朝鮮人と護国の英雄 特別攻撃隊
朝鮮人と特攻
平成17年10月20日月木曜日 一部追記訂正
特攻などという必死の攻撃方法が通常の状態ではあるはずもなく、したがって通常では訓練などもされるはずは無い作戦です。
特攻による急降下攻撃の場合、突撃開始から目標の艦艇まで約二キロ、時間にしてたった十秒あまりを加速度で浮揚しようとする愛機を押え、目を見開いて突進する気概のみがこの攻撃方法を成功させる唯一の条件でした。愛機が火を吹こうとも・・・・・
大東亜戦争において、当時は日本であった朝鮮、台湾などの多くの方が日本人として戦い、散華されました。
この方々は我々にとり間違い無く護国の英雄なのです。
その中には特別攻撃隊要員つまり特攻隊員として出撃、散華された方々もいらっしゃいます。
ただ、当時の祖国である我国のために戦われ、自らの貴い命を捧げられ散華された方の御家族は、お気のどくなことに、戦後、南北朝鮮にて冷たい目でみられています。十死零生という特攻という作戦についての是非はいろいろと問われてしかるべきものと思いますが、その時代に国を守るために(当然、その時代は朝鮮も日本でした)、愛する家族、恋人を守るために、敵の艦船、飛行機などに我が身を顧みる事なく戦うという崇高な行為は、一般人をも巻き込み犠牲とする無差別テロ等と違い、民族、国境を超えて感銘を与えるものです。
この方がたは日本の英雄であるとともに、朝鮮民族の偉大な英雄です。
現在、残念ながら、詳しい事が不明の方も多いです。
現在、判明している方々とエピソードです。
金尚弼きんしょうひつ(結城尚弼)
大正9年平安南道生まれ(現在は北朝鮮)
昭和18年7月私立延禧専門学校卒業(京城)
9月大刀洗陸軍飛行学校隈之庄分校 特別操縦見習士官一期生として私立延禧専門学校初の合格者となる。
操縦は同期でトップ、柔道三段、剣道は突きが得意
のちに満州・綏中第23教育飛行隊配属
その後、満州敦化飛行隊配属、
昭和20年2月11日満州新京で編成された特攻隊に志願。
昭和20年4月3日 宮崎県新田原基地より第5編隊長として沖縄西方洋上に出撃 戦死 24歳 2階級特進で大尉
エピソード
休暇で朝鮮に帰った折、母校の私立延禧専門学校を訪問。その時の校長であった辛島驍氏の勧めで学生の前にたった金は、多くを語らず「俺についてこい」と言うなり、上着を脱いで、坂や林のある二十万坪の校庭を約一時間にわたって走り続けました。在校生だけではなく教職員も一緒になって彼の後に続きました。これが契機となって、校内にはやればできるのだという気概がみなぎり、志気も大いに盛り上がっていきました。
満州綏中第23教育飛行隊配属に配属されている時の事です。隊内の演芸会で「私は朝鮮出身です。少しアクセントが違いますが、日本の歌を歌います」と言うと、隊員から「アリランを歌え」「そうだ、そうだ、アリランを聞かせてくれ」との声があがりました。金が「では母国の朝鮮語で歌います」と言って歌い、歌い終わると、拍手喝采の嵐が起こったといいます。
その後、満州の敦化の飛行隊に移り、昭和二十年二月十一日、満州・新京の第二飛行軍で二つの飛行隊が編成された時特攻隊に志願し、誠第三二飛行隊に配属されました。恐らく家族とはこれが最後の別れになると思った金は、二月二十五日、平壌の三根旅館で日本軍将校になることを反対していた兄・金尚烈と会いました。
兄から逃亡するよう懸命な説得を受けましたが、
「自分は朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が笑われる。多くの同胞が、一層の屈辱に耐えねばならなくなる」
「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません。そこをよく解って欲しいのです。お父さんとお兄さん、この二人の意志を継ぐために、日本を勝利に導いて、その暁に我々の武勲を認めさせて独立にもってゆくことなのです。大東亜共栄圏として、ビルマ、インドネシア、朝鮮、みな独立の道があるはずです。日本が強くなればなるほど、地下の独立運動は無力となりますから、それより日本に協力して独立を勝ち取る、その方が確かだと思うのです。
日本人が憎くない、というとそれは嘘になりますが、僕は少年飛行兵出身の部下を連れてゆきますし、今日一緒に来てもらった佐藤曹長からは、親身の整備をしてもらいました。戦友や部下たちとは、一心同体であり、民族のしこりや壁はありません。・・・・・・
