目くらましになる必要最低限度の量の炎。
炎を出すと同時に、僕は深く屈む。
虎の左前足の爪が炎を裂いて、僕の頭上を掠めた。
僕はそのまま地面を転がり、虎の左後方へと回り込み再び虎に炎を吹き付ける。
虎は炎を避けようと、反射的に飛び退く。
だが、炎が大した強さじゃない事に気づき始めたんだろう。
虎の心を、怒りが大きく占め始めた。
僕は飛び跳ねるように起き上がると、すぐさまにまた炎を出した。
虎の爪が炎を裂いて僕に迫る。
躊躇が無い。
服を裂かれながらも、僕は身体を捻るように回転させながら後退し、何とか爪を避ける。
僕が後退した分だけ、虎が僕ににじり寄り、再び爪を繰り出す。
同じように炎を出して目くらましにし、
僕は後退しながら身体を捻り、皮を薄く切り裂かれながらも爪を紙一重で避けた。
 

 

これでいい。
僕がこうやって虎を引き付けながら後退する事で、虎はアスカとミライからどんどん遠ざかっていく。
同時に、あの場所に向かう事にもなる。
 

 

 

 

 

 

虎の牙と爪が、容赦なく僕を切り裂き噛み付こうと何度も迫る。
虎に追い込まれながらも、僕の身体は軽く、
心地良い流れを感じながら、心地良い流れに導かれるまま、僕は後退しながら虎の攻撃を避けていった。
虎の牙や爪は、服や皮膚を少し掠るだけで、深くは届かない。
僕とは対照的に、虎の心にはどんどん苛立ちが募っていく。
それまで前足や頭だけで攻撃していた虎が、突然、全身で飛び掛かって来た。
だけどその突然の行動も、
それを起こした感情の興りも、僕には読めている。
炎を出し、後退するのではなく、向かうように僕は虎の横を身体を捻りながら避ける。
僕と虎の位置関係が大きく変化する。
今僕が後退すれば、虎がアスカとミライに近づいてしまう。
僕は、再び僕に飛び掛ろうとしている虎に、はっきりと目を狙って、ギリギリ触れない程度の大きさの炎を出した。
「がああああああああっ!!!!!!!!」
溜め込んでいた力が方向を捻じ曲げられて発散し、虎は身を捩りながら大きく後ろに跳ね飛んだ。
僕は間髪入れずに虎に近づき、炎を吹き付ける。
虎が、怯えから前足を振り回しながら後退する。
絶妙のタイミングで目に吹き付けられた炎は、虎の心の中の油断を吹き飛ばし、怒りと驕りをへし折り、
虎の心にはっきりと炎に対する恐怖を植えつけた。
炎を当てられた目は、見えなくなった訳では無いだろうけど、
回復するまでにはしばらく時間がかかるはずだ。
視界の悪化で正確さを失いながらも、虎は僕に対して爪や牙を繰り出し続ける。
僕は、炎を出して牙や爪を避けながら、少しずつ前に進み虎に迫る。
虎は、爪を、牙を繰り出しながらも、少しずつ、僕に押されるように後退していく。

 

 

 

 

 

 

視界が回復し始めたんだろう、再び虎の爪や牙が僕を正確に狙ってくるようになってきた。
だけど、その攻撃にさっきまでのような思い切りは無く、虎は、僕の左手、持っているスプレー缶を常に警戒し続けている。
おかげで、手首を捻り噴射口の向きを少し変えるだけで、僕は虎を惑わす事が出来た。
恐怖心は、虎の心に確実に根付いている。
 

もし、僕が虎の目を完全に焼いていれば、虎は激昂して、炎の恐怖に縛られる事無く、
むしろ炎の恐怖を振り払おうと、捨て身で僕に向かってきていただろう。
そうなれば、炎による脅しも、目くらましも、もう通じない。
だけどこうやって必要最小限の、回復可能な傷しか与えない事で、
恐怖心は、致命的な傷を与えられる事を避ける為に戦闘を回避しようとする方向へと働き、
それが今、虎の行動を縛り付けて制限している。
それは炎の脅しと目くらましをより効果的にし、スプレーの中のガスを節約する事にも繋がる。
考えてそうしていた訳では無く、ただ何となく心地良い感覚に身を任せていただけなのに、
いつの間にか絶望的な状況がひっくり返って、虎をここまで追い詰めていた。
 

