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対談内容



中川雅仁の巻頭対談いい人いい話いい氣づき
2004年4月の対談

 
中川 雅仁 千野 皓司 さん
(なかがわ まさと)
1961年、北海道生まれ。北海道大学工学部卒。(株)エス・エー・エス会長。全国各地で真氣光と呼ばれる氣を通して意識改革に精力的に取り組んでいるほか、奈良県生駒市にて意識改革を目的にした合宿『真氣光研修講座』を開催し、好評を博している。著書に『こんな癒しがあった!』(文芸社)などがある。
(ちの こうじ)
1930年東京生まれ。1954年早稲田大学文学部演劇科卒業。1955年同大学大学院文学研究科中退し、日活撮影所に助監督として入社。
67年「東京の田舎っぺ」で監督デビュー。69年「極道ペテン師」(野坂昭如原作)で注目される。72年日活を去りフリーに。テレビ界で活躍し、作品は「密約―外務省機密漏洩事件」(日本テレビ大賞優秀賞・日本映画復興会議奨励賞)、「滋賀銀行九億円横領事件―女の決算」(放送批評懇談会ギャラクシー賞)、「海よ眠れ」(日本ジャーナリスト会議奨励賞、日本テレビ大賞優秀賞他)など多数。日本映画監督協会前専務理事、日本映像職能連合前幹事長



■企画から13年、34年振りの劇場用映画

中川 初めまして、中川です。知人が監督の「血の絆」の試写会を見て、ミャンマーの風景が素晴らしかったと感激し、映画のパンフレットを買って来てくれました。目を通してみましたら、監督が13年の歳月をかけて完成させたと知り、驚きました。

千野 そうなんですよ、企画から13年。しかも、実に34年振りの劇場用映画で、昔の仲間たちも仰天していますよ(笑)。

中川 34年振りといいますと?

千野 25歳で日活撮影所に助監督として入って、13年目に監督になりました。4作目の「極道ペテン師」で注目され、裕次郎が作った石原プロから「ある兵士の賭け」という映画の監督を依頼されたんです。ベトナム戦争を扱った映画で、一人のアメリカ軍人を追っていったものですが、そうすると、どうしても反戦になります。それをプロデューサーがダメだと言うのでケンカして、おろされてしまった。当時は俳優を貸さない借りないという映画界の五社協定というのがありましたが、石原プロはそれを破棄してマスコミの注目を浴びて破竹の勢いだったんです。その石原プロを敵に回したのだから、映画界から閉め出されてしまいました。
THWAY−血の絆
映画「THWAY−血の絆」の一場面。
第二次世界大戦末期に戦地へ赴いた父親とビルマ女性の間に生まれた異母弟を訪ねる日本人の姉の心の葛藤を描いたもの。ミャンマーの現地の風景や生活、人々の思いなどをきめ細やかに織り込んだ作品。
※この作品についての詳細は、以下のURLに記載されています。
http://www.ayeyarwady.com/~thway/
その上、日活がロマンポルノ路線を行く方針を打ち出してきまして、私は子供も持っていますし、映画信念としてやりたくなかった。結局、最後まで抵抗したのは私一人でしたね。

それで、テレビの仕事に移ったんです。石立鉄男のライトコメディ路線、岡田可愛・宮本信子共演の「おひかえあそばせ」、榊原ルミ共演の「気になる嫁さん」、そして杉田かおるが子役で出演した「パパと呼ばないで」、これは随分高い視聴率を取ったものです。

中川 「パパと呼ばないで」ですか、私も見ていましたよ。ほのぼのとしたホームドラマで、人気番組でしたね。

千野 これはこれで良かったのかもしれませんが、私は映画が撮りたくて仕方がなかったんです。テレビは16ミリフィルムを使いますが、映画は35ミリでね。35ミリは豊かな映像が撮れるんですよ。

 そうこうするうちに、あるプロダクションに誘われて、ノンフィクションドラマを撮ろうということになって、「真相」シリーズとして「吉展ちゃん事件」など4本の企画を出しました。まさか企画として通るとは思わなかったけれど、沢地久枝さんの原作「密約―外務省機密漏洩事件」も出したんです。沖縄返還協定を巡って新聞記者と外務省の女性が情を通じて、という有名な事件です。そうしたらOKになって、これを35ミリで撮らせてもらった。これは後にモスクワ国際映画祭招待作品となって劇場公開になりましたが、政治ドラマですからね、日本では一回の放映で再放映されることはありませんでした。これを話すと一冊の本になるほどのことがありますが、テレビは認可事業ですから、政府が認可を取り消しちゃったらおしまいなんですね。結局テレビ界から2年間干されましたよ。暗黙の制裁ですね。