民族の魂は売り渡していません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許して下さると思うのです」。
それから一カ月余を経た四月三日、金は第五編隊長として小林勇第二編隊長と共に宮崎県の新田原基地より第5編隊長として沖縄西方洋上に出撃。圧倒的な数の米軍戦闘機と、艦隊からの対空砲火網の中沖縄西方洋上の艦船軍に突入。24歳の若さでその生涯を閉じました。2階級特進で大尉
特攻の母と光山大尉
11月2日水曜日はれ ×
先週号(平成17年11月3日号)の週刊新潮の「墓碑名」というコーナーで「特攻おばさんの次女 赤羽礼子が語り継いだもの」という題名で、特攻の母鳥浜トメさんの次女である赤羽礼子さんが、10月16日に75歳でお亡くなりになったという記事がありました。
特攻の母といわれた鳥浜トメさんにとって忘れられない多くの特攻隊員の中でも特に印象に残った一人として光山文博大尉こと卓庚鉉大尉がいらっしゃいます。
卓庚鉉たくこうげん(光山文博)
大正9年慶尚南道生まれ
立命館中学、京都薬学専門学校(現京都薬科大学)
大刀洗陸軍飛行学校分教所(知覧) 特別操縦見習士官一期生
昭和20年5月11日第51振武隊 第7次航空総攻撃として沖縄西海方面に陸軍戦闘機 隼にて出撃 戦死 24歳 2階級特進 大尉
辞世 たらちねの母のみとぞ偲ばるる弥生の空の朝霞かな
京都薬学専門学校を卒業、陸軍航空隊を志願し、昭和18年10月に特別操縦見習士官一期生として難関を突破しみごと合格した光山文博は大刀洗陸軍飛行学校分教所(知覧)に配属となり、一年間の訓練のちに19年10月に少尉に任官す。その一カ月後の11月に軍人になることを反対した母を亡くしています。その母の死に目に駆け付けた光山少尉に対して、「ひと足遅かったなあ。お母さんは、随分待っていたのになあ・・・。お母さんなあ、お前の事を心配していたが、なくなる前には、もう諦めの心境なのか、『文博はもうお国に捧げた体だから、十分に御奉公するようにいって下さい』と言い残したんだよ」「じゃあ、お父さんも、僕が戦死しても嘆きませんね」「日本が勝か負けるか、大変な戦争だよ。お前も十分戦ってくれ」
光山少尉は基地に戻ってただちに特攻志願の願書を書いて、師団長に提出。三重県明野で編成された陸軍特別攻撃隊第51振武隊に所属。昭和二十年4月、知覧に進出。
知覧の特攻隊員の多くを見送った鳥浜トメさんの経営する富屋食堂に、出撃前夜最後の別れに一人で訪れてました。他の特攻隊員の歌声に耳を傾けていた卓に、トメさんが「今夜が最後だから光山さんも歌わんね」と勧めると、「そうだね、最後だからね。それでは僕の故郷の歌を歌うから、おかあさん聞いてね」とふだんは無口で恥ずかしがり屋だった光山は、被っていた戦闘帽を眼が隠れるぐらい目深に被って、あぐらをかき、柱にもたれかかってアリランを歌っています。
アリランを歌う光山は次第に涙でくしゃくしゃになって、二番は歌にならずに、いじらしく思ったとめさんは光山少尉の手を取り、トメさんの娘さん二人も手を取り合って泣いたそうです。
光山少尉こと卓庚鉉少尉はこの時トメさんに朝鮮の黄色い縞の布で作った財布を「お世話になりました。こんなもので恥ずかしいですが、受け取ってください」とお渡ししています。トメさんは「出撃記念 光山少尉」と書かれたこの形見となった財布を大切にしていて、それは今も残されています。(豊田穣著の「光山文博大尉の突入」にはこの財布には「贈 鳥山とめ殿 光山文博」と記されていたとなっているが、残されている遺品の財布の写真では「出撃記念 光山少尉」となっている。)
爆装隼にて昭和20年5月11日午前6時30分 第51振武隊 第7次航空総攻撃として沖縄西海方面に出撃、散華されました。
「日本陸軍隼大尉」と墓碑名に刻まれた墓で故郷の慶州で御両親といっしょに眠っているそうです。
戦後、4、5人の在日朝鮮人学生が富屋旅館を訪ねてきたそうで、光山大尉の話しを聞いたその学生たちは、トメさんに「アリラン」を歌ったそうです。トメさんは光山大尉を思い出し涙ぐんだそうです。
