食べ物が腐り始めたとは言え、何の処置もしていない肉や卵や魚、大部分の野菜や果物は例え風雨に晒されてなくても、
酸化や乾燥によって劣化してもうずっと前から食べられなくなっていたし、
既に長期保存の利く穀物や野菜や缶詰やお菓子、乾物や漬物、
その他保存食やレトルト食品が中心になっていたアタシ達の食生活が劇的に変化する事も無く、
腐敗菌や黴が戻ってきた所で、街を歩いているとたまに異臭がするようになったぐらいで、生活に殆ど支障は無かった。
「はぁ、あっ…くっ…はぁ…」
「…やぁっ…んっ…ああっ!…あっ…」
部屋には、二人分の吐息と嬌声、そして粘液がネチャつく音。
「あっ…ねぇシンジぃ、もっとぉ…」
「ぅ、んっ…。」
アタシの声に応えて、それまで味わうようにゆっくりとアタシの中を突いていたシンジが、腰を速く動かし始めた。
「んんっ!あぁっ!あっ!」
「はぁっ…アスカぁ……ああっ…」
「…気持ちいいっ、ああぁ!…シンジっ、もっと…このままっ…」
「うん、…っ。」
そう言って、シンジは更に激しくアタシを突き始める。
「あああぁぁぁ!!!シンジっ、シンジぃ!!!ああああぁぁぁんっ!!!!」
膣から全身を貫く快感が理性を壊して、アタシに獣のような声をあげさせる。
「はあっ!!はあっ!!はあっ!!アスカッ!!!アスカぁ!!!!」
シンジは、腰を懸命に振りながら、振り絞るようにアタシの名前を呼ぶ。
そしてそのまま、アタシ達は絶頂を迎えた。
アタシが回復して以来、こうやってシンジとただ身体を重ねるだけの日々が続いてる。
「……。」
窓から空を見ると、太陽が憎たらしいぐらいにギラギラと輝いていた。
まだ、真昼間もいい所だった。
むせ返るような熱気と、甘酸っぱさと苦味を含んだ匂いが部屋に充満している。
汗やら何やらで、身体がベトつく。
している最中は気にならなかったそれらが、事が終わって冷めた頭には酷く堪える。
うざったい。
さっぱりしに、お風呂に入りに行こうと思ったけど、
気だるくて動く気になれない。
どうせまたすぐに汚れるんだし。
動きたい欲求と動きたくない欲求がアタシの中でせめぎ合ってジレンマを起こしてる。
おかげで、イライラは募る一方。
「あっつー…。」
寝返りを打ちながら、隣にいる男に聞こえる様に呟いた。
「うん…。」
シンジが気の無い返事を返す。
イライラが少し増した。
「ねぇシンジ。暑い。」
イライラを少しだけぶつける様に、シンジに向けて言った。
「あ…、うん。ごめんアスカ。何か飲み物持ってくるよ。」
シンジが立ち上がろうとする。
「いいわよ別に。喉渇いてないし。」
「…そっか。」
そう言って、少ししょげた様にしてシンジは立ち上がるのを止めた。
その様が、更にアタシにイライラを募らせる。
「…ってーか、アンタまたすぐに謝る癖出てるわよ。」
「え…?ホントだ…。」
「……。」
苛立ちよりも呆れが来た。
まあ、その事をまた謝らなかっただけマシだけど。
「…よいしょっと。」
そう言ってシンジは部屋の隅に置いていた団扇を二枚持ってきて、
右手の団扇でアタシを、左手で自分を扇ぎ始めた。
「…自分で扇ぐからいいわよ。」
「いいよ、別に。」
「……。」
シンジの手から団扇を無理矢理ひったくろうと思ったけど、だるいから止めた。
「……。」
シンジは何処か憮然とした表情で、アタシと自分を扇いでいる。
「……バカシンジ。」
「何だよ急に。」
「急にじゃないわよ。バカシンジはいつだってバカシンジじゃない。」
「むぅ…。」
「今だって、アタシが頼んでも無いのに勝手に気を遣って、バッカみたい。
いくら察しと思いやりが日本人の美徳だからって、度が過ぎれば不快だわ。」
「む…、じゃあ、もう扇ぐのやめるよ。」
そう言って、シンジは右手で扇ぐのを止め、団扇をアタシに渡した。
渡された団扇を受け取って、アタシは自分で扇ぎ始める。
「初めからこうやって渡しときゃいいのよ、まったく…。」
「…ごめん。」
「ほらまたっ!も〜、せっかくマシになってたのに、またそうやってすぐ謝って自分が悪いように振舞う!」
「……。」
「大体、アタシが今シンジに突っかかってるのだって、単にアタシがイライラしてるだけだからよ!
