湖の近くにある民家に入った。
何か役に立ちそうな物や、興味を惹かれる物がないか漠然と探す。
写真。
その中で、ここに住んでた家族だろう人達が笑っている。
幸せそうな笑顔。
僕は写真から目を逸らし、構わず部屋の中を漁った。
「どうしてこんな事してるんだろうな、僕は…。」
民家を出た後、僕は呟いた。
自分の知らない他人の家に入る事なんて、最近はずっとしてこなかった。
何かが欲しいときは商店に行けば殆ど目的の物は揃うから、
目的の物があるかどうかもわからない民家をわざわざ家捜しする必要も無く、
何より、そこに住んでた人達の痕跡を見てしまって、嫌な気分になってしまうからだった。
だからどうしても入る必要が出るまでは、他人の家に足を踏み入れないようにしていた。
なのに今、僕は特に入る必要も無いのに他人の家に入って家の中を漁った。
自分で自分の行動の意味がわからなかった。
「…いや、確認したかったのかもしれない。」
自分の罪を。
諏訪湖湖岸。
湖の赤は、また薄くなった気がする。
人々の溶けた赤。
元々、この湖の水の滞留時間は約四十日ほどで、本来ならもうとっくの昔に元の色に戻っていてもおかしくは無い。
なのにまだ赤いままなのは、ここに生きていた人や生き物達がここに留まろうとしているからなのかもしれない。
自分のイメージ。
自分が生きていた環境もまた、それを構成するものの一つなんだろう。
心に巣食い始めた空虚さの正体。
それは多分、罪悪感なんだろう。
幸せに対する疑問。
僕に、幸せに生きる権利なんてあるのか?
「関係ない。」
僕に幸せになる権利があろうが無かろうが、僕は幸せに生きなければならない。
じゃなきゃ、アスカが悲しむ。
だからこんな問いは、僕にとって意味が無い。
例え他の誰もが僕の幸せを認めなかったとしても、僕には関係ない。
罪悪感か。
僕の中にある良心が、痛んでるんだろうな。
良心。
他人を傷つけてはいけない、他人に優しくしなければいけないと思う一種の強迫観念のような感情。
この感情は多分、元々は生き残る為に生命に備わった本能の一つだったんだろう。
弱肉強食の世界で、いや、弱肉強食の世界だからこそ、生き残る為には他の個体、他の生命と協力しなければならない。
特に、子は親に守られなければすぐに死んでしまうし、親は子を守らなければ自分の種を残す事は出来ないから、
親子の間にはこの協力関係を繋ぐ為の本能が必要だった。
そういう、他の個体の為に行動する本能が、良心の元だったのだろう。
そして、親が自分の子だけを守るように、特定の対象だけを相手にしていたその本能は、
人間のような複雑な社会行動をする生命の中で、より不特定の相手を対象とした弱い本能としての良心を生み出したんだろう。
社会を対象として、社会に排斥されない為の、排斥されない保障を手にして安心を得る為の本能。
これも本能だからこそ、生きようとする本能を抑え込んで他者の為に命を捨てるなんて事も出来る。
そして、良心にそぐわない行動をしたとき、人は罪悪感という不安にとてもよく似た感情を感じる。
罪悪感が、きっと不安から派生した感情だからなんだろう。
社会から見放され、孤立してしまうかもしれない不安。
恨まれ、平穏を脅かされて大切なものを奪われるかもしれない不安。
或いは、他人が痛みを受けるさまから、自分が同じ目に遭う事を連想してしまう事から起こる不安。
罪悪感とはあまり関係ないけど、人が本能的に死に関わるものを遠ざけようとすることも、
自らの死を連想してしまうっていう事にも起因しているのだろう。
他人を殺すことで、いつか必ず来る自らの死を連想してしまう事から起こる不安。
死。
赤い水。
この湖にも溶けている、いつかは帰ってくるだろう人々。
セカンドインパクト直後の混乱期には、暴動と略奪によって多くの人々が殺された。
人々が戻ってきたら、セカンドインパクトの時のような暴動と略奪がまた起こるのだろう。
そして僕達も、きっとそれに巻き込まれる。
「なら、誰も帰ってこなくていい。」
みんなに会いたいから僕は一つになることを拒んだ。
でも今はもう、誰にも会いたくない。
ミサトさんのペンダントはいまだに持っているけれど、そんな未来が待っているのなら、僕は未来なんていらない。
それでもこのまま何も帰ってこなければ、未来が無ければ、
僕達が生きてきた事には何の意味も無かったことになるんだろう。
でも例え未来があったところで本当は、ただ意味があるように見えているだけだ。
僕にも、アスカにも、誰にも、本当は生きている意味なんていうものは無い。
仮に、僕達が何かの為、例えば神様なんかの為に重要な意味を持って生きているとしても、
じゃあその神様は何の為に存在している?
神様が仮にもっと偉い存在の為に存在したとして、その偉い存在は何の為に?もっと偉い存在の為に?
その偉い存在よりもっと偉い存在はもっともっと偉い存在の為に?