戦争が終わって三カ月目の20年11月、知覧に残っていた特攻機を米軍が山積みにして焼いた。その最後の様子を見ていたトメさんは、焼跡に墓標を建て「これは特攻隊員のお墓だよ」といって毎日花を供え焼香するようになった。これが後に昭和30年に健立される特攻観音のはじまりであった。その特攻観音にトメさんは水桶を持って日参し、平成4年4月、90歳でお亡くなりになっています。
トメさんの御遺体を病院から自宅に移送する途中、最後のお参りにと特攻観音に車を廻した。観音様に頭をむけて棺を安置し、顔上の白布をとると、胸の上で組んだ両手と同じように正面を向いていたはずの顔が、まるで観音様を覗き見るように大きく右後ろを向いていたそうです。
このトメさんに当時国会議員だった石原信太郎現都知事は国民栄誉賞をぜひにと、当時の総理大臣だった宮沢氏に進言しましたが、赤い首相のひとりである宮喜一氏はそれを拒否したそうです。らしいといえばらしいでしょう。石原氏はそんな宮沢氏に対して「あんた、そのうち罰が当たって、のたれ死にするぞ」といったらしいですが、私もそう思います。きっとろくな死に方せんでしょう。
崔貞根少佐(日本名 高山昇)は昭和十四年十二月一日に日本陸軍士官学校(五十六期)入学、航空士官学校と進み、卒業後、飛行第六十六戦隊(九十九式襲撃機部隊)に配属、フィリピンのレイテ沖作戦に参戦後、沖縄作戦に参加、昭和二十年四月二日、敵駆逐艦に体当たり散華しました。二階級特進にて少佐
崔貞根少佐は陸軍士官学校在校中に、同期生のひとりに、
「俺は天皇陛下のために死ぬということはできぬ」
と、その心情を吐露したといいます。(同期生追悼録「礎」より)
同期の齋藤五郎氏は陸士の同期会で、李亨根氏(同じく陸士五十六期、韓国陸軍大将)にただしたところ、
「その気持ちは貴様たちには判らんだろうなあ、それが判るときが、両国の本当の友好がうまれるときだ」
と答えたそうです。
林長守りんちょうしゅ軍曹
少年航空兵出身
昭和19年12月7日 勤王隊 二式双襲(屠龍)にてフィリピン オルモック湾(レイテ島東海岸)出撃
朝鮮人として最初の出撃
「大東亜戦史・フィリピン篇」(富士書苑刊)によると
<そういう未熟な人の多い中では、勤王隊の林長守軍曹は抜群の操縦技術を持っていた。少年飛行兵出身として最初の特攻隊員でもあった。
人柄もよく、隊長の山本卓美中尉は彼を日本に帰して少年飛行聘の育成にあたらせようと、何度彼に説いても、彼は頑として聞かなかった。山本隊長の「これは命令だ」といっても、彼は「私のたった一度の反抗です。そういう命令はきくことができません」と承知しなかった。眼のくりくりしたいい青年だった>
林軍曹は二式双襲(屠龍)十機の中の一員として乗り込みました。その時の戦果は、駆逐艦マハン(一六三〇トン)輸送駆逐艦ワード(一六〇〇トン)の二隻を大破。両艦は使い物にならなくなり、最後は米軍によって沈められました。(米軍資料より)
当時、毎日申報は、「半島神鷲」として、林軍曹のことを大きく報じました。
朴東薫ぼくとうくん(大河正明)伍長
大正15年生まれ
少年飛行兵第15期生
昭和20年3月29日 誠41・扶揺隊 知覧より97式戦闘機にて沖縄方面出撃
18歳
遺書には「靖國に召されし一身如何にせん、ただ君がため」とあったそうですが、同期の同胞「金山」伍長には「内鮮一体というけど、ウソだ。日本はウソつきだ。俺は、朝鮮人の肝っ玉を見せてやる」と言い残したという。
「The Geacs Project Vol.5」大館史編による)
朝鮮半島の御遺族は、戦後、ソ連軍による財産没収や朝鮮動乱、そして、親日派としての経歴より多くの辛酸をなめ、迫害されて精神に異常をきたし、悶死したといわれる御父上は生前、「日本という国は決して悪い国ではない。特攻で死んだ者の家庭に対して責任を持つ国だ」とおっしゃっていたそうです。
重いお言葉です。
近藤行雄伍長
昭和19年11月25日
万朶隊 フィリピン
河東繁伍長
昭和20年4月16日 第106振武隊
九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上
李充範 (平木義範)曹長
昭和20年4月22日 第88振武隊
木村正碵伍長
昭和20年4月28日 第77振武隊
九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上
広岡賢哉伍長
昭和20年5月11日 第431振武隊
