T-TOWER-forWEB-03t02200140_0640040610166766030僕は日本人である。待ちに待った東京タワーが出来上がる前に、東京をはなれ、SLで豊肥線の熊本市、水前寺にいった。それからおよそ半世紀、もう日本であって日本でないような、気持ちのままで、人生を終えようとしている。日本人であることに自信がもてなくなってきた。グローバル化のせいではない。アナログからデジタルへの変化はあるが、余り関係ない。

MMECc6000014122009_6_0_c6およそ半世紀後、再び完成前の新しいタワーを見た。しかし、半世紀まえの、あの燃えるような
期待や新しい時代への想いも、感動すらもなかった。旧東京タワーの二倍になるという。だから?どうした。

生きている以上、子供であろうが老人であろうが、魂のときめき方が変わるものではない。しかしこの先の日本を想像できないのである。少子高齢化も財政破綻も、きっと乗り越えられるだろう。でも、いくら楽観的に考えても、将来が映像として浮かんでこない。たおやかな、みんなでたすけあった世界、家の外に出れば、みんな知ってる顔があり、将来はきっと「鉄腕アトム」に描かれている未来があると信じて、貧しいけれどもたのしい夢の映像が、浮かんでいた。ぼんやりとした灯りでも、安心できる街のざわめきがあった。いわば、八木重吉の世界。

それが、、、たった半世紀で、こんなに荒涼とした日本になろうとは。

昭和を懐かしんで言ってるのではない。昔も政治は曖昧で、欺瞞に満ち満ちてはいたが、これほど人心が荒廃し、相互扶助、共生社会が崩壊するとは想像もつかなかった。弱肉強食「新自由主義」が、城壁都市の欧米はいざ知らず、桜の日本をこれほど蝕んでしまうとは。

日本病は修復できると信じたいが、荒廃した人心はもう修復不可能かもしれない。あらゆる政策も、また再びの政変も、あるだろうが、あの「日本」の風景(心象風景)は残念ながら、もう戻らない。

そういえば、今年度から、霧笛が夜霧の波止場から消えた。情緒や「無用の用」は経費削減というちゃちな発想で、消されていった。ついでに、人情も。そして日本も削除されようとしている。