Secondary  3_Mars-2

 

 

 

 

 

朝焼け。
紫色の空の中、東雲が桃色に染まっていく。
その景色の中を、僕は走っていた。
日課のロードワーク。
走りながら、頭の中に水泡のように考えが浮かんでは消えていく。

 

 

僕とアスカは、あれから毎日あの警察署で銃を撃つ練習や格闘の訓練をしている。
僕もアスカも、もう銃を撃つ事自体には抵抗が無くなった。
とは言え、それはあくまで「的」を狙って撃つ時だけで、
その「的」に少しでも「人間」のイメージを重ねてしまうと、僕もアスカも撃てなくなった。
慣れたというよりは、銃を撃つという行為と、人を殺すという行為の意味が、
何度か的を撃っている内にいつの間にか、だんだんと頭の中で乖離していってるんだろう。
だから、今人間が帰ってきて僕達が暴徒に襲われても、きっと僕達には銃を撃つ事が出来ない。
それでも、的に向けてさえ銃を撃つ事すら出来なかった頃よりは、進歩しているとは言えるけれど。
進歩、か…。
身を守る手段を得たことで、以前感じていたような不安は、確かに小さくなっている。
でも、その代わり、何かがずれていっているような感覚を、僕は感じていた。

 

 

空がどんどん白んでいく。
何となくいつも走っているコースを変えて、普段とは違う場所で曲がる。
しばらく走っている内に、流れる景色の中に「諏訪郡母子支援センター」という建物が一瞬目に留まり、
僕はそのまま走り続けて、その建物を通り過ぎた。

 

母子、か…。
もし、人が帰って来る時、お母さんと赤ちゃんが別々に帰ってきたら、
赤ちゃんは、帰ってきても多分生きていけないよな。

 

「……。」
脚から、力が抜けていく。
徐々に走る速度が落ちていき、やがて僕は完全に立ち止まる。
「……。」
耳鳴りが、する。
しばらく僕は、呆然と立ち尽くした。
そして、
「……くっ!!!」
逃げ出すように、僕は全力で走り出した。
 

 

 

 

ロードワークを終え、僕達が暮らしている旅館に戻ってきた。
「あれ?いつもより早かったわね?」
先に旅館についていたアスカが、僕に言った。
最近、アスカも僕と一緒に走り始めた。
ただ、いままで碌に運動していなかったアスカと僕の体力差は大きく、
アスカが僕について来れないので、僕とアスカはそれぞれ別々に走るようになった。
「うん。ちょっと今日は体調が悪いみたいだから早めに切り上げたんだ。」
嘘だった。
本当は、嫌な事を考えてしまってやる気が湧かなくなったからだ。
その「嫌な事」をアスカに追求されたくなかったから、嘘で誤魔化した。
「確かに少し顔色よくないわね。大丈夫?シンジ。」
「うん。心配するほどじゃないよ。ちょっと疲れてるってだけだから。」
「そう?ならいいけど…。」
「それよりアスカ、早くお風呂に行こう。
 汗を流してさっぱりしたいしさ。」
「それもそうね。じゃあ、シンジの分までちゃっちゃと着替え取ってきてあげるから、
 先にお風呂に行っててよね。」
「わかった。ありがとう、アスカ。」
「どういたしまして!」
そう言って、アスカは早足で旅館に入って行った。
僕も後に続いて、旅館に入った。

 

 