再帰性を持つ構造。
行き着く先は無意味だ。
仮に、神様の為に生きている僕達の為に神様が存在しているというような相補的な閉じた構造だったとしても、
その構造全体の存在する意味を問い出すと、やはり同じ再帰的な構造の中に納まってしまう。
絶対的な意味など無いんだ。
あるのは、僕にとって、アスカにとって、誰かにとってというような相対的な意味だけだ。
そもそも意味や価値なんてものは、それを捉える人や基準によって変化する相対的なものでしかない。
だからこそ、常に変化し続ける僕達の中で、生きている意味も変化していく。
それまで意味を持っていたものが、たやすく意味を失ってしまう。
どうせそんな儚い意味しかないのだから、僕は未来なんていらない。
アスカと一緒にいられる今さえあればいい。
「それにこんな世界に戻るぐらいなら、溶けてしまった人達もこのままの方がいいだろう。」
戻ってきたところでこの世界には何も無い。
戻ってきたところで本当は意味の無い生を、さも重要な意味があると思い込んで生きていくんだろう。
今までのように。
ある人は科学の発展に人生を捧げる事に意味を見出し、
ある人は愛する誰かの為に人生を捧げる事に意味を見出し、
ある人は社会や家族の為に働く事に意味を見出し、
ある人は国の為に命を投げ出して戦う事に意味を見出し、
ある人は神様が与えた使命を遂行する事に意味を見出し、
ある人は欲望のままに快楽をひたすら貪り続ける事に意味を見出し、
ある人は生きている事そのものに意味を見出して生きてきた。
そうやってそれぞれの人がそれぞれの意味を追い求めて生きて、
時にその意味とやらの為に争い、他人を傷つけ、殺し、犠牲にしてきた。
そうやって、世界は回ってきた。
「その挙句がこれか。」
僕なんかに世界の命運は預けられ、結果、世界は終わった。
人々が戻ってきたとしても、結局今までと同じ事を繰り返して、最期にはまた破滅の道を選ぶのだろう。
例えもう、使徒がいなくても。
エヴァが無くても。
エヴァ。
エヴァを造り、使っていた組織であるネルフ。
その前身、いや、多分上位組織として存在していた組織、ゼーレ。
ドイツ語で、魂の意。
これが本当の名前かどうかはわからないけど、ドイツ語で神経を意味するネルフと関係している所からみても、
多分本当にこういう名前だったのだろう。
古本屋で見つけたセカンドインパクト以前に発行された書籍の中に、陰謀論に関する書籍がいくつかあった。
そのほぼ全てにゼーレの名前が挙げられていた。
それら書籍の中にゼーレは世界を陰で操る組織として記されている。
驚いた事に、後にセカンドインパクトを引き起こす事になる南極での活動に言及しているものさえあった。
今でこそ、いや、ネルフに深く関ったからこそ、ここに書かれている事に真実が含まれている事がわかるけど、
何も知らない人がこの本の内容を見ても、きっと眉唾にしか思わないだろう。
誰も信じる事が無いからこそ、こうやって大っぴらにしている。
あえて大っぴらにして、更に真実に幾つか虚構を混ぜる事で、ゼーレに関する情報の信用を落とすって意味もあるんだろう。
それに誰かが信じたところで、そんな信用のできない情報で動く人や組織の規模や権限なんて、たかが知れている。
ゼーレにとって、あんな本によって与えられる打撃なんて取るに足らない微々たるものだったんだろうな。
事実、彼らの思惑通りに世界は動き続け、最後にはサードインパクトを起こしてみせたのだから。
そしてそんな、世界をほとんど思い通りに動かせるほど強大な組織であったゼーレは、
その力をそれまでの世界を維持する事にではなく、滅ぼす事に使った。
ゼーレのせいで僕とアスカはあんな目に遭ったのだから、
許す事も納得する事も出来ないけれど、それでも、彼らがこの結末を望んだ理由は理解できる。
無理だったんだ。
世界を平和にするどころか、維持し続けていくことさえも。
人が社会を形成していけば、ほぼ自然に、強い権限を持つ王という立場が生まれる。
良い政治を行う王もいつかは死に、いずれ王座には悪政を行う王が就く。
それ故に王の悪政に苦しむ人達は、いや、単に権力欲に取り付かれただけの場合の方が多かったんだろうけど、
歴史上何度も、王を王座から引き摺り下ろしてきた。
だが、王という絶対的な権限を持つ立場がある限り、悪政を行い民を苦しめる王は必ず出てくる。
だから、人々は王という立場そのものを壊した。
人々は自分達の中から王に代わる主導者を選び、時期が来れば交代するという制度を作り出した。
それは同時に、信仰によって人々を精神的に支えると同時に縛り付ける鎖にもなる、
精神的側面から王の権威を支えていた宗教をも破壊した。
人々は、それにより幾つかの、特に心の自由を手に入れた。
そして今まで人々の中に抑えつけられていた欲望も自由にした。
開放された欲望はあらゆる方向に社会の成長を促進し、文化や産業や技術や科学の発展が加速していく。
文化と産業と技術と科学の発展は人々に便利さと考える余裕を与え、同時に欲望を更に増長させていき、
それまで人々の間である程度固定されていた価値観を多様化させていく。
それも、今まで否定していた欲望を肯定し、むしろ進んで欲望の虜となる様な堕落した方向へ。
そしてそんな、価値観が多様化し、あらゆるものの価値の統一性が失われていく社会において、
価値の統一性を失わずにいられる数少ない「確かなもの」の一つが金銭だった。
それ故に、社会での、そこに住む人々の中での金銭の重要性は大きくなり、
いや、金銭を最も重要だと考えるような人々の社会での立場が強くなっていったとする方が正しいか、
いずれにせよ、社会は政治や宗教よりも経済に重点が置かれるよう変化していった。
そして人々の欲望が開放された社会においては、より多く儲ける為に経済は自由化し発展していく。
それは経済のコントロールを利かなくした。
結果としてそれは貧困と世界中を巻き込む戦争を引き起こした。
そして世界は二つの考え方に分かれていく。
経済をある程度は自由なままにしておく考え方と、ほぼ完全に管理する考え方。
二つの考え方は対立し、戦争に結びついた。
自由の中で培われた科学は戦争の中で兵器を進化させていく。
切磋琢磨の末、お互いが、使えば世界を滅ぼせる程の力を手に入れた。
それは力の拮抗を生み、世界に安定をもたらす。
その安定の中でも人々の欲望は文化と産業と技術と科学と経済の発展を促進させ続け、
そこに生きる人々の欲望と共に、社会は肥大化し続けていく。
肥大化し続ける社会を維持する為には、どのような形であれ自然を壊し続けなければならない。
回復するのが決して間に合わない程の速度で。
それがいずれ、人間に大きな破滅をもたらすだろう事は明白だった。
さながら、時限爆弾を抱えたまま行われるチキンレース。
それが、セカンドインパクト以前の世界のかなり大雑把な概況で、
そして、ゼーレの暗躍があったとはいえ、
僕のような後ろ向きな人間には、この一連の不可逆的な歴史の流れは、知恵の実を食べてしまった、
