Secondary  3_Mars-8

 

 

 

 

 

 

 

シンジ君。

「……。」
目が覚めた。
暗い。
まだ、真夜中もいい所だった。
「カヲル君…?」
さっき、カヲル君の声が聞こえた気がした。
もう一度耳を澄ましてみても、雨音しか聞こえなかった。
雨。
「……。」
別に豪雨って訳でもない。
いつも降るのと変わらない、普通の雨。
なのに、
窓から見える闇の中を降る雨は、僕の不安を掻き立てた。
「……っ!」
訳もわからない内に何かに急かされ、僕はアスカの部屋に向かった。

 

 

 

「アスカッ!!!起きて!!!!!」
アスカの部屋に入り、眠るアスカを揺り起こした。
「んんっ……シンジ?」
アスカが、とても不思議そうな顔で僕を見た。
そりゃそうか。
半年喋らなかったのにいきなり、しかも真夜中に起こしに来たんだから。
でも、それを気にしていられる余裕はない。
「説明は後!!!急いでここを出るから早く準備して!!!!」
「え…?」
「早くっ!!!!!」
「う、うん。」
そう言ってアスカが荷物をまとめ始める。
でも寝起きのせいもあるんだろう、アスカの動きは遅かった。
焦燥感が募る。
「ねぇシンジ、ここを出るって言ったって一体何処行くのよ?」
「わからない。…でもとにかくここにいたら駄目なんだ!!!とにかく急いで準備してよ!!!!」
「う、うん…。まあそれはいいけど、ここにはまた戻ってくるわよね…?」
「それも、わからない。もしかしたらもう戻って来れないかもしれない。」
「え…?どういうこと?」
「だからわからないんだよ!!!とにかく早く準備だけは済ましてよ!!!!」
「わ、わかったわよ…。」
そう言ってアスカはさっきよりもずっと迅速に、荷物をまとめ始めた。
僕も部屋に戻って自分の荷物をまとめに入った。

 

 

 

 

「アスカッ!!!準備は?!!!」
「出来てる!!!そっちは?!!!」
「こっちも出来てる!!!!行こう!!!!!」
そう言って僕達は各々荷物を抱えてレインコートに身を包み、
手を固く繋いで、僕は懐中電灯、アスカは小さなトランクを片手に外に出た。

 

 

 

外に出て待ち構えていたのはさっきまでとはうって変わっての滝のような豪雨だった。
懐中電灯が殆ど効果を発揮しない。
道路がまるで川の様になっていて、滑りそうになる。
「ねぇシンジ!!!!!本当に何処行くのよ?!!!!!!」
雨音に掻き消されないよう、必死に大声を出してアスカが僕に聞いた。
「わからないっ!!!!!とにかく僕についてきてよアスカ!!!!!!!!」
「…何なのよ一体?!!!!!!!」
何処までもアバウトで強引な僕の回答に、アスカが怒ったように叫んだ。
実際、何なんだ一体?と聞きたいのは僕の方だった。
ただ、僕を急かし続ける何かが、僕に、止まるな。このまま進め、と告げていた。
僕はその何かに急かされるままに、アスカを連れて豪雨の降る暗闇の中を進む。

 

 

 

十分ほど進んだ。
懐中電灯は役に立たないのでアスカに渡し、代わりにアスカが持っていたトランクを持った。
訳もわからない内に急かされ半ば半狂乱で進みながらも、これから何が起こるのか僕はわかり始めていた。
多分、水害の類だ。
なら、山沿いは崩れる可能性が高いから兎も角として、高台や高層ビルなんかにいけば、回避できるはず。
そう思っていると目の前にタイミングよく高層マンションが現れた。
あれだっ!!!
そう思って僕がそこに向かおうとしたその時。

そっちは駄目だ!!!!

と、声としてはっきり聞こえた訳ではないけど、その言葉の意味を持ったものが、
まるで身体の芯を、頭からお腹の底まで貫いたような感覚がして、僕はそこに向かうのをやめた。
そして、元々進んでいた方向に、再び僕達は進みだした。

 

 

 

 

 

そして更に三十分ほど進むと、
目の前におそらく二十階程の、さっき行こうとしたマンションよりは随分小さい、
グラン八花九理という名のマンションについた。
あの感覚は、どうやらここに入れと告げているようだ。
どうして、こんなさっき通ってきた中に幾つもあったようなマンションなんだ?
と、疑問に思いつつも、
とりあえず雨を避ける為に急いで中に入った。

 

 

 

 

レインコートを羽織っていたとは言え、服や靴の中はビショビショだった。
持ってきた荷物は、元々生地が防水加工され雨の入りにくい構造のリュックに入っていた上に、
レインコートに守られていた為か、無傷で済んでいた。
それはアスカも同様みたいだった。
トランクの中は残念ながら浸水していたけど、不幸中の幸いか、
濡れてもまだ致命的な損傷を被らないものばかりだった。

 

 

 

とりあえず、マンションの一階を探索して適当に着れる物や履ける物を見つけてきた、
僕達はそれぞれ着ていた服や靴を脱いで乾かし、
濡れた身体を拭いて、見つけてきた服に着替え、靴を履いた。
そして、酷く疲れたから、浸水を警戒して二階の一室で僕達は眠りに就いた。

 

 

 

 

 

 

翌日目覚めると雨はまだ降っていた。
そして案の定、一階部分は浸水していた。
昨日の夜動かなければ、今頃僕達は身動き出来なくなっていた訳か…。
そう思っていると、
「ねぇ、シンジ。」
アスカが、話しかけてきた。
一瞬戸惑って、無視しそうになったけど、
この非常時にまで僕達の間の妙なルールを守る必要は無いと思い直し、アスカと話す事にした。
それに昨日、既に僕の方からそのルールを破ってるわけだし。
「…何、アスカ?」
なるべく憮然とした態度で答えた。
僕がそう言うと、アスカの表情がパアッと、明るくなったように見え、
ああ、やっぱり可愛いなぁ…。と、不覚にも場違い甚だしい事を僕は思ってしまった。
やっぱり、僕にはあの生活はもう限界だったんだろう。
「いろいろと、聞きたい事や言いたい事は山ほどあるんだけどさ…。
 とりあえず、助けてくれてありがとう。シンジ。」
そう言って、アスカが僕に頭を下げた。
「…い、いや、別にアスカのことを助けようと思って助けた訳じゃ…
 何が起こってるかも、よくわかってなかったし…。それに、まだ助かったとは、言い切れないし…。」
我ながら、なんて歯切れの悪い。
「うん。」
アスカは顔を上げ、そう言ってニコッと微笑んだ。
「う…、む…、っ…。」
嬉しそうなアスカの笑顔にどぎまぎして、唸るしか出来なかった。
 

 

「ねぇアスカ。よく、僕に黙ってついて来てくれたよね? 
 あんないきなり、しかも、何処に行くかも僕は自分でもよくわかってなかったのに。」
窓辺で、二人で外をぼんやりと見ながら、アスカに聞いた。
「頑なにアタシと話そうとしなかったシンジがアタシに話しかけてくるぐらいだから、
 よっぽどの事が起こってるんだなぁ、って思ったからね。
 ここは黙って従っとくべきだと思ったのよ。
 それに、あの雨の中何処に行けばいいかわからないのはアタシも同じだったし、
 わからないって言いながらも、
 横から見てるとシンジはまるで明確に目的地に向かってるみたいに見えたし。
 理由としたらそんな処ね。」
そう、アスカが答えた。
「そっか…。」
窓から、まだ降り続く雨を見ながら、僕が呟いた。

 

 

実際、僕を導いてくれていたあの声、というより感覚は、一体なんだったんだろう?
最初に聞こえたカヲル君の声とも、きっと違う。
以前聞いた囁くような声よりも、むしろ「勘」とかそういう感覚に近いものだった。
音に色のイメージが伴ったり、図形に臭いのイメージが伴ったりする共感覚みたいに、
「勘」という感覚に声が伴ったのものだったのだろうか?