先に浴場に着いて湯船に浸かっていると、
「おっふろ〜♪おっふろ〜♪おっふろ〜♪」と、アスカが鼻歌を歌いながら浴場の扉を開いた。
えらく上機嫌だ。
アスカはそのまま僕の入ってる浴槽の方まで歩いてきて、
「とうっ!!」
と、僕のすぐ横に飛び込んだ。
大きく波しぶきが立って、僕にかかる。
ちょっとだけ鼻に水が入った。
「ぶぇ…、ごほっ…、ちょっとアスカ、いきなり飛び込まないでよ!」
「やんっ♪ごめ〜ん♪」
アスカが全然申し訳なさそうじゃない感じで言った。
「……。」
僕はそっぽを向いた。
「あ〜ん♪怒らないでシンジ〜♪」
そう言ってアスカが僕に擦り寄ってきて、腕を僕の腕に絡ませる。
「…何でそんなに上機嫌なのさ?」
「え〜?アタシそんなに上機嫌〜?
 わかんな〜い♪
 …それよりシンジ、アタシ、何か変わったと思わない?」
「え…?」
アスカに言われて、僕はまじまじとアスカを見た。
わからない。
何か変わったのか?
そういえば、前髪がちょっと短くなってる気がする。
「髪、ちょっと切った?」
アスカは頬を膨らませて、怒ったような顔で、
「ぶっ、ぶっ〜〜〜!違います〜!」
と言った。
「う〜〜ん…。」
本気でわからない
「も〜〜〜、相変わらずにぶちんなんだから!…ホントにわかんない?」
「……うん。」
降参です。
「教えて欲しい?」
「はい。教えて欲しいです…。」
ホントは別にどうでもいいけど、こう言っとかなきゃ後が怖いしな…。
「しょうがないわね〜。特別出血大サービスよ。」
と言って、絡ませた腕を離してアスカは僕から離れると、
「ふっふっふっ〜♪」
と不敵な笑みを浮かべた。
「よくぞ聞いてくれました!
 なんとっ!なんとっ!なんとさっき体重計で量ってみたところっ、2570gも体重が落ちていたのです!!
 わ〜〜〜〜!おめでとうアタシ!ぱちぱちぱち。」
オーバーなリアクションをしながらそう言って、アスカは自分で自分に拍手した。
「わ〜〜〜〜!おめでとうアスカ。ぱちぱちぱち。」
とりあえず僕もアスカに合わせて拍手した。
「ありがとう、ありがとうシンジ。ここ最近身体を動かし始めた甲斐があったわ!」
「うん、よかったね。アスカ。」
「んふっ♪
 …ねぇシンジ、そうやって改めて見てみると、アタシってちょっと痩せたと思わない?
 …ほら、腕とか。」
アスカが、僕の目の前に腕を伸ばして見せ付ける。
「え…。どうかな…、そう言われてみればそんな気も…」
「もうっ、はっきりしないわね!
 …じゃあ、お腹は?」
そう言ってアスカは立ち上がり、真正面に来て陶磁器のように白い裸体を僕に見せ付けた。
「あ…。」
下からアスカの顔を見上げると、小悪魔みたいな淫靡な笑顔で僕を見下している。
ぞくぞくした。
視線を、アスカのお腹に移した。
「…どう、かな?…まだ、よくわかんないや…。」
「じゃあ、脚は…?」
僕は、お腹から視線を下に移し、水面から出ているアスカの太腿を見る。
「…細くなったような気がするけど、見ただけじゃよく、わかんないや…。触って、みなくちゃ…。」
白く、十分に細い太腿に、僕は手を触れる。
「ふっ…。」
小さく身体をビクつかせ、アスカが鼻息を洩らした。
「…んっ…どう…?シンジ…。」
震えの混じった声でアスカが僕に聞く。
「まだ、わかんないや…、もっと、触らないと…」
太腿を、手でなぞり上げる。
「はあっ…」
アスカの身体が、またビクついた。
なぞり上げた手の方に視線をあげると、
アスカの脚の付け根から、水滴が滴り落ちていた。
それがこの湯船のお湯なのか、それとも別の何かなのか。
確かめようと、僕はそこに吸い付いた。
「ふぁああっ!!…んんっ!!…」
アスカの手が、僕の髪を掻き分ける。
そのまま、そこから溢れてくるものを飲み尽くすように、僕はそこにむしゃぶり付き続けた。

 

 

 

 

 

 

「ん〜〜〜〜っ!やっぱり運動した後にお風呂に入るのって、さっぱりして気持ちいいわね〜。」
お風呂上り、アスカが伸びをしながら言う。
「入ってからも運動したけどね…。」
僕が言った。
「体重も減らせたし、やっぱ生活にはメリハリってもんがなくっちゃいけないわね〜。」
アスカは僕の声が全く聞こえていないように、軽やかに僕の少し前を歩く。
「さぁ、これから朝ごはん食べて、ちょっと休んだら、今日も警察署で特訓ね!
 頑張らなきゃね、シンジ!」
アスカがそう言って、僕の方を振り返って笑った。
「……うん。…そうだね。今日も頑張ろう、アスカ。」
「よ〜しっ!お腹もペコペコだし、ちゃっちゃと朝ごはんの準備すませなくっちゃあね!」
アスカはそう言うと、
「ごっはん〜♪ごっはん〜♪ごっはん〜♪」
と唄いながらスキップで食堂に向かって行った。
そんなアスカを尻目に、僕はゆっくりと食堂に向かう。
「アスカ、嬉しそうだな…。」
あんなに嬉しそうにはしゃぐアスカなんて、久しぶりに見た。
「……。」
以前なら、あんなアスカを見た時は、微笑ましくって、僕まで嬉しくなったのに。
今も、嬉しいはずなのに。
「……。」
アスカの事を、嫌だと思う僕がいた。

