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大阪新任教員免職処分撤回闘争              かけはし2010.4.5号

ここから勝利のリレーを

勝利拡大へ、熱気の中自信
深め盛大に勝利パーティー


 【大阪】昨年十二月二十四日、大阪市教委の上告を最高裁が不受理にしたことで、完全勝利が確定し、四月一日から学校現場に復帰する井澤梨絵子さんの勝利パーティがエルおおさか宴会場で開かれた。

大阪市教委の
論理は完敗

 井澤さんは、大阪市の正規職員を何年か勤めた後、二〇〇四年四月大阪市の小学校教員に採用されたが、条件付採用期間の切れる〇五年三月末で免職処分となった。
 処分理由は、学校日誌の記載の誤り、学年会計で金銭出納帳をまとめて付けたこと、ある期間の週案の未提出(提出の準備はされていた)、直前の時間年休の申請、出勤簿の押印の遅れ、学級崩壊などを理由とした教員としての不適格・指導力不足である。
 処分理由は事実無根や、事実ではあっても意図的に誇張されたもので、どれ一つをとってもほとんど理由にならないものばかりだ。事実を歪曲した校長の恣意的な報告書に基づき、一年間の条件付採用期間が切れる時点で大阪市教委が免職処分を行ったものである。
 〇五年七月免職処分取消の訴訟を提起。〇七年五月二十一日大阪地裁判決で敗訴。直ちに控訴し、〇八年八月二十九日大阪高裁判決で逆転勝訴。大阪高裁は、原告の請求を棄却した〇七年五月二十一日の大阪地裁判決を覆し、免職処分を取り消し井澤さんを採用するよう命じた。高裁判決を受けて、大阪市教委が上告していたが、最高裁は上告を不受理とする決定を下したわけである。
 三月二十七日、勝利パーティーは井澤さんが所属する大阪教育合同労組大阪支部の沢村書記長の司会で進められた。第一部の最初は山下副委員長の経過報告。

公務員の原職復
帰を今後の糧に

 三月の初めに井澤さんが組合に入ったときの判断は、「転勤ですみそうな感じ」だった。市教委もそのような判断だったようだが、しばらくすると雲行きがおかしくなってきて、事情聴取とかが出てきて、あれよあれよという間に三月末の大阪市教育委員会会議で免職処分が決まった。支部も市教委職員もだまされたことが分かった。後は裁判でやるしかない。自分の以前の体験(国鉄解雇)から自分自身のリベンジとしてこの裁判に関わった。
 弁護士は、関西で一番二番の弁護士にお願いした(笑い)。組合としては裁判と大衆行動を一体として闘うしかないと、その都度市教委への抗議行動や署名に取り組んだ。高裁で勝訴したのは弁護士のおかげだ。市教委には上告しないよう再三申し入れたが結局上告し、案の定不受理になった(この時点で井澤さんの身分が回復する)。組合にとってはここから闘いが始まった。
 民間の場合なら解決金で終わりだが、組合も市教委も公務員の現職復帰に向けての経験がないので、十二月終わりから三月初めまで駆け引きをしながら交渉を繰り返した。さまざまな権利の回復、社会保険(公立学校共済)の回復を行った。この経験はいろいろな方面に波及できたらいいと思う。
 この裁判の勝利で一番痛手を受けるのは教育合同だといろいろな方から言われている、あれほど専従として動ける人がいなくなるのは痛い、これから組合はどうなるのだと。井澤さんには新しい職場でがんばって、いずれ返ってきてほしいなと思っている(笑い)。(結婚式での新婦のお父さんのあいさつのようでしたねと司会。再び笑い)。
 続いて、在間秀和弁護士が裁判の報告をした。
 関西で一番とのことだが、関西の一番下は橋下という府知事をしている弁護士で、私は下から二番目だ(笑い)。勝利の最大の要素は井澤さんが最後まで負けないという不屈の精神でがんばったこと、心から敬意を表します。
 次は、教育合同というすこし変わった組合だ。一九五〇年代からの自治省や文部省関係のいろいろな資料を調べ尽くしたこと、若い井澤さんを支えきったこと。最後はいつも法廷を満杯にした支援の人たちだ。最も感心するのは、井澤さん宛に大阪市教委が教育長名で文書による謝罪(1月6日付)をしたことだ。「この間あなたにご迷惑をおかけしたことをお詫びするととも……」。本当に大きな成果だ。三月五日付で人事担当課長名で大阪教育合同労組と大阪全労協に謝罪の文書が出されている。これが今後の運動の大きな糧になるように期待したい。
 続いて小野純子弁護士が、「一年に満たない弁護士経験のときに声をかけていただいて、この裁判を担当した。皆さんに支えられてやってこれ、最後に勝利できて本当によかった」とあいさつ。