九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上
金田光永伍長
昭和20年5月27日 第431振武隊
九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上
石橋志郎少尉
昭和20年5月29日 飛行第30戦隊
韓鼎実 (清原鼎実)伍長
昭和20年6月6日 第113振武隊
九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上
そして、廬龍患 (河田清治)少尉
京城法学専門学校
昭和20年5月29日
二式戦闘機(屠龍キ・45)にて御前崎上空でBー29編隊長機に体当たりを敢行 撃墜
当時、全国の新聞を飾ったこの武勲の主である河田少尉が朝鮮人であることをほとんどの日本人は知らなかった。
平成14年現在河田少尉の実弟は水原市に住まわれている。
我が国は、特攻隊員の場合は二階級特進の栄誉をもって応えた。
桜の樹を植えた特攻隊員
以下のエピソードは「日韓共鳴二千年」(明成社)に著者の名越二荒之助氏がどうしても紹介したい秘話として書かれていることです。
日華・日韓の教育交流に尽力されている草開省三氏と名越氏が昭和五十四年十二月末に研究会に通訳をお願いしている当時、中学校の教頭を務めておられた張志学氏に対して名越氏が「大東亜戦争をどう思うか」という質問をした時に、張氏がそれに答える変わりに、どうしても日本の方々にお知らせしたいと思っていた話として是非聞いて下さいと語った内容として書かれています。
以下引用
「私は教頭をになる前に視学官をやっていました。各地を巡回していた時、韓国では珍しい女性の小学校長を訪ねたことがあります。その校名は本人に迷惑がかかるといけないので、まだ発表できません。なななか立派な人柄で、男性教師からも尊敬されていました。ところがその校長は未亡人で、子供がいないのです。校長の御主人は、どんな人だったと思いますか。韓国では余り吹聴できませんが、実は特攻隊員として、沖縄で戦死したんです。その御主人は航空隊員になると、死を覚悟してたんでしょう。出身小学校を訪ねて、校庭に桜の木を植えたんです。その桜は今は大きな樹に成長しています。未亡人は奇しくも御主人が桜を植えた学校の校長として赴任したんです。校長は言っていました『淋しい時は桜の木の下に立つと心が安まる』と。
私はこの話を日本人に知って貰いたいと思って、ソウルにいる日本の新聞記者にそれとなく知らせたました。A新聞の記者が、早速小学校長を取材しました。
校長は記者を桜の木の下に案内しました。すると記者は『日本の軍国主義が、御主人をダマして申し訳ないことをしました』と言ったのです。いつもは謙虚な校長でしたが『だました』という言葉には激怒しました。
『私の主人はダマされるような人ではありません。自分の意志で出撃したんです。ダマされたというのは、人間に対しての屈辱です。取材はお断りです』と。これが私の大東亜戦争観です」
張さんはこの秘話を紹介しながら、あとは何も語りませんでした。私は余韻を持たせる解答にうなりました。
大東亜戦争を評論し出したら、どんなことでも言えましょう。特に当時の朝鮮の人々にとっては複雑で一言で尽くせるものではありません。我々は評論する前に、このように生きた人々の心を深く偲びたいものです。
その張志学氏は、一九九二年、癌のために逝去しました。そのために特攻戦死した御主人の名も、小学校の名も、もはや聞き出すすべがありません。美談はこのようにして歴史から消えてゆくのでしょうか。
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社P468〜470
引用終わり
以上参考、引用は
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社
「写真集特別攻撃隊」国書刊行会
歴史を簡単に断定する事ということは、往々にしてその時代に生きた先人の生きざまを屈辱する事にもなりかねません。我々も我が国を守るために戦ってくれた先人とともに当時の日本人として戦った朝鮮・台湾などの勇敢な人々の事を忘れてはいけないと思います。
ところで、この本に書かれているA新聞って、築地にあるあのA新聞でしょうか。