 

 

 

「雨、いつまで降るのかしらね?」
「この分だと、まだまだ止みそうにないね。二階も、もしかしたら浸水するかもしれない。
 いっそ最上階の部屋にでも行く? 見晴らしもいいだろうしさ。」
「そうね…。」
僕達は最上階の部屋に移動した。

 

 

 

 

最上階に移動した後、
持ってきた物や、マンションから見つけてきた食糧を二人で食べた。

 

雨はまだ延々と降り続けている。

 

窓から階下を見ると、既に街全体が水没していた。
二階建ての一軒屋はもう屋根だけしか水から出ていない。
多分ここも、二階はもうとっくに浸水してしまってるんだろう。
僕達の暮らしていた旅館もきっと。
まだ、雨が降り始めて一日も経っていない。
この分だと、まだ水嵩は増すだろうな。

 

 

「ねぇシンジ、アタシ達が住んでた旅館も、多分もう沈んじゃったわよね…。」
「うん。多分ね…。」
「アタシ達の思い出も、沈んじゃったんだよね…。」
「……。」
「シンジのチェロも、アタシのプラグスーツも、結婚式の時に着たウエディングドレスもみんな…」
「しょうがないよ。持ってくる余裕なんて無かったんだし…。
 それに、物が無くなっても、想い出まで一緒に消えて無くなったわけじゃない。」
「そう、よね…。」
そう言って、アスカは寂しげな顔で黙った。
「……。」

全ては心の中だ。今はそれでいい。

僕は、母さんの墓参りに行った時の父さんの言葉を思い出していた。
 

 

 

 

 

夜になった。
雨はまだ、降り続けている。
アスカは、眠っている。

 

「この分だと、集めた銃も弾薬も全部、水の中に沈んでるだろうな…。」
銃は、いきなり人が戻ってきた場合なんかの不測の事態を考えて、常に手元に置いてあった拳銃を一丁持ってきただけで、後は弾薬や他の武器類と一緒に全部今頃水没してしまっているんだろう。
「今までの努力も、全部パアか…。」
悔しいって感情はない。
むしろ憑き物が落ちたような、不思議とすっきりした気分だった。
この銃一丁だけじゃあ、アスカを守るには心もとないけれど、
それ以前に、今、僕達が生き残れるかどうかの方が問題だった。
「自然が相手じゃ、敵わないよな…。」
自然の前には、人の思惑も努力も成す術も無く打ち砕かれていく。
だから僕達は生き残れる事を祈るしかない。
って言っても、持って来た分とさっきちょっとマンションの部屋を回って集めてきた食糧だけでも一週間分あるし、
まだ回ってない他の部屋の分まで集めるとおそらく二週間分ぐらいにはなるだろうから、
まさかそこまで雨が続いて閉じ込められる心配は無いと思うし、命の危機というには大げさな気がする。
気がするけど…。
「……。」
窓の外を降る雨は、僕に、僕の中の何かに、それが単なる楽観でしか無いと告げていた。

 

 

 

そして、その予感の通りに、雨は二週間、三週間、一ヶ月経っても降り続けた。
水嵩はどんどん増えていき、二十一階建てのこのマンションの既に十七階の部分にまで来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お腹、空いたな…。」
今日で約一ヶ月、三十日目。
食糧は、もう殆ど尽き掛けていた。
雨は、まだ降り続いている。
死が、その影をチラつかせ始めた。

 

「アタシ達、どうなっちゃうのかな…?」
「……。」
シンジは、黙ったままで何も答えなかった。

 

もう何回、この言葉をシンジに問いかけただろう?
初めの内は、答えてくれていたシンジも、今は何も答えてくれない。
そりゃ、そうよね。
こんな事言われ続けたら、不安を煽られて嫌な気分になるもの。
でも、それがわかっていてもアタシはシンジに問いかけ続けた。
言わなきゃ、不安に押し潰されそうだった。
シンジに、不安を紛らわせて欲しかった。
そうやって、アタシはシンジに自分の不安を押し付けて楽になろうとしている。
嫌になるわよ、こんな自分…。
その癖、何も答えてくれてないシンジに苛立ってる。
なんて、身勝手。
そりゃ、シンジにも愛想つかされるか…。
 

「……。」
「……。」

雨は、降り続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時々、地響きを伴って遠雷のような音がする。
多分、何処かの山が崩れる音。
ホントに、アタシ達どうなっちゃうのかな…。
 

 

「……。」

 

このまま、死んじゃうのかな…。
シンジと仲直りできないまま、
シンジと昔みたいにおしゃべりできないまま。
シンジに笑いかけてもらえないまま…。

 

「…っ…くぅ…」

 

いや。
そんなのいや。
今までずっと我慢してきたのに。
せっかくまた、シンジが話してくれるようになったのに。
すぐ近くに、シンジがいるのに。
そんなのいやよ…。

 

「…ぐすっ……っ……」
流れそうになる涙を、拭った。

 

そうよ。
もうすぐ、きっとアタシ達は死んでしまう。
なら、最後に。
最後に、せめて身体だけでも、シンジと…。
 

立ち上がった。
ふらつきながら、アタシはシンジの方に向かう。
 

 

「シンジ…。」

 

座って外を見ているシンジに、倒れこむように抱きついた。

 

「アスカ…」

 

シンジが驚いて、アタシを見た。
優しい瞳。
大好きな、シンジの瞳。

 

「シンジ…。」

 

アタシは、シンジに口付けた。

 

「んっ…んっ…」
シンジの口の中を、舐め回していく。
ああ、シンジの味だ…。
ずっと眠っていたアタシの中の「女」が、甦る。
アタシの手が、シンジの身体をまさぐる。
 

「んっ……」
唇を離した。
シンジを見つめる。
シンジの瞳は、蕩けたように、潤んでいる。

 

「アスカ…」
「ねぇ、シンジ…抱いて…」

 

そう言って、アタシは身体の奥から立ち上る熱をぶつけるように、シンジの唇にしゃぶりつく。
「んっ…んんっ…んむっ…はあっ…むっ…」
シンジの唇を吸い、口の中を舐め回し、シンジの舌にアタシの舌を絡め、溢れてくる唾液を送り、飲み込む。
シンジの舌は、戸惑ったようにたどたどしくしかアタシの舌に応えない。
アタシに触れるシンジの手も、迷ってるみたいにぎこちない。
もどかしくて、もう一度唇を離した。
「ぷはっ…」
「っ………。」
潤んだシンジの瞳には、さっきよりもはっきりとした、迷いの色。

 

「ねぇ、シンジ。…してよ。お願いだから…」
「でも…。」
「ずっと、我慢してたのよ…?
 ずっと、シンジの為に、我慢してたんだから…。
 だから最後くらい、死ぬ前にもう一度、アタシを抱いてよ…。」
「アスカ…」
「んっ……」
シンジの唇に、再び口付けた。
また、シンジの舌にアタシの舌を絡め、シンジの身体をまさぐる。
だけど、
「っ!!……やめてよ!!!アスカ!!!!」
シンジの手が、アタシを突き飛ばした。
「……。」
それが信じられなくて、アタシは呆然とシンジを見た。
「…っこんな、こんな事したら徒に体力を減らして助かるものも助からなくなるよっ!!!!!」
「……。」
「僕達まだ助かるかもしれないだろ!!!!!!
 死ぬってまだ決まった訳じゃないだろ!!!!!
 まだ、僕達生きてるだろ!!!!!
 だから、だからこれで最後だなんて言わないでよアスカ!!!!!!!」
シンジが、腹の底から搾り出すようにアタシに向かって叫んだ。
言葉が胸に突き刺さり、
視界が滲んだ。
「……っ!!!」
泣きそうになって、アタシは、シンジから逃げ出した。

 

ショックだった。
シンジがアタシを拒絶した事が。
でも、それ以上に、
全てを諦めて、この期に及んでシンジに縋りつこうとした自分が嫌だった。

 

部屋を出て、階段にしゃがみこんでアタシは泣いた。
泣き過ぎて、もう涙が出なくなっても泣き続けた。
 

泣き疲れて、気持ちが落ち着いてから、部屋に戻った。
シンジに「ごめん」と一言だけ言った。
シンジはアタシの方を見ると、何も言わずに肯いて、また窓の外を見た。
アタシは、シンジから離れて所に座った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アスカを、拒絶した。

 

僕に迫ってきたアスカは、今まで見たどんなアスカよりも妖しく艶かしかった。
甘い香りに、見つめる瞳に、荒い吐息に、囁く言葉に、まさぐる手に、触れ合う肌に、吸い付く唇に、舐る舌に、流し込まれた唾液に、
その全てに、融かされるような、一つに融けてしまいたくなるような誘惑があって。
実際、その全てが気持ちよかった。
だからこそ戸惑った。
このまま、アスカを抱いちゃいけない気がした。
きっと、怖かったのかもしれない。
本当に融けてしまう気がしたから。
自分が無くなって、自分がわからなくなって、いつの間にかまたアスカを傷つけてしまうようになる気がしたから。
抱き合い続けた、昔みたいに。
だから、アスカが最後といった時、死ぬ前にと口にした時、僕はアスカを拒絶した。
体力が減るからって言うのは事実ではあるけれど、実際は、単なる言い訳でしかなかった。

