経歴詐称常習者平井玄

「歴史の捏造」と「解釈の余地なき事実」



2005年5月

府 川 充 男

主著『聚珍録―図説・近代日本〈文字‐印刷〉文化史 全三篇』(三省堂)。築地電子活版代表。分析書誌学,日本印刷史。
月刊『情況』2005年5月号に掲載されたものを許諾を得て転載

一 お笑い『同時代音楽』篇 昨年暮れ『音の力〈ストリート〉復興編』(DeMusik Inter. 編,インパクト出版会,西紀二〇〇四年十二月)という本が知人から拙宅に送られてきた。該書巻末の執筆者紹介の最後,平井玄の条下にこうある。
1952年新宿に生まれる。1968年高校生の時,全共闘運動に参加。以降,音楽の制作と批評や社会運動に携わる。79年,『同時代音楽』誌発刊に参画。
ン? これではまるで平井玄が「『同時代音楽』誌発刊に参画した」みたいではないかね,お立ち会い。しかし,参畫したどころか『同時代音楽』発刊と平井玄(本名平井邦一)如きオミソが全く何の関係もなかったのは,同誌の実務関係者(私と,途中から竹田賢一)や同誌常連ライター(例えば高橋順一,長谷川明,高取英)全員が周知している「歴史的事実」に外ならない。こいつは「解釈のしようによっては」そう言えないこともないとか,「ある射映から見れば」そう解釈できないこともないというような餘地すら全く存在しえない,身も蓋もなく平明な事実の問題であり,平井玄自身よーく分り切っていることのはずだ。
雑誌『同時代音楽』は,国立国会図書館に第一号から第三号準備号まで四冊が揃いで所蔵されている。リアルタイムで『同時代音楽』を知らなかった者であれ,取り敢えず国会図書館に行って該誌の第一号を閲覧しさえすれば,資料事実自体からして平井玄が該誌の発刊に凡そ「参画」などしていないことが誰の眼にも判然する。これまた即刻検証可能な事実というものである。では,この身も蓋もない事実と執筆者紹介の文言との齟齬はなぜ起きたのか。
平井自身が当該の文言を執筆しているのであれば,自覚的・意図的な経歴の粉飾と捏造,つまりは経歴詐称以外の何物でもない。
一方,本作りや原稿作りの工程を考えると実際にはすこぶる考え難いことではあるが,該文面を平井自身が執筆しておらず,例えば編輯者などの第三者が準備して,それを平井がチェックしなかったために起きたというような,「偶然の所産」ということも一往は考え得る。しかし,その(あくまで仮定上の)編輯者は一体どんな資料から,平井が参畫してもいない雑誌発刊の情報を引っぱり出して来ることが出来たのだろうか。
そこで,面倒ながら平井の他の著作の執筆者紹介を検べてみることとした。共著以外で,平井の最初の著作は『路上のマテリアリズム―電脳都市の階級闘争』(社会評論社,西紀一九八六年九月)である。
送ってもらった複写には
一九八〇年竹田賢一らと雑誌『同時代音楽』を創刊。
とある。
おやおや。二十年近く前,初の単著の執筆者紹介からして「『同時代音楽』の創刊」となっていたのかいな。
今度はインパクト出版会に頼んで『音の力』既刊分の執筆者紹介三本をファクスで送ってもらった。うち二本に次の文面が見られる。
「1952年東京生まれ。1980年,竹田賢一らと雑誌『同時代音楽』を創刊」。
「1952年新宿に生まれる。1968年高校生の時に全共闘運動に参加。以降,音楽の制作と批評,社会運動に携わる。79年,『同時代音楽』誌発刊に参画」。
少なくとも『同時代音楽』関聯の文言はいずれも真っ赤っ赤な嘘である。なーんだ,嘘も百回繰り返せば……とは言うが,十九年前からせっせと繰り返してきた訳だな。ローカルな局所で蠢いている限りはばれねえだろうと思ったのだろうが(確かに私も昨年末まで気付かなかった),たまたまばれずにずっと来れたので,そのまま世間に通用すると思い込んだということかね。