シンジが悪いんじゃないんだから気にしないでいいってぇのっ!」
「わかってるよそれぐらい。付き合いも長いんだし。」
「だったらもっと言い返すなりなんなりしなさいよ!アタシが間違ってるんだから、
アンタがアタシを叱らないでどうすんのよ?」
「……。」
「それとも何?そうやってすぐ謝ったり黙ったりしてるのは、アタシに対する遠まわしの当てつけってわけ?」
「別にそういうんじゃないよ、…アスカとやり合うのが面倒なだけだよ。」
「ふ〜ん…。そっか〜、そうなんだ〜、シンジにとってアタシは、「面倒」で済ます程度の存在だったんだ〜。」
「……。」
「悪かったわね。面倒な女で。」
「…ごめん。」
「うっさい!言った傍から謝んないでよこのバカ!」
「……。」
「……お風呂、入ってくる。」
「何よ何よ何よシンジのやつ!ウジウジウジウジしちゃってムカつくわねぇ!
でかくなったのは図体だけで中身はホンット何にも変わってないんだから!」
シンジへの不満を洩らしながら、風呂場に向かって廊下をどしどしと音を立てて進む。
「そんなにめんどくさいんだったらいっそ無視してろっちゅーの!」
廊下をどんどん進み風呂場に着く。
目の前に女湯と書かれたのれん。
「もぉ〜今日はどんなにシンジが頼んだって、ぜえったいにしてあげないっ!」
のれんをくぐった。
「言い過ぎちゃったな…。」
湯船からあがって火照る身体を冷ましているうちに、大分気持ちが落ち着いてきた。
「シンジのやつ、またナーバスになってるわね…。」
今思えば今日だけじゃなく、最近またシンジは、してるときは元気だけど、それ以外の時は全体的に元気が無かった。
「まあ、何が原因かなんて、大方の予想はついてるけどさー。」
バカシンジの事だし、きっと今アタシの思っている理由で合ってるわね。
「それでもアタシに縋るなり何なりすればいいのに、あのバカ、情けないとでも思ってるのかしらね。
まったく、変な所でプライド高いんだから。」
そうやってあのバカはいつも一人で溜め込んでウジウジして、アタシをイライラさせる。
今日のイライラだって、半分はそこから来ているものだ。
「いや、一応は縋りつかれてはいるのかな…。」
アタシが回復して以来一ヶ月ほど続いているこの自堕落な生活は、アタシもシンジも生きていられた事が嬉しくて、
お互いに、その喜びをぶつけ合った結果のものだったけれど、
今は、その意義が変わって来ている気がする。
「何にしても、とりあえずシンジに謝らなきゃね。」
風呂をあがり、さっきまでの部屋に戻る。
「ねぇシンジ…って、あれ?」
シンジは居なかった。
「男湯に行ったのかしら?」
部屋に入ってみる。
情事の後は綺麗に片付けられていた。
「しゃーないわね。とりあえず待ってよっと。」
アスカが怒ってお風呂に行ったしばらく後、
ベタつく身体が気持ち悪くて、僕もお風呂に向かった。
男湯ののれんをくぐる。
アスカはきっと女湯の方だろうし。
脱衣所にアスカの着替えが無かったから、僕はそのまま風呂場に入って身体を洗った。
部屋に戻ってもアスカはまだ戻っていなかった。
アスカはいつも長風呂だから、わかっていたけど。
とりあえず、どうやってアスカと仲直りしようかと考えながら、部屋を掃除した。
部屋を掃除し終わっても、アスカとどうすれば仲直りできるか思いつかなかった。
アスカはまだ、戻って来ない。
「謝っても逆効果。このままアスカに会っても、こじれるだけか…。」
しばらく思案した後、
「もう少し、ほとぼりが冷めるまで待っていようかな…。」
僕は部屋を抜け、そのまま旅館の外に出た。
当ても無く、街を歩く。
「また、すぐに謝る癖が出てきちゃったな…。」
その癖がまた出てくるほどに、最近の僕は弱気になってる。
何が問題で自分がこうなっているのかも、僕は分かっている。
その問題から逃げている事も。
アスカがイライラしていたのは、半分ぐらいはそんな僕の様子を察したからなんだろう。
「アスカが怒るのも、無理ないか。」
初めはただ純粋な気持ちだったのに、
いつの間にか、僕はその問題から逃げる為にアスカと抱き合っていた。
最低だ。
「……。」
諏訪湖湖岸。
僕がカヲル君の幻を見た場所。
ここで身体の調子がおかしくなり始めた事もあって、あれ以来ここに足を運んでいなかった。
「水の色、薄くなってるよな…。」
一ヶ月振りに見た湖の赤は、以前見た時よりもずっと薄くなっていた。
細菌が戻ってきた事と、関係があるんだろうか?