欲望を抑えきれない、意味を求めずにはいられない人間が、どうしてもいずれ必ず辿ってしまう運命のように思えた。
王という頭は、いずれ必ず抑えきれなくなった民衆という身体にその主導権を乗っ取られ、
多様的な、テンでバラバラな目的と欲望を持ち、自分の立場しか見えない民衆という身体には、
その欲望を抑える必要がある事など決して理解できず、頭のように纏まった思考を持てないまま、
自らの身体を自分勝手に引っ張り合って、思い通りに動けないまま、いつの間にか追い詰められて、やがて死んでいく。
水が低きに流れるように、とても自然な流れを持つ自滅の運命。
そして、時限爆弾を抱えたまま行われるチキンレースは、
形こそ変えてはいたが、セカンドインパクト後も続く。
セカンドインパクトによって世界中で発生した紛争、暴動、略奪は、
世界各国の軍隊を吸収して巨大化した国連軍の圧倒的な軍事力によって一応は鎮圧され、
統一された国連軍は各国の復興にも大きな力を発揮した。
それにより、世界はセカンドインパクト後五年もしないうちに一応の落ち着きを取り戻した。
しかしその陰では、復興の為、そして巨大な国連軍の「維持」の為に多くの資源を必要とした為に、
セカンドインパクトによってダメージを受けた自然環境は、更に破壊される事になった。
日本など一部の経済的に豊かな国や、国連内で強い権限を持っているような一部の国の中では自然の生態系が戻りつつあったけど、
経済的に貧しい国々や、国連内での権限の弱い他の圧倒的に多くの国々の自然環境、生態系は、
絶大な軍事力を持つがゆえに、もはや独裁的ともいえる権限をもったセカンドインパクト後の国連への「支援」の為に、
セカンドインパクト後の壊滅的状況に拍車をかけるように、セカンドインパクト前を凌ぐ速度で壊され続けた。
それらの国々の経済的状況は復興後も尚逼迫し、それらの国々の中では国連に対する不満は高まり続け、
国連軍による鎮圧によって大規模な紛争こそ無いものの、それらの国々では小規模な暴動が常に起き続けていた。
故に、戦争という形こそとっていなくても、それらの貧しい多くの国々と一部の豊かな国の間には国連内での「対立」が常に存在し続け、
その「対立」は時間が経つほどにエスカレートしていった。
もしあのまま世界が続けば、いずれ貧しい多くの国々が国連を離れる事で国連軍が分裂し、
世界中が再び戦争の渦に突入する、なんて事にきっとなっていた。
例えサードインパクトを起こさずに済んでいたとしても、
百年、いや、下手をすれば十年も経てば、人間にはまた破滅が待っていたんだろう。
それも、セカンドインパクトよりも、もっとずっと性質の悪い形で。
人類がそれで滅びるとは言わないけど、
生き残った所で、自然を壊した事であらゆる資源を失い、更に環境が自浄作用を失った事で浄化されずに残った毒に身体を蝕まれながら、
文明の再建も絶望的な、いや、例え仮に再建できたとしても結局は同じような滅びを経て、
やがては僅かにある食糧も奪い合い殺し合い続けなければ生きていけないような、
苦痛の中でただ緩やかに滅び行くだけの世界になってしまっていたのだろう。
そしてその先には、人の生きた証など、何も残らない。
だからこそ、ゼーレはきっと破滅を肯定し、せめて意味のある破滅を望んだ。
全ての人間が一つになって生きるという、破滅を。
もちろんこれだけが理由では無いのだろうけど。
「僕は、本当に全てを台無しにしてしまったんだな…。」
人間は結局一つになれなかった。
僕が拒絶したから。
「でも、きっとどっちでも同じだった。」
僕達人間は元々、使徒であるリリスの源から生まれたものだ。
元々一つの生命体だったものが僕達人間に分かれたのだから、一つに戻っても、またいつか分かれてしまう気がする。
結局、同じ事の繰り返しにしかならなかったのかもしれない。
そしてその繰り返しの果てには、必ず破滅が待っている。
相対的とは言え、人間が生きてきた意味を残す事さえ出来ない破滅が。
「だから母さんは、一人でエヴァに残ったんだろうな…。」
例え永遠に一人でも、人間が生きてきた意味を残す為に。
「バカだよ、母さん…。」
本当は、意味なんてものは無いのに。
永遠の孤独なんて、耐えられるはず無いのに。
湖畔は、夕焼けに染まっている。
「くだらない事、考えちゃったな…。」
本当にくだらない事だった。
こんな事を考えたって、今更どうしようもないし、何の意味も無い。
それに何より、こんな考え、世界を滅ぼしてしまった自分を少しでも正当化しようとして思いついた事にしか過ぎないんだろう。
人間の良心が、本当に僕の思った通りに、自分の安全を求める為のものだったとしても、
良心に従って他人の為に何かをする事を誇らしく感じる事には変わりないし、
その誇らしさを大切なものだと感じることにも変わりはない。
良心から出た行動が、多くの場合実際に人を助ける事になるという事実も変わらないし、
優しくされたら、嬉しく感じることにも変わりはない。
生きてきた事に意味があったと思えたなら、誇らしいと思える事も変わらない。
例えその意味が絶対的なものでは無くても、世界を破滅させた一因であったとしても、
人間はきっと、生きる意味を求めずにはいられない。
例え愚かだろうと、人間は人間だ。
それは、僕も同じだ。
僕は、アスカの為に生きたい。
そうして生きる事に本当は何の意味も無くたって、僕にとっては意味のある事だ。
僕にとって、少なくとも今の僕にとっては絶対的な事だ。
例えこの願いが他の全ての人達にとって邪悪な、間違ったものだったとしても、
僕が僕である限り、僕の中にこの願いは存在し続ける。
そして、僕は僕でしかないし、人の在り方の正誤もまた、相対的なものでしかない。
なら僕は、僕の願いに従う。
僕の思う、正しさに従う。
それでいい。
「…意味は、あったのかもしれないな。」
いつの間にか、空虚な気持ちが消えていた。
こうやって考える事で、自分の気持ちを再確認した事になったんだろうな。
ただ考える事に夢中になって満足しただけなのかも知れないけど。
「アスカも心配するだろうし、そろそろ戻るか。」
最後に、景色を見渡す。
夕暮れの、橙の光に包まれた光景は、相変わらず綺麗だ。
赤い湖と、緑の消えた山々は、決して心が落ち着くような綺麗な景色ではないけれど、
黄昏の中なら、全てが光に染まって同じになるから気にならない。
僕は、湖から離れるために踵を返す。
視界の端に、何かを捉えた。
湖畔に、人影。
制服姿に、
アルビノのように白い肌。
銀色の髪に、
赤い瞳。
忘れる事なんて出来ない、僕のよく知っている人がそこにいた。
まるで、黄昏の景色がそこだけ切り取られているかのように、
カヲル君が、そこにいた。
「……。」
言葉を失った。
カヲル君は、僕を見ていた。
悲しげな、まるで僕を憐れんでいる様な表情で。
「カヲル君っ!!!!」
駆け寄ろうとした。
意識する事も出来ないほどの一瞬のうちに、カヲル君の姿は消えた。
「……。」
僕は立ち止まり、再び言葉を失う。
幻覚、だったのか…?