これが勝ったと
いうことなんだ

 主役の井澤さんが登壇。
 首になったのが二十六歳のとき。裁判しかないと言われたとき、「どれぐらいかかるのですか」と聞いた。一年ぐらいかなと言われたが、やっているうちにそれはウソだと分かった。
 〇五年九月の全労協大会でアピールしたとき、国労闘争団の人が、今年で十七年になると発言したのには本当にびっくりした。郵政4・28処分撤回の闘いが二十八年かかったと聞いてさらにびっくりした。周りの支援のおかげで闘い続けられるのは本当に幸せだった。
 復帰したら弾圧で大変だろうと思っていたが、そんなものはなく、市役所前で抗議行動をしていたときピケを張っていた市教委の職員が手のひらを返したように、「井澤先生の現場復帰を全力で応援させていただきます」と言うので、どう対応していいかとまどった。しかし、これが勝ったということなんだなと思った。教育長の謝罪文をもらったときは、今までの仕打ちをこんな紙切れ1枚で済ますつもりかと思ったが、これが勝ったということなのだと思った。

井澤さんの勝利
が波及し始めた

 第二部はお祝いの歌、支援団体のお祝いの言葉が続いた。
 井澤さんと同じく〇五年三月末京都市教委による新任免職処分を受け、裁判闘争を闘ってきた高橋さんは高裁で勝訴し、京都市教委が上告していたが、今年二月二十六日最高裁はこの件についても同様に上告不受理の決定をした。井澤さんの勝利が高橋さんの勝利に連動したことは疑いない。
 高橋さんも四月から学校現場に復帰することになっている。高橋さんは、公立学校共済への復帰について大阪教育合同労組の経験に学んだと、お祝いのあいさつの中で述べた。また岡山で、指導力不足を理由に免職処分された安東さんも駆けつけた。安東さんも岡山地裁につづき広島高裁岡山支部による控訴棄却判決で完全勝利し、最高裁の上告不受理の決定を待つばかりになっている。
 第三部は勝利拡大の部と称して、井澤さんが今後の抱負を述べ、未解決争議を激励し争議当該へ勝利のバトンを渡し、当該から決意が述べられた。最後に、井澤さんから大阪教育合同労組への記念品として新調の組合旗が武井委員長に贈られた。武井委員長の閉会のあいさつ、松本大阪支部委員長の団結ガンバローとインターナショナルの合唱で閉会した。   (T・T)




投書
「日米安保・アメリカの核
の傘は日本を守ったか?」
たじまよしお

「地図にな
い里から」


 私は長野県の最南端・南信州の山麓の里に住んでいます。ここから高速道路に乗るには一時間ほどかかり、高速道路の地図帳に載っていない集落です(載っている地図帳もあるかもしれませんが)。しかし私は「地図にない里」というフレーズがとても気に入っているのです。このような山の中にも「9条の会」があって私は副会長ということになっております。
 先頃ラジオニュースで「日本は日米安保で平和が守られてきた」と考えている人が七五%というアンケート結果が出ていると報じていました。日米安保から五十年という節目に「安保破棄」の動きを作ろうという様々な試みがありますが、それらにとって厳しい数字ではあると思います。この「地図のない里」の人々にアンケートをとったならば、もっと厳しい数字がでるでしょう。
 五、六年前だったと思いますが、私の住んでいる里に隣接する平岡村で元アメリカ海兵隊員の故アレン・ネルソンさんの講演会がありました。その時一人の高校生が質問しました。「僕たちの社会科の教科書にはアメリカはベトナム戦争で敗北したとの記述がありますが、アメリカの教科書にはどんな風に表現されていますか」と。これに対して「アメリカはアジアの人々をイエローモンキーとしてしか見ていない。誇り高いアメリカがモンキーなんぞに負けたなどと教科書に記載する、そのような発想は存在しない」といった主旨のことをネルソンさんは言っておられたと思います。