「……。」
細菌が戻ってきたという事は、いずれ他の生物、そして人間も戻ってくるんだろう。
人が戻ってきたら、セカンドインパクト直後の混乱期に起こったような暴動と略奪に、きっと僕達は巻き込まれる。
その結果、僕達がどうなるか…。
「っ……。」
嫌だ。
考えたくない。
誤魔化して曖昧にしていた不安が、増幅して具体的な形を成していく。
僕は、両手で頭を抱え込んだ。
「アスカ…。」
膝に力が入らなくなって来て、僕は、崩れるように座り込んだ。
湖に、石を投げた。
石は水面をぴょんぴょんと何度も跳ねて、いくつもの波紋をつくった後、ぼちゃん、と音を立てて沈んだ。
「今から不安がったって、しょうがないじゃないか…。」
自分に言い聞かすようにそう呟いて、また石を投げる。
菌が戻ってきて一ヶ月、未だ他の生物が戻ってきた気配は無い。
次にいつ、他の生物が戻ってくるのか見当もつかない。
それに、植物や動物を飛び越えていきなり人間が戻ってくるとも考えにくい。
人間が戻ってくるとしても、それはかなり先の話だろう。
僕達が生きている間には帰ってこない可能性だってある。
それなのにどうして、こんなにも僕は怖がっているんだろう?
「…アスカは、どうなんだろう?」
アスカは、人間が帰って来る事が怖くないんだろうか?
以前、人が戻ってくる事についてアスカと話した事が何度かあった。
でもそれはまだ細菌が戻ってくる前、他の生命が帰って来る事の実感が無かった頃の話だ。
細菌が戻ってきて以来、アスカとこの事について話した事は一度も無い。
アスカはどうか知らないけれど、僕は意図的に、この話題に触れないようにしていた。
考えたり、話したりすれば、自分の中で不安を徒に膨れ上がらせてしまうような気がしたから。
でもそのせいで、いつの間にか僕はアスカに縋りついてしまっている。
「アスカに、打ち明けるべきなのかな…?」
でも、もしアスカに話す事で、アスカに余計な不安を与えてしまう事になったら?
アスカに今の僕と同じような思いをさせてしまう事になったとしたら?
「……。」
何も答えを出せないまま、僕は湖を後にした。
遅い。
遅すぎる。
いくらシンジがアタシの後にお風呂に入ったっていったって、こんなに時間がかかるのはおかしい。
既に、日が傾きかけていた。
部屋を出てシンジを探しに行こうと思ったその時、
「ただいま。」
玄関のドアが開く音と共に、シンジの声が聞こえた。
早足で玄関に向かう。
「ちょっとシンジ、どこ行ってたのよ?」
「ちょっと気分転換に、湖の方を散歩してたんだよ。」
シンジが靴を脱ぎながら答えた。
「それよりアスカ、さっきは…、その…。」
そう言って、シンジは口ごもった。
そっか、謝ったらまたアタシを怒らせると思ったからね。
「…別にもう気にしてないわよ。お風呂入ったら怒りも収まっちゃったし。」
「そっか。」
アタシの言葉を聞いて、シンジは安心したように微笑んだ。
う…。
ちくっと、胸が痛む。
「……アタシの方こそ、当たっちゃって、ごめん。」
謝った後、何となくシンジから顔を逸らした。
素直に謝るのって、やっぱり慣れないわね。
「僕も気にしてないからいいよ。ありがとうアスカ、謝ってくれて。
…それよりもう夕食って作り始めてる?まだなら僕も手伝うよ。」
「まだだけど、…じゃあ手伝って貰おうかしらね。久しぶりにシンジの料理も食べてみたいし。」
「ずるい。」
夕食時、シンジが味付けをしてくれた高野豆腐の胡麻和えを食べている内に、
つい我慢出来ずにアタシの口から出た言葉がこれだった。
「……。」
「ずるいずるいずるいずるいずるい〜〜〜〜っ!」
「……。」
「なんで、なんでいつも作ってるアタシのより、たまにしか作らないシンジの方が美味しいのよ?!」
シンジが作ってくれた料理は、相変わらず美味しかった。
そう、アタシの作った料理よりも。
「一言でいえば、才能、かな?……いてっ!」
殴ってやった。
グーで。
「なっ、殴る事ないだろっ!」
「調子に乗るなバカシンジ!あ〜も〜、本気でムカつく〜〜!」
「……。」
「大体、調味料なんかで味付けが変えられるおかずなら兎も角、
なんで何の変哲も無いご飯まで普段と同じ炊き方だったのに美味しくなってるわけ?」
「ああ、それはさ、ご飯を炊く前にアスカいつも、ふっくらさせる為にお米を少しの間だけ温泉のお湯に浸すでしょ?