 

炎と、牙と爪の応酬は続く。
着実に、僕と虎はあの場所に近づいている。
 

 

もし、スプレーのガスが尽きる前にあの場所に辿り着けなければ、僕はこの虎に喰い殺されるんだろう。
それまでこのスプレーが持つ保障は無い。
それでも、この流れに身を任せなければ、僕はどの道死んでいた。
なら、僕はただ、この流れに身を任せ切ろう。
今はただ、生きるも死ぬも、何もかもを全て、流れの中に委ねよう。

 

心地良い、流れの中に身を任せ切るこの感覚。
どうしてだろう、初めてこんな感覚を味わったはずなのに、
僕は、この感覚にとても良く似た感覚を以前にも味わった気がしていた。

 

自分の意思でエヴァに乗って戦った、あの時だろうか?
違う気がする。

 

じゃあ、何時だ?
世界の全てがわかるような、世界の全てと一つになったような、
この心地良さに似た感覚を、僕はいつ味わったんだ?
 

エヴァの中に取り込まれた、あの時だろうか?

カヲル君の姿になったリリスに包み込まれて、やすらぎの中でサードインパクトを起こしたあの時だろうか?

サードインパクトの最中、心地よさを感じながら全ての人間と一つに混じっていった、あの時だろうか?

どれも、違う。

じゃあ、一体いつ?

僕はいつ、この感覚を…?

 

 

そうだ。
ユニゾンだ。
アスカと一緒に、使徒をユニゾンで倒したあの時だ。
アスカと呼吸を合わせ、心を重ねて、一緒に使徒を倒したあの時、僕はこの感覚に良く似た感覚を感じていたんだ。
 

そこに思い至った時、僕は気づいた。
僕の傍に、ずっと誰かがついていてくれた事を。
アスカだった。
幻覚、なんかじゃない。
確かに、僕はアスカが傍にいるのを感じた。
アスカだけじゃない、ミライも一緒にいる。
アスカとミライが、ずっと、僕と一緒に戦ってくれていた。
 

 

心が、身体が、更に、更に軽くなる。
まるで、飛べそうなぐらいに。

 

そうだ。
一人じゃない。
離れていても、心は確かに繋がっている。
なら、もう何も怖く無い。
怖いものなんて、本当に何にも無いじゃないか。
 

 

炎を使わずに虎の爪を潜り抜け、懐深くにまで入る。
そのまま至近距離で顔全体を炙るように炎を出した。
「があああああああっ!!!!!!!!」
混乱と怒りで、発狂したように虎が爪を滅茶苦茶に振る。
その嵐のような連撃を避けながら、再び顔を炙るように炎を出す。
虎が跳び退る。
追い詰められた恐怖は怒りに変わり、虎はがむしゃらに僕に向かう。
形振り構わず、虎は前足の爪で僕を切り裂こうとし、顎門で僕に噛み付こうとする。
速さは、さっきまでの比じゃない。
なのに、
楽しくて、仕方ない。
僕は炎を使い、目をくらませながら、その爪を、牙を、紙一重で避けていく。

 

 

そうだ。
これも、ユニゾンなんだ。
虎と呼吸を合わせての、ユニゾン。
爪も、牙も、虎が繰り出す何もかもを、呼吸を合わせて避けていき、
そして、虎の意識の死角、間隙を、時には作り出すように、時には突く様に、僕は炎を繰り出す。
虎と踊る、炎と、牙と、爪のダンス。
そう思えば、僕を殺そうと躍起になっているこの虎が可愛くすら見えてきて、
「ふふっ。」
僕は、思わず笑みをこぼした。

 

 