五億人以上殺り
くの戦争計画

 昨年「8・6ヒロシマ平和へのつどい2009」には、来日されたピーター・カズニックさん(アメリカン大学核問題研究所・所長)が講演しました。米国の核兵器戦略を検証することによって、日米関係(日米安保)の本当の姿を追求する……そういう意味で私にとって興味あるお話でした。以下「 」内はカズニックさんのお話。通訳は田中利幸さん。
 「(原爆によって)広島が破壊されたという報告を聞いた時、トルーマン大統領は『これは歴史的に最も偉大なことである』と述べました。最初の世論調査では八五%のアメリカ人が原爆投下はよかったと支持しました」。トルーマンは回想録の中で「大統領になった最初の日に」「原爆のことを知らされた」「国務長官ジェームズ・バーンズに『この兵器は世界をほろぼす力のあるものである』と告げられた」「『その爆弾が全世界を破壊してしまう力を持っていることを恐れたため』、陸軍長官スチムソンは、アメリカがこの爆弾を果たして使うべきかどうかの迷いを『ひじょうに重苦しく』語った」「スチムソンとグローブズの説明を聞き、さらにグローブズが持ってきた説明書を読んで、自分も『同じように感じた』とトルーマンは認めています」。
 以上のことから、アメリカの上層部の中にも、広島・長崎への原爆投下に関してはある種の葛藤があったことが窺えます。しかしそれから四年後の一九四九年八月、ソ連が最初の原爆実験を行ったのです。これに対してトルーマンは、まわりの反対を押し切って水爆開発計画を推し進めたのです。
 「かくしてトルーマンは、人類滅亡を可能なものにしました」そして「彼の後継者であるアイゼンハワーは人類滅亡を現実的なものにしました」「アイゼンハワーが一九五三年一月に大統領になったとき、彼はそれまでの大統領の中で誰よりも核兵器についてよく知っていました。なぜなら、陸軍参謀長ならびにNATO最高司令官として核戦争計画に深く関与していたからです」「アイゼンハワー政権の下で、アメリカの核兵器は千七百五十個から二万三千個に増え、そのうちの二千五百個がソ連を攻撃目標にしていました。ほとんど知られていないことは、もし戦闘司令官あるいは特別司令官が緊急の事態であると見なした場合や、大統領と連絡が取れない場合、もしくは大統領が任務を遂行できなくなった場合には、核兵器を使う権限が彼らに与えられるということを、アイゼンハワー政権が許したということです」。
 さらに「戦闘司令官たちの幾人かが、同じように状況が自分に起きた場合には、彼らの部下にも核兵器使用の権限を与えることを認めました。この部下の中には、航空軍団や艦隊の司令官が含まれていました。つまり、核のボタンを押せる人間が数十人もいたのです」「一九六〇年八月、アイゼンハワー大統領は国家戦略攻撃目標リストと統合作戦計画なるものの作成を許可しました」「統合参謀本部が出した数字がありますが(その作戦計画に沿って攻撃が行われた場合の推定死亡者数)、中ソ両国で三億二千五百万人、東ヨーロッパで一億人、死の灰での死亡者が」「一億人」でその中には日本も含まれているのです」。

支配層は何を守
ろうとしたのか

 日本は日米安保で平和が守られてきたと考えている人が七五%、というアンケート結果がでているそうです。下手をするとソ連、中国も日本も一蓮托生で皆殺しにされていたかも知れないのです。そして日本やヨーロッパにはアメリカの軍事基地があって、自国の軍人やその家族も住んでいたのです。このような作戦計画をたてること自体、人類、否、この地球上にいきとしいきるもの達への冒涜だと思いませんか。六億五千万人を殺害することになるというこの計画をアイゼンハワーは、修正することなく次の政権に手渡したといいますから、なんら反省の意思はなかったということになります。仮にこの作戦計画が実行された場合、死の灰はやがて偏西風によって運ばれ、アメリカ大陸にも惨禍をもたらすのです。歴代のアメリカ大統領は一体なにを守ろうとしてきたのか、そのことはこれまで続いてきた日本の支配層についてもそっくりそのまま当てはまることであると思います。
 日米安保はもう要らない、止めにしようという運動のために拙文をまとめてみました。ご意見などお寄せいただければうれしく思います。 
 (2010年2月22日)

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