中川 映画界を去り、テレビ界で活躍しておられたけれど、今度はテレビ界から閉め出されたわけですか。波瀾万丈ですね。
映画「THWAY−血の絆」の一場面
千野 ええ。全く仕事がこなくなってしまいました。2年経って痺れを切らし、テレビ朝日に出向いて、「もういいかげんにしろ」と(笑)。それで、いくつかのノンフィクションドラマやサスペンスドラマが撮れるようになり、いずれも視聴率が良かったので、テレビ朝日開局25周年記念番組八時間ドラマ、沢地久枝さん原作の「海よ眠れ」を撮ることになりまして。一人の監督がこれだけの長時間ドラマを撮ったのは、後にも先にも私しか居ません。2年間かかりました。

  これが終わった後、テレビの仕事は十分やった、これ以上の作品はできない、やはりもう一度劇場用映画を撮りたい、と思いましてね。テレビ用映画でたくさんの賞をいただき高く評価されたんですが、劇場用映画の監督起用に結びつかないので、自分で創るしかないと思っていたときに、ある会社が、ミャンマーでベストセラーになっている「トウエイTHWAY」という本の映画化を依頼して来ました。

中川 それは良かったですね。本をお読みになって、ピンときたんですか? いよいよ、待ち望んでいた劇場用映画撮影開始ですね。

千野 「血の絆」という題で日本語訳が出ていましたが、それを読んだときには、私はあまり感じるものがなかったのですよ。題材に惹かれたのではなく、スポンサーがついていて、とにもかくにも映画が撮れる!ということでスタートしたのです。でも、これが大変なことになるスタートでした(笑)。



■18万の日本軍兵士が亡くなったインパール作戦

千野 引き受けて企画した途端に、その会社がバブル経済の影響で倒産して、中止です。幸い別の会社が肩代わりしてくれることになり、1991年にシナリオ執筆のための調査で、初めてミャンマーの土を踏むことになりました。ネウイン政権による20年の鎖国政策で、世界で最も貧しい国といわれていましたが、その自然の豊かさ、美しさに圧倒されてしまいました。空気が綺麗で、自動車はなくて馬車が走っていました。電気もないし、泊まったホテルでは、湯はもちろん出ず茶色の水だけ。でも、夕日や月や星がものすごく美しいし、仏教による純粋な精神風土が脈々と受け継がれ、人々の心がとても優しくて、素朴で温かい。もう、これは何としても自分の手で映画を撮ろうと思いました。

ところが、帰国後、350枚にもなるシナリオの第一稿が出来上がったと思ったら、その会社も倒産してしまって、また中止ですよ。

中川 どんなシナリオになさったのですか。

千野 原作にはない人物も入れて、だいぶアレンジしましたが、大筋は、第二次世界大戦末期のインパール作戦に赴いた父親とビルマ女性の間に生まれた異母弟を探しに、日本人の姉がビルマを訪れ、弟の激しい拒絶にあいながらも、帰国寸前に心が通い合う、というものです。現在、非常に情報の少ないミャンマーの現地の風景や人々の生活や想いなどをきめ細やかに織り込んだつもりです。

中川 ちょっと調べてみましたら、「ミャンマー」は、1989年に政権を担当する国家法秩序回復評議会(SLORC)が英語の国名「ビルマ」から改称したんですね。首都の「ラングーン」も、そのときに「ヤンゴン」となった、と。

千野 そうです。以前のビルマですが、そう言うと、日本人はすぐ「ビルマの竪琴」を思い出すんですね。でも、あれは誤りがとても多い。著者の竹山道夫さんはドイツ文学者でして、ビルマに行ったことがないままに書いたんです。お坊さんが竪琴を弾くなんてことはありえませんし、ましてオウムを肩に乗せて…なんてねえ。昭和31年に日活が作った「ビルマの竪琴」は少人数で当時のラングーンで短期間に撮影していますが、昭和60年にフジテレビとテレビ東京が製作した「ビルマの竪琴」はビルマで撮影許可が下りず、タイで撮ったものですから、ビルマの風景ではないんですよ。

中川 そうでしたか。インパール作戦も調べてみました。ビルマ国境に近いインド領に英軍基地があって、1944年の3月から7月にかけて、そこを攻略してインド独立軍を送り込み、戦争を有利に導き終わらせようとしたのですね。山岳地帯、或いはジャングル地帯で、食料や弾薬補給は不可能で、雨季に入ったら極度の飢餓、病気、英軍のグライダーによる空からの反撃に挟みうちにされ、結局18万以上の日本兵士が亡くなった、とありました。18万人…こんなにも多くの方が異国の地で最期を迎えたという事実があるのですね。

