孫正義、【志】を語る。「孫正義 LIVE 2011」書き起こし(その1)
- 2010-03-29(23:19) :
- ツイッター
ソフトバンクの孫正義社長による、「孫正義 LIVE 2011」と題した講演会が本日3月29日にありました。
これは来年新卒採用の学生向けの講演会なのですが、Ustreamを使ってネットでもライブ中継され、ツイッターでその動画を見て実況したり観想をツイートする人が大勢おり、TLの流れがものすごい勢いとなっていました。
最大で5000人以上の人がUstreamをライブで見ていました。
「孫正義 LIVE 2011」アーカイブはこちら(公開期限は1週間)
孫正義LIVE2011 Part.1 (4/3 URL変更)
孫正義LIVE2011 Part.2
孫正義LIVE2011 Part.3
全編まとめられたものも用意されています。
孫正義LIVE2011 (全編)
こちらも公開は1週間(4月5日まで)です。
⇒動画保存について
この孫正義社長の講演内容があまりにすばらしく、感銘を受けましたので、勝手に書き起こしてみました。
動画が3つに分かれておりますので、それにあわせてエントリーも3つに分かれています。
多くの人々に見てもらいたい、学生も社会人も読んでおくべき、すばらしく示唆に富んだ内容だと思います。
(動画のアーカイブが1週間しか公開されないのはとても残念なことです)
聞き間違い、わからなかったところ等ありますがご容赦ください。
(ご指摘歓迎)
その2はこちら。
孫正義、【志】を語る。「孫正義 LIVE 2011」書き起こし(その2)
その3はこちら。
孫正義、【志】を語る。「孫正義 LIVE 2011」書き起こし(その3)
続きを読む前に応援クリックお願いします!
皆さん、ソフトバンクの孫です。
今日はお忙しいところ、たくさんお集まりいただき本当にありがとうございます。
今、オープニングのビデオを見ていただきました。今年はまさに、龍馬伝があって龍馬ブームと言ってもいいくらいの状況になっておりますが、このビデオは、もう今から4、5年前に作ったものでありまして、ソフトバンクのロゴマークですね、皆さんの携帯だとか、いろんなところにロゴマークのイコールサイン、ロゴマークが出ておりますが、あのロゴマークは、この海援隊の、龍馬の海援隊の二本線の旗のしるしから生まれたんですけども、そのぐらい私が坂本龍馬にあこがれている、そういう経緯で決まったわけであります。
今、日本はまさに、当時の幕末の状態ではないかなと、いうふうに思っています。
この20年間くらい、日本はもうほとんど、GDPが成長してない。
いろんな政治的な問題、あるいは経済の問題、国全体が活力を失っている、いうことであります。
こういうときこそですね、日本をもう一度よみがえらせる、日本の夜明けをもう一度迎える、そういうためには、龍馬のような、高い志(こころざし)、また高い志に多くの若者たちが結集してですね、この世の中をもう一度活性化させると、そういう想いが、大切なんではないかな、と思います。
我々ソフトバンクは少なくともそういう想いを持って、事業を進めておるわけですけども、もちろん我々ソフトバンクだけではありません。日本にはまだまだですね、素晴らしい人物、そして会社、組織、あることであろうと思います。
そういう人たちが奮起して、また皆さんのように若い人たちが一念発起して、日本にもう一度夜明けを迎えさす、そういう気概で頑張ってほしいものである、というふうに思います。
今日は、新卒の学生の皆さん向けの講演会、会社説明会というのがそもそもの趣旨で、このようなイベントを催しておりますけれども、あわせてですね、Ustreamを使って、多くの人々に、ライブ配信して見れるように、ということで同時に流しておるわけです。
また、それを見ながら、ツイッターで私が今話している内容が多くの人々に伝播しているという状況であります。
ですから今日は学生の皆様方だけというよりは、少なくとも、そういう志ということに対して、なにがしか興味がある方々が同時に聴いておられる、見ておられる、という状況だと思っております。
今日の一番のメインのテーマは、ソフトバンクの会社案内というよりはですね、そもそも私は何を想ってこのソフトバンクの事業を興したのか、どんなことを成したい、というふうに思っているのか。どういう志を持っているのか、そのことをメインに話をさせていただきたいと思います。
それが、ソフトバンクの会社ひとつひとつの事業を細かく説明するよりも、もっとも我々の会社の特徴を説明することになるのではないかというふうに思うものであります。
「志し高く」これは私が一番好きな言葉でありまして、もし人からサインを求められたり、座右の銘を、というようなことで聞かれたときには、必ず私は大好きな言葉である、志を高く持って人生を歩んでいくんだ、ということであります。
それでは私自身が、どういうきっかけで、その高い志を持って人生を歩みたいというふうになったかということですが、一冊の本があります。
15歳のときに読んだ「竜馬がゆく」であります。
この司馬遼太郎さんの書いた「竜馬がゆく」この本を読んで、衝撃を受けたんですね。それまでどちらかというと、あかるい中学生、小学校時代過ごしましたけども、サッカーとか野球とか、剣道だとか、そういうスポーツをしたり、友達と一緒に、夜まで走り回って遊んで、というような生活を過ごしてきましたけれども。
たまに本を読むといえば、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」というちと暗い本で、そこにそんな本を読むよりはもっと男らしい本を読んだらどうだ!と家庭教師の先生に言われて読んだのが、この「竜馬がゆく」でした。
目からウロコといいますか、1回しかない人生。
この中で、NHKの「龍馬伝」を見ているという方、ちょっと手を挙げてみていただけます?