その前に、研いだお米の水を切って布巾を被せてしばらく乾燥させてたんだよ。
そうすれば炊き上がったお米の大きさがバラつかないかなと思ってさ。」
「…何でそんな事思いつくのよ?」
「何でって?才の…いたっ!痛い痛い!痛いってアスカ!」
シンジの頭をポカポカと何度も叩いた。
「うぅ〜〜〜、女として自信失くすわ…。」
「う…、ま、まあ、好みなんて人それぞれなんだし、僕はアスカの作ってくれた料理の方が好きだよ。」
「…わざとらしい。」
「う…、む…。」
そう唸ってから誤魔化すように、ずずっ…と、シンジが味噌汁を飲んだ。
「ねぇシンジ。…何、悩んでるの?」
一緒に洗物をしている時に、シンジに切り出した。
鍋を洗うシンジの手が止まる。
「え…?別に、悩んでなんて…」
「嘘。最近のシンジの様子見てたらバレバレよ。アタシがどれだけシンジと一緒にいると思ってるのよ?」
「……。」
「何のつもりで何も言ってくれないのか知らないけど、そうやって隠されてるのって、
まるでアタシがシンジに信用されてないみたいで、傷つく。」
「……。」
沈黙。
シンジの手は、止まったまま。
「……。」
「…………人が帰って来る事が、怖かったんだ。」
「うん。」
「人が帰ってきたら、今みたいな生活も、もしかしたらアスカと一緒にいることも出来なくなるかもしれない。
最悪、僕達が死ぬ事だって…、だから、怖くなった。」
「うん。」
「人が帰って来るのなんていつになるかわからないのに、きっと、当分先の話なのに、
今から怖がったって、仕方ないのに。…情けないよね。」
「そんな事無いわよ。」
「…アスカは、怖くないの?人が帰って来る事。」
「正直、あんまり実感湧かないかなぁ。
でも、もし人が戻ってきてセカンドインパクトの時みたいになったって、きっと何とかなるってアタシは思ってるわよ。」
「…強いね。アスカは。」
「当ったり前でしょ!このアタシを誰だと思ってるのよ?
泣く子も黙る天才美少女にして可愛い奥様、碇・アスカ・ラングレー様よ?
そんな事ぐらいでビクつかないわよ!
…だからシンジ、アタシにもっと頼ってよ。アタシは全然、大丈夫だから。」
「……うん。ありがとうアスカ。話、聞いてくれて。」
そう言って、シンジの手がアタシの頬に触れる。
「んっ…。」
そのまま、シンジはアタシに口付けた。
「ねぇアスカ。…僕は、どうしたら強くなれるのかな?」
一緒に眠る布団の上で、シンジがアタシに尋ねた。
「強くなる必要なんか無いわよ。シンジは、もう十分強いもの。」
「僕は、強くなんかないよ。今だって、こうやってアスカに縋りついてる。」
「バカね。全く他人に頼ったり縋ったりしないで生きていける人なんて誰もいないわよ。」
「でも、このままじゃ、どんどん駄目になっていく気がする。…エヴァに乗っていた、昔みたいに。」
「かもね。でも、もうアタシ達は一人じゃないんだし、あの頃とまったく同じにはなんないわよ。」
「……ありがとう、アスカ。」
「うん。」
「ごめん、弱音ばっかり吐いて。」
「いいんじゃないの?無理に強がったって、不安に思ってる事には変わりないんだし、
それに我慢して溜め込み過ぎたら、昔のシンジやアタシみたいに、潰れちゃうしね。」
「うん。…ホントにありがとうアスカ。だいぶ気持ちが楽になったよ。」
「どういたしまして。アタシに話す事でシンジの気持ちが楽になるんなら、それで何よりだわ。」
「…アスカは、ホントにいいお嫁さんになったよね。僕なんかにはもったいないぐらい。」
「ばか。」
「好きだよアスカ、愛してる。」
「アタシも、大好きよシンジ。愛してる。」
「すぅ…すぅ…。」
シンジは、気持ちよさそうに眠っている。
「どんどん駄目になっていく気がする、か…。」
確かに、アタシがシンジを慰める事でシンジの不安を和らげてあげる事は出来るけど、
それだけじゃ、アタシとシンジの関係は、いずれただお互いに依存しあうだけの関係になって行って、
いつか駄目になってしまうような気がする。
「シンジの不安の原因そのものを、どうにかしないといけないわね…。」