胸に、嫌なものが広がっていく。
不安。
嫌だ。
アスカの顔が、見たくなった。
「…帰ろう。」
気分が悪い。
全身がだるくて、身体の節々に熱を持った痛みがある。
頭が、くらくらする。
呼吸するのが、苦しい。
足に力が入らない。
それまで壁にもたれ掛かりながら何とか歩を進めていた僕は、遂に地面にへたり込んだ。
僕は、どうなってしまったんだ…?
いや、多分…。
でも…。
今の自分が何が原因でこうなっているのか、想像を巡らせる。
既に以前、僕が想定していた幾つかの可能性に、僕は思い至る。
そしてその中の更に幾つかは、死に至る病。
嫌だ。
嫌だ。
不安で仕方ない。
考えを押し潰し、先に進もうとする事に意識を集中しようとした。
僕達の住む旅館の入り口は、もうすぐそこにある。
「……っ。」
気力を振り絞り、這って進む。
早く、アスカに会いたかった。
「ふっふっふ♪ふんふふふふふふふふっふ♪ふんふふふ♪ふんふっふ♪ふんふっふ♪
ふふふっふふふふふ〜♪」
アタシは鼻歌を歌いながら夕食の準備をしていた。
シンジが帰ってきたらびっくりするような、いつもより気合を入れた、豪華な食事。
いまからアイツの反応が楽しみだわ。
「それにしても、シンジったら何処行っちゃったのかしら?」
シンジが出てってから、もう結構経ってる。
特に目的も無いみたいだったし。
「ま、最近元気ないし、気分転換にぶらつきたくなったのかもしれないわね。」
何でもないように振舞ってるけど、ホントは苦しんでること、アタシにはちゃんとわかってるんだから。
「アタシが元気にしたげなきゃね。」
入り口の方から物音がした。
「どーやら帰ってきたみたいね。」
料理を中断して、シンジを迎えに行く。
「おかえり〜、シン…ジ…?」
入り口に入ってすぐの所で、シンジが倒れていた。
「シンジッ!!!!!!!」
シンジを部屋まで運び、布団を敷いて寝かせた。
熱がすごかったから、冷却用ジェルシートをおでこに貼り、
朦朧としているシンジに、熱さましの薬を飲ませた。
それから、ぐちゃぐちゃな頭ではもう何をすればいいのかわからなくて、ずっとシンジの手を握って名前を呼んでいた。
「シンジ…。」
シンジの呼吸は浅く短く、苦しそうだった。
見ていて辛い。
何も出来ないのが、もどかしい。
「今までこんな事、無かったのに…。」
赤い海から戻ってきてから、こんな風になったことはなかった。
「シンジ…。」
怖くて仕方なかった。
シンジの呼吸が落ち着いてきた。
それを見て、少しだけアタシの心も落ち着く。
「シンジ…。」
シンジの顔は、鼻と両頬がまるで蝶のような形で赤くなっている。
明らかに、何かの病気だった。
「病気なんて、どうしたらいいのよ…。」
こんな状況で、まして医者でもないアタシに、どうにかできるの?
