訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

吉村道明氏(元プロレスラー)が呼吸不全のため死去

吉村道明氏  力道山やジャイアント馬場と一時代を築き、芸術的な「回転エビ固め」で人気を集めた吉村道明氏が15日午前6時35分、呼吸不全のため神戸市北区の病院で死去していたことが17日、分かった。76歳だった。遺族の意思で、葬儀・告別式は身内だけで営まれた。近大相撲部の時代に学生横綱となり、卒業後プロレス入り。「火の玉」「闘将」「突貫小僧」の呼び名でファンに愛された。73年引退後は母校近大相撲部の指導にも当たっていた。

 日本プロレス界の黎明(れいめい)期を支えた吉村氏が、帰らぬ人となった。73年3月3日に母校の近大記念館大会で引退した後は、プロレス界と縁を切り、かつて学生横綱にも輝いた同大学の相撲部で指導に当たる傍ら、事業にも取り組んでいた。関係者の話によると、ここ1、2年は入退院を繰り返していたという。

 名脇役だった。近大を卒業し、プロ4年目の57年に力道山から誘われて旧日本プロレスへ移籍した。1カ月後には日本ジュニアヘビー級王座を獲得し、約2年半、1度も手放すことなく防衛。61年ヘビー級に転向し、力道山のパートナーに抜てきされて活躍した。血だるまになりながらも相手に立ち向かっていった。そのスタイルから「火の玉」「闘将」「突貫小僧」と呼ばれ親しまれた。

吉村道明氏  力道山急逝後63年12月に発足した日本プロレスの新路線では豊登、芳の里、遠藤幸吉と並んで4幹部の1人になった。マッチメーカーと巡業の総責任者を兼任。4幹部では一番遅い46歳まで現役を務め、日本プロレス随一の常識人として後輩からも慕われていた。

 相手を一瞬にして丸め込む「回転エビ固め」の技術は「神業」と驚かれた。プロレスラーとしては決して大きくない体で、大男相手に攻め込まれても、回転エビ固めで逆転勝ちし観客を狂喜させた。

 66年には馬場と組んでインタータッグ王座を獲得。豊登、大木金太郎、猪木、坂口征二と組んでアジアタッグ王座としても長く君臨した。73年1月に同王座を返上するまで、通算109試合の選手権をこなした鉄人だった。

 学生時代に指導を受けた近大OBの高砂親方(元大関朝潮)は「大学1年の7月ごろ、吉村さんと相撲を取って私が勝った時『お前に負けたのだから、まわしは着けない』とおっしゃったのが忘れられない。人生の先輩として相談もさせていただいた。懐の広い方だったのに」と故人をしのんだ。

 葬儀・告別式は16日に親族だけで営まれた。親族は「何も、お話しすることはありません」と語った。お別れ会が予定されているが、日時などは決まっていない。自宅は神戸市兵庫区荒田町3の57の12。喪主は妻幸子(さちこ)さん。

(写真・上=2月15日に亡くなった吉村道明氏。下=61年、力道山(左端)と組んだタッグ戦で外国人選手をロープに追い込む吉村氏)

◆吉村道明(よしむら・みちあき)
 1926年(大15)9月19日、岐阜市生まれ。14歳で海軍志願兵となり、海軍通信学校高等科練習生を5番の成績で卒業し、上等兵曹で終戦を迎えて近大に入学。学生横綱となって国体でも個人優勝した。54年4月、大阪を本拠地とした全日本プロレス協会に入団。56年には同協会が縮小、解散となるなど苦労したが、力道山からスカウトされて57年3月に日本プロレスへ移籍、レスラーとして花開いた。猪木戦19連勝。現役時代は183センチ、108キロ。


関係者悲しみの声

 ◆全日本天龍源一郎 吉村さんとは力道山関のメモリアルの時にあいさつをしたことがあります。試合を見て、とても印象に残っていました。相撲部の出身ということもあり親近感があったのが正直なところです。謹んでごめい福をお祈り致します。

 ◆新日本プロレス坂口征二CEO 吉村さんとはタッグを組んでアジアタッグも獲得した。非常によくしていただいた先輩だった。残念でならない。

 ◆近大相撲部の伊藤勝人監督(38) 01年夏ごろまで直接指導に来ていただいた。吉村さんが大会へ応援に来ていただくと、学生の力になるのか不思議と優勝が続いていた。お酒を飲むと歌ったり、踊ったりと、陽気で気さくな方だった。


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