人足は無く、故に人気も無く。
退廃の一途を辿りながらも寂れることを忘れてしまったような我が屋敷“勿忘荘”。
今や骨組みも木材ではなく鉄が用いられ、コンクリートなる新物質で構築される諸々の住居に取り残されながらも未だ顕界に在り続けるのは、徒朽ち果てるを知らぬがため。
家は宿主に似ると言う。ならばこそ、この家は私の映し身に他ならなかった。
長く住んではいるが、しかし住み慣れたという経験はあまり無い。
いつも広大な間取りを思い起こしながら、手探り状態で目当ての物を探し回るなど日常茶飯事。今日もまた、いつぞやに奥へとしまった釣竿を探しに、あちらこちらへと彷徨っているのだった。
先ずは自室。次に居間。他に主だった部屋を探せども、そこには見付からなかったので今は離れの物置にて探索中である。
だが、やはり見付からぬ。もとより物探しなど不得手な私ではあるが、釣竿ほどに目立つ代物ならば見付けるは容易いと高をくくった結果がこれである。ならば最初から古室こむろに任せておけば良かったなどと思い至った丁度その時、戸口の向こうから私を呼ぶ声がした。
「御屋形様? そちらにいらっしゃるのですか?」
「あぁ、少し探し物をしていた。釣竿なんだが、手伝ってくれ」
「あまりお一人で散策されぬよう申し上げましたのに……。目当ての物なら後で私が探しておきますから、今はお戻りください。御食事の時間ですよ」
「うん? もうそんな時間か……分かった、今行く」
どうやら飯時だったようだ。はてついさっき食べたように思うのだが……まぁどうせ私の頭など頼りにならないので、古室の言葉を疑う余地は無い。素直に戻ることにする。
かび臭い物置から出、居間に戻る道すがらには実に美味そうな匂いが漂い、それに引き寄せられるように私の足は前へと出る。数少ない楽しみにその歩も思わず速まり、少しだけ急いて障子を開けた。
途端、より際立った香しさに胸が躍り、古室に指摘されつつ卓に着く。おお、どうやら今日は山で採れた山菜の天麩羅のようだ。今が旬のフキノトウやタラノメの緑が食欲をそそる。味付けは勿論塩、先走って一つつまむが……うむ、やはり美味い。
相も変わらず古室の飯は格別だ。これだけは頑なに忘れることがないのだ、私は。あまりの美味さに箸を休める暇も無く、少量の酒と一緒に胃に収めていく。
そんな私を古室は、これまた相変わらずな呆れ顔で言った。
「もう少し落ち着いて食べてくださいな、料理は逃げやしませんから」
「ふむん? 最近よくつまみが無くなっている気がするんだがな。てっきり手に足生えて逃げ出しているのかと思ったよ」
「あら、そうなんですか? 案外御屋形様が盗み食いしたのを忘れられたのだとばかり思っていました」
「酷い言い草だ。私はいつも正々堂々と食べるというのに」
「その正々堂々もこの間はうっかり忘れられていたのでは?」
「さぁ? 覚えが無いな」
すると古室は、諦めたように深く溜息を吐いた。その様を見せ付けられた私は、少々居た堪れなくなる。
しかしまぁ、そうした揶揄とは無関係に、ここ最近はよく物が消えているような気がする。といってもそう大したものじゃなく、精々が食べようとしていた饅頭が消えたりといった程度のことだが。
ふむ、私の気付かぬ内に妖精なんかがかっぱらっていったのだろうか? だがそうだとしても、古室の眼を盗んでなどとは考え難いし……私でさえ手を焼くほどの察知能力なのだ、それでは私の立つ瀬が無い。そもそも妖精自体随分前から全く姿を見かけないのだから、この謎は完全無欠に迷宮入りだろう。
…………ま、そうした謎も無秩序に退屈が横たわる此処では寧ろ歓迎すべきことだろう。絶え間無い暇を少しでも潰せるのならば、私にとっては何でもいいことだ。
妖精に限らず、ここ数十年ほどでめっきり怪異の類は姿を消してしまい、かつての賑やかさは見る影も無くなった。妖怪が人間を襲うことが少なくなった分犠牲となる人間も減り、その結果今や完全な人の世となってしまったが、なんとまぁ時代とは実に無常なものである。
私にとっても他人事では本来ない。妖怪は人間を襲うものである以上、私もその意義に則らねばならないのだが……元々が元々なのでその認識も薄いまま、こうして現在に至るのである。全く世間というものは、私に何の影響も与えなかった。