「アスカ…。」
「シンジ、起きたのね。」
「ごめん、心配かけちゃったね…。」
「ううん、気にしないで。…苦しくない?」
「うん。もう落ち着いたみたい。…ごめん、水、あるかな?喉渇いちゃって。」
「ちょっと待ってて。」
すぐ傍にあるペットボトルから、コップに水を注いだ。
「はい。」
コップをシンジに差し出す。
「ごめん、ありがと。」
アタシからコップを受け取ろうとしたシンジの手が止まった。
シンジは、自分の手をまじまじと見つめている。
「どうしたの、シンジ…?」
「指が、曲がらない…。」
「多分、全身性エリテマトーデスって病気だと思う。」
「…その病気って、治るの?」
「うん。今は薬で治るよ。昔は完全に治すのが難しい病気だったみたいだけどね。」
「よかった…。でも薬って…」
「多分、ここの近くの病院にはあると思う。この病気だけじゃなくて、免疫疾患全般に有効な薬みたいだから。」
「免疫疾患って…、そっか、今この世界には細菌どころかウイルスすらきっといないもんね…。
そんな状態なら、敵を見失った免疫系が暴走してもおかしくはないわね…。」
「うん。免疫疾患に関する衛生理論ってやつだね。
…でもよかったよ、まだこの病気で。
他の病気、例えば同じ免疫系の病気でも、
アナフィラキシーショックみたいな劇症型の病気だったら今頃もう死んでたかもしれないからね。」
「うん。…ホントに…よかったっ…っ…ぐすっ…」
張り詰めていた緊張の糸が解けて、涙が出てきた。
「大丈夫だよアスカ。僕はアスカを残して死んだりしないからさ。」
「…ひっくっ…ううっ…っ…」
翌日、アタシは病院からシンジから聞いた薬を持ってきた。
注射で投与しなければいけない薬だったので、注射器も一緒に。
無菌状態だからそのままでも大丈夫だとは思ったけど、一応使う前に針をアルコールで消毒した。
シンジから注射を打つ際の注意点やコツを聞いて、それに気を付けてシンジの腕に注射した。
緊張したけれど、シンジも痛がるそぶりをせず、問題なく薬を打つ事が出来た。
薬を入れきると針を抜き、消毒液をしみこませたガーゼで傷を拭いてから、
血止め用のガーゼを傷に被せてテープで固定する。
「痛くなかった?」
「うん、大丈夫だったよ。」
「よかった…。」
「ありがとう。よく出来たね、アスカ。本物の看護婦さんみたいだったよ。」
「…これで、治るよね。」
「うん。もう大丈夫だ。」
それから三日も経てば、シンジの体調は完全に回復した。
シンジの顔に出ていた蝶形紅班も無くなり、指も問題なく曲げられるようになった。
「一時はどうなる事かと思ったけど、無事何事も無くてホントよかったわ。」
「うん。まあ、まだ無菌状態に置かれてる事に変わりないし、他の免疫系の疾患が発症する可能性だって残ってるんだけどね。
それに、アスカが発症する可能性だってあるわけだし。」
「ま〜ね。だからこそこうやって対策してるってわけ。」
あれから、シンジに打った薬をはじめ、免疫疾患に効く薬や、使える機材をいろいろ病院や診療所から持ち出してきた。
「そーいやシンジの病気って、男の人はあんまりかからない病気なのよね。
まったく、いくら性格が女々しいからってそんな病気になってんじゃないわよ。」
「あはは…。
まあ、あの病気はどんな要因が作用してかかるのかまだわからない所があるし、
それにこんな、下手したら体内まで無菌状態なんて状況じゃ何が起こっても不思議じゃないからね。」
「まあね。むしろ今まで何事も無かった事の方が不思議だったわね。
…そういや、シンジってあの薬もう使ってないけど、大丈夫なの?」
「うん。あの薬って正確には薬じゃなくてマイクロマシンの一種らしいんだ。
一旦体内に入ってしまえば後は勝手に自己増殖していくから、何度も繰り返し投与する必要は無いんだよ。」
「なるほどね。それで狂った免疫システムを自動的に修復し続けるわけね。」
「免疫システム自体を修復してる訳じゃないみたいだけどね。」
「そうなの?でも、薬を使い続けないで済むなんて便利よね。
アタシも予防としてあらかじめ打っときたいけど、
確かこの手のマイクロマシンって病気になってる時じゃなきゃ打っても意味無いのよね?」
「うん。一般的に医療用に使われてる自己増殖するタイプのマイクロマシンって、
基本的に目的が無かったら自分達で攻撃しあったりして、勝手に自滅していくように出来てるからね。」
「変な所で不便よね。」
「まあ、そうしなきゃ癌みたいに失敗した複製が増えて大変な事になっちゃうからね。」
「ふ〜ん。まあ、ともあれ、これだけいろいろ準備してるんだし、アタシが病気になっても何とかなりそうね。」
その夜に、シンジは倒れた。
痙攣を起こし、身体中に蕁麻疹が出た。
更に咳が止まらなくなって、シンジは呼吸困難に陥った。
指を触っても暖かい。
体温低下が伴わないショック症状。
おそらく、喘息発作かアナフィラキシーショックだ。
どちらなのか、アタシにはわからなかった。
シンジを仰向けに足を高くして寝かせ、
パニックになりそうな頭で、調べた対処法を思い出す。
まず喘息用の吸入型のリリーバーを吸わせ、
すぐにアナフィラキシーのショック症状を抑える為にアドレナリンとステロイド薬をそれぞれ注射器で投与した後、
酸素スプレーを吸わせて、発作が収まるのを待った。
しばらくすると、発作は治まってきて、シンジは落ち着きを取り戻した。
「免疫疾患の治療用に認可されてるマイクロマシンってさ、免疫記憶自体を修正するわけじゃないんだ。
特定の免疫記憶だけを選んで修正する事は、とても難しいらしいから。
だから、病気としての症状も出なくて、治療を続ける必要が無くても、
アレルギーなんかの免疫反応自体は身体の中で起こり続けてる。
それに、マイクロマシンが働きだすには、免疫反応の原因になる抗原と、
抗原を無毒化したり体内から追い出そうとして働く抗体の両方を探知しないといけない。
じゃなきゃ誤作動を起こすからね。
だから、慢性的な症状や、軽い急性症状ぐらいなら防ぐ事ができるけど、