 

 

 

 

射撃訓練場。
僕はオートマチックの38口径の拳銃で黙々と的を狙い、撃つ。
最初あれほど躊躇していたのがバカらしく思えるほど、今は銃を撃つ事に何の躊躇いも感じない。
精神的に余裕が出てきたおかげもあって、今では撃った弾は八割方、狙い通りに命中させる事が出来るようになって来た。
弾を撃ち尽くすとカートリッジを交換して、また弾が尽きるまで撃つ。
「きゃあ!!」
一際大きな発砲音を響かせて、隣で撃っていたアスカが、後ろに転んだ。
アスカも僕同様、もう銃を撃つ事に躊躇いはない。
アスカが今持っている銃は、署内の押収品倉庫にあった50口径のオートマチックの大型拳銃だ。
威力が大きい分反動も大きくて、腕力の無い人が使うと反動で銃身で頭を打ち付けたり、
今のアスカのようにバランスを崩して後ろに転んだりする。
「そんな重くて反動の強い銃を無理して使うから…。」
銃を撃つのを中断して、耳当てをはずしながらアスカに振り向いて僕が言った。
「うっさいわね!一回どんなもんか撃ってみたかったのよ!
 シンジこそ、そんな地味〜な銃で、黙ってずっと撃ちつづけてよく飽きないわね?」
「地味とか、飽きるとか、そんなの関係ないよ。ただ僕は、弾をもっとちゃんと当てられるようになりたいだけだし。」
「はんっ!相変わらずつまんない男ねアンタって!
 反復は重要だけど、そんな機械的に淡々とやってるだけじゃいつまでたっても上達なんてしないわよ!
 物事を上達しようとする姿勢としてはナンセンスだわ!
 どうせ頭ん中で「目標をセンターに入れてスイッチ」とか唱えながらやってんでしょ?」
「………アスカ、楽しそうだよね。」
「な……、何よ…?
 別に、楽しんでなんかないわよ…。
 ただちょっと、今日はいい事があったから、少し浮かれ気味なだけで…。」
「……。」
「それにっ、それに人や動物に対して撃ってるわけじゃないんだから、楽しんだって別にいいじゃない!!
 一体何が悪いってぇのよ!!?」
「悪いなんて言ってないよ。」
そう言って、僕はアスカから顔を逸らし、再び耳当てをして銃を構え直し、的を狙い、撃った。
「……くっ!!!」
アスカも、一度大きく床を踏み鳴らした後、
休みに行ったのか、それとも銃を代えに行ったのか、射撃訓練場を出て行った。
「……。」
自己嫌悪を感じながら、僕は黙々と撃ち続ける。

 

 

ずれていくような感覚が、どんどん大きくなっていく。
心が、どんどん空虚になっていく。
知っている。
この感覚が何なのか。

僕なんかが幸せで、本当にいいと思っているのか?

頭の中で、そんな声が聞こえた気がした。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

声。

人殺し。

「え…?」
目が覚めた。
まだ、辺りは暗いままだ。
隣では、いつも通りにシンジが眠っている。
「……。」
今、確かに、人殺しという声が聞こえた。
アタシの声で。
「そっか…。」
アタシは今、例え身を守る為とは言え、人を殺す為の道具を使う訓練をしている。
またあの声が聞こえ始めても、何もおかしい事はないわよね…。
「……。」
不安が、胸の中に広がっていく。
縋るように、アタシはシンジを見た。

アスカ、楽しそうだよね。

「……。」
昨日、シンジに言われた言葉。
「だから、なのかな…。」
毛布に、頭から包まる。
不安を押し殺すように、もう一度アタシは目を閉じた。
 

 

 

翌日。
「……。」
「……。」
射撃訓練場で、アタシもシンジもただ黙々と的を狙って撃ち続ける。
アタシはもう、昨日使っていたような扱いきれない銃じゃなくて、
38口径のオートマチック、シンジが今使っている物と同じ拳銃に代えた。
銃声が響く中、淡々と時間が過ぎていく。

 

 

昨日あれから、アタシとシンジはほとんど会話を交わしていない。
気まずくて、ほとんどシンジに話しかける事が出来なかった。
それでも話しかければシンジは答えてくれるけど、その答えはいつもよりそっけなくて、
それに、シンジの方からは決してアタシに話しかけてはくれなかった。

 