 

でも、もしかしたらあの時、アスカを受け入れて抱いていた方がよかったのかもしれない。
抱き合わなくても、アスカを泣かせて、アスカの体力を減らしてしまったわけだし。
それに、今…。
 

 

アスカは、あれ以来何も食べなくなった。
決して水以外、口にしなくなってしまった。
僕が薦めても、アスカは何も口にしようとしなかった。
僕の、せいか…。

 

「食べなよ…。アスカ…。」
「……。」

 

何度このやり取りを繰り返してきたんだろう。
アスカは、僕を無視し続けている。

 

空腹は、とうの昔に限界を超えていた。
それを堪えてアスカに薦めているのに、喋る事さえしないで僕を拒絶し続けるアスカに苛々した。

 

 

「食べなよ。」
「……。」
無視。
アスカは多分本当に死ぬまで何も食べないつもりだ。
このままじゃ、平行線。
何も変わらない。
でも、力ずくで無理矢理口に入れたところで、多分吐き出される。
それにそんな事をすれば、また無駄な体力を消費してしまう。
どうするべきか…。
「……。」
すぐに、思いつく。
僕は、立ち上がって、まだ僅かに残る食糧を少しだけ口に入れた。
飲み込まないように咀嚼して、唾液によく馴染ませる。
それから、アスカに近づいた。
「アスカ…。」
口に食糧の混じった唾液を含んでいる事を気づかれないよう装い、アスカを呼んだ。
「……。」
アスカはこちらを振り向かない。
「アスカ!」
顔を、無理矢理こちらに向けさせ、
口づけた。
「んっ……んんっ…んんんっ…」
唇を舌でこじ開け、隙間から唾液を流し込んだ。
気づいたアスカが顔を逸らそうとするけど、手でしっかり押さえてそれを防いだ。
「んんっ……んっ!!」
アスカの手が、僕を突き飛ばそうとした。
けれども、元々の体格差の上、
僕よりも餓えているはずのアスカには僕を突き飛ばすほどの力はなく、
そのまま、
「んんっ…んっ…」
僕はアスカに口の中に、含んだ唾液を全て流し込んだ。
しばらくアスカが吐き出さないように口付けを続けた後、
僕は唇を離した。
「……っ。」
アスカは、悔しそうに唇を噛んで僕を睨み付けた。
そして、
「っ…!」
僕に平手打ちをし、
「…勝手な…勝手なことしないでよ!!!バカシンジ!!!!」
僕を罵倒した。
「……くっ!」
目の前が、真っ赤になった。
僕は、手を振り上げる。
アスカが、目を瞑り身構える。
「っ……。……くっ…。」
振り上げた手はアスカに振り下ろさずに、
僕はそのまま下に降ろした。
だけど、苛立ちは収まらない。
「……勝手だって…?
 勝手なのはどっちだよ?!!!
 僕がアスカを抱かなかったからって僕に当てつけるみたいに何も食べなくなってさ!!!!!
 体力が無くなるから駄目なんだって言っただろ?!!!!
 別にアスカのことを嫌いなんて一言も言ってないだろ?!!!!」
「……っ。」
「それなのに勝手に怒って、
 僕が罪悪感を感じるよう何も食べないで死のうとするなんて陰湿な方法で僕を悩ませてそれで楽しいのかよっ!!!!!! 
「…っ……うっ…。」
「そんなに僕に心配して欲しかったのかよ!!!!!
 そんなに僕に……」
血が昇った頭が、冷えた。
アスカが泣いている事に、気づいたから。
「…ううっ……くうっ…」
涙は、餓えているせいからか、出ていないけど、
アスカは、顔をくしゃくしゃに歪ませて、泣いていた。
「…くそっ!!!!」
やり場のない怒りを、近くにあったクッションに蹴ってぶつけて、
僕は、部屋から出た。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日も雨。
まだ、降り続く。
既に、水嵩はこの階の下の下、十九階まで侵水するほど高くなっている。
沈める街。
「まるで、ノアの方舟の話の大洪水だな…。」
あり得ないほど長く続く雨と、すぐそこまで迫っている洪水を見ると、その話を連想せずにはいられない。
方舟なんて、何処にも無いけれど。
「僕達は生き残ったノアとその家族の方じゃなくて、洗い流されて浄化される方か…。」
なるほど、確かにあの話では神様が地上で好き勝手する人間達を見かねて洪水を起こした。
きっと、今もそうなんだろう。
醜い争いを繰り返した僕達を見かねて、神様が天罰を下したんだろう。
そして僕達を、地上ごと神話の様に洗い流すつもりなんだろう。
「非科学的、だよな…」
こんな事を考えてしまうぐらいに、相当、僕は参ってるんだろうな…。
実際問題、この洪水は何なんだろう?
こんなに雨が長く降り続く原因なんて、見当もつかない。
サードインパクトで吹き飛んでエアロゾル化した大量の土砂が、今頃になって異常気象を引き起こしたとか?
そんなわけ無いか…。
「それに、どうでもいいか…。そんな事…。」
原因がわかったからって、助かるわけじゃないんだし。

 

地震。
雨だけじゃなくて、
震度にすると4か5程だと思われる地震が、ここ最近続いている。
そしてその後、決まって爆発音に似た大きな水の音が、何度も響く。
建物が、水の中に倒れる音。
洪水と地震で、地盤が緩んだせいなんだろう。
ここから見えていた、ここより高い建物は、もう殆ど倒れてしまった。
僕が入りかけたマンションも、きっと倒れているのだろう。
今思えば、あの時、あの声が僕を引きとめたのは、この為だったんだろう。
最初に聞いたカヲル君の声も、まるで病気になる前にカヲル君を見た時みたいで、
あの時みたいに、僕達は助かる。
「あの声」に導かれたから、僕達は助かる。
頭では否定しながらも、カヲル君の声や「あの声」をまるで神様からの啓示とでも思っている自分がいて、
その声に導かれたのだから助かるなんて甘い考えは、僕の中に確かにあった。
けれど今、死がすぐ其処まで迫ってきて、そんな甘い考えも流石に崩れかけてきている。
 

 

アスカは、あれ以来やっぱり何も食べなかった。
僕も、あれ以来何も食べていない。
食糧はまだ僅かに残っているけど、食べる気になれなかった。
 

 

今思えば、「あの声」を聞いていないアスカが、僕より先に希望を失ってヤケになるのなんて、当たり前の事だった…。
それなのに僕は、アスカを慰めてやるどころか拒絶して、挙句の果てにまた自分の苛立ちの捌け口にしてしまった。
アスカは今、どんな気持ちなんだろう…。
「何やってるんだろうな、本当に…。」
いつも、
いつも、僕はアスカを傷つけてばっかりだ。
アスカの為になる事をしようとしても、いつも間違ってばっかりだ…。
アスカの気持ちなんて、何もわかってない癖に…。
本当に、本当に、最低だ、俺って…。
だけど、
だから、
せめて…。

 

 

 

 

 

 

 