アナフィラキシーショックぐらいの劇症型の急性症状は、
マイクロマシンの増殖が追いつかないから、軽減するのが精一杯で防ぐ事は出来ないんだ。
アナフィラキシーショックをはじめ急性の発作を防ぎきるような増殖速度の速いマイクロマシンは、
すぐに癌化してそれ自体が別の病気を引き起こすようになっちゃうしね。」
「じゃあ、原因になる抗原を特定してそれを遠ざけるまで、シンジはずっと…。」
「そうなるね…。」
その次の日も、シンジは発作を起した。
食事内容と、食後の経過時間から見ても、食物アレルギーによるアナフィラキシーショックの可能性は薄かった。
考えられるとすれば…。
浴場の中に大型のテントを張り、中に水の浸入を防ぐようにして、テントの中でシンジを寝かせた。
温泉の湯気でアレルギーの原因と疑わしい砂塵や埃の侵入を防ぐためだ。
温泉自体、建物の中にあるから風の影響を受ける事も無い。
「何か、本格的に闘病生活って感じだね。」
「まーね。シンジアンタ、いくら暗いからって、
あの木についている葉っぱの最後の一枚が落ちたとき、僕の命はもう…、何てこと考えるんじゃないわよ。」
「考えないよそんなこと。そもそも木なんてどこにも無いじゃないか。」
「ふん、どーせシンジの事だから木が無くたって、あの天井に溜ってる水滴が落ちてきたら、僕の命はもう…、
くらいの事考えるに決まってるわよ。」
「何だよそれ。いくら僕でも天井の水滴に命を預けたりしないよ。
…それより、ごめん。
これからも、アスカに迷惑かけてばっかになるよね。」
「ばーか、気にしてんじゃないわよ。
アタシは、シンジが傍にいてくれるだけで他に何も要らないもの。
だからこれから何があったって、迷惑なんてことないわよ。」
「アスカ…。死なないから。アスカを残してなんか、絶対死なないから。」
「うん。シンジは死なないわよ。アタシがついてるもの。」
やはり空気中を漂う粉塵が原因だったみたいで、それからシンジは発作を起こさなくなった。
しばらくの間は。
一週間ほどテントでの生活を続けた後に、シンジは再び発作を起こした。
原因は、お米が原因での食物アレルギーだった。
「ごめん…アタシのせいで…ごめん…」
「アスカは悪くないよ…。
今までは食べても平気だったんだし、それに元々、お米ってあんまりアレルギーを起こすような食材じゃなかったんだしさ。」
「ごめん…っ…ごめんっ…」
「アスカ…」
その後、シンジの食事から、お米だけでなく、少しでもアレルギーを引き起こす可能性のある食材を排除した。
それでも、シンジはまた発作を起こした。
「あははっ!参ったよね!」
「……。」
「せっかくアスカがこんなに頑張ってくれてるのに、また倒れちゃってさ!」
「……っ。」
「アスカを心配ばっかりさせて、ホントにどうしょうも無い奴だよね、僕って!」
「…ううっ…うっ…」
「……ねぇアスカ、泣かないでよ。別に死ぬって決まったわけじゃないんだしさ。きっと、何とかなるよ。
だから、泣かないでよ、アスカ。」
そう言って、シンジが、アタシを抱きしめた。
抱きしめる手は、かすかに震えていた。
「…うううっ…うううっ……」
シンジの身体が、どんどんおかしくなっていく。
わかってる。
こんなの、普通じゃないって事ぐらい。
わかってる。
きっと、もうどうしようもないって事ぐらい。
怖かった。
怖くて仕方なくて、シンジに縋って泣き続けた。
なんて、勝手なんだろう。
シンジの方が、アタシなんかよりずっと怖いはずなのに。
それから、食事を変えても、何をしても、シンジは発作を繰り返した。
そして、またシンジの顔には紅い蝶が浮かび上がり、間接の痛みでシンジは身体を動かせなくなった。
治ったはずの病気が再発していた。
でももう、何も効かなかった。
成す術も無く、シンジはどんどん衰弱していった。
「…アスカ、…痩せたよね。」
「そんな事、ないわよ…。」
そう言ったシンジの方が、アタシよりずっと痩せ細ってしまっている。
「…疲れたでしょ?…無理、しないでよ。…ずっと、僕の面倒見てくれてたんだから、…少しぐらい、休みなよ。」
「……。」
無言で首を横に振る。
「…そっか。」
「……。」
「…病気になる前にさ、…カヲル君を、見たんだ。」
「……。」
「…僕を見てた、…悲しそうな顔で…僕を、憐れんでるみたいだった…。」
「……。」
「……そのときは、幻覚だと思ったけど、…今は、違うと思ってる…。」
「……。」
「…きっと僕に、…知らせに来てくれたんだ…僕の命が、もう残り少ないって事を…。」
「……っ。」
「…きっとさ…バチが当たったんだ…誰も、帰ってこないでいいなんて、思ったから…。」
「…っ、…ぐすっ、…うっ、うううっ…」
「…未来なんていらないって…思ったから…。」
「うううううっ…ううううううっ…」
「…ねぇ…アスカ…お願いが、あるんだ…。」
「…うううっ…うううううっ…」
アタシは、泣きながら頷いた。
「…少し、一人にして欲しいんだ。…泣きにくいんだ、アスカの前だと…。」
「…うううっ、うくっ、…うんっ…っ…」
アタシは頷くと、テントから出るために立ち上がった。
「…ありがとう、アスカ。」
「…うううううっ…うううううっ…」
テントから出て、そのまま浴場を抜けて、脱衣室でアタシは座り込んで泣いた。
しばらくして、シンジの泣き叫ぶ声が聞こえた。
死にたくないって、何度も叫んでいた。
アタシの名前を、何度も呼んでいた。
慟哭は浴場に響き、木霊し続けた。
その声を聞き続ける事が辛くて、アタシは逃げ出した。
行く当ても無く彷徨った。
シンジが死んだら、アタシはどうしよう?
決まってる。
そんなの、死ぬに決まってる。
だって、意味無いもの。
生きていく、意味無いもの。
湖に着いた。
水面に太陽の光が反射して輝いている。
赤い水。
アタシ達が死んだら、何処にいくのかな?
また、この中に還るのかな?
そしたら、またシンジと一緒にいられるのかな?
ずっと、シンジと一緒にいられるのかな?