「もうあの銃は撃たないんだね。」
「え…?」
不意に、シンジが話しかけてきた。
「…そ、そうね、危ないし、やっぱりこの銃みたいに、まだちゃんと扱える銃の方がいいかなって…」
「そっか…。」
「……。」
「アスカ。……昨日は、ごめん。」
「え…?
 うん。…別にそんなの、気にして無いわよ。
 それに昨日のアタシは、確かにちょっと調子に乗りすぎてたと思うし、
 それで、シンジが嫌な思いをするのは無理ないことだと思うし。
 …アタシの方こそ、ごめん。」
「いいよ。許してくれてありがとう、アスカ。」
シンジはそう言って、また黙って撃つ事に集中した。
「……。」
シンジが許してくれた事にホッとして、
顔が綻びそうになるのを堪えながら、アタシはシンジと同じ様に、黙って撃つ事に集中した。

 

射撃訓練を終えた後、シンジと道場で格闘の訓練をして、警察署を後にした。

 

 

帰り道。
「……。」
「……。」
シンジもアタシも、殆ど無言で帰路を辿る。

 

シンジは、あの後も殆ど何も喋らないままだった。
シンジが今こうなってるのは、アタシに怒っていたからじゃなくて、どうやら別の理由からみたいだった。
でも、その理由が何なのか問い詰めれば、何かがますますこじれて、何処までもずれていくような気がして、
アタシは、シンジに何も聞けないでいた。
かといって他の話題ももう出し尽くしてしまって、これ以上は何を話せばいいのかわからない。
また、昨日からの気まずい空気がアタシ達を包む。

 

旅館に戻って、シンジとお風呂に一緒に入って、夕食を一緒に食べて、一緒に眠った。
シンジも、またアタシに話しかけて、笑ってくれるようになった。
でもずっと、あの気まずさが何処かアタシ達に付きまとっていて、
笑っていても、シンジは何処か余所余所しかった。
一緒にいるのに、シンジがずいぶん遠くにいるみたいで、
シンジと付き合い始めてから、初めて、一緒にいるのに虚しさを感じた。

 

次の日も、その次の日も、アタシ達の間には、気まずい空気が流れ続けた。
次の日も、その次の日も、シンジはアタシに、何も話してはくれなかった。

 

どうして、何も話してくれないの?

そうシンジに聞きたかった。
だけどアタシには、シンジにその言葉を投げかける事が出来なかった。
それを聞いてしまうと、どうしてだか、シンジとアタシの関係が取り返しのつかない事になってしまう気がした。
聞こうとすればいつも、嫌な予感が邪魔して、何も聞けなかった。
それでもいつものアタシなら、無理矢理にでも聞いていたんだろう。
でも、そうやって無理矢理自分を奮い立たせる気力は、今のアタシにはもう無かった。
だって、

人殺し。

また、アタシの内側で声がし始めたから。
アタシから、強さを削ぎ落とすあの声が。
アタシの意味を殺していく、あの声が。

 

シンジには、何も言わなかった。
何も聞けないなら、力になれないならせめて、迷惑をかけたくなかった。

 

 

 

銃を撃つ事がどんどん辛くなっていった。
鏡に映る自分の顔が、日に日にやつれていってるのがわかった。
シンジが、アタシを気遣って何度もアタシにやめようと言ってくれたけれど、
そんなシンジの気遣いを、アタシはいつも怒鳴り散らして無碍にした。
負ける気がしたから。
ここで折れれば、シンジを守るというアタシの決意が全て、嘘になってしまう気がしたから。
アタシのシンジへの想いさえ、あの声に否定されてしまう気がしたから。
シンジが止めても、アタシは決して休まなかった。
そんなアタシを、シンジも強くは止めようとはしなかった。
それが、アタシをもっと頑なにしていった。
 

 

お互いの気持ちが、ずれていく。
掛け違えたボタンは直される事もないまま、時だけがただ過ぎていく。

 

