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「三つの心」共存共栄――第11部〈台湾脈脈〉

2010年3月23日15時51分

写真台湾の港を舞台に日中台ビジネスに乗り出した厳為雄社長。2・28事件の時には、この港に多くの遺体が浮かんだ=台湾・基隆港、中田徹撮影

 南国・台湾は初春の陽光も力強い。緑の水面がきらきらと輝く北部の基隆港。「この海は日本と中国につながっている」。厳為雄社長(67)は、日中台を一つにつなぐ新しいビジネスの舞台に、故郷の海を選んだ。

 日中台は厳社長のルーツでもある。祖先は18世紀に大陸から台湾に移民。戦中の日本で生まれ、戦後は台湾で教育を受けたが成人後は早稲田大学で経済学を学んだ。31歳で東京でライトやスイッチなど自動車の交換部品を作る「厳氏貿易」を創業。1974年に日本国籍も取得した。

 台湾は04年、貿易振興のため基隆港に「自由貿易港区」を導入した。日本にいた厳社長は08年に初めて知り、即座に倉庫兼工場を建てた。

 上海などの自社工場で製造した日本車の電装部品を運び込んで加工・検査し、「台湾出荷」として日本や東南アジアなどに輸出する。国際的に信用がある「台湾出荷」だと「中国出荷」より20%以上買い取り価格が上がる。税の優遇も多い。自動車が世界不況に陥った09年に営業利益を確保したのはこの成果だった。

 08年の馬英九(マー・インチウ)・国民党政権の登場で中台関係は劇的に改善した。香港や日本経由だった中台間の海運も、08年12月に直接往来が始まった。09年末までの約1年間に、かつて「火薬庫」と呼ばれた台湾海峡を、約1万3千隻もの貨物船が行き来した。

 「上海から基隆に最速2日間で荷が届く。物流コストも中国の国内並みに安い。この流れに乗らない手はない」

 そんな基隆港にもあまたの死体が浮かんだ日があった。

 1947年2月28日。2・28事件と呼ばれる住民弾圧が起きた。日本から台湾を接収した蒋介石・国民党政権はインフレなどに抗議した台湾民衆を大量殺害。基隆は被害が大きい地域の一つだった。

 その後、戒厳令が敷かれた。地主だった厳社長の一族は土地改革で土地を取り上げられ、共産党の友人がいたといういとこは銃殺された。「ちょっと反発すると殺されかねない怖さがあった」。厳社長が台湾を離れた一因だ。

 今や中台経済の緊密化によって、日本などの企業が台湾を足場に中国に展開するビジネスに注目している。「これからの時代、我々在日台湾人の活躍の場が広がる」と厳社長は読む。「台湾、日本、中国には似ているようで異なる『三つの心』がある。在日台湾人はその長所も短所も知っており、私たちの力を存分に活用できる」(台北=野嶋剛)

     ◇

 戦後、国民党独裁下の台湾から日本へ来た人たちはそれぞれの道を歩む。企業経営者や医師が多いが、政治運動に身を投じた人も目立つ。第11部「台湾脈脈」は彼らの生き方といま、日本社会とのかかわりを伝える。

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