でも、それはアタシ達の力ではどうにもならない。
「レイ、か…。」
あの子なら、人間が帰って来る事を止める事だって…。
ううん…。
きっと、駄目ね。
生命が帰ってくる事自体は、あの子達でも止められない。
シンジが免疫疾患にかかった時にタイミングよく細菌が戻ってきたのだって、単なる偶然だった。
シンジが治ったのだって、シンジの身体に元々備わっていた治癒力によってだった。
シンジも同じ事を言っていたけど、それを抜きにして考えてみても、アタシの心は何故かそう確信してる。
それにあの子達に頼るって言ったって、何処にいるのか、そもそも本当に存在していたのかどうかも怪しいのに頼るも何もない。
「それにこんな、アタシ達だけが幸せな、身勝手な頼み事なんて、したくない。」
もしそんな事をしたら、アタシの中の、決して曲げてはいけない何かを曲げてしまう気がする。
それを曲げてでも幸せでい続けようとしたって、きっとアタシは幸せではいられない。
それにアタシだけじゃなく、アタシの事を見捨てられないシンジまできっと不幸にしてしまう。
あの子達を当てにしちゃいけないわね。
「せめて、人が戻ってきても大丈夫って少しでもシンジが思えるような、希望が欲しいわね。」
諏訪警察署。
僕とアスカはその署内にある道場にいる。
「どりゃ!!!」
僕が左上段に構えたキックミットに向けて、アスカが右の上段蹴りを決める。
「っ……。」
腰が入って巧く体重が乗っているから、アスカよりも体重のある僕でもちゃんと構えてなければよろめく。
「せっ!!!はっ!!!たあっ!!!とうっ!!!」
アスカが上段蹴りを何度もキックミットに綺麗に決めていく。
「っ…、っく…、っ…、っ…。」
次々と繰り出される蹴りの迅さに戸惑いながらも、僕は何とか受け止めていく。
ここに来たのは、アスカの提案だった。
人が戻ってくる事自体は僕達にはどうしようもない。
ならせめて、そうなった時自分達で身を守る手段を身につけていよう、
そうすれば、シンジの中の不安もちょっとはマシになるかもしれない、と言うことだった。
確かに、このままでいても僕の中の不安は何も解消しない。
なら、例えがむしゃらでも具体的に動いた方がずっとマシだと、僕も思う。
気も紛れるだろうし。
「う〜〜〜〜〜んっ。こんなもんかしらね〜。」
アスカが伸びをしながら言った。
「さいですか…。」
時間にすれば一時間弱ぐらいだろうか、訓練で教わった技の確認ということで、
僕はアスカから突きや蹴り、投げ技や締め技や間接技などを受け続けた。
「後は武器技ね。」
「え…?」
まだあるの?
しかも武器って…。
「まあでも、流石に体力的にキツいわね。」
「……はぁ。」
ほっとした…。
「あ、シンジ今ほっとしたでしょ?この位でへこたれるなんてなっさけない、アタシと違って毎日鍛えてる癖に。」
「う、うるさいなぁ。別にへこたれてる訳じゃないよ。やろうと思えば、まだまだやれるし。
それにいくら鍛えてるって言ったって、慣れない事は疲れるもんだよ。」
それに、強くなろうとかそういう具体的な目的をもって身体を鍛えてたわけじゃない。
ただ漫然と、何となくそうした方がいいかと思ってやっているだけだった。
「はいはい。」
「む…。
でも、凄いねアスカ。やっぱり、エヴァの訓練で習ったの?」
「まあね。でも習ったって言ったって、いつも型を憶える程度で終わってたから、大して練習なんてしてないわよ。」
「そうなの?でもその割には様になってたような…。」
「これもひとえに才能ってやつぅ?きゃは〜♪」
「……。」
「…こほんっ!……ま、型を憶える程度しか練習してないって言ったって、これだけ広範囲に色々やったら、
「共通のコツ」みたいなもんは掴めるもんなのよ。」
「へぇ〜〜。共通のコツかぁ……。
あ、でも、アスカでもそれぐらいしか練習しなかったんだよね?
エヴァの訓練なんだから、もっと身体に染み込ませるぐらい厳しくってもおかしく無いと思うんだけど…」
「あんたバカァ?
エヴァはアタシ達がイメージする事で動くのよ?