虎だけじゃない。
この世界、
僕の心に映るこの世界全てが、呼吸して、振動して、流動して、
まるでオーケストラが曲を演奏するように、一つの大きな調和を作り出している。
僕も、虎も、アスカもミライも、全てがこの世界の一部であり、ひとつのものだと、気づいた。
そして、僕が導かれているこの心地良い流れ、
その正体は、この世界の呼吸に、脈拍に、循環に、
まるでチェロの伴奏のように、
僕の呼吸を、脈拍を、循環を融け入らせて、調和させていく道。
世界と自分をシンクロさせて、ユニゾンさせる道。
天と地と一体となり、天地と万物を紡ぎ、融和させる道。

 

そして、僕の世界は更に開けた。
音と光に満ちていた世界は、更に充ち満ちていくと同時に、全てが透明に澄んでいく。

 

虎の怒りが、殺意が、世界の調和を乱しているのが視えた。
「虎」という調和が、「僕」の調和を、心に映る世界の他の調和までもを狂わせていた。
「僕」という調和は小さく弱く、それに比べ、「虎」という調和は、「僕」を簡単に飲み込めるほど大きく強い。
だけど、「虎」という調和を生み出し、成り立たせているのもまたこの世界だ。
なら、この「世界そのもの」の調和と融け入ったなら、例え小さな「僕」でも、
この「虎」という調和を飲み込んで、「世界」に融け入らせる事が出来るはず。
怒りを、殺意を、消し去ってしまえるはず。
「飲み込む」とは、合わす事。
相手に「飲み込まれ」無いように合わせ、合わせながら、相手を「在るべき形」へ導く事。
 

 

僕は前に出る。
爪も、牙も、当たらない。
僕が、
この世界が、
心が、
心に映る全てのものが、
僕を導き、どう動けばいいのかを教えてくれる。
僕は導きのままに動き、炎を出し、踊るように、虎の全てを無力化していく。
虎の心には疲れと諦めが満ち、殺意と怒りは萎縮して、成す術もなく小さくなっていく。
そして、殺意と怒りが覆い隠している、その二つの感情の根底にある恐怖心が、
虎の心に強く現れ始めた。

 

それでも、虎は殺意と怒りを捨て去らない。
僕にアスカとミライが傍にいてくれているみたいに、
虎の背後に、とても微かにだけど、二つの「何か」がついているのが視えた。
もしかしたら、それが虎に僕たちを狙わせているのだろうか?
 

 

不意に、嫌な感じがした。
スプレーを押すと、炎が小さくしか出なかった。
ガス欠、…じゃあ無い。
詰まったのか?
虎が、隙を突いてこっちに向かって一気に駆けた。
慌てて第二射を放つ。
炎は出た。
だけど、
虎は、軌道を読んで地を這うように進んで炎を避け、右斜め下方から、僕に飛びかかろうと伸び上がった。
「ッ!!!!!」
僕は、下から迫る虎の鼻を渾身の力で蹴った。
虎が唸り声を上げてひるんだ。
殺意と怒りが薄れて、
恐怖の色が、今まで以上に強く出た。
もう一撃!!!
僕はもう一度虎に蹴りを繰り出す。
蹴りは、虎の直前、空中で透明な壁に阻まれた。
脚が弾かれて、僕はバランスを崩しかける。
「なっ?!!!!」
ATフィールド?!
驚愕は、一瞬で理解に変わる。
バランスを崩しかけた事を逆に利用し、
そのまま全身を捻り弾かれた脚を加速させながら回転させ、
後ろ回し蹴りを繰り出した。
繰り出した踵が、再び透明な壁に阻まれて止まる。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!!」
全身に力が満ちてくるのを感じて、僕は透明な壁を踵で強引に押す。
僕の身体に、力が流れ込んできてる。
アスカが、ミライが、世界が、僕に力を貸してくれている。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!!!!!!!」
やがて、踵の下の見えない壁がオレンジ色に光り出し、
幾重ものオレンジの正六角形が現れ、踵によって破れていくのが視えた。
踵が、壁を完全に突き破る。
そのまま踵は虎の鼻にめり込んだ。
虎の心のほぼ全てが恐怖で満たされ、
虎は、叫びながら逃げるように駆けた。

 

やった!!!
このまま、一気にあの場所まで追い詰める事が出来る!!!!
 