体重計。
お風呂あがりに、その上にアタシは足を乗せた。
「六キロ、痩せてる…。」
もう何も、嬉しくなんてなかった。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あああああああああっ!!!!!!」
真夜中。
アスカの悲鳴で、僕は目を覚ました。
「アスカ?」
「あああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!」
アスカは錯乱していた。
左手で右手を押さえながら、何かに抗うようにもがいていた。
「アスカッ!!!!!!」
僕は急いで暴れるアスカを抱きしめ、
左目を硬く閉じ、苦悶に顔を歪めるアスカに呼びかけた。
「アスカ!!!落ち着いて!!!アスカ!!!」
「ああっ!!!!!ああっ!!!!ああっ!!!!!」
アスカは僕の呼びかけに気づかず、僕から逃れようと必死にもがく。
「アスカ!!!!!僕だ!!!!!大丈夫だから!!!!!!アスカッ!!!!!!!」
アスカを離さない様に必死に抱きしめながら、何度も何度もアスカに呼びかけた。
そうしている内に段々と、必死に抵抗していたアスカの力が、徐々に弱まっていく。
やがて、
「…シン、ジ?」
僕の存在に気づいてくれた。
「うん。」
「アタシ…。」
「大丈夫だから。何も、考えなくていいから…。」
そう言って、僕はアスカを強く抱きしめる。
「……。」
アスカは、力無く僕に身体を預けた。
「……。」
そのまま、僕は無言でアスカを抱きしめ続けた。
 

 

フラッシュバック。
PTSDの症状の一つ。
突然のトラウマの想起。
アスカが昔の記憶を想起して苦しむ事は、今までにも何度かあった。
だけど、ここ一年と半年ほどは僕の知る限り、アスカが過去の記憶に苦しめられた事は無かったし、
それに、アスカがここまで酷く錯乱するほど酷いものは、初めてだった。

 

原因なんてわかりきっていた。
警察署での射撃訓練。
それが、ここまで強いフラッシュバックを引き起こすほど、アスカが精神の均衡を崩した原因だろう。

 

僕は何度もアスカを止めた。
アスカの調子がおかしかった事は、僕の目にも明らかだった。
でもその度にアスカは頑なに拒んで、決して、休もうとさえしなかった。

 

力ずくにでもアスカを止めるべきだとわかっていた。
でも僕は、そうしなかった。
そうすれば口論になってその末に、僕がアスカを疎ましく思い始めた事を、アスカに悟られてしまうような気がしたから。

 

僕は、アスカの事を疎ましく感じ始めていた。
そう思い始めたのは多分、アスカが、銃を撃つ事を楽しみにしているように振るまった時からだったと思う。
人を撃つ練習を楽しんでるみたいなアスカに、僕は嫌悪感を憶えた。
それをきっかけに、僕はアスカの事が少しずつ疎ましくなっていった。
アスカが頑なに射撃訓練を続けた事も、アスカに対するそんな感情に拍車をかけていった。

 

アスカにそんな感情を抱いてしまっている事に、自己嫌悪した。
それでも、僕は自分の中の感情をどうする事も出来なかった。
取り繕おうとすればするほど、僕の中のアスカを疎ましいと思う気持ちは大きくなっていった。
今までどおりにアスカに接する事が、だんだん辛くなっていった。

 

僕に疎まれていることに気づいたら、アスカはどうなるだろう?
そうを考えると怖かった。
どうすればいいのかわからないまま時だけが過ぎていった。
その結果が、これだった。

 

 一体何してるんだ、僕は…?
アスカを傷つけない様、アスカの心に触れない様にして、
それが結局、アスカを追い詰めてしまっていた。
エヴァに乗っていた、あの時みたいに。
何も、何も変わっていないじゃないか、僕は…。

 

それでも出来れば、口論になるような事は避けたかった。
でももう、駄目だ。
傷つけてでも、アスカを止めないといけない。
アスカはもう、限界だ。

 

「迷惑かけて、ごめんね…。」
落ち着いてからしばらくして、力の無い、掠れた声でアスカが言った。 
「アスカは何も悪く無い。だから、謝らないでよ…。」
悪いのは元々全部、僕なのだから。
「……。」
「…ねぇ、アスカ。……もう、銃を撃つ訓練はやめよう。」
「……。」
「アスカ、最近ずっと調子悪かったじゃないか。
 どんどんやつれていってるのに、僕が止めても訊かないで、勝手に自分で自分を追い込んで。
 …どうかしてるよ、アスカ。
 挙句の果てに、今日…。」
「……。」
「元々、あんな事するのは僕だって嫌なんだ。
 確かに人が戻ってくる不安は小さくなったけど、
 代わりに、何かがずれていくような嫌な感じがしてた。
 実際、僕達はここの所ずっと、一緒にいても何処かギクシャクしてたじゃ無いか。
 今までこんな事、無かったのにさ…。」
「……。」
「…あんな事、心にいい影響なんてあるはず無かったんだ。
 まして、僕達には…」
「……。」
「それに、人だって今すぐ帰って来るわけじゃないんだ。今からこんな無理する事なんてないよ。」
「……。」
「だからアスカ、あんな事もうやめよう。このままじゃアスカ、もう…」
「シンジ…。」
「うん…。」
「少し、考えさせて…。」