残った食料は、ビスケットのお菓子が一箱。
それを持って、膝を抱えて蹲るアスカの前に持って来た。
最後の食糧を、アスカに食べさせる為に。
きっと僕達はどっち道、死んでしまうんだろう。
だからこんなの、単なる自己満足でしかないんだ。
でも、例え自己満足にしか過ぎなくっても、これをしないと僕は死んでも死に切れない。
悔いを残して、死んでしまう事になる。
「ホントに、単なる自己満足じゃないか…。」
でも、それでもいい。
僕の今までの行動の中で、自己満足でない行動なんて一つも無い。
全部自分が何らかの「正しさ」に沿って行動した結果でしか過ぎないんだ。
例え人の為を思ってした行動だってそうだ。
僕が勝手にその人の為になると思い込んで、その人が喜んでくれたら僕も嬉しいからやってるだけ。
その人の為にそうすることが正しいと思ったからやってるだけなんだ。
それがたまに、運よく人に届く時があるから、人を喜ばせていただけだ。
だから、間違っているかもしれなくても、僕はやる。
いや、間違ってるなんて、やっぱり思えないから、僕はやるんだ。
「アスカ…。」
しばらくアスカの前で迷った後、僕はアスカを呼んだ。
「……。」
アスカは、何の反応もしない。
僕は、アスカの肩を掴んで揺り動かした。
「アスカ…」
「……。」
アスカが、顔も上げずに僕の手を払いのける。
めげずにまた僕はアスカの肩を掴んで揺らす。
「アスカ、ごめん、僕が悪かったから、この前の事は謝るから。だから僕を見てよ!アスカ!!」
「……。」
やっぱり、アスカは蹲ったままだった。
「アスカの望む事だったら何でもするから!!!!抱いて欲しかったら抱いてあげるから!!!!
 だからせめて僕を見てよ!!!!アスカ!!!!!!」
「…シンジ。」
アスカは、ゆっくりと顔を上げ、瞼を開き僕を見た。
それからゆっくりと口を開いた。
「…何も、してくれなくていい。もう、抱いてくれなくても…」
掠れた声でアスカはそう言った。
酷く、悲しい気分になった。
「アスカ…そんな事、いわないでよ…。」
「……。」
「僕は、アスカに酷い事ばっかりしたんだ…。
 傷つけてばかりだったんだ…。
 償わせてよ…。
 せめて、最後ぐらい、アスカの為に…。でないと、僕は…」
「じゃあ、それ…」
アスカが、僕の持っているビスケットの箱を指差した。
「これ?いいよ!元々アスカに食べてもらう為に持ってきたんだ!だから…」
「それ…、シンジが、食べてよ…」
「え……?」
「……。」
「何、言ってんだよ…。」
「……。」
「何言ってんだよ!さっき言っただろ!!!これはアスカの為にって…」
「いい…、いらない…、シンジが、食べてよ…アタシの分まで…」
「この期に及んで何言ってんだよ!アスカ!自分が死ぬかもしれないんだよ!
 何で僕なんかの…」
「それは、シンジもおなじでしょ…?大丈夫…女の方が、皮下脂肪があって…こういうのに…強いんだから…」
「何、言って…っ…」
視界が、滲む。
「だから、ね…?
 食べてよ…シンジ…、アタシの…最後の…お願いだから…」
「…っ………っ!」
滲みかけた涙を、僕は拭った。
泣き出して、崩れそうになる心に、抗う。
「……っばっかじゃ、ないの…?」
苛立ちを、心の奥から必死に引っ張り出す。
必死で、口の端に汚い笑いを浮かべて、
必死に、心を黒く汚していく。
「……。」
「…ばっかじゃないの?アスカ?
 何、悲劇のヒロインぶってるんだよ?
 似合ってないよ、そんな事。」
「……。」
「僕がそんな事言われて喜ぶとでも思ってんの?
 ばっかじゃないの?
 そんな事思うわけ無いだろ?
 むしろ、ああ、これでアスカに義理立てせずに済んで助かった、って思ってるよ。」
「……。」
「わかってないね。アスカ。
 僕がどういう人間なのか。
 僕が今、僕の為に犠牲になろうとしてくれているアスカをバカにしているみたいに、
 僕は人の優しさを簡単に反故にして、その上平気で踏みにじれるような人間なのさ。
 アスカと別れた時だって、アスカが泣いて縋っても僕は別れる事を曲げなかったし、
 その上、傷心のアスカに追い討ちをかける様にあんな酷い事を言っただろ?
 僕はそういう人間なんだよ。
 そんな人間の為にわざわざ犠牲になるような真似して、バカなんじゃないのか?
 偽善的で反吐が出るよ。」
「……。」
「いい機会だから全部言ってあげるよ。
 ずっとアスカにはイライラしていたんだ。
 最初、銃を撃つのだってホントは嫌だったんだよ。
 人殺しの為の道具を使うような真似なんてね。
 それをアスカが僕の為にって言うから仕方なく付き合ってあげたんだよ。
 でも、進んで人殺しの為の練習をするアスカに内心、反吐が出そうだったよ。
 勝手だろ?
 僕の為にアスカは無理してあんな事をしてくれてたのにさあ。
 だから、アスカが銃を撃てなくなったときは嬉しかったね。
 これでようやく、人殺しの為の練習から解放されるってね。」
「……。」
「でも、今度は夢を見たんだよ。
 アスカが僕の目の前で強姦されてる夢さ。
 その夢を見て、僕は自分から人殺しの為の練習を始めたのさ。
 あれほどそれでアスカの事を嫌悪したのに、今度は自分から進んで始めるようになったんだよ。
 それも、アスカと違って明確に人を殺す事を目的にしてね。」
「……。」
「そうやって人殺しの訓練をしている内に、気づいたんだ。
 僕達の敵になるのは、何もそんなわかりやすい悪人だけじゃないってね。
 例えば、戻ってきた時に赤ちゃんと離れ離れになって、赤ちゃんを亡くしたお母さんとかね。
 そんなサードインパクトのせいで不幸になった罪も無い人たちも僕の敵になると思ったから、
 僕はそんな人たちを頭に思い描いて、その人たちを殺すつもりで銃を撃ち続けた。」
「……。」
「僕のせいで不幸になった人たちを、僕は頭の中で殺し続けたんだ。
 それも、アスカを守る為とか言い訳しながらね。
 ホントは、僕が幸せでいたいだけの癖に、
 そうやってアスカを理由にする事で人殺しを正当化しようとしたんだよ。
 アスカに罪をなすりつけていたんだよ、僕は。
 人の社会に秩序が戻ってきて、アスカが平穏に暮らせる社会になったら、
 全部の罪を背負ってアスカの元から去ろうなんて、
 どこぞの悲劇のヒーロー気取りのくだらない妄想を描きながらね。」
「……。」
「だからアスカに子供が出来たかも知れないってなった時は焦ったよ。
 その妄想が、実現しにくくなっちゃうからね。
 アスカから去ることで人殺しを正当化できてたのに、それが出来なくなっちゃうからね。
 それに、サードインパクトを起こした僕の子供なんて、生まれてきても不幸にしかならないだろ?
 母さんを殺したって世間から思われていた、父さんの息子の僕が、そうだったんだから。
 だから、アスカから子供が出来て無かったって言われた時、
 アスカの事を気遣って残念がってる振りして、僕は本心では心底安心してたんだよ。
 最低だろ?」
「……。」
「それで安心して人殺しの練習をしていたら、
 今度はアスカが僕の妄想通りに僕と別れて他の誰かと幸せになってる夢を見たんだ。
 嫉妬した。
 アスカを取られたくないと思ったよ。
 アスカは僕と別れる時、見捨てないでって、僕らが誓い合った言葉は嘘だって言ったけど、
 僕だって嘘だったんだよ。
 アスカに見捨てられるのが怖くなったのさ。
 怖くなっただけならまだしも、あれほどアスカの為とかいいながら人殺しの練習をしてたのに、
 アスカがいつか他の誰かに取られると思ったら、撃てないどころか、走る事さえ出来なくなった。
 結局、僕は本当にアスカを言い訳にしてただけだったんだよ。
 自分の幸せを奪われるのが怖くて、人を殺す理由なんてただそれだけでしかなかったのに、
 アスカを口実に正当化してただけだったんだ。
 それが出来なくなったから、もう撃てなくなったんだ。
 それが出来なくなったぐらいで、もう撃てない程度の覚悟だったんだよ。」
「……。」
「その上、撃てなくなった苛立ちを、僕はアスカに乱暴してぶつけて解消したんだ。
 覚えてるだろ?アスカ?
 一度、僕はアスカに本当に酷い事をしたよね?」
「……。」
アスカは、何も答えない。
「でも終わった後の後悔が酷くて、僕はもうやめようって思ったんだ。
 でもそうしたら、今度はアスカとセックスしても気持ちよくなくなって、
 その癖、銃は撃てないまんまで、どうすることもできなくて。
 それで、僕は大して気持ちよくなくてもセックスし続けて嫌な事を誤魔化そうとしたんだよ。
 アスカを、まるでダッチワイフみたいに扱ってね。」
「……。」
「気持ちよくないんだから、当然アスカとのセックスには飽きてたよ。
 でもそれしか出来なかったから、イライラしながらもやってたんだよ。
 イライラしているのは、アスカが何も訊いてくれないからだとか、
 アスカに責任転嫁して、何も出来ない不甲斐ない自分を誤魔化しながらね。
 でも、それも限界がきた。」
「……。」
「僕は、またアスカにイライラをぶつけて、あの時みたいな酷い事をしそうになった。
 何とか踏みとどまったけど、もう限界だと思った。
 あの時みたいに後で後悔するのは嫌だったし、
 どうせ、アスカと一緒にいてもイライラするだけだったし、
 いい機会だからアスカを捨てようと思ったんだ。
 だから、アスカと別れたんだよ。
 あんな酷い事を、アスカに言ってね。」
「……。」
「さっきはアスカが抱いてくれなくってもいいって言ってくれて助かったよ。
 あの時言ったよね?
 アスカの身体に飽きたって。
 飽きた身体を今更抱いたって単に苦痛でしかないよ。」
「……。」
「ほら?
 ねえ、アスカ。
 僕はこういう人間なんだよ。
 アスカが犠牲になってでも助けようとした人間は、
 その助けてくれようとしたアスカを、裏切り続けていたような屑なんだよ。
 だから…。」
もう、限界だった。
これ以上は、心が、もう…。
「……。」
「だから、こんな僕なんかの為に犠牲になろうとしないでよ!!!!!
 それを食べてよ!!!!
 アスカ!!!!!!!」
「……。」
「悔しくないのかよ?!!!!!!
 アスカは悔しくないのかよ?!!!!!!
 こんな事言われて!!!!!!!!
 こんな屑にいいようにされて!!!!!!!!
 裏切られて!!!!!!!!!
 コケにされて!!!!!!!!
 踏み台にされて!!!!!!!!
 それでアスカは悔しくないのかよ!!!!!!!!!!!」
「……。」
「何とかいえよ!!!!!!!!!アスカッ!!!!!!!!!!」
僕は、蹲るアスカの胸倉を掴んだ。
「……。」
アスカは、僕を見ない。
「……女が、女が終わる所に劣悪な男が始まる…。僕を、これ以上そんな男にさせないでくれ…、
 あの時の誓いを、裏切らせないでくれ、アスカ…。」
「……。」
アスカは、僕を見ない。
「……………っ!!!!!!!!!」
雨音の中に、乾いた音が響いた。
僕は、初めてアスカの頬を叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