アスカ。
声が、聞こえた気がした。
誰かの声。
聞き覚えのある声。
「誰?」
無意識に口走っていた。
耳を澄ましても、湖の波の音しか聞こえない。
「…当たり前か。」
誰かがいるはずなんて無い。まして、その誰かがアタシの名前を呼ぶなんて事…。
アスカ。
また、聞こえた。
さっきよりも、もっと鮮明に。
女の声。
聞き覚えのある女の声。
「誰よいったい!!!」
そう叫びながら、アタシは背後を振り返った。
誰もいない。
「何だってのよ…。」
もう一度、湖を見ようと向きなおす。
視界の端に、何かを捉えた。
湖畔に、人影。
制服姿に、
アルビノのように白い肌。
水色の髪に、
赤い瞳。
「ファースト…。」
ファーストチルドレン。
綾波レイが、そこにいた。
「……。」
ファーストは、アタシを見ていた。
記憶の中の、人形のような無表情じゃなく、
悲しげな、まるでアタシを憐れんでいるような表情で。
「何で…」
病気になる前にさ、…カヲル君を、見たんだ。
きっと僕に、…知らせに来てくれたんだ…僕の命が、もう残り少ないって事を…。
さっきの、シンジの言葉。
そっか…。
「アタシも、もうすぐ死ぬって訳か…。」
「……。」
「それで、わざわざ化けて出てまでアタシにそれを教えに来てくれたってわけ…。
ご苦労な事ね…。」
「……。」
「さぞ哀れでしょうね、今のアタシは。
いつも無表情のアンタが、そんな顔をしてるぐらいですもんね…。」
「……。」
「…何しに出たのよ。どうせ何もしない癖に。」
「……。」
「これから死ぬって事なんて、教えられても嬉しくなんか無いわよ!!!」
「……。」
「黙ってないで何とか言ったらどうなのよ?!!!
アタシ達を助けるわけでも無い癖に、そんな憐れんだ目で見てんじゃないわよっ!!!!」
「……。」
「アンタ、ホントは使徒だったんでしょ?!!!
アタシ達のご先祖様なんでしょ?!!!
サードインパクトを起こして人類を一つにする事も出来たような、神様みたいなアンタだったら、
シンジだってホントは何とかできるんでしょ?!!!」
「……。」
「だったら、助けてよ!!!!!
シンジを助けてよ!!!!
アンタだってシンジの事好きだったんでしょ?!!!!
だったらシンジの事を助けてあげてよっ!!!!!」
いつの間にか、アタシはファーストに懇願していた。
無茶苦茶を言ってる事はわかっていたけど、それでも縋らずにはいられなかった。
「……。」
「もう、見たくないのよっ!!!!!!
シンジが苦しんでるとこなんて、アタシは、もうっ…。」
視界が滲んで、ファーストに顔を見せないようにうつむいた。
「……。」
「アタシのっ、…アタシのことが嫌いなら、アタシはいいから…。だからシンジだけは、助けてあげてよ…。」
「……。」
「お願い…。」
「……。」
ファーストの姿は、いつの間にか消えていた。
立っている気力も無くなり、アタシはその場に座り込む。
「ちくしょう…。」
ぽろぽろと、涙が零れる。
大丈夫よ。
ファーストの声。
思わず顔を上げた。
でも、ファーストの姿はやっぱり何処にもなくて、
それでも、アタシの涙は止まった。
目が覚めた。
まだ、アスカはいないか。
何か、気分がいい。
さんざん泣いたからか。
身体も楽だ。
痛くない。
腕を動かしてみる。
難無く動かせた。
何の痛みも感じない。
寝たまま、体中の間接を試しに動かしてみた。
痛みを感じない。
問題なく動かせる。
身体を起こして、立ち上がってみる。
久しぶりに立ったからか、少し立ち眩みをおぼえた。
でも、立てた。
歩ける。
まさか、治ったのか?
いや、死の直前に一時的に症状が回復するラストラリーってやつかもしれない。
それでも、ありえないと思いつつも、期待が膨らんでいく。
テントを出てみた。
このまま浴場まで出てしまったら、発作を起こして倒れるかもしれないな。
でも、もしかしたら…。
期待と好奇心を抑えられなくて、浴場の扉を開き、脱衣所に出た。
鏡に映る自分の顔からは蝶形紅斑が消えていた。
それに、やつれてはいるけれど、生気を取り戻しつつあるように感じた。
期待が、だんだん確信に変わっていく。
脱衣場から廊下に出て、そのままアスカを呼びながら旅館中の部屋を回った。
アスカに会いたかった。
今の僕の元気な姿を見せて、早く安心させてやりたかった。
部屋を回っている時も、発作は起こらない。
そうだ、きっとそうだ!
僕の中の期待は、もう完全に確信に変わった。
完全に治ったんだ!!
奇跡が起こったんだ!!!
嬉しくて、更に大声でアスカを呼びながら廊下を駆けた。
どの部屋にもアスカはいなくて、僕は外に出ようと入り口に向かって走る。
入り口近くに差し掛かった時、人の気配を感じた。
アスカだ!!!
「喜んでよアスカッ!!!!!僕治ったん…だ…?」
アスカは、倒れていた。
まるで空でも飛んでいるかのように浮かれていた気持ちは、一瞬で奈落の深くまで沈む。
「アスカッ!!!!!!!」
アスカの意識は朦朧としていた。
うわ言のように僕の名前を何度も呼んでいた。
その場でできる限りの応急処置をした後、
僕はアスカを抱きかかえて、僕が眠っていた浴場内のテントで寝かせた。
「シンジ…。」
「うん…。」
「よかった…、シンジ、治ったんだ…。」
微笑みながら、アスカは僕に手を伸ばす。
頬に触れるアスカの指を僕は握る。
「うん…。」
「アタシのお願い…、聞いてくれたんだ…。」
「お願い…?」
「うん…。さっきね、ファーストに…会ったの…。」
綾波に?
まるで、僕がカヲル君に会ったときのような…
嫌な考えが頭をよぎる。
「アスカ…」
「アスカ…って、呼ばれてさ…、振り向いても、誰もいなくて…。
でもまた、もう一回、アスカ…って呼ばれて…。
そしたら…ファーストがいたの…。」
「うん…。」
「ファースト、いつもの無表情じゃなかった…。
それに…、アタシの事、名前で呼んでくれてた…。
ふふっ…エヴァで一緒に、闘ってた時は、一回も…。名前で呼んでくれなかったのにね…。」
「……。」
「それでさ、ファーストにね…、シンジを助けてって…頼んだの…。
アタシの事はいいから、シンジだけはってさ…。」
「アスカッ!そんな…」
「そしたら、今、シンジが元気になってて…ファーストのやつ、ホントに…、助けてくれたんだ…。」
「アスカ…」
「この様子じゃさ…、アタシは、助けて貰えなかったみたい…。
しょうが、ないよね…。アタシ、あの子の事、毛嫌いしてたもん…。
あの子だって…、アタシの事、嫌いなはずだもん…。アタシの事なんか、助けてなんて…」
「そんな事無い!!!綾波はアスカのことを嫌ってなんかなかったよ!!!アスカだって…」
「ううん、いいの…。あの子に、レイに感謝しなきゃね…。だって…シンジを治してくれたもの…それだけで、アタシ…」
「僕だけ治ったって嬉しくなんかないよ!!!!!