 

そう言った後、アスカは僕に抱きしめられたまま眠りに就いた。
僕はアスカを起こさないようにそっと離し、
それからしばらくして、とりあえずはアスカを傷つけずに済んだ事に安堵しながら、僕は眠った。

 

翌日、アスカは僕の意見に同意してくれた。
それから僕達は警察署に行く事をやめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあああああああああっ!!!!!!!シンジ!!!!!!!!
 助けて!!!!!!!!!いやあああああああああああ!!!!!!!!」
アスカの悲鳴と共に、男達の下種な笑い声が聞こえてくる。 
アスカが、数人の男達に囲まれていた。
ニヤついた顔で、男達はアスカを押さえつけ、服を剥ぎ取っていく。

助けようと思った。
だけど、どうしてだか、身体が動かなかった。
声すら、出せなかった。

「いやああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
アスカは泣き叫びながら、必死で逃げようともがいている。
だけど押さえつける男達の手が、のしかかる男達の身体が、アスカを逃さない。
「やだああああああああああああ!!!!!!!!!!!シンジいいいいいいいい!!!!!!!!!
 …ぐっ!!!!」
暴れるアスカを、男達の一人が殴りつけた。
アスカが暴れようとする度に、男達はアスカを殴り、蹴った。
アスカは暴れる事も出来なくなって、男達のされるがままになった。
男達が、アスカの身体に貪るように群がる。
「ううっ…ああっ…いやあああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!」
一際大きな声でアスカが泣き叫んだ。
アスカの上にのしかかる男の身体が、小刻みに震えだす。
「ううっ…うっ…うううっ……うううううっ……」
すすり泣くアスカの声が聞こえる。
男達の何人かが、僕の方ををニヤついた顔で見ている。
そして、僕に、アスカを、見せ付けてきた。
アスカが、犯されていた。
「見ないで、シンジ…」
光の無い瞳で、泣きながらアスカが僕を見ていた。

 

 

 

「ッ――――!」
飛び起きた。
夢、だった。
嫌に生々しい、悪夢だった。
「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ、…ぐうっ、…はあっ、はあっ、はあっ」
呼吸が上手く出来なくて苦しい。
吐き気がするほど頭が悪い。
心臓が痛いぐらい強く激しく拍動している。
それに合わせて、全身の血管が脈打ってるのがわかる。
ドス黒い、気持ちの悪いものが、胸の奥で渦巻いていた。
すぐに僕はアスカを探す。
隣を見ると、アスカはいつものように何事も無く眠っていた。
「アスカ…。」
安堵した。
本当に、心の底から。
思わず、アスカが起きるのも構わず、僕は眠るアスカを強く抱きしめた。
「…いたっ、ちょっとシンジ?
 ……どうしたの?」
「………。」
身体が、震える。
いつか、あの夢のような事が起こると思うと、怖くて、不安で仕方が無かった。
「…よしよし。」
なだめるように、アスカが僕の頭を撫でる。
そのまま、アスカは何も訊かずに僕を抱きしめ返して、しばらく頭を撫でてくれていた。
 

 

 

夜明け。
アスカは、僕を抱きしめながら再び眠りに就いていた。
「……。」
僕は、眠れなかった。
身体が、ずっと熱を帯びて疼き続けていた。
まだ、全身の血管が脈打つのがわかるほど、心臓が激しく働いている。
アスカを起こさないように身体を離して、僕は立ち上がる。
まだ暗い中、僕は部屋を出て、そのまま玄関から旅館を出た。

 

 

へばり付いていた。
夢の中のアスカの悲鳴が。
重なっていた。
過去の記憶に苦しんでいたアスカの悲鳴が。

 

焼き付いていた。
夢の中で犯されているアスカの姿が。
重なっていた。
錯乱して暴れるアスカの姿が。
バラバラに食いちぎられていた弐号機の姿が。
痛々しい包帯姿のアスカが。

 

夢の中。
僕は、動けなかった。
まるで、最後の戦いの時みたいに。
僕は。
僕は…。

 

「っうああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
胸の奥に渦巻く憎悪と恐怖と後悔を、吐き出すように叫びながら、僕は走った。
深紫色の薄闇の中、ただがむしゃらに、何かに躓き転ぶ事もぶつかる事も厭わずに、
声が出なくなっても、胃の中の物を全て吐き出しても尚、僕は叫び、走り続けた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

諏訪警察署。
僕は、再びここに来ていた。
もう何も吐き出せなくなるまで走っても、僕の中を渦巻くものは、まだ僕を突き動かそうとしている。
疲労困憊で重くなった身体を引きずるように、署内に足を踏み入れた。