と……酒がもう無いな。普段はこれで充分なのだが……今日は何故か酒が進む、もう少し欲しいものだ。
「古室、酒。ついでに酌を頼む」
「もうありませんよ。今のが最後の一杯です。また明日にでも買い出しに出掛けないといけませんね」
「むぅ、だがどうしても今飲みたいんだ。…………仕方無い、ここは私が」
「いけません。御屋形様お一人では一体何処を彷徨うかも知れませんから。また先のように三日三晩彷徨い続けるおつもりですか?」
「大丈夫だ。今回はちゃんと地図を用意してある。なぁに最寄の“こんびに”へ行く程度造作もあるまい」
「どうやらお忘れのようですが、以前も全く同じことを仰って迷われましたよ」
「あれ? そうだっけ?」
ふむぅ、全く身に覚えが無い。…………私も歳かな。
「大体、そうでなくとも人の世に出るのは危ういのですから。最早大っぴらに出歩くこともままなりませんのに、余計な揉め事を起こしかねない行動は控えてくださいまし」
「大っぴらに出歩けないのは今も昔も然程変わらん気もするが……仕方無い、今日は我慢するか」
「是非そうしてくださいな。明日ちゃんと買い出しに行ってきますから」
「うむ」
さて、飯も終えたことだし、どうしようか。
若干温まった身体を冷ましに庭でも愛でようか。今ならまだ良い具合に涼しいし、虫の音もきっと美しいに違いない。
ああ……だが、そうとなると余計に酒が恋しくなってしまうな。これではまるで生殺しだ、自分を抑え切れる自信が無いのでやはりやめておこう。
ではどうしようか。途端に目的も見失い、果てさてまたも退屈になってしまった。これはやはり、外出するしか……。
「余計なことはお考えにならないようにお願いしますね? いらぬ世話を焼くのは御免ですから」
「何故分かった」
「一体どれだけ連れ添ってるとお思いですか。まったく……今夜はもう風呂に入ってお休みくださいまし」
「分かった分かった、素直に従うからそう怒るんじゃない」
「怒ってなんかいません。徒呆れただけです」
「それはそれで傷付くが……ま、では先に休むぞ」
「ええ、お休みなさいませ御屋形様。どうか良い夢を」
「ふん……」
夢などとうの昔に、視ることを忘れてしまったがな。
夢を失ったのは、私が人でなくなったのと時を同じくする。
夢といっても、別段希望や願望の類を失ったのではなく、単純に夜眠る時に夢を視なくなっただけの話だ。
言ってしまえばそれだけのこと。嘘も真もあやふやな一時を失ったからとて然したる問題は無いが、それでも今まで視られたものが突然視れなくなってしまったという事実は、少なからず惜しみも感じたものだ。
とても昔……もう一体それほど昔のことかは忘れたが、夢を視ていた頃よりも視なくなってからの方が圧倒的に長いくらいだ。御陰で今や夢を視ないことが当たり前となった私にとって、だからこそこの状況は驚愕に値する。
今私は、夢を視ていた。
それもあやふやなものではない、とても確かな夢だ。目覚めてもきっと頭に残っているだろう、そんな夢。
私がまだ人間だった頃、とても多くの思い出に囲まれ、満ち溢れていた……それこそ『夢のような』過去。過去を、私は目の当たりにしているのだ。
有り得ない。絶対に有り得ないはずの事態だが、現にこうして夢に視てしまっているのだから否定のしようが無い。
だから私はそれを拒むことをせず、徒純粋に昔日の温もりを愉しむことにした。
なんてことはない、極々当たり前の日々。日々を徒生きるために生き、時折村を襲いに来る妖怪に怯え、食われ払いながらもやはり生きる、それだけが繰り返される毎日。
辛いと思ったことは、数え切れないほどにある。だがそれと同じくらいに、楽しいと思ったことがまたあるのだ。
長き時の最中で零れ落とした諸々の記憶。それが今私のすぐ傍にあるという事実に、若干の憤りと、それが塵のように思える郷愁に打ち震えた。
だがそれもやがて終わる。どこからが始まりでどこが終わりなのか、それすらも全く覚えていないが、取り敢えず私の“思い出”らしき光景が終わり、私は夢に取り残された。
――――クスクス