で,国会図書館で調べてみた。『破壊的音楽』(インパクト出版会,西紀一九九四年十一月)に「1980年竹田賢一らと雑誌『同時代音楽』を創刊」,『暴力と音』(人文書院,西紀二〇〇一年三月)にも「1980年,竹田賢一らと先鋭な音楽批評誌『同時代音楽』を創刊」とある。
虎ならぬ『同時代音楽』創刊の威を借る玄狐(笑)。右の資料事実から,第一に平井が実際の過去を粉飾したがっていること,第二に『同時代音楽』創刊に相当の意義を認め自分はその意義ある雑誌の創刊に関与したのだと世間に思い込ませたがっていることは取敢ず引き出せる。
しかし当時の関係者の殆どは存命であり惚けてもいない。おまけに当該資料(確かに今日でこそ稀覯となっているかも知れないが第一号の発行部数は数千に及んだ)に当ればそんなバカなことはありえないと誰でもすぐに分ってしまう。一体どんなコンプレックスから,なぜ,すぐに嘘とばれてしまうような経歴を平井玄がでっちあげたのかは不明であるが,既に破廉恥ないんちき野郎と判然している奴の心性をいちいち斟酌する暢気な時間の持ち合せは私にはない。
国会図書館に行っている時間がないという向きのために,『同時代音楽』に関する簡短な書誌を掲げておく。
◎『同時代音楽』第一号 西紀一九七九年三月 B5判本体百八十八頁 企画編集=ロータス・ルーム,発売=ブロンズ社(以上奥附クレディット)企画=ロータス・ルーム,編集=府川充男,デザイン+レイアウト=府川充男・陳立彦,写真=菅野英二・森脇順一・長田勇市・稲生幸成・岡村透潤・『地下音楽』,協力=赤岩和美・石井俊夫・後藤美孝・竹田賢一(以上目次扉クレディット)定価=千百円。編集後記の執筆者は「F」(つまり私)。
◎『同時代音楽』第二巻第一分冊 西紀一九七九年十月 A4変形判本体四十八頁 編集制作=府川充男+鼓腹撃壌派,翻訳協力=マーシー・クライン,スタッフ=井内秀明・大崎善生,デザイン+フォーマット設計=羽良多平吉+WXYinc.,発売=ブロンズ社(以上扉クレディット)。定価=六百八十円。折込み葉書の宛先は東池袋豊島郵便局止同時代音楽編集室。編集後記の執筆者は「F」。スタッフの大崎とは,今や売れっ子作家となったあの大崎善生である。
◎『同時代音楽』第二巻第二分冊 西紀一九八〇年七月 A4変形判本体七十二頁 編集=『同時代音楽』編集委員会(後藤美孝+竹田賢一+平井玄+府川充男),制作スタッフ=井内秀明,協力=島浩二・陳立彦・渡辺研二,カヴァー・デザイン=羽良多平吉,扉・本文・表紙アレンジメント+版下制作=府川充男,発売=ブロンズ社(以上表紙二クレディット)。定価=七百八十円。綴込み葉書の宛先は竹田方同時代音楽編集委員会。編集後記の執筆者は「竹田賢一」「井内秀明」「平井玄」「府川充男」「後藤美孝」。
◎『リベルタン通信あるいは同時代音楽』第三号準備号 月刊『さぁーじゅ』別冊 西紀一九八四年三月 A4判本体四十八頁 編集=同時代音楽編集委員会,発行=三共社(以上表紙四クレディット)。定価=八百円。編集後記の執筆者は「府川充男」「竹田賢一」。誌名は二万七千部を殆ど完売しながら創刊号で廃刊となった『リベルタン』(朝日ソノラマ。国会図書館未収蔵なれど近日寄贈予定)の後継誌でもあるという意思を示したもの。なお別途,定価三千円の特装版が極少部数作られた。
以上のクレディットのうち陳立彦・島浩二・渡辺研二は記事の署名にも用いられているが阿部喬・加賀冬樹同様私の変名であり独立した人格ではない。また「鼓腹撃壌派」だの「編集委員会」だのに組織的活動の実体などなかった。そもそも一度として「編集委員会」の会議を開いた覚えもない。要するに,往時左派的言辞を用いていた後藤美孝や平井らライターの何人かの名をも遣って,私と竹田の個人プレイの聯合(雑誌の実態)ではなく組織的所業である振りをしてみた,全共闘ノリの尻尾みたいな名乗りだ。