 

 

射撃訓練場。
以前アスカが使っていた50口径の大型の拳銃を、今、僕は持っている。
身を守るどころか、人を殺すにしても威力の高すぎる銃。
「……。」
的に向けて構えた。
頭を狙う。
「……。」
的に、夢の中でアスカを犯していた男達の醜悪な顔を重ねた。
撃った。
「ッ……!」
撃った瞬間、銃口から衝撃波のように炎の輪が広がるのが見えた。
発砲音。
反動が思ったより大きくて、仰け反りそうになる。
火薬の臭い。
的を見ると、弾はしっかりと頭を打ち抜いていた。
「……。」
再び銃を構えた。
今度は、連続して撃てる様に反動を考慮して銃を強く握った。
狙う。
重ねる。
撃つ。
反動で手が跳ね上がる。
すぐに構え直して、再び狙いを付け、重ねて、撃つ。
それをひたすら、手元にある弾を全て撃ち尽くすまで続けた。

殺してやる。

頭の中、唯一つその言葉を、呪詛の様に繰り返しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝、目を覚ますとシンジがいなかった。
旅館の何処を探しても姿が見えない。
昨日の夜のシンジの様子がおかしかっただけに、朝御飯も食べるのを忘れて心配になって探し回った。

 

 

数週間ぶりに諏訪警察署の前まで来た。
胸騒ぎがして、自然に足がここに向かった。
「銃声…?」
微かにだけど発砲音が一定のリズムで鳴っているのが聞こえる。
シンジがここに来て、銃を撃っているのは間違いなかった。
胸がざわめく。
「……。」
急いで、警察署に足を踏み入れた。

 

 

射撃訓練場に近づくにつれ、発砲音は大きくなっていく。
それと共に胸のざわめきも大きくなっていく。
昨日、あのまま寝るんじゃなかった。
せめて、どうしてあんなに怯えてたかぐらい訊いておくべきだった。
どんどん大きくなっていく嫌な予感に、アタシはそう後悔していた。

 

 

射撃訓練場に入ると、発砲音は一際大きくなった。
距離があるとは言え、一定の間隔で間断なく鳴り続ける大きな発砲音に耳が痛くなって、
アタシは手で耳を塞いだ。
「シンジ…。」
シンジはいた。
シンジは昨日の寝巻きのまま、いつかアタシが撃っていた大型の拳銃を撃っていた。
昨日は綺麗だった寝巻きが、ずいぶん汚れている。
顔や銃を支える腕には、いくつも傷が出来て血が出ている。
横から見えるシンジの顔に表情はなく、たった数時間前より酷くやつれたように見え、
血走った目は、殆ど瞬きもせずに一点を見つめ続けている。
「……。」
まるで何かに取り憑かれたかの様に銃を撃ち続ける異様なシンジの姿にゾッとして、
アタシは何も出来ずにしばらく立ち尽くした。
そうやってアタシが立ち尽くしている間も、
シンジは一心不乱に銃を撃ち続ける。
「……っ!」
意を決してアタシはシンジに近づいた。
「ねぇシンジ!!!!ねぇっ!!!!シンジってば!!!!!」
結構な大声を出しているのに、耳当てと大きな発砲音のせいかシンジは全くアタシに気づかない。
更にシンジに近づく。
アタシは、シンジのしている耳当てに手を伸ばし、取った。
銃声が止んだ。
「ねぇってば!!!!!!シン……」
表情を変えないまま、シンジは首だけを振り向かせ、アタシを見た。
出掛かっていた言葉が、思わず止まる。
「……。」
シンジの瞳は、まるで絵の具か何かで塗りつぶしたみたいに、ドス黒く濁って見えた。
その光の無い漆黒の瞳の奥には、確かに殺意が宿っていた。
シンジに首を絞められたあの時とは比べ物にならないほどの、冷たく静かで、昏く、暗い憎しみ。
そしてそれは、ほんの一瞬ではあるけれど、アタシに向けられた。
「あ……」
突然自分に向けられた感情に怯んで、言葉を失った。
アタシが何も言えずにいると、
シンジの瞳に光が戻り、表情のなかった顔が少しだけ緩んだ。
「……ヵ…?」
まるで今アタシに気づいたかのように、銃を構えるのを止め、身体ごとアタシの方を向いて、
シンジが、とても小さく掠れた声でそう言った。
「え……。」
さっきのシンジの瞳を見たショックで頭がまだ働かない。
アタシは呆然としたままシンジの顔を見つめた。
「ァ……。……ヵ。……」
苦しげに、搾り出すように声を出しながら、シンジがアタシの肩を掴み、
小さく揺さぶりながら、掠れた声でアタシを何度も呼んだ。
「シン、ジ…。」
かろうじてそう呟くと、シンジがアタシに頷いた。
それをきっかけに、徐々にアタシの頭が働きだした。
「シンジ…何し…っ…」
どうしてまた銃を撃ち始めたのかシンジに訊こうとして、言葉に詰まった。
悲しい気持ちがこみ上げてきたから。
シンジにあんな目で見られた事が、今になって悲しくなって、怖くなった。
「…何でっ…っ…くぅ…っ……ぐすっ…」
勝手に涙が流れてしまう。
泣いてしまう自分が情けなくて、でもそのせいでますます涙が溢れてくる。
嗚咽を、止められない。
せめて、俯いて手で顔を覆った。
「うくっ…ううっ…ひっくっ…」
「……。」
泣いているアタシの肩から、シンジの手がゆっくりと離れた。