「……。」
「……。」
アスカは、膝を抱えて蹲っている。
僕も、膝を抱えて蹲っている。

 

僕の目の前には、一箱のビスケット。
最後の食糧。

 

「……。」
餓えは、もう極致に達している。
僕は、焦点のあっていないぼやけた視界を手探るように、ビスケットの箱を掴んだ。
「……くぅ。」
箱を開けて、中のビスケットを取り出そうとするのを何とか踏みとどまる。
震える手で、箱を静かに床に置いた。
 

 

 

 

 

 

「……。」
床にあるビスケットを呆然と見つめ続けている。

 

このまま、アスカを気にして、最後までこれを食べないで死ぬなんてバカらしい。
どうせアスカは食べないんだし、いっそもう全部食べてしまおうか…。
 

「……。」
頭に浮かんだ邪な考えを、頭を振って必死に消そうとした。
でも、消えてくれない。
身体が、手が、勝手に箱に伸びていく。
そして、掴んでしまった。
箱を開ける。
「……。」
箱の中に手を突っ込んで、ビスケットを一枚掴んだ所で、踏みとどまる。
これ以上は、耐えられない。

 

 

「っ………っアスカァ!!!!!」
僕は、最後の抵抗として、アスカに叫んだ。
「……。」
アスカは、蹲ったまま僕を見ない。
「僕はもう食べるよ!!!
 アスカ、やっぱり食べるって言うんなら今の内だよ!!!」
「……。」
アスカは、僕を見ない。
「しらないからね?!!!!
 後で食べたいって後悔してももう遅いんだよ?!!!
 ねえ、アスカッ!!!!」
「……。」
「……そうかよ!!!
 そうやってずっと意地を張り続ける気かよ!!!
 だったらもう、本当に知らないからな!!!」
「……。」
「僕はもう食べるよ!!!
 ホントだよ?!!
 ホントに食べるからな!!!
 これで最後だからな!!!!
 アスカッ!!!!!」
「……。」
「……………っ!」
僕は、掴んだままだったビスケットを、箱から取り出した。
「見せ付ける、だけだ…。」
そう、言い訳の様に呟いて、食べた。

 

頬張る口の中に、甘い、今まで感じた事も無いほどの甘い味が広がっていく。
餓えた身体には、あまりにも魅力的過ぎる、甘さ。
「あ……。」
一個目を咀嚼しないうちに、二個目に手が伸びる。
アスカが食べたくなるように、食べている所を見せ付けるだけ。
そう思って、一個目と同じように、二個目を掴んだところで手が止まった。
「…くぅ……。」
必死で堪えながら、アスカを見る。
「ねぇ、アスカ?
 もう、一個食べちゃったよ?!
 めちゃくちゃ甘くておいしかったよ?!!
 全部一人占めしたいぐらいおいしかったよ?!!
 だから、食べるんなら今の内だからね?!!
 早くしないと全部一人で食べちゃうからね?!!!」
「……。」
アスカは、蹲ったまま僕を見ない。
「……っ…。」
限界だ。
もう。
「もう…一個だけ…。」
二個目を口にする。
三個目に手を伸ばす。
三個目を口にする。
四個目に手を伸ばす。
四個目を口にする。
五個目に手を伸ばす。
だめだ、止まらない。

 

「ああ!!!!!おいしいなあああああ!!!
 ねぇアスカぁぁぁ!!!!!!!おいしいよぉ!!!!!」

止まれ。

「アスカも食べなよおおお!!!!!!
 早くしないと無くなっちゃうよおお?!!!!!」

止まれ止まれ止まれ。

「おいしいいいいい!!!!!!
 ねぇ?!!!!後悔してももうしらないよ?!!!!
 アスカあああああ!!!!!!!!」

 

止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ

 

止まれえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ

 

 

 

 

 

 

 

「……。」
床を、呆然と見詰め続けた。

 

結局、僕は全部一人で食べてしまった。
アスカに、一口も食べさせないで、僕一人だけで全部。

 

「シンジ…。」
いつの間にか、僕の傍にアスカが立っていた。
緩慢とした動作で、僕はアスカを見上げた。
「全部、食べちゃったよ…。」
「……。」
「全部、一人で食べちゃったよ!アスカが食べようとしないからさあ!!!」
「……。」
「アスカが悪いんだよ?!!!僕はアスカにあげようとしたのに!!!!
 何度もアスカにあげようとしたのに!!!!」
「……。」
「今更、今更来たってもう遅いんだよ!!!!!
 今更、もう…」
「ごめんね…。」
アスカが、そっと僕の頬を撫でた。
「……。」
「ごめんね…。シンジ…。」
「どうしてっ…」
どうして、許してくれるんだよ…。
どうして、こんな僕を許してくれるんだよ…。
傷つけてばかりなのに。
傷つけられた癖に。
どうして。
どうして…。 
「…ぐっ、…ううっ、うっ…うっ…」
「……。」
「ごめんっ…アスカ…ごめん…手が、止まらなくって…ごめんっ…」
「シンジが、謝る事ないわよ…。
 アタシが、勝手に意地を張ってただけだもの…。
 何度もシンジがアタシに食べさせようとしてくれたのに…、
 アタシが勝手に、食べなかっただけだもの…」
「そんな事っ…」
「それにアタシは、嬉しかったもの。
 シンジが食べてくれて、嬉しかったもの。
 あの時の、シンジへの誓いを守れて、嬉しかったもの…」
「アスカっ…ごめっ…んっ…くっ…ううううう…ううっ…うううううっ…」
「……。」
「うううっ…うわあああああああああああああああああああああああああああああああ」
泣いた。
「……。」
アスカが、僕を強く抱きしめた。
「ああああああああああああああああっ、…っうああああああああああああああああああ」
僕は、アスカの胸の中で、赤ん坊の様に僕は泣きじゃくった。
 

 