千野 5月からもう雨季になり、11月まで続きますから…。1993年に、そのインパール作戦の生き残りの元弓兵団山砲33聯隊の方や遺族の方たちと慰礼巡拝の旅に参加しました。遥かインパールを望むインド国境沿いの町ティーデイムまで行き、更にミャンマー各地の戦跡を訪れました。ワコールの塚本会長は、55人中のたった3人の生き残りのお一人です。「自分だけ生き残ってなるものかと身を捨てて戦ったが、弾が当たらなかった。まるで弾が避けているように」と苦しそうにおっしゃっていました。

 その慰霊の旅で、日本軍兵士の屍体が累々と放置されていた白骨街道といわれた山道を歩くと、腰あたりを雲がスゥ〜ッと流れていくんですよ。こんな高い山岳地帯まで戦争に行っていたんです、日本の兵隊さんたちは。コスモスがそれは綺麗に咲いていましてね…。

改めて日本軍兵士の精神力の強靭さに驚きました。そして、日本では想像もできない豪雨と泥濘にまみれ、密林の中を敗走した彼らのことを思い浮かべ、慄然となり涙が止まりませんでした。同行した遺族の方が、「お父さん! お父さんが戦死して50年、もうあなたはビルマの人です!」と慟哭していました。

■独立後のミャンマーが撮影を初許可した映画

千野 この旅で、私は頓挫している「THWAY−血の絆」を絶対に諦めてはならない、どんなに困難であろうとも完成させるのだと決心しました。遺族の方たちも寄付を集めて応援してくれたんですよ。

中川 そして、亡くなった18万人の方々の目に見えない応援もあったことでしょう。

千野 それは感じましたですね。そして、帰国後すぐにシナリオのビルマ語翻訳を依頼し、3ヵ月後に出来上がるとミャンマー連邦政府情報省映画庁に提出し、映画製作の交渉を開始しました。翌年の1994年12月に、ようやく撮影許可が下りました。ミャンマー連邦政府が、独立した後に本格的な外国の劇映画の許可を出したのは、これが初めてでした。

さらにウ・ミョウタン情報大臣からの親書が手渡されて、全面的な協力が約束されました。そして1996年に丸紅の春名会長が経済界に協力を呼びかけて下さって、「血の絆」製作委員会が発足しました。先程の塚本ワコール会長は発起人副代表になって下さいました。そして、95社3団体から協賛金、支援金が、そして294個人の方々から寄付金が集まり、97年暮れに俳優やスタッフ27名を連れてミャンマーのロケに出発したのです。

中川 念願かなって、ようやく動き出したわけですね。

千野 ところが、ですよ。半分ほど撮り終えたところで資金が底をつき、スタッフたちを帰国させた後、私一人が出国停止処分をくらいましてね、留め置かれました。バブルがはじけた後の長引く日本経済の不況、相次ぐ金融不祥事件、インドネシアの暴動をきっかけに始まったアジア通貨の急激な下落、アメリカの経済制裁によるODA(開発途上国援助)再開の延期などの諸事情が次々と影響して、その後の資金集めが続かなかった。

 もう、ポケットに5万円しか残っていませんでした。刑務所に入れられるのを覚悟していましたし、それも一つの人生経験と思ったりしましたが…もし入れられたら、マラリアで死んでいたかも(笑)。ミャンマーでは、お寺は裸足じゃないといけないんです。便所は紙ではなくて手と水で始末しますから、周りに汚物や汚水が飛び散っている。そこを裸足で跨ぐのが一番嫌だった。お寺がそうですから、まして刑務所なんて、どんなところか。ミャンマーは風景が素晴らしいという反面、怖い病気がたくさんありますから。マラリア、デング熱、コレラ、破傷風といったような病気ですね。

それで、女房に「俺を愛しているなら、金を送れ」と(笑)。毎日、窓から見えるパゴダ(仏塔)を拝んでいましたよ。女房が奔走して金を集めて送ってくれて出国できたときは、ホッとしました。

中川 祈りが通じましたね。

千野 その後も、何で…と思うような辛いことが続いたり、思いがけない助けが現れたり、本当に山あり谷ありの展開でした。大変力になって下さった塚本会長が急逝し大きなショックを受けましたが、財団法人国際協力推進協会(APIC)が支援を決定し、駐ミャンマー日本大使の方々の協力も得られ、1999年11月にミャンマーの撮影を再開する予定でした。ところが、その暮れにAPICが製作資金が集まらないと支援中止を通告してきて、また撮影がストップ。一口千円募金の協力を呼びかけたり、文部科学大臣に協力を要請したりして、ようやく2003年2月になって文化庁より日本ASEAN交流年2003記念事業として制作に関する業務を委託されました。そして、ついにその年の6月で福井県のロケーションを含めて全ての撮影が終了しました。

中川 ミャンマーの映画に、福井県のロケですか?