第一号・第二号第一分冊・第二号第二分冊の印刷費の総計四百四十万円は私が負った(印刷屋への借金は消えたが千野秀一,坂本龍一,水谷洋一への借金は未だ返していない)。第二号以降,校正の実務などを輔けてくれたのは竹田賢一である。編輯の実務,つまり企畫,紙面構成,執筆依頼などについては,第二号以降,百パーセント,竹田と私で分担した。他の人間に相談した覚えも殆どない。まあ高橋順一には時々相談していたな。そもそもが「編集委員会」を名乗った時期以前には,平井玄如き木っ端風情なぞ形式的にも全く関係ないのである。それでは「編集委員会」というクレディットが入った第二号第二分冊以降,「編集委員」平井玄は何かしら役に立ったためしがあったか。第二分冊の編集後記にウププなヨタ文一本を寄せただけで金銭負担や実務面では何一つしたことはなく,新宿二丁目でひたすらクリーニング屋にイソしんでおった(笑)。これっぽち(のみ)の針小以下がどうして棒大以上に化けるかね。
結果的に最終号となった第三号準備号の編輯制作業務にも平井は指一本タッチしていない。
『同時代音楽』自体,季刊『音楽全書』(海潮社,第一号―第五号,西紀一九七六年七月―西紀一九七七年十月,編集人は各号とも私。国会図書館未収蔵なれど近日寄贈予定)という雑誌の後継誌に外ならないことは『同時代音楽』第一号の編集後記に瞭然だが,『リベルタン』の雑誌内雑誌『同時代音楽批評』に掲載された総目次,『同時代音楽』第三号準備号に掲載された総目次のいずれもが『音楽全書』第一号から稿を起していることからも明らかである。
より詳しい事情を証言しておこう。「幻の『音楽全書』第六号」の半分が『ブリティッシュ・ロック大名鑑』(ブロンズ社,西紀一九七八年十月。西紀二〇〇二年九月に柏書房から再版が出た)となって単行本化され,残りが『同時代音楽』第一号と化した。原稿量併せて四百字詰三千数百枚。因みに,発行中止と判然した第六号の版下一式を銀座の写植屋から夜陰に乗じて持出したのは私で(盗んだという言い方もあるがマア退職金代りだ),見張りをやったのが高取英だ。「『同時代音楽』の創刊」とは実のところ「商業性を弱めた形態での『音全』の継承」なのだった。
両誌に執筆・登場した人々。日暮泰文,平岡正明,鈴木啓志,神崎浩,赤岩和美,石井俊夫,大貫憲章,三宅はるお,伊東政則,太田克彦,渋谷陽一,松村雄策,坂本龍一,後藤美孝,中村とうよう,安西水丸,福島泰樹,森脇美貴夫,小倉エージ,高橋順一,新見隆,北中正和,中川五郎,友部正人,星川京二,佐々木幹郎,岸田秀,河内紀,知名定男,野底土南,中村文昭,いいだもも,阿部年晴,三上治,神津陽,藤本敏夫,千野秀一,高取英,藤原智美,塩次伸二,山岸潤史,小西昌幸,遠藤斗志也,小宮山亘,白井順,水谷洋一,布川徹郎,朝倉喬司,広河隆一,城ノ内元晴,翆羅臼,知名定寛,高沢正樹,竹田賢一,寺山修司,流山寺祥,生田萬,岸田理生,菊地雅志,廣松渉,長谷川明,中村文昭,間章,古田武彦,山崎カヲル,細川周平,芦川聡,科伏,地下音楽情報戦線,琉球独立党資料飜刻,第一次ブント資料飜刻……エトセトラえとせとら。
壮観だろ。『噂の真相』で音楽雑誌を全共闘が乗っ取っていると評されたのもむべなるかな。『音全―同音』は「音楽批評誌」などではなく多方向のエナジーが渦巻くカオス的雑誌だった。こうした執筆者のネットワークは,例えば『リベルタン』や河出のムック『神話』,エスエル出版会の『季節』,『ザ・ブルース』や『ブラック&ミュージック』,廣松渉研究会などとの往還運動を通じて形成されたもので人脈的結節点となったキー・パースンは廼ち竹田賢一,高橋順一と私だ。これらの執筆者のうち平井が連れてきたのが一人でもいるかね。
ライターとしての平井のランク? ウプ,誌面を御覧あれ(笑)。マ,埋草分量の短文しか書けねえんだからな。