アタシ達がいくら身体を鍛えたって、エヴァの操縦には無関係。
それどころか、下手をすれば自分の身体的な限界を勝手に頭の中に刷り込んじゃって、
本来エヴァなら出来るはずの動きが出来無くなって戦闘能力が逆にダウン、なんて事になりかねないじゃない。
エヴァの身体能力は、生身のアタシ達とは比べ物になんないぐらい高いんだし。
だからアタシが習った技や動きは、あくまで身体を上手く使って力の流れを無理なく、
かつ効率的、かつ有効に伝える為に教わったものでしかないのよ。
それも、あくまで参考程度のもの。
そもそも武道や格闘技なんかの近接戦闘技術なんて、あくまで対人しか想定してないんだから、
使徒っていう未知の化け物と闘うのにそれ程有効な手段とは言えないしね。」
「なるほど…、確かに…。」
でも、きっと理由はそれだけじゃないな。
最後の戦いの時、何処かの、おそらく戦略自衛隊の隊員に殺されかけた時の事を僕は思い出した。
アスカがそれ程近接戦闘の技術を叩き込まれなかったのは、いざという時には速やかにエヴァパイロットを無力化したり、
排除し易いようにする為という理由もあったんだろう。
「だからアタシが受けた訓練は、シンジもやったようなエヴァとのシンクロテストや
エヴァを操縦するイメージトレーニングが大半だったの。
対人を想定した戦闘訓練なんて、ほとんど何もやってないに等しいわね。
それでも一応はちゃんと教わった身だし、この手の戦闘訓練の経験が無いシンジよりは要領を掴めるから、
その掴んだ要領をシンジに教える為にもこうやって教わった技を確認する必要があったってわけ。
…まあでも、受身も碌に出来なかったのに、いきなり一時間も色んな技を掛け続けたのは悪かったわね…。」
「別にいいよ、必要な事だったんでしょ?それに巧い打撃の受け方や受身の仕方なんかの勉強になったしね。」
「流石シンジ、物分りがよくて助かるわ!
明日から早速色々教えてあげるわね!」
「え、明日からなの?せっかく一時間も技を受たのに…」
「だって、しょうがないじゃない。疲れたんだし。」
「何だよそれ。じゃあこんなにいっぺんに技を思い出そうとしないで、一つずつやっていけばよかったじゃないか。
そうすりゃ今日、僕も学べたのに…。」
「う、うるさいわね!思い出す事に夢中になってたのよ!
…いい事シンジ?
急がば回れ、走れば躓く、急行に善歩無し。
そんな朝日の百より今日の五十を取るような姿勢で学ぼうとしたって、身につくもんも身につかないわよ!」
「な…?何開き直ってるんだよ!そもそもアスカが悪いんじゃないか!付き合わされた僕の身にもなってよ!」
「何ですってぇ!?
ついさっきアンタ受身の勉強になってよかったとか言ったじゃない!
それに、今日やったような徒手での近接戦闘の技術はあくまで相手が武器を持っていない場合、
それも相手が少人数の場合じゃないとほとんど実戦じゃ使えないのよ!
にわかで学んだって武器を持った暴徒が大勢で襲ってきた場合なんかには何の役にも立たないんだし、
ごくごく限られた特殊な状況下でしか使えないんだからそんなに焦って学んだって無駄よ!」
「それとこれとは話が別だろ!
…まあいいよ。
先達にはまず従え、
僕はアスカに比べてまだ、何もわからないんだし…。
で、今日はこれからどうするの?これでもう終わり?」
「バーカ。何の為にわざわざここに来たのよ?