千野 映画を見ていただくと分かりますが、日本とミャンマーの繋がりをあらわすために曹洞宗本山「永平寺」を撮ったのです。深々と降る雪の中で荘厳な読経の声とミャンマーのお寺での祈りの声をドルビー音響で重ねました。迫力のある収録ができました。

■監督の姿勢、訴える力、本気が映画に出る

中川 撮影が全て終了したときは、感動的だったことでしょう。

千野 スタッフも俳優も感無量でしたね。彼らは本当に良くやってくれました。13年ですからね、主演の麻生あかり君が「私、もう30になってしまいました」なんて言うから、「女優は年をとらないんだ。80歳の森光子だって18歳を演じているだろう(笑)」と。彼女は本名を池田美冬といっていたんですが、それでは物事が成就しないと言われて「麻生あかり」に変えたんです。

撮影再開の際は、日活時代のキャメラマンや照明技師たちが支えてくれました。青春時代って大事だなあとしみじみ思いますよ。一緒に汗を流して、夢に向かって走っていた仲間たちが結局また集まって完成まで助けてくれました。「監督の執念だ」と言ってくれましたが、そうだと思います。監督の姿勢、訴える力、本気、それこそ中川さんの言う”氣”があるかないか、それが映画に出るのでしょう。

中川 ミャンマーの豊かで綺麗な風景もプラスの氣が出ていて、監督の、そして映画の作り手、映画に関わる全ての人々の想い、つまり氣が映画に込められて、映画を通じて観客に伝わっていく…素晴らしいお仕事をなさいましたね。

千野 音楽は池辺晋一郎さんが担当してくれましたが、これがまた非常に感動的ないい曲で、映画を盛り立ててくれました。ラストには、協賛金や支援金を出してくださった企業や団体の名称と1万円以上寄付してくれた方のお名前を全部載せましたから、エンディングは実に7分です。「黒澤監督だって4分だよ」なんて言いながら、彼は見事にまとめてくれました。試写会では観客は終わっても席を立ちませんでしたよ、自分の名前を探していて(笑)。

中川 ハハハ、そうですか。ところで、音楽もまた”氣”なんですね。

千野 映像から音楽から氣が出て、観客はそれを吸いに来るんじゃないかな、って思います。この秋に劇場上映する予定ですので、どうぞ中川さんも観てください。私は完成したといっても、上映に向けてやることが山積みで、まだ感無量の境地にはなれません(笑)。

中川 是非観させていただきます。ミャンマーはこれだけ多くの日本の方が亡くなっていながら、今まであまりにも知られていませんでした。そういう方々の存在があって、今の自分たちの幸せがあるのだということを知ることが大切だと思うのです。

千野 ミャンマーにも是非一度行っていただきたいです。本当に良い氣が満ちている地なんですよ。一度訪れた人は、必ずまた行きたいと願う、そういう地です。私は22回もミャンマーに行きました。13年は長くて、死にたくなるほど辛かったときもあったが、決して無駄ではなかった、と今にして思います。助監督時代も13年間でしたが、そのときの修業があったから耐えられたのかもしれません。

企画から完成までのこの長い期間があったからこそ、分かったこともたくさんありました。ミャンマーの人たちは、戦争で多大な被害を受けた上、独立を認めようとしなかった日本に対して反感はあるものの、その前の植民地から解放してくれたことに対しては恩義を感じていて、日本は好きな国だけれど単純なものではなく複雑な感情を持っていることなども分かりました。そして、世界でも稀に見る仏陀当時の仏教、原始仏教が生活の中に浸透しているミャンマーの人たちの心にも触れ、より理解することができたのです。

あの大戦の際、多くのビルマ人が日本兵にバナナを食べさせたり、英軍から匿って命を救ってくれました。その恩に報いるために、元日本兵の方々が、戦後、ミャンマー各地を訪れ、時計塔や学校を建て、井戸を掘ったりしています。そういうこともほとんど知られていないまま、高齢になり亡くなっていく方も多くなりました。

中川 映画は、そうしたことを含めて21世紀に生きる人々へ伝えていくことができるのですね。益々のご活躍をお祈りいたします。今日は、どうも有り難うございました。

(2004年1月26日 東京・京橋「旧撃フ絆製作委員会」にて 構成・須田玲子) 


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