 

 

 

 

旅館に戻ると、すぐさまシンジは倒れるように眠り込み、
そのまま、次の日の夕方まで起きなかった。
アタシはとりあえずシンジに毛布をかけてやると、外での汚れを洗い落とそうとお風呂に入った。
朝から何も食べていない事を思い出して、食欲が無いながらも遅すぎる朝食をとって、その後、シンジの隣で眠った。
 

 

次の日の夕方、シンジは起きたけれど、飲み物と食べ物を一頻り食べ終わると、すぐにまた眠りに就いた。
その翌日の朝、アタシが目を覚ますとシンジが姿は無かった。
シンジは、再び射撃訓練場へと出かけていた。
 

 

帰ってきても、シンジは何処か思い詰めた表情のままだった。
心配で、銃を撃つ事なんて止めて欲しかった。
でも、あの時見たシンジの瞳。
また、あんな目で見られる気がして、
アタシにはシンジを止める事も、また銃を撃ち始めた理由を訊く事さえも出来なかった。

 


それから毎日、シンジは射撃訓練場へ銃を撃ちに行った。
アタシは結局、シンジに何も言えないままだった。

 

人殺し。

銃を撃つ事をやめた時から、アタシにはもうあの声は聞こえなくなった。
フラッシュバックも起こっていない。
やつれていた顔も、体重も、徐々に元に戻り始めていた。
 

 

フラッシュバックを起こした時、シンジがやめようと言ってくれて、アタシは悩んだ。
シンジを守るというアタシの決意を、曲げたくなかった。
でも、もう限界だって自分でもわかっていた。
このまま意地を張り続けても、シンジに迷惑をかけるだけだと思った。
だから、アタシはシンジの提案を呑んだ。

 

でも本当は、シンジがやめようと言ってくれて、アタシは正直ホッとした。
やめる口実が出来てよかったと思った。
もう苦しい思いをしないで済むんだと思った。
あの時、もう既にアタシは心の何処かで諦めていた、シンジを守るという決意を貫き通す事を。
シンジがやめようって言ったから、シンジに迷惑をかけるから、もう限界だったから、
それらを口実にして、アタシは自分の想いを貫き通す事から逃げ出した。
エヴァに乗れなくなって逃げ出した、あの時みたいに。
それに気づいた時、アタシのシンジへの想いはその程度だったんだと、悟った。

 

その程度の想いしかないアタシに、シンジにとやかく言う資格なんてあるの?
そう思うとアタシにはもう、シンジに何も言えなくなった。
ううん…。
アタシはただ、シンジにまたあんな目で見られるのが怖いだけなんだ。
その証拠に、シンジと一緒にいる事にも、シンジを求める事にも、アタシは何の後ろめたさも感じてない。
 

 

いや、アタシは元々、ただシンジに嫌われたくないだけだったんだ。
シンジが傍にいてくれるなら、それだけでよかった。
例えシンジが苦しんでいても。
だから、アタシはずっと、シンジに何も訊かなかったんだ。

我ながら、どうしようもない欺瞞。

いっそ、あの声に責められたかった。
こんなアタシを非難して、否定して欲しかった。
だけど、もう何も聞こえない。
苦しみの無い平穏が、ここにはあった。

 

そして、今のアタシのこの嘆きさえ、どこまでも白々しくて、
悲しいぐらいに、この平穏にアタシは納得出来てしまっている。

 

シンジの心に触れなくても、
アタシの日常は何の問題も無く流れていく。
 

 

 

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