僕は駆け出して虎のすぐ後を追う。
追いかけながら、追い討ちとして逃げる虎の後ろから炎を浴びせようと、
指でスプレーの頭を押そうとした。
瞬間、
鼻先が、恐ろしく冷たくなった。
その冷たさに嫌なものを感じて、僕は炎を出すのも追うのも止めて踏みとどまる。
直後、
「っ!!!!!」
虎の後ろ足が、僕の鼻すれすれに空を切った。
苦し紛れの一撃。
 

 

危なかった。
あのまま追っていれば、鼻を持っていかれていた。
逸る気持ちが、いつの間にか虎の蹴りに気づかない程に心を曇らせていた。
焦るな。
ゆっくりと、着実に、流れのままに進めば良い。
そうだ。
最後の最後まで、もう失敗しない。
今度こそ、ちゃんと着地してみせる。

 

虎は、再び僕に向きなおす。
怒りと殺意はもう、殆どが疲労と恐怖に押し退けられつつある。
同時に、背後にある二つの気配は、随分弱くなっていた。
後、少し。
焦らぬよう、心を細く、耳を澄ますように波立つ心を鎮めながら、再び僕は虎と相見える。
炎と、爪と牙の応酬を繰り返しながら、
ゆっくりと、しかしさっきよりも確実に早いペースで、
僕と虎はあの場所まで進んでいく。
あの場所。
僕が灯油を撒いた、あの草むら。
虎をそこまで追い込んで火をつければ、退ける事が出来ると思っていた。
でも今は、そんな事をしなくても、このまま戦っているうちに何とかなるような気もしている。

 

いや、やっぱり駄目か。
虎の心は戦いを止める方向へともう殆ど傾いているけど、後ろの二つが、きっとそれをさせないだろう。
 

 

目の前に、あの草むらが見えた。
漂ってくる灯油の匂いに虎が気づき、その方向に向かわないように警戒を示す。
その隙を突き、炎を吹く。
今までのように節約した小さい炎では無く、思いっきりボタンを押して大きな炎を出した。
突然増した炎の勢いに、虎は更に怯え、混乱する。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!!!!!!」
僕は突進する勢いで炎を出しながら、虎を一気に追い立てた。
後、二十メートル、

十五メートル、

十メートル、
九メートル、
八メートル、
七メートル、
六メートル、
五メートル、
四、
三、
二、
一、
0。
虎が、完全に草むらに入った。
僕は炎を最大まで噴出し、身体を回転させて地面に大きな炎の輪を描いた。
土と草に染み込んでいた灯油が引火し、炎が一気に草むらを伝って広がっていく。
足元を広がっていく炎に驚いて虎は垂直に飛び上がり、着地と同時に脱兎の如く草むらの向こうへと消えていった。
去っていく虎から、殺意と怒りが完全に消えて、二つの「何か」が離れていくのが視えた。
例えまたあの虎に会ったとしても、おそらくもう襲われる事は無いだろう。
燃え盛る草むらの先を見つめながら、僕はそう確信した。
それから、

「ありがとう。」

と、僕を導いてくれたこの世界に、アスカとミライに、
そして、微かにだけど確かに感じた、あの二つの「何か」とは逆に、僕を助けてくれていた「何か」達に、
空を見上げて、僕は感謝を述べた。

 

 

 

 

 

 

アスカとミライの元に戻ろうと道を辿る。
戦闘中は気にしてなかったけど、右腕が血塗れになっていた。
ただ、血自体はもう止まっているし、痛みはあるけどちゃんと動かせるから、それほど問題は無いみたいだ。
他の所にある切り傷も、大したことは無い。
スプレー缶を押すと、炎がまだ出た。
五秒ほど押し続けると炎の出が悪くなっていき、更に十秒ほど押していると炎は出なくなった。
僕が思っていた以上に、ガスの残量には余裕が残っていたようだった。
このくらい炎がでれば、まだしばらくは戦えたかな。
空になったスプレーを、僕は再び腰に括り付けた。