アスカが一緒じゃなきゃ、アスカが生きてくれなきゃ意味無いんだよ!!!!!だから…」
「ごめんね…。」
「……。」
アスカの顔が、泣きそうに歪んでいく。
「ごめんね…。」
「……ごめん。」
「ごめんねっ…。」
「……。」
もう、何も言えなかった。
綾波、アスカを助けてよ。
僕を治してくれたように、アスカも治してよ。
僕だけ生き残ったって意味無いんだよ。
僕だけ生き残るぐらいなら、死んだ方がマシなんだよ。
だから、アスカを助けてよ。
お願いだから。
そのすぐ後、アスカは眠った。
次の日、アスカは目覚めなかった。
目が覚めた。
「……。」
「おはよう、アスカ。」
目の前には、眠る前より痩せこけて、
憔悴しきったシンジの顔があった。
「シンジ…。」
アタシが声を出すと、シンジは微笑んだ。
痩せこけた笑顔。
でも、翳りの無い、純粋な笑顔。
「アスカ、あれから三日間ずっと眠りっぱなしだったんだよ。」
「三日…。」
「うん。」
何気なく腕を見ると、いつの間にか点滴が打たれていた。
どうやら、ホントに三日間眠っていたらしい。
「シンジ、アタシ…」
「もう、大丈夫だから。」
「え…?」
「アスカはもう、治ったんだよ。」
「治ったって、何で…?」
「アスカは僕みたいに免疫疾患で倒れたんじゃないんだ。逆だったんだよ。」
「逆?」
「うん、逆。
アスカの場合、免疫力が落ちて、細菌なんかに対する抵抗力が落ちてたんだ。
だから普通は問題ないような、弱い細菌でも病気にかかるようになってた。
アスカの病気は、そんな弱い細菌が起こしたものだったんだ。」
「うん…。」
「最初はアスカも僕の様に何かの免疫疾患で倒れたんだと思ってた。でも、すぐに様子が違う事に気づいて、調べなおした。
そしたら、アスカと同じ病気を見つけたんだ。
免疫不全を抱えている人が主にかかる病気だったんだけど、
そうじゃない人も免疫力が極端に落ちているときにはかかるみたいで、アスカはそのケースだったんだ。
その場合、抗生物質を打ったりしてしっかり対処していれば症状を抑えることが出来て、
後は免疫力が戻ってくると何もしなくても自然に回復していく。
だからもう、アスカは治ったんだよ。」
「そっか…。アタシ、死なないで済んだんだ。」
「うん。」
「レイのやつ、シンジを治してくれたのかな…。」
「…もしかしたら、綾波が治してくれたって訳じゃないのかもしれない。」
「どういうこと…?」
「僕の病気は、多分細菌なんかの外敵がいないから免疫のバランスが崩れて起こった病気だった。
だから僕は、細菌が戻ってきたから免疫のバランスが回復して、そのおかげで病気が治っただけなのかもしれない。
実際、体内に寄生虫が寄生したことでアレルギーの症状が収まったってケースもあるから…。」
「そっか、細菌が…、って、細菌?!シンジ今、細菌が戻ってきたって…」
「うん。多分細菌だけじゃなくて、もしかしたらウイルスなんかの他の微生物も戻ってきてるかもしれない。」
そういやさっきアタシの病気も細菌のせいだって言ってたわね。
目覚めたばっかりのせいかちゃんと頭が働いてなかったみたいね。
でも、細菌が戻ってきたんだとしたら…。
「それって…」
「うん。食べ物が腐り始めてる。」
冒頭のシンジの独白について。
神様でさえその存在に絶対的な意味は無いと書きましたが、神様の存在を否定している訳では無いのであしからず。
また、エヴァの設定(公式)ではセカンドインパクト前までソ連は崩壊しておらず、東西冷戦の真っ只中だったと言う事を補足しておきます。
後は特に言う事は無いです。
作中での免疫疾患関連の設定について。
「全身性エリテマトーデス」、「アナフィラキシーショック」は共に実在する免疫疾患です。
ただし、「全身性エリトマトーデス」及び多くの慢性免疫疾患の治療薬として作中で出てきた「マイクロマシン薬」なるものは、実在しません。
この「マイクロマシン薬」は、エヴァや、TV版第十三話で出てきた「タンパク壁」といった生体部品はじめとした人工生命関連の技術が発達したエヴァの世界において、
人工生体を外部からの菌や黴といった微生物の侵食から守る為に、人工獲得免疫として研究、開発されたものが、
一般の医療用の技術として転化された物です。
同様に、作中でシンジが触れた「免疫疾患に関する衛生理論」についても、実在する免疫疾患に関する仮説である「衛生仮説」が、
人工生命に関する技術の発展により、安易に完全無菌状態を再現できるようになった事で、
仮説からはっきりとした理論として確立された物です。
と、いう設定になっております。
正直、作中の免疫疾患関連の描写も含め、詳しい方々から見れば突っ込みどころ満載なのでしょうが、ご容赦下さい。
この話を以って、「サブタイトルその2」である「2_Jupiter」が終わり、次回から「3_Mars」へと切り替わります。
此処までは四月頃には完成していましたが、此処から私がスランプに陥った為にしばらく書けなくなり、
次回からの「3_Mars」は、かなりの難産でした。
2009年12月5日 たう
2010年2月27日追記
エヴァンゲリオンクロニクルに記述されていた2015年時の世界情勢と合致するよう、シンジの独白部を少し変更。
たう