おお、すごい。8割くらいかな。
世の中一般の人々より、ここに来ている皆さんの龍馬伝を見ている視聴率は8割以上あるというのは、そういう好きな人が集まっているということだと思いますが、この龍馬伝を見ているとですね、皆さん、昨日も私ボロボロ泣きました。
脱藩をした、土佐の国に迷惑がかかるかもしれない、でも乙女姉は「龍馬、行ってこい。おまえは土佐に納まりきれる男じゃない、もっとなにやらでっかいことをやる、そのためなら自分のことはかまわん。行って来い!」
そうやって送り出した。あのシーンのところで涙がボロボロボローッと出てしまいましたが、脱藩をする、あのシーンで僕がボロボロに泣いたのは、あの自分の人生にちょっと重なってるところがありまして、僕が16歳で、アメリカに渡ったわけですけども、そのときに私の父親が血を吐いて病院に入院しているとき、だから家族も心配する、家計がどうなるのか、家がどうなるのか、ということも含めて、不幸のどん底だった。そのときに僕は一人アメリカに行くと。
もうむちゃくちゃに言われましたよ親戚から。
親が病気して倒れて入院してるときに、なんでお前はそんなひとりアメリカに行くなんてことを言えるんだ! 冷たいヤツだな。
言われました。
担任の先生からも校長先生からもクラスメイトからも、お前まだ高校一年生の1学期で、なんでそんな状況でアメリカに退学して行くんだ?
というようなことを言われましたけども、私は決意して、アメリカに行ったんですね。
僕としての脱藩に相当するのが、病気の父親をおいてアメリカに行ってしまうということだったんですね。
僕はそのとき言いました。おふくろにですね、泣きながらしがみつくおふくろに、
「おふくろ、病院の先生に聞いたら、親父は死にはせんと言うてる。血を吐いたけど死にはせんと言うてる。
ここ何年かの家庭のことを思えば、家にいて、学校で勉強して、家族のために、それはそれで大事なことかもしれん。
でも、これから何十年のことを思ったら、家族のためにも、そして家族をさらに超えて、自分が何か事を成す、このことのために、人生を捧げたい。だからわしゃ行ってくる!」
いうことで涙を振り切って行きました。
私にとっての志、それにちょっとめばえてしまったということですね。あの本を読んで。
志って何だ? そのときは何を成したいか、というところまでははっきり見えていませんでした。
しかし何かでっかいことをやってやろうと、何か多くの人々を助けたい、自分の、あるいは自分の家族のそういう私利私欲とかではなくもっとでっかい、人生を燃えたぎらせたい、ひきちぎれるほど頑張ってみたい、それを成したい。
というその想いだけは強烈にめばえてしまったわけですね。
それがこの、私にとっての志。
多くの人、百万の人々を助けたい。百万千万の人々を助けたい。そういう人々に貢献したい。何かでっかいことをして、それを成したい。
金銭欲とかじゃありません。そんなことじゃなくて、何か本当に多くの人々に、あいつがいてよかったと思われるようなことをしてみたい。
ということで、決心したわけですね。
私にとって人生5つの大きな勝負があります。
第一回目の人生にとっての勝負、それは、こちらです。
志を立てて、渡米、ということであります。
15歳のときにアメリカに渡りました。
15歳の夏にアメリカに1ヶ月間の夏休みに英語の研修で行きました。
もう目からウロコですね。本当にもうアメリカの広い、世界で一番大きな国、一番文明が発達してて、力があって、輝くばかりのアメリカ。
龍馬が「海外に行ってみたい、アメリカを見てみたい、ヨーロッパを見てみたい」、でも行けない。吉田松陰先生が「わしゃーアメリカに行く、外国に行くんだーッ」と船に密航しようとして、みつかって、切腹させられましたね。
あれほど命をかけて見てみたい、という人々が行けなかった外国を自分は見ることができる。
そんなチャンスがあるから、見てみたい、と思って見てみたら、なんとびっくり、これは日本とは比べ物にならんぐらい、何やらすごいということを感じて、これはもう居ても立ってもいられず、「脱藩だーッ!」
ということで、バシーッと退学届けを出して、高校一年生の1学期で、退学届けですよ。
校長先生も担任の先生も、せめて休学にしたらどうだ、せめてアメリカに行くというのなら大学に行ってからでもいいじゃないか。大学卒業してからでもいいじゃないか。
せめて、いまどうしても行きたいというなら、休学にしたらどうだ。1、2年行って、様子みて帰ってくる、その辺でどうだ、手を打たんか、と。