第二号第二分冊から第三号準備号までの間,三年半以上のブランクがあった。そう言えばそのころ,後に第三文明社の柄谷本や中上本の担当者となるY氏にどこかの飲屋で出会ったのだろう,平井が創価学会の第二機関誌とも言われる『第三文明』に見開き二頁のコラム「同時代音楽通信」の連載を売込んできたことがある。しかし場所と効果を考えろよな。竹田が一回くらいは付合ってやったかも知れないが,平井が一人で数回,見開き二頁を埋めていた。あと八〇年代初頭のイヴェントの幾つかに「同時代音楽」なる団体名(?)が遣われた。これらの幾つかは竹田と私の合意によるものだったが,他は平井が他の「編集委員」には何の聯絡や相談もなしに,つまり僭称したものだ。
以上すなわち,平井が五十面を下げて「雑誌『同時代音楽』の創刊に関与した」「『同時代音楽』誌をやっていた」なぞというのは全て歴史の捏造以外の何物でもない。
そして竹田も私もそれぞれ自立した一箇の軍団であって『同時代音楽』の威を借りる必要などなかった。
二 お笑い早大学生運動篇 さて本誌の昨年四月号に平井は「最強のシニシズムによってシニシズムを倒すこと」というヨタ文を寄せている。
……ヘルメットこそ被っていなかったが,手にはビラの束,数人の仲間たちと急な移動の最中だった。目の端に立ち尽くすKの姿を認めると,ぼくはもう振り返らなかった。キャンパスを支配する党派のアジが耳からたちまち遠去かっていく。
……ぼくの手にはビラが握られ,脇の仲間はトラメガを下げている。その目配り,仕草,体の切れの一切が,行動中の活動家のそれ以外の何ものでもなかった。
こいつは「一九七二年五月の早大構内。大隈銅像前広場」の情景であるという。西紀一九七二年といえば十一月から「最後の全共闘叛乱」と目すべき「キャンパスを支配する党派」=革マル派との大衆的闘いが始る年である。前年の十月,理工学部で私の麾下の部隊が解放派,叛旗派と共に全都の学生革マル派を迎え撃った大会戦の敗北と連合赤軍事件を経て七二年の早大学内には最早硬質の部隊が全く存在しなくなっていた事情については「「六八年革命」を遶る断章」や高橋順一『戦争と暴力の系譜学―〈閉じられた国民=主体〉を超えるために』(実践社,西紀二〇〇三年八月)の「後序に代えて」で触れたことがある。私たち元党派活動家層や第二次全共闘の生残り組を中軸とする七一年の早大赤ヘル無党派部隊(教社研と共研の二隊があった)が嘗て位置した「生態学的ニッチ」にまで,それまでサークルや救対など軟らかい場所で活動していた連中が革マル派との闘いの中で急速に適応放散したのが七三―四年の早大全学行動委員会(WAC)であったとも言える。
それはともかく,「目配り,仕草,体の切れ」とも活動家以外の何ものでもなかった(ウププッ)おナルな新入生平井邦一君はその年華々しく開始された「キャンパスを支配する党派」との闘いの中の何処にいたのだろうか。何処にも一度もいやあしなかったのだよ,お立会い(笑)。
早大の学生運動には結構同窓会的な付合いがある。WACの連中はWACの連中で誰がどうしているという情報を流し合っているし,私ら赤ヘル無党派部隊はD大教授のC君が世話役となって「六九の会」という飲み会を時々やっている。そうした情報網や付合いの中で,平井が話題になることなど言うまでもなく皆無だ。
しかし,早々に自主中退して肝腎の時間帯,場所には全く居合せなかった大学での実体なき「活動」を自慢げに書きつけるというのはどういう神経かね。
三 お笑い高校生社学同篇 平井は大下敦史氏に「高校では社学同でした」と自己紹介したそうな。こりゃ新作(笑)の経歴詐称だ。
社学同とは,誰でも名乗れる全共闘などとは違い,明文化された規約があり,ブントの指導下に属して,加盟に当っては同盟員の推薦者が必要な,成員の定った活動家組織である。「『戦旗』読者の学生=社学同」ではない(笑)。