 

「やっぱり、此処にいた。」
アスカとミライを見つけて、僕はそう呟いた。
アスカとミライは、僕と別れた場所のすぐ近くの岩陰にいた。
何となく、逃げずにいる事はわかっていた。
アスカとミライは、静かにじっと目を瞑っている。
僕の為に、ずっと祈ってくれていたんだろう。
「ただいま、アスカ、ミライ。」
目を瞑り祈る二人に、僕は声を掛けた。
「おかえり、シンジ。」
アスカは目を開けると、
まるで、僕が生きて帰って来るのがわかっていたみたいに、普段と変わらぬ調子で言った。
「ぱぱ。」
ミライも起きて、僕を呼んでくれた。
「逃げてって、言ったじゃないか。」
「シンジが負けちゃってたら、きっと何処に逃げたってアタシとミライはあの虎に食べられちゃってたわよ。
 それに…」
アスカが、その澄んだ青い瞳で真っ直ぐに僕をみつめた。
そして、
「信じてたから。」
静かに、アスカが僕に向かって言った。
一点の曇りも無い、何処までも澄んだ言葉だった。
「そっか。」
僕は、微笑みながら、アスカの頭を撫でた。
アスカが、撫でる僕の腕に優しく触れる。
「血…。」
うっかり僕は血塗れの右手でアスカを撫でていた。
「あ…、ごめんアスカ。びっくりさせちゃったね。
 でも、見た目ほど大した傷じゃ無いから安心して…」
「よかった…。」
「……。」
「シンジが食べられなくて、生きててくれて、ホントに、良かった。
 ホントにっ…、」
アスカが、僕の胸に頭を預けた。
「アスカ…」
「うっ、…ううっ…うっ、うえええええええええええええええええええええええええんっ」
アスカは、僕の胸で声をあげて泣き出した。
「ふええええええええええええええええええええええええええええええええんっ」
アスカに抱かれていたミライも、つられて一緒に泣き出す。
「……あれっ?」 
僕の頬を、何かが伝った。
手で触れて、涙だと気づいた。
気づかぬうちに、僕は涙を流していた。
「あ、あれっ…?おかしいなっ……こんなっ…っ…」
アスカとミライに、感化されたのだろうか?
涙が、どんどん勝手に溢れてくる。
「こんなっ…っ…うっ……」
さっきまで、怖くなんて無かったはずなのに、
死んでもいいって、思えていたはずなのに。
今、自分が生きているのが信じられなくて、
もし、負けていたら、死んでしまっていたらと思うと、怖くて、
「っ…くぅ…ぐすっ…う…ううっ…うわああああああああああああああああああああああああああああんっ」
僕は、声をあげて泣いた。

「うえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええんっ」
「ふえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええんっ」
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああんっ」

 

鳥達のさえずりが聞こえる森の中で、僕達三人は大声で泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「牛だ。」
「あら、ホントね。」
虎の襲撃から一週間後、僕達は再び、小川のほとりに牛達がいるのを見つけた。
どうやら前の牛達と同じ群れみたいだ。
「モーモー。」
「うん、モーモーねミライ。
 …ねぇシンジ。去っていった動物が戻って来るなんて、初めてね。」
「うん。……ちょっとさ、此処で待っててよアスカ。」
「え?ちょっとシンジ?!!」

 