雨の音は、いつの間にか聞こえ無くなっていた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んっ……」
アスカの胸の中で、目を覚ました。
抱きしめられながら、眠っていたみたいだ。
「すぅ…すぅ…」
アスカも、僕を抱きしめたまま眠ったみたいだ。
アスカを起こさないよう身体を離して、僕は起き上がった。
「……。」
身体が軽いのは、何故なんだろう?
そっか、食べたからだ。
僕が、最後の食糧を、一人で食べたからだ。
僕が…。
「……。」
強い風が吹いた。
風の吹いた方向を見ると、窓辺から蒼い空が見えた。
「雨…。」
いつの間にか、雨があがったんだ。
また、風が吹いた。
胸のドアを叩くみたいなその風に促され、僕は窓辺に向かう。
「水…。」
窓辺から見えた景色は、どこまでも蒼い、吸い込まれそうな蒼い空と、
最後に見たときよりも確実に二回りは小さくなった山々。
そして、そこから頭を出している建物が何一つとして無い、広大な泥の海。
「……。」
下を見ると、水嵩は既にすぐ階下の二十階に浸水する程の高さになっていた。
「あ……。」
濁った水に、何かの缶が浮かんでいた。
見たところ、乾パンの缶っぽい。
「……。」
取りに行きたいと思ったけれど、僕は泳げない。
もしこの泥の海に飛び込んで、何も無い遠くの方へ流されたらと思うと、血の気が引いた。
それに、あれが本当に乾パンで、乾パンだとしてまだ中が無事で食べられるかどうかなんてわからない。
だけど、
「……っ。」
だけど、どうしても欲しかった。
あれが食べられるかどうかわからなくても、
僕が泳げなくても、取りに行きたかった。
だって、もう雨が降らなくったって、この水が引いて僕達が動けるようになるまで、きっとアスカは生きていけない。
ずっと何も食べなかったアスカは、もう、限界だ。
「意味、無いんだよ…。」
アスカが死んだら、意味無いんだよ。
僕なんかが生き残って、アスカが死ぬなんて、そんなの許せないんだよ。
だから。
「だから…っ!」
僕は、窓辺から離れた。
部屋の中央まで戻り、窓の方へ振り返った。
そして、
「っ…!!」
窓辺に向かって、走った。

 

例え無駄でも、
流されても、
溺れても構わない。
あれを取らなきゃ、
アスカへの誓いを守らなければ、僕は…。
僕は、自分を認められない。

 


蒼い空に向かって飛び立つ様に、僕は跳んだ。
まるで背中に羽でも生えて、本当に飛んでるかのような浮遊感。
数瞬の滞空の後、大きな音と水柱を立てて、僕は濁った水の中に落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んっ…」
気づくと、抱きしめていたはずのシンジがいなかった。
「シンジ…?」
部屋を見渡しても、シンジはいない。
昨日、シンジは泣いていた。
アタシが、最後の食糧を食べなかった事を悔やんでた。
もし、思い詰めてヤケにでもなったら…。
「シンジ…。」
不安に駆られて、立ち上がった。
「雨…。」
雨音がしてない事に気づく。
窓から外を見ると、またすぐに雨が降りそうな曇り空だった。
窓辺に向かい。
外を眺めた。
あるのは、二回りは小さくなった山々と、何も無い泥の海。
水嵩は、十九階に浸水するほどの高さになっている。
もし、ここにシンジが飛び込んだとしたら…。
「ぁ……。」
怖くて、不安で、膝の力が抜けていく。
立ってられなくて、しゃがみこみそうになった時、
部屋の入り口の方で物音がした。
振り返ると、
「……あ。」
ビショビショに濡れて、何かの缶を持ったシンジがいた。
「ぁ……。」
「起きたんだ。おはよう、アスカ。」
そう言ってシンジは、部屋の真ん中まで来ると、
持っていた缶を部屋のテーブルの上に置いた。
乾パンの缶だった。
「シンジ…?これ…」
「中はちゃんと食べられるから食べなよ、アスカ。」
そう言って、シンジは外に出て行った。
きっと、濡れた服を替えに行ったのね…。
「……。」
アタシは、シンジが持って来た缶を見た。
缶の蓋は開いていて、中に詰まった乾パンが見えた。
シンジのやつ、多分、本当に飛び込んだんだ。
これを取りに。
カナヅチの癖に…。
「ばか…、ばかシンジ…、アタシなんかの為に、無理なんかしてんじゃないわよ…。」
嬉しさと、悲しさが入り混じった、複雑な気持ち。
アタシは、シンジが持ってきてくれた乾パンに手を伸ばした。
一個、取って食べた。
「っ……っ…。」
一週間ぶりに口にした食べ物は、とても、とても甘くて、涙が出るほど、おいしかった。
「…ぐすっ…っ、………シンジっ…うっ…」
シンジに心の底から感謝しながら、アタシは、二個目の乾パンを手に取った。

 

 

 

 

空は、重い雲に覆われている。
雨は、まだ降っていない。

 

シンジが持ってきてくれた乾パンは、半分ほど食べて残した。
残りはシンジに食べて欲しいってのもあるけれど、
それよりもまず、一ヶ月以上禄に、特にこの一週間は何も食べてこなかった胃が、半分以上は受け付けなかった。
 

 

「ねぇシンジ…。」
「うん…。」
「これ、持ってきてくれて、ありがと。
 おいしった。…すごく、嬉しかった。」
「そっか…。」
シンジが、アタシに優しく微笑んでくれた。
「……。」
ああ、ずっと、愛しかった笑顔だ…。
「ぁ……。」
その笑顔を見てると泣きそうになって、アタシは、言いたかった事が言えなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

稲光。
遅れて、雷が何処かに落ちた音。
でも雨は、まだ降らない。
空だけが、不吉な色を示している。
 

 

遠雷のような音。
微かな揺れ。
山が崩れる音。

 

地震。
大きな揺れ。
ただ、もう倒れる音はしない。
 

雨が降らない間に、水嵩は随分減っていった。
今は、十三階の高さだ。
その高さまで水が引くと、流石に、他の建物が姿を現し始めていた。

 

「雨、もう降らないのかな…。」
「わからない。でも、そうだと、いいな…。」

 

もしかしたら、なんて希望が、アタシ達を包んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

雨。
また、降り始めた。
滝のような雨。
水嵩は、既に十七階の高さに戻っている。
雨の隙間、幾つもの雷が泥の海に落ちるのが見えた。

 

 

雨が降らない間は、アタシもシンジも乾パンをチビチビと食べてたけど、
雨が降り始めてからは、アタシ達は二人とも一切食べなくなった。
希望がまた、見えなくなり始めたから。

 

 

「ねぇシンジ…食べなさいよ…」
アタシが、シンジに薦める。
「……。」
シンジは、アタシに背を向けて横になったまま何も答えない。

 

いつかと、逆の構図。
 

「ねぇ、シンジ…。」
「いい…。アスカ食べなよ…。」
「嫌よ。シンジが食べてくれなきゃ…、死んでも嫌…。」
「じゃあ、僕もアスカと一緒に死ぬ。」
「……。」
だめね。
今のシンジはもう、本当に、死ぬまで食べないつもりだ。
アタシに合わせて、
アタシの道連れになって、アタシと一緒に、死んでしまう気だ。
「……。」
でも、そんなの駄目。
アタシはやっぱり、シンジに、これを食べて欲しいもの。
シンジには、生きていて欲しいもの。
でも、どうやって食べさせてあげればいいのかわからない。
仮に食べさせる事が出来たって、シンジはまた後悔して水に飛び込むような真似をするわよね。
じゃあ、どうしたらいい…?
アタシは、どうしたら…?

 

 

滝の様に降る雨は、更に激しさを増して行く。

 

答えはでない。
でも、このままじゃ、シンジも、アタシと一緒に…。

だったらお願いよアスカちゃん。
一緒に、死んでちょうだい。

脳裏によぎるのは、狂ってしまったママの言葉。

 

「っ……。」

 

嫌。
嫌よ。
アタシは、シンジと一緒に死んだりなんかしない。
狂ってしまったママみたいに、シンジに一緒に死んで欲しいなんてアタシは、絶対に言わない…。
アタシは、ママの為に死ねなかった。
だからせめて、アタシはシンジの為に…。
でも、
そう思ってるのは、シンジも一緒よね…。
アタシの為に死にたいって、シンジは思ってくれてる。
シンジの為にって思うなら、シンジの気持ちを汲むなら、アタシはあれを食べてあげなきゃいけないわよね…。
それでも、
アタシはやっぱり、シンジに生きていて欲しい。
シンジにあれを、食べて欲しい。
それだけは、譲れない。
でも、それじゃあ、アタシは、どうしたらいいの…?
シンジもアタシも、後悔しないで済む方法なんて…。

 

「……。」
不意に、答えが出た。
どうすればいいのか、アタシは思いついた。
思いついてみれば、それはすごく簡単な事。
 

 