まだ肝心の、一番強力な自衛手段に何も触れて無いでしょ?」
「……やっぱり、そうだよね。」
射撃訓練場。
「……。」
僕の手には、38口径のリボルバー式の拳銃が握られている。
日本の警察で一般的に使われていた拳銃だ。
最初に見つけた銃がこれだった。
「…思ったより、軽いわね。」
アスカが言った。
アスカの手にも同じ銃が握られている。
「…そうだね。銃って、もっと重たいものだと思ってた。」
「威力や耐久性よりも携行性と安全性を重視して小型化、軽量化させたハンドガンみたいね。
たぶん、銃身と弾倉以外はアルミ合金で出来てるエアーウェイトってやつか。」
「…アスカは、訓練とかで銃を撃った事ってあるの?」
「無いわよ。エヴァの操縦には必要ないもの。
エヴァには自動照準機能もあるんだし、
殆ど反動を気にしなくてもいいから構え方や撃ち方に気をつける必要も無かったしね。
ま、ちょっとは撃ってみたいって気持ちもあったけど、「子供にはまだ早い」って触らせてもくれなかったわね。」
「そっか…。」
僕は握っている拳銃のシリンダーを横にずらし、
弾を一発ずつ込めていく。
最大装填数である五発込め終えると、シリンダーを元の位置に戻した。
安全装置をはずして撃鉄を起こし、この警察署にあった教本通り、
左足を少し前に出して右腕を伸ばし、左手をグリップを握る右手の上に重ねて握り、
肩より少し上の位置に銃が来るように構える。
左目を瞑り、
人の上半身を模した黒い板の頭に書かれた白い的に、銃の先端の出っ張りが重なり、それが後端の窪みに収まる様に狙いをつけた。
トリガーに指を掛ける。
後は、この指を引くだけ。
「っ……、はっ……、はぁ…、はぁ…」
照準が、ずれていく。
銃を持つ手が勝手に震える。
呼吸が、どんどん乱れていく。
心が、揺れている。
撃ちたくない。
こうやって、銃を構えているだけでも嫌だった。
この道具を使う事自体が、嫌で仕方が無い。
純粋な、人殺しの為の道具。
これを使うという事は、頭の何処かで人を殺す事を想定して、それを認めるという事。
人を殺して地獄を見た僕には、
この引き金を引く事で、もう一度、あの地獄を呼び寄せてしまうように思えた。
トリガーを引けないまま、十数秒もの時が過ぎる。
狙っていた的から目線を逸らして、横にいるアスカを見た。
「…はぁ……、はぁ……、っ……」
アスカもまたいつの間にか準備を終えて、僕と同じように銃を構えたまま固まっている。
思い詰めたような表情だった。
呼吸が乱れているのが見ていてわかった。
多分アスカも今、僕と同じ気持ちなんだろう。
いや、きっと僕よりももっと…。
もしかしたら、この警察署に来た最初に道場で一時間も僕に技を掛け続けたのは、
銃を撃つ前になるべく気持ちを奮い立たせておこうとしたからなのかもしれない。
僕は目線を戻して、もう一度狙いをつけた。
「はぁ……、はぁ…、っ…、…っ!」
乱れる心を抑えるために、僕は呼吸を止めた。
一瞬の思考の間隙。
トリガーを引いた。
銃声。
手に、反動が伝わる。
火薬の臭いがした。
「…っ!…っ!…っ!…っ!」
鳴り響く銃声と撃った反動に対して脊髄反射を起こすように、僕はトリガーを何度も引いた。
手の中の銃が五回鳴るまでに、隣からも銃声。
それも五回続く。
「はっ、はっ、はっ、…はぁ、…はぁ。」
頭をドクドクと血が巡っている音がする。
頭痛。
呼吸を整えながら的を見る。
肩の部分に一発、それ以外は的にすら当たっていない。
撃った弾は全て、狙いを大きく外れていた。
隣からドサッ、という音。
振り向くと、アスカが倒れていた。
「アスカ、大丈夫?気分はどう?」
警察署の応接室のソファに、濡らしたタオルを額に当てて、アスカが横たわっている。
あの後、すぐにアスカを抱えて射撃訓練場を出て、横になれるここまで運んできた。
アスカが倒れたのは、おそらく銃を撃った事で精神的に大きな負荷がかかったせいなんだろう。
「うん…。大丈夫…。だいぶマシになってきた…。」
アスカが弱々しい声で答えた。
「喉乾いてない?お茶飲む?」
「うん…。ちょっとだけ…。」
「わかった。」
そう言って水筒に入れていたお茶をコップに注ぎ、アスカに渡した。
「ん…。」
アスカはコップに口を付けてちびちびとお茶を飲みはじめる。
どうやら大丈夫そうだな。
「もういいわ…。ありがと…。」
「うん。」
アスカが、まだ中にお茶が少し残っているコップを僕に手渡した。
僕はすぐ傍の机にコップを置いた。
「ごめん、心配させて…。」
「いいよ。もう少し休んでなよ。」
そう言って、僕はアスカの頭を撫でた。
「うん…。」
アスカが目を瞑る。
そのまま、眠るアスカを僕は黙って見つめ続けた。
「……。」
瞼を開く。
シンジのおかげで、ずいぶん楽になった。
もう、動いても大丈夫そうね。
身体を起こした。
「アスカ、起きても大丈夫なの?」
傍にいるシンジがアタシに尋ねる。
「うん、もう動けそう。ありがとうシンジ。」
「そっか、よかった。」
「シンジ、迷惑かけてごめんね。」
「気にしなくていいよ。アスカが大丈夫ならそれで僕は何よりだ。」
そう言ってシンジは微笑み、優しく頭を撫でてくれた。
暖かくて安心する反面、申し訳無い気持ちになる。
「……。」
「ほらっ、もうすぐ日が暮れちゃうから帰ろう。
おぶってあげるから乗りなよ。」
シンジが中腰の姿勢でアタシに背中を向けた。
「いいわよ、自分で歩けるから。」
焦って立ちあがろうとしたらよろめいた。
シンジが慌てて振り向きざまにアタシを支える。
「無理しちゃ駄目だよアスカ。」
「…ちょっとふらついただけよ。」
「もうっ、意地張らないでよ。
それに、今からゆっくり帰ったら夕食の準備に間に合わないんだから、
素直に僕の言うとおりにしてよ。アスカ。」
「う…。わかったわよ。」
しぶしぶ、シンジの背におぶさった。
夕暮れ時。
今日が、ビルの谷間に沈もうとしている。
シンジはアタシを背中に乗せて、茜色に照らされた帰路を辿る。
「銃って、置いてきたの?」
大きな交差点を横切っている時に、背中越しにシンジに尋ねた。
「うん。持っててあんまりいい気分しないしね。」
「そっか…。」
「…アスカ、ごめん。」
「何がよ。」
「元々、僕の為にあそこに行く事を思いついたんだよね?