僕は牛達の方へと向かう。
初めは僕を無視していた牛達も、近づくにつれ一匹一匹と僕の方を向き始める。
牛達の冷たい視線が突き刺さる。
かまわず進んで、僕は一匹の牛の前に来た。
「……。」
牛は、鳴き声一つあげずに僕を見つめている。
ゆっくりと、僕は牛の頭に触れ、撫でた。
「……。」
牛は、暴れる事も逃げる事もしなかった。
「ごめんなさい…。」
僕は、牛に向けて謝った。
謝った所で、牛達は、僕達人間を許してくれないだろうけど、
それでも、謝っておきたかった。
「……。」
牛は、鳴き声一つあげずに目を閉じた。
そのまま、僕に頭を撫でさせてくれた。
「ありがとう…。」
そう感謝して、僕はしばらく牛を撫でつづけた。
 

 

「モー。」
牛達が、小川の近くで草を食べている。
僕達はそれを少し遠巻きに、草むらに座って眺めていた。
「あの牛達ってさ、多分、人に殺されて食べられてきた事自体が許せないんじゃないんだと思う。」
「どういう事?」
「きっと、牛達は家畜として何の意味も無く、
 いや、何の意味も感じられないまま生かされて、殺された事が許せなかったんだと思う。
 あの虎と戦った時、僕が殺されて食べられても良いって思えたのは、
 僕が自分の人生と死に方に満足したからだった。
 過酷な生存競争の中で精一杯生きてる野生動物達も、死ぬ時はもしかしたら僕みたいな気持ちで死んでいくのかもしれない。
 でも、あの牛達のような家畜達は違う。
 家畜達は、人間の勝手な都合で不自然な生き方を強いられて、人間の勝手な都合で殺されていく。
 それも、人間からは殆ど感謝される事も無くね。
 だからきっと、殆どの家畜達の生には、満足や達成なんてものは無かったんだろう。
 感謝や憐れみっていう、せめてもの慰みを受けた事すらも殆ど無かったんだろう。
 それが許せなくて、悲しかったんだよ。」
あの冷たい諦めの目は、確かに悲しみから来たものだった。
「死ぬ事が悲しいんじゃなくて、満足して死ねない事が、
 感謝や憐れみさえかけて貰えなかった事が悲しい、か。
 確かに、そうなのかもね。
 人間だって、そうなんだしね…。」
牛達を見ながら、アスカが呟いた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「がおっ。がおーっ。」
ミライがぬいぐるみを相手に、怪獣のマネをして遊んでいる。
そんなミライの様子を、僕とアスカは微笑みながら見ていた。

 

「もうすぐきっと、人が帰って来るよね。」
「うん。」
「僕は、アスカと一緒に生きてこられて幸せだった。
 これからどんな運命が待っていても、きっと僕は後悔なんてせずに全部受け入れられると思う。」
「アタシも、シンジと一緒に生きてこられて幸せだった。
 これからどんな運命が待っていても、アタシもきっと後悔なんてしないと思うわ。」
「ねぇアスカ。例え僕達がどうなっても、ミライだけは、絶対に守ってあげようね。」
「うん。」

 

 

そして、動物達が帰ってきて五ヵ月程経ったある日、
僕達の前に再び、綾波とカヲル君が現れた。

 

 

前へ      表題へ      トップへ       次へ

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジのあれについて。

良く漫画やゲームや小説なんかに出てくる例のあれです。

バ○ボンド的な。

劇中の描写はバ○ボンドだけでなく、他の幾つかの作品や、それらの「元ネタ」と思われるものも参照にしております。

シンジが「ユニゾン」と表現したように、実はシンジとアスカが入れ替わっても同じ事ができましたが、

アスカはシンジよりいささか「我」が強いので、「退くべき流れ」を捉えきれず、

もし、アスカがシンジの代わりに戦っていたならば、虎の苦し紛れの一撃で鼻をふっ飛ばされていたので、

この戦いにおいてはシンジの方が適任でした。

と、いう設定になっております。

 

 

牛達について。

この偽善者が!

と、思われるかも知れませんがね。

 

ちなみに、前回登場した犬や猫はネズミの大半はサードインパクト前に人間とは殆ど関係なく生きていた野良達で、

虐待されていたペット達や、実験動物として殺されていた動物達ではないので、シンジとアスカとミライに懐いていたという裏設定です。

 

たう