「ねぇシンジ?いいかげん、食べてよ…。」
「……。」
シンジは何も答えない。
やっぱり、このままじゃ駄目か。
しょうがないわね。
「……。」
アタシは、乾パンの缶を持って、背を向けて横になっているシンジの前に回りこんだ。
乾パンを二個取り出し、一個を、シンジの口の前に差し出した。
「はいっ!」
「…いいって、…いいって言ってるだろ!アスカが食べろよ!僕は…」
「もちろんアタシも食べるわよ?だからっ…」
シンジの手に、乾パンを一個渡した。
「シンジが、アタシに食べさせて。」
「……。」
「アタシは、シンジに食べさせてあげるから。そうやって、欲しい時はお互いがお互いに食べさせるようにし合えば、
 食べている時に手が止まらなくなったりして、どっちか一方が食べ過ぎたりしないで済むしょ?」
「アスカ…。」
「ね?
 だから、早く食べさせてよ。
 もうお腹、ぺこぺこなんだから…。」
「…うん!」
そう言って、シンジの手がアタシの口に乾パンを運ぶ。
アタシも、シンジの口に乾パンを運ぶ。
戸惑いながらも、アタシ達はお互いに、与えられたそれを食べた。

 

お互いに、与え合えばいい。
そんな、ありふれた、簡単な答え。

 

「ねぇアスカ、もう一個。」
「うん。じゃあ、アタシももう一個。」
「うん。」
 

 

お互いに与え合ってる内に、あっという間に残っていた乾パンは無くなっていく。
気づけばいつの間にか、最後の一個になっていた。
 

 

「アスカ、食べ過ぎないでよ?」
「やーよっ、食べたかったら無理矢理とってみなさいよー。」
「けちっ。」
「ふふっ。」
そんな軽口を叩いた後、アタシとシンジは最後の一個の端をそれぞれ口に挟む。
ポッキーゲームをするにはあまりに短すぎるから、食べようとするとすぐにアタシとシンジは口付けた。
「んんんっ…んっ…」
「んんっ…んんんっ…」
咀嚼して、唾液に混ぜて、アタシはシンジに、シンジはアタシに、お互いがお互いに、お互いの口に流しこむ。
「んっ…ふ……」
「んっ…んむっ…」
シンジの鼻息が、こそばゆいけど心地いい。
乾パンは、唾液に混ざりきって全て溶けたようになっている。
シンジとアタシの唾液が、混ざり合ってお互いの口の中を行ったり来たりする。
お互いに、なるべく相手に食べさせてあげようとして送るから、なかなか唾液は減っていかない。
けれどそうやって口付けを交わし続けるにつれ、自分でも気づかない間に飲み込んでいて、
次第に少しずつ、唾液は減っていく。
そして、
「んんっ…」
「んっ…」
お互いを巡る唾液の量が少なくなって、
唾液に、乾パンの味がしなくなった時、
長い長いキスを終えて、アタシ達は唇を離した。
それから、愛しくて、もう一度、長いキスを交わした。

 

 

 

 

シンジと、裸で抱きしめあった。
あくまで餓えて冷えた体温を暖めあう為で、
体力を消耗したくないし、そんな元気も残ってないから、セックスはしない。
けど、これだけで、十分すぎるほどに満たされる。
とても暖かくて、幸せで、愛しくて、
懐かしいぬくもり。
ずっと、このぬくもりがもう一度欲しかった。
恋しくて、仕方なかった。
嬉しくて、嬉しくて。
もう、悔いなんか無いわ。
「ずっと、我慢してたんだから…。」
「ごめん…。」
「でもいいわよ。
 シンジが、またこうやってアタシを抱きしめてくれたもの。
 シンジが、アタシの事を嫌いになったわけじゃないって、
 まだアタシのこと、好きでいてくれてるってわかって、嬉しいもの。
 ずっとアタシの為に、必死で自分と闘っていてくれてたんだってわかって、嬉しかったもの。
 そんな昔のことなんて、全部忘れちゃった。」
「アスカ…。
 ありがとう。
 こんな、自分の事しか考えられないような勝手な僕を、ここまで想ってくれて…。」
「シンジはそんな人間じゃないわよ。
 ずっと、シンジはアタシの為に悩んで、自分と闘いながら、頑張ってくれてたじゃない。」
「それは、僕がアスカを傷つけたくなかったからで、…僕の為だよ。
 アスカの為、なんかじゃない…。」
「ばか、そこはアタシの為って言っときなさいよね。
 アタシが傷つくんだから。」
「ごめん…。」
「それに、アタシはずっとシンジを傍で見てたから、シンジがどんな人間かなんてちゃんとわかってるわよ。
 シンジがそんな人間だったら、アタシはとっくに愛想なんて尽かしてる。
 ううん、きっと惚れてすらいなかったわね。」
「……。」
「だから、そんなにしょげないでよね?
 アタシは許してあげてるんだからさ、昔のことなんて、忘れちゃいなさいよ。
 せっかく、こうやって抱き合ってるんだしさ。」
「…そうだね。ありがとう、アスカ。」
「うん。」
「本当に、大好きだアスカ。愛してる。」
「アタシも、シンジが大好き。愛してる。」

 

 

 

 

「ずっと、僕の為に御飯を作ってくれて、ありがとうアスカ。
 とっても美味しかった。
 ホントはさ、すごく、嬉しかった。
 ずっと、お礼を言いたかった。」
「お礼なんて、いいわよ。
 アタシも、シンジに食べてもらって嬉しかったし。
 ねぇシンジ、アタシの方こそ、アタシが泣いている時、チェロで慰めてくれてありがとね。」
「うん。」

 

 

 

 

 

「アスカ、本当にあの時はごめん。」
「ああ、あの時ね。
 気にしてないわよ。
 アタシも、シンジに何にも訊いてあげれなくて、シンジの苦しみをわかってあげようとしないで悪かったしさ。
 アタシの方こそ、シンジに何にもしてあげられなくて、ごめんね。」
「アスカは、何も悪くないよ。
 僕が勝手に嫉妬して、勝手に一人で行き詰って、勝手に一人で苛々して、それをアスカにぶつけただけなんだ。
 アスカは、何も悔いる必要なんてないよ。」
「ありがと、シンジ。
 でも、またそうやって自分が全部悪いんだって思うの、いい加減やめなさいよね?
 アタシは、気にしてないんだしさ。」
「うん…。」
「まあ、でも、シンジがアタシに黙ってアタシから去ろうとしてたとか、そっちの方はムカつくかなー?
 そんな風に隠し事されて、まるでアタシがシンジに見くびられたみたいで傷ついちゃったな。」
「ごめん…。」
「傷つけられたプライドは、三倍にして返すのがアタシの流儀だし、
 もし生きて無事に人の社会に戻れたら、シンジが見た夢みたいにホントに他の誰かの所にいっちゃおっかな〜?」
「ぇ……?」
シンジが、酷く悲しげな顔をした。
ああ、可愛い。
もっと苛めたくなるわね。
「だって〜、それってシンジはアタシのことを黙って捨てようとしてたって事でしょ〜?
 それによくよく考えてみれば実際にアタシはシンジに捨てられたし〜、
 流石にもうシンジに愛想が尽きたっていうか〜。
 シンジもそれを望んでるみたいだし〜。」
「……。」
シンジの顔がどんどん曇っていく。
ああ、面白い。
でも、可哀想だからもうやめてあげようかしらね。
「な〜んてねっ、ウソウソ。
 他の男の所になんて行ったりしないわよ!
 シンジ以外の男なんてお断りだわ!
 例えシンジがアタシの傍からいなくなっちゃってもね。
 だからそんな悲しそうな顔しないで、ね?シンジ?」
「っ…!!!」
シンジの顔が赤くなって、そっぽを向いた。
「や〜だ〜、怒っちゃった〜?かぅわいいぃ〜、
 もうっ!シンちゃんったらヤキモチ焼きなんだから〜」
「…うるさいっ!」
そう言って、シンジがアタシに…。
「きゃぁ!!何よバカシンジ!!やめ…や…あんっ」
「…はあっ…んっ…んっ…」
「ちょっ、ちょっと…いきな…んっ…や…もうっ、…飽きたんじゃ無かったの?」
「そんなの、忘れた。」
「な!?何バカな事言って…んっ…やっ……あんっ、んっ、もうっ!我慢してたのにしたくなっちゃうでしょ!!」
「なれば?」
「なっ?!!…ばかっ…そんな元気…んっ…ぁ…ああっ…」
した。
 

 

 

 

 

「また一つ、死に近づいたわね…。」
「ごめん…つい…。」
「まあ、アタシよりは出す側のアンタの方がより死に近づいたって言えるけどね…。」
「……。」
「やってしまった事は仕方ないし、今更言っても始まんないけど、
 それにしても…。
 はぁ〜、最後になるかもしれないシンジとのエッチが、こんな形になっちゃうなんて、へこむわね〜。」
「…最後だって、まだわかんないだろ?」
「…ごめん、そうよね。」