――――いつまで経ってもやって来ないんですもの
――――まったく厄介な能力ですのね。ですからこうして私直々にお招きしますわ
――――これは私からの贈り物。ほんのちょっとした餞別ですから、お気になさらず
――――それと……前知識も必要ですね……クスクス
…
……
…………酷く胡散臭い声で、最後だろう私の夢は締め括られた。
「ふむ、いつになく良い寝覚めだ」
「おはようございます、御屋形様。早速ですが御食事になさいますか?」
「そうだな……今日は茶漬けが食べたい気分だ」
「承知しました」
寝所には立ち入らず、障子の向こうから是非を問うのは古室の癖だ。というか、古室に言わせればそれこそが当たり前なんだそうが、生憎私は学が無いのでよく理解出来ていない。
まぁそんなことはさておき、適当に身嗜みも整え普段着に着替える。巷では西洋の服が主流らしいが、洋服は肌に合わないので好みじゃない。なので昔と変わらず着流しである。勿論安いやつな。
さて身支度も終えたことだし、そろそろ飯の準備も出来ている頃だろう。早々に居間へと移動する。案の定、既に古室が用意していた。
「いただきます」
「はいどうぞ」
茶漬けなのでさらさらと掻き込み食い終える。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまです。ああ、竿の方はそちらに置いてありますので」
「ありがとう。そうだな、いつもの池にでも釣りに行くとしようか」
「あまり遠出はなさらぬようお気を付けくださいませ。決して他の場所へ行ってはなりませんよ? 探すのが骨ですから」
「ああ、分かっているとも。では、行ってくる。見送りは不要だ」
「承知しました」
釣竿と魚籠を携え、早速釣りに出掛けるとする。
なぁに、これでもン百年と同じことを続けているのだ。釣りのあれこれは承知しているとも、きっと今日も大漁に違いない。
古室から昼飯用の握り飯を受け取り、いよいよ私は障子を開けた。
「よく包丁を研いで待っておけ。今夜は馳走だぞ」
「獲らぬ狸……もとい、釣らぬ魚の皮算用ですが、まぁ期待せずにお待ちしております。行ってらっしゃいませ、御屋形様」
「うむ」
さて、今日は何を釣ってやろうか……?
先に待つ馳走を前に、私のやる気が俄然上がってきたのだった。
「さて、と。掃除も終えましたし、そろそろ買い出しにでも行くとしますか……」
炊事、洗濯、家事、掃除を終え、一息吐く間も無く次なる仕事へと取り掛かる。
何度も繰り返した家仕事。それが彼女の存在意義なのだから当然と言えば当然だが、まるでダメな主人を支える屋敷妖怪の気苦労は絶えることが無い。
今も心の片隅では主人を心配しているのだ。なにせ、ダメなものだから。今でさえ多少は安心して出歩かせられるが、そうなるまでに短くない年月を食ったのである。以前買出しの時に立ち読んだ雑誌で見たが、今の自分を例えるならば“ほーむへるぱー”なる職が最も相応しいだろうと、何とはなしに彼女は思った。
ともあれ、今日は早めに出掛けねばなるまい。酒を切らしてしまった分、荷物は倍に増えるのだから。主人は少しずつしか飲まないが、大の酒好きなのだ。
「とと、釜戸の火は……ちゃんと消してますね」
細かい作業はそこらの小道具にでも指示しておけば大丈夫だろう。一応心配は無く、家を空けることが出来る。
といっても此処ら一帯は全く人がいないので、そうした心配も杞憂だが。希に野生の狸などが迷い込んで荒らしていく以外、さしたる被害は此処には無い。
玄関の引き戸を開ける。そこから少し進んだ先には屋敷全体を覆い囲む塀があり、大きな正門が待ち構えていた。それぞれの戸には鍵も無ければ、閂も無い。もとより彼女さえいれば、そうした用具は無用の長物である。
長い時を共にしたようにはとても思えない、立て付けの良い正門を開放し、一足外に踏み出ると。
「あ……あら? いつもの場所じゃあ、ありませんね……?」
戸惑い、見渡す限りには見慣れぬ風景。地平線を埋め尽くす人工灯の明りは忽然と消え、徒々なつかしいそれは。
「お、御屋形様が危ない……ッ!?」
それは、とある少女が見た日本の原風景。
――――今は無き、幻想の匂いが木霊した