僕のせいで、アスカに無理をさせてしまった。」
「バーカ。ほんっと内罰的なんだから。
あそこに行ったのは、シンジの為だけじゃなくて、アタシも人が帰ってきた時の対策を今の内からしておきたかったからよ。
シンジが気にする事じゃないわ。」
「……また、あそこに行くの?」
「当ったり前でしょ。」
「無理、しないでよ。」
「わかってる。次からはもう、きっと大丈夫よ。シンジこそ無理しないでよね。」
「僕は大丈夫だよ。
…アスカ、本当に無理しないでよ。
僕は出来ればもう、アスカにあんな事して欲しくない。」
「……ばかね。
大丈夫って言ったでしょ。
それに、練習したからっていつか誰かを殺す事になるとは限らないじゃない。
脚を撃っても人の動きは止められるし、そういう使い方をすれば殺さないでも済む。
それにもし本当に銃を使うとしたら、争いを止める為の脅しとして使う事の方が多いでしょうしね。」
「……。」
「それに、出来ればシンジにそんな事をして欲しくないのはアタシも同じ。
でも、いつでもお互いを守りきれるとは限らないし、いざとなったら自分の身は自分で守るしかない。
だからシンジにアタシをとやかく言う権利なんて無いし、アタシにもシンジをとやかく言う権利なんて無いわ。」
「……。」
「まあでも、まず自分で自分を守らなきゃいけないような状況にしないようにするのがベストだけどね。」
「……。」
「その為にも、アタシがちゃんとシンジを守ってあげなくっちゃね。」
「……。」
「安心してシンジ、アタシがちゃ〜んと守ってあげるからね。」
「…それ、僕の台詞だよ。」
そう言って、背中越しに見たシンジの横顔が、少しだけ笑った。
本当に笑ってくれたのか、それとも単なる愛想笑いだったのかわからないけど、
アタシは少し、嬉しかった。
だけど、
「……本気、なんだから。」
シンジに聞こえないほどの小さな声で、アタシはそっと呟いた。
もし、人が戻ってきて、アタシがこの手で再び人を殺してしまったら、
アタシはまた、あの地獄に堕ちてしまうんだろう。
そうなれば、きっともう二度と、アタシは幸せにはなれない。
アタシは、それでも構わない。
シンジが幸せなら、シンジが生きてくれるのなら、アタシはもう一度、あの地獄に堕ちてもいい。
だから、出来るなら、アタシだけで殺して、アタシだけが汚れよう。
例えそのせいで、シンジと一緒にいられなくなってしまうとしても。
新章第一回です。
前回も書いたとおり、此処からの話はかなりの難産でした。
そうなった主な原因の一つは、二人の感情の流れを誰もが納得できるように上手く表現する事が出来なかった、という所にありました。
その為、此処からの二人の感情の流れについて、人によっては不自然に感じる部分があるかと思われます。
また、作者は銃などの武器や、軍関係の兵器や格闘術などについて疎いので、
それに関係する描写について甘い所や間違った所が多々あるだろう事を、お断りしておきます。
あ、後、いつの間にかアスカが惣流から碇へと姓が変わっていますが、
これは以前述べた書く時間と余裕の無かった、二人がまだ甲府で生活している頃のエピソードの一つで、
シンジとアスカが二人だけの結婚式の話を挙げる話があり、その時からアスカは碇と名乗るようになった為です。
2009年12月6日 たう