 

 

「…ねぇシンジ、赤ちゃんさ、出来てなくてよかったよね。」
「……。」
「出来ちゃってたら今頃、アタシ達より先に、力尽きちゃってたはずだもん。」
「……。」
「そうなってたらさ、可哀想だったよね。」
「……。」
「だから、これでよかったよね。」
「…アスカ。」
「うん。」
「もしさ、もし、この状況から生き残れたらさ、
 子供…、つくろう。」
「ぇ……?」
信じらんない。
シンジが、そんな事言ってくれるなんて…。
「……うん!」
嬉しくて、シンジにもっと、ぎゅっと抱きついた。
 

 

 

 

 

 

雨は、まだ降り続く。
水嵩は、とうとうアタシ達のいる二十一階にまで達した。
 

アタシとシンジは、荷物をまとめ、レインコートを何枚も羽織り、
屋上に続く階段に上った。

 

「ここまで水が迫ってきたら、もう、雨の降る屋上に行くしかないわね…。」
階段のすぐ下まで迫った水を見ながら、アタシは呟いた。
「うん。そうなったらさ、日記、濡れて滲まないか心配だよね。」
シンジが答えた。
「…あんたバカァ?こんな時に日記の心配なんてしてんじゃないわよ。」
アタシが、シンジをバカにする。
「うん。ごめんアスカ。」
シンジが、微笑みながら言う。
「まーたそうやってすぐ謝る!ほんっと、こんな時まで内罰的なんだから、バカシンジッ!」
アタシはまた、シンジをバカにする。
その後、
「ぷっ…」
「ふ…ふふふ」

「「あははははははっ!!」」

アタシとシンジは、堪えきれずに一緒に笑った。
 

「まーたくっ、こんな時まですぐ謝っちゃって、ほーんと、つくづくウルトラバカね!バカシンジ!!」
「何だよ!アスカこそ、こんな時まで僕のことバカにしてさ!こんな時ぐらい少しはおしとやかになったらどうなんだよ!!」
「なんですってーーーーー!!」
そうやって怒った振りして、シンジの頭をぽかぽか叩いた。
「いたいいたい、ごめんよっアスカッ!!」
シンジも、口に笑みをもらしながら、アタシに謝る。
「ばかばかばかばかばか、このばかっ!!」
謝るシンジに構わず、アタシはぽかぽかとシンジをしばらく叩き続けた。
「もうっ……、ねぇシンジ、アタシさ、こんな、死にそうになってるのに、
 ずっと、苦しくてたまらなかったのに。
 今、楽しいって、思ってる。
 変よね…。」
「変なんかじゃないよ。アスカが変だったら、僕も変だ。
 だって、僕も今、アスカと一緒で楽しいって、思ってるんだから。」
「シンジ…。ばーか。変なのはアンタ一人だけよっ!ばかシンジ!」
「ひどいなぁ、アスカ。」
シンジが、苦笑して言った。

 

ホントに、どうしてだろう?
死にそうなのに、もうすぐ、アタシもシンジもホントに死んじゃうかもしれないのに。
こんなに、楽しくって。
何だか、嬉しくって。
ホントに、どうしてなんだろう。
 

 

 

 

 

 

 

 

水は、遂に階段を上りきり、
アタシ達は、雨の降る屋上に出る事を余儀なくされた。
喋る声さえ掻き消される程の轟音を立てる雨の中、
まだ浸水していない、屋上の中で一際高い場所に建っている貯水タンクの陰に入り、
そこで、アタシ達は足元から迫る水と、風雨を凌いだ。
けれどそれでも防ぎ切れない雨が、餓えて弱った身体から容赦なく体力を奪っていく。

 

 

 

 

 

 

雨が止んだ。
水も、まだここまでは上って来てはいない。
けれど、雲は不吉な重さを湛えたままだった。
きっとまた、すぐに降り出すのだろう。
そして次に降り出した時、多分アタシ達はもう、耐えられない。
終わりが、来るんだろう。

 

 

 「ねぇ、アスカ…。
 いつかさ、僕が生まれてきたのはアスカに会う為だって、
 アスカと出会う運命だったんだって、言ったよね…?」
「うん…。」
「それ、謝るよ…。
 こんな酷い、辛い運命にアスカを巻き込んじゃった事、謝るよ…。」
「謝る事、無いわよ…。
 アタシは、幸せだったもの…。」
「ありがとう、アスカ…。
 僕も、幸せだった…。」

 

雨は、まだ降らない。
まだ少しだけ、神様がアタシ達に時間を与えてくれているのかもしれない。

 

「この雨が降り出す前にさ、カヲル君の声に、起こされた気がしたんだ。」
「うん。」
「それでその後、自分でもよくわからない内に急かされて、よくわからないままにここに着いた。
 その時さ、ここじゃない他のマンションに行こうとしたんだ。
 そしたら、声、ってほどはっきりしたものじゃないけど、何かに呼び止められたんだ。」
「うん。」
「カヲル君を見た後、僕は病気になったけど、何とか治ったし、
 声に従った結果、今でも僕達は何とか助かってるから、
 きっと今回も大丈夫だろうって、僕は思ってた。」
「……。」
「けどさ、今は、もしかしたら、そうじゃないんじゃないかって、
 あの声が助けてくれたのは、僕達を助ける為じゃないんじゃないかって、思ってる。」
「……。」
「助ける為じゃなくて、最後に僕達を仲直りさせる為に、
 僕達はここに連れてこられたんじゃないかって、今は、そんな気がするんだ。」
「……。」
「ごめん、アスカ…。」
「ううん。いいわよ。」
「ねぇ、アスカ。
 今も、まだ、怖くない?」
「うん。」
「そっか。僕も。」
「うん。」
「きっとさ、アスカと一緒だからだ。」
「うん、アタシも、シンジと一緒だからだと思う。」
「ねぇ、アスカ、愛してる。」
「アタシも、愛してるわ、シンジ。」
そして、きっとこれが最期になるキスを、アタシ達は交わした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨が、再び降り始める。
最後の雨。
アタシ達は、指を絡めて繋いだ手を、お互いにぎゅっと握りしめた。
 

 

 

雨は、すぐに滝の様になる。

 

 

 

 

冷たい。
寒い。

 

 

 

 

 

 

 

シンジと繋いだ手以外は。

 

 

 

 

 

 

 

風が雨を運んで、
喉に、雨が入ってくる。
呼吸が、上手くいかない。
苦しい。
 

 

 

 

 

 

 

繋いだ手をぎゅっと握る。
シンジが、握り返してくれた。
 

 

 

 

 

ああ…。


大丈夫。

 

 

苦しくても。
死んじゃっても。
怖くない。

 

シンジがいるから。
 

もう、怖くない。

 

視界が、暗くなった。
意識が跳んだ。

 

 

 

 

 

 

また、気づくと雨。
手は、繋いだまま。
ぬくもりは、まだある。
アタシに誓ってくれて、誓いを守ってくれた、シンジのぬくもり。

 

 

 

やっぱり、怖くない。

 

 

 

幸せだった。
今も、幸せ。
悔いはない。
シンジへの誓いも、アタシは守れたんだから。
だから、何も悔いは無い。

 

 

 

 

うそ、ホントは一つだけ。

 

「やっぱり、シンジとの赤ちゃん…、欲しかったな…。」
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨が、降り続く。

 

雨の冷たさに、意識はどんどん冷たく、薄くなっていく。

 

 

視界が、暗い。
 

 

 

赤い。

 

 

 

空が赤くなっていく。

 

 

雨が、赤い。

 

 

赤い雨。

 

 

 

その向こう。

 

薄れゆく意識が途切れる刹那、見た気がした。

 

 

四つの赤い瞳。

 

水色の髪の少女。
銀色の髪の少年。

 

視界が大きく揺れた。

 

そして、アタシの意識は、完全に途切れた。
 

 

 

 

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ちょっとコレ詰め込み過ぎて長くなり過ぎましたね…。

かなり唐突でいきなりな展開にみえますでしょうが、まあ、その通りです。

一応これが起こった原因はちゃんと存在してるんですがね…。

 

ちなみに、今回の話の原型はこのLASSS全体の構想を思いついた初期から存在しており、

今回の強引な展開も、作者の中では当初の予定通りだったりします。

 

しかしこの章は苦労しました。

 

たう