六八年春まで東京のブント系高校生運動は第一次ブント以来の高校生会議(五九―六〇年は安保改訂阻止高校生会議,六五年には日韓条約阻止高校生会議。因みに最後の議長が私だ)という大衆組織が担っていた。六七年秋の二つの羽田闘争が終った後の十二月,渋谷労政会館に高校生会議のカードル十数名が集って社学同高校生委員会を結成した。委員長は高橋博史,書記局員が高橋,Kと私。この第一次高校生社学同は全員マル戦派であって,六八年春,ブント第七回大会で関西派がヘゲモニーを握って暫く後,マル戦の一分流レーニン主義者協議会の麾下に入って共産主義高校生会議(キャップは池田憲二)となる。この時点の東京で高校生会議(六八年夏からは全都高連)以外の党派系活動家は,中核派系の反戦高協,解放派系の反帝高評,ML系の高社研がそれぞれちょぼちょぼいただけである(十派ほどが揃うのは六九年六月だ)。七大会ブント(関西派)系の活動家が現れるのは慥か六八年夏,九段高校や北園高校の,それまではベ平連の月例デモに顔を出していた程度の連中が突如関西派として登場し始めた。当然私は彼らを知っていたし彼らも私を良く知っていた。ボス交もしてたしな。『理論戦線』第八号に出ていた「社学同高校生委員会」が彼らのことだろう。キャップは九段高校のK君だった。彼ら関西派の高校生は翌年四・二八のゲバ棒闘争で逮捕者を出してかなり消耗したようだが,その後は赤軍派に流れて六九年末には全く姿が見えなくなった。七〇年の一,二月あたりの高安闘委は海城高校あたりが主力になっていて全然見たこともないような俄仕立の奴がリーダーをやっていた。その間平井を見掛けたことなど全くない。また社学同に加盟している中心的活動家ならば,六八年から七〇年まで遠交近攻合従連衡手練手管の限りを尽して党派共闘や地区共闘の絵図を描いていた私と往時面識のないはずがないのだ。
四 お笑い銀座占拠篇 平井玄の「活動歴」が同時代を知る者にとって,とことんいかがわしいのは,当人がやったと言っているだけで見たという者も仲間だった者も,そして新宿高校全共闘における平井の「活動」の実態について語る者もまるでいないということにある。そして,平井の六〇年代ヨタ話の特徴は自分がそのときいた場所,運動体,組織,部隊,共闘関係,指揮系統などの具体的記述が凡そないことだ。
本誌昨年十月号の座談会で平井は当時の事情を知らぬ若い世代を相手に得々と六九年四・二八闘争の際銀座二丁目で三島由紀夫を現認したと吹いている。そもそも平井が第二次高校生社学同であれば,あの日は紀念すべき第一回目のゲバ棒闘争,新橋・有楽町間の線路で丸ごと潰滅しているはずだ。そのメンバーが何で銀座にいるのかね。「銀座を占拠してどうするのか」などと間抜けなことをほざいているが,当日の具体的目標が霞ヶ関占拠や首相官邸占拠だということはブントも中核も判然していた。党派機関紙という基本的資料を確認するだけで誰にも分る。霞ヶ関に向う以前に新橋で主力がやられたから裏道を伝い近くの銀座・有楽町一帯でゲリラ的投石戦やバリケード戦を闘った……そんなことも知らねえ「社学同」があるものか(笑)。
見物人(けんぶつ)の分際で何が「兵卒」だ,笑わせるな。「兵卒」には部隊や指揮系のストラクチュアが不可缺だが,実際にはただ「ゆるかった」だけの平井には本当のところ鉄パイプ戦だの火焔瓶製造や投擲だのの経験すらねえだろう。
菊井良治ばりの薄汚ねえペテン師平井玄よ,お前の社学同加盟推薦者は誰で,指導していたブントの高対部員は誰かね,答えてみな。




ふかわ・みつお 主著『聚珍録―図説・近代日本〈文字‐印刷〉文化史 全三篇』(三省堂)。築地電子活版代表。分析書誌学,日本印刷史。

※ 2005年6月7日 若干の誤植を訂正し、公開。
(おわり)


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前田年昭 MAEDA Toshiaki
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