くも膜下出血のため意識不明の重体となっていた巨人・木村拓也内野守備走塁コーチが7日、帰らぬ人となった。入院先の広島市内の病院で午前3時22分に静かに息を引き取った。37歳だった。宮崎市出身。葬儀・告別式は10日午前11時から広島市西区南観音8の10の8、平安祭典広島会館で。喪主は妻由美子さん。2日の広島戦の開始前のシートノック中に倒れ、意識不明のまま病院に運ばれ入院していた。巨人は23日〜25日に予定されている広島3連戦のいずれかを追悼試合とすることを決めた。
祈りは届かなかった。グラウンドで倒れてから6日目の未明、木村拓コーチは、家族や故郷の宮崎県から駆けつけた両親が見守る中、短すぎる生涯を閉じた。遺体は、妻・由美子さんがユニホームを着せ、広島市内の自宅に戻った。
阪神戦のために兵庫県芦屋市内に泊まっていた巨人にも午前6時ごろ、ふ報が届いた。会見した原監督は悲しみをこらえ切れず、大粒の涙をこぼし言葉を絞り出した。「何とか奇跡を…、それだけを思っていた。非常に残念です。ご冥福を祈ることしかできない」。宮崎南高の先輩でもある清武代表は「倒れたときから最悪の状況だった」と当初から病状が深刻だったことを明かし「粘り強い生命力で5日間持ちこたえた−」と絶句。「たくさんの記憶を残してくれた。よく頑張ったよと言ってあげたい」と声を絞り出した。
木村拓コーチは1991年にドラフト外で捕手として日本ハムに入団。95年に広島に移籍、血のにじむような努力で自分のポジションを築き、06年途中に巨人へ。スイッチヒッターで、しかも投手以外のすべてをこなすユーティリティープレーヤーとして活躍。04年のアテネ五輪にも日本代表として出場した。
脇役の域を超えたユーティリティーぶりが際立ったのは、昨年9月4日のヤクルト戦(東京ドーム)。延長11回の攻撃で、2番手捕手の加藤が頭部死球を受け退場。控え捕手がいない緊急事態に10年ぶりにマスクをかぶって、試合を引き分けに持ち込んだ。原監督はことあるごとに、この試合を振り返る。「キムタクしかいないと思って探したが、ベンチにいない。すでにブルペンで準備をしていた」
昨年限りで、現役を引退し、今季から1軍コーチに就任。原監督から「世界一のノッカーになろう」と期待され、2月のキャンプでは日が暮れるまで若手にノックを打ち続けた。グラウンドでは周囲のだれからも声をかけられ、親しみやすい性格でムードメーカーでもあった。
走り続けた野球人生だった。巨人移籍後は単身で上京。広島に残した妻と3人の子どもと会うことを何よりも楽しみにしていた。もう忙しく動き回る必要はない。誰からも愛された男は、誰よりも愛した家族のもとへ帰った。
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