そういうような話でした。
私は校長先生に言いました。
「先生!僕は弱い男です。アメリカに行って、英語がようわからん。ひとりで行ってどんな生活になるかわからん。困難にぶちあたったら、くじけて、弱い気持ちになって、戻ってくる古巣があればそこに戻ってくるかもしれない。それじゃ腹が据わらん。
退路を断たないと。退路を断たないと、困難に立ち向かえない。だから休学届けじゃなく、退学届けにさせてください。
私はこの高校をすばらしいと思います。先生方も生徒も、僕には何も不満はない。だから不満があって退学するんじゃないんだ。みんなすばらしい友達で、みんなすばらしい先生で、こんなに一生懸命とめてくれる校長先生も担任の先生も、僕は本当すばらしいと思う。
だから嫌いで行くんじゃないんです。チャレンジのために行って、挫けて帰ってきたら、ええことなにもない。だから、退路を断つんだ」
いうことで勝負してアメリカに行ったんです。
行ったアメリカで、めちゃくちゃに勉強しました。自分で好きで行ったわけですから、自分で望んで行ったわけですから、言い訳いいとうない。
死ぬほど勉強しました。
みなさんが大学生で今現在と、当時の僕の状況と、5000人近くの人いますけど、絶対に言えること、僕より勉強しているヤツはいない。
自信持って言える。
なぜ言えるか? 途中で肺炎になっても、肺炎になったことがわからないぐらい、ゴホゴホ、ゼーゼー、頭がガンガンして、その状態でも一切休まずに、一度も授業を休まずに、いつも前列のど真ん中で座って、食い入るように先生を見て勉強して、トイレに行くときも絶対に教科書から手を離さない、読みながらトイレに入る。道歩くときも教科書を読む、運転するときもイヤホンで授業の内容をテープでもう一度復習しながら、寝る時間だけ、寝る時間でも最小限の時間、もうろうとしながら、寝てる時間以外は全て勉強する。
英語がわからん、そんなことわしゃ言い訳に使いたくない。それまで日本にいて高校まではイヤイヤ勉強してましたよ。イヤイヤ勉強してるからいろんな言い訳言うとった。したくないものをしてるから。何のために俺は勉強せにゃいかんのか。そうやって言ってましたから。こんなもの世の中に出て役立つんかー!とか言うてましたから。
大概、手抜きの勉強でしたよ。
でもアメリカに行って、それこそ血を吐いてる父親を置いて、泣く母親を振り切って、アメリカに行ったわけですから。
そういう状況の中で、ワシがここで言い訳言って勉強さぼってどうすんや! 学生のワシにとっては勉強は本業や。本業中の本業に命燃やしてちぎれるほど勉強しなくて、罰が当たる。
思ってやったんですね。
ですからここにいる皆さんより、少なくとも勉強の絶対時間では、一日当たりの勉強の時間数では、ワシに勝つヤツは誰もおらん。少なくとも同じくらいやってる人はおるかもしれない。
でも物理的な限界を超えるくらい僕は勉強した。
そのくらい、燃やして燃やして燃やしまくって、やった。退路を断って、アメリカに行ったからには、でもそれは僕にとっては人生の大きな勝負どころ、転機だったわけですね。
その行ったアメリカで、高校1年生に入った。1週間で、校長先生にかけあって、もうこりゃいい、2年生に変えてくれ。2年生に変えてもらった。教科書を全部取り寄せて、3日たったらまた、全部2年生の教科書は全教科読んで、斜め読みして、校長先生に言いに行って、「2年生もいらん! 3年生の教科書を全部くれ」言うて3年生に変えてもらって、また3日で3年生の教科書を全部読んで、「もうこれもいい、わしゃ高校はいらん! 大学に行きます。先生さようなら」と言って、そのまま大学に行きました。
だから高校生は、日本で1年生の1学期の3ヶ月間、アメリカで合計2週間。それで高校はもう終わり、と。
ということでそのまま大学に行ったわけです。
大学では、死ぬほど勉強しました。
その大学の3年生のとき、出会いは突然訪れました。
19歳のとき。初めてマイクロコンピュータのチップの写真を見た。
生まれたばかりのマイクロコンピュータのチップ。
それを科学雑誌に1ページ写真が載っていた。
これを見て「ガーーーン」と衝撃を受けたんですね。
車を降りて、道で読みながら歩いてた。
そしたら何やら未来都市のような、未来の都市の設計図のような、カラーの写真があった。
なんだろうな、不思議な写真だなあ。初めて見る写真だな。と思って次のページをめくったら、これがなんと、マイクロコンピューターのチップの基盤写真だったということを知った。
それが人差し指のさきっちょにちょんと乗ってるぐらい。これを見て、もうボロボロボローッと涙が出たんですね。全身の両手両足も指先がじーんとしびれて止まらない。
人類はなんてすごいことをしたのか。
人類は初めて自らの脳の働きを超えるかもしれないものを、人類は作った。発明した。
このことのすごさを、このことの感激に、私はショックを受けた。感動した。
このことによって、20世紀のこれからの終わり、21世紀のどういうふうに人類社会が発展するんだということを想像し始めたら、もうおそろしい衝撃で、感銘を受けたわけですね。
その結果それを使った発明に結びついたということなんですけども。
まあ、さきほど言いましたように、親父は血を吐いて病気で入院してる状態でしたから、何年間か入院してました。あんまり家族に経済的な負担もかけちゃいけない。いうことで僕は19歳の3年生のときに、1日1つ、1日5分間、勉強以外に費やす。
食事するときも必ず教科書を左手、左手に教科書、右手で箸とかフォーク。そん時思ったんですけどねえ、一度ゆっくり両目でお皿を見て料理を食べたいな。そしたらどんなにおいしいだろうかな。そんな贅沢ってあるのかな。
と思ったわけですよ。
皆さん食事するとき大概両目でお皿見て食べるでしょ。僕はね、そんな贅沢はなかったんですよ。そんなことはできない。必ず、食事するときも教科書をにらみながら、視野のはしっこにボーッっと見える皿にフォークを突き刺してとりあえず刺さったものを食べる。ときどき胡椒みたいなのがそのまま入ってガーッと叫んだりすることも。
それくらいの状態。
だから5分間、自分に勉強以外の時間を与えるということは、どれほどの贅沢か。学校の勉強以外の時間を僕に5分間与える。こりゃ大変な贅沢だ。
その贅沢なその時間を、1日1つ、何か発明をしようということにあてた。
1日1つ何か発明して、その中から1つ1年間かけて選んで、その発明で一山あてようと、そういうふうに思ったわけです。
1千万くらい稼ごうかなあ、と。
1日5分のアルバイトで、1年間頑張って1千万稼げたら皆さんいいアルバイトだと思いません? 今の時代でもねえ?
1日5分仕事して、1年間働いたら、1千万たまった。月100万円。そりゃいいアルバイトです。ねえ、なかなかそんなアルバイト、今でもない。
30年以上前ですよ。33年前ったら、その当時の貨幣価値からすると気の狂ったような目標ですよ。
友達にそんないいアルバイトないかと聞いたら、みんなから笑われましたよ。お前アホかと。一瞬で却下でしたけれども。僕は真剣でした。
そんなムシのいい話は発明ぐらいしかないぞ。あの松下幸之助さんですら、小さな発明から会社を興した。ワシもなんか発明してみよう。
いうことで、自分に与えたレジャーの時間、つまり発明の時間。そこで1日1つ発明しよう。で、できました。完成しました。
250、発明しました。
最近僕はツイッターで「できました」というリストをいろいろやってますが、まさに「できました!」。
1年間で250、発明しました。1日5分間ずつで。
なかにはしょうもない発明もいっぱいありました。でも、そのうちの1つが、世界初の、フルキーボードのポケットコンピューター。マイクロコンピューターを使った、世界初のポケットコンピューター。今ではiPhoneのはしりのようなね。
これを19歳のときに発明しました。
自分ひとりじゃものは完成しないんで、仲間を集める。僕を手伝ってくれ。
世界的に有名な大学教授、5、6人集めた。それでプロジェクトチームができた。
僕は学生なんで1日5分しか時間がないんで、先生手伝ってくれ。先生に給料払う。先生に空いてる時間で僕のためにアルバイトしてくれと。1時間いくら、先生に払います。
教授を雇った。
ネゴをするのはいやだから、「先生、1日にいくらかは先生が自分で決めてくれ。先生がほしい金額を出します」
ということで「なんちゅーことを言う学生だ」という話でしたが、
「ひとつだけ先生条件がある」
それは
「先生が書いたとおり申告してください。だけど、できあがったら全額払います、申告どおり全額払います。だけど僕には今金ない。できあがって完成して特許が売れたら、売れた金額から先生に全額払う。
だからうまくいかなかったら先生ただ働きです。
うまくいったら先生方の申告どおり満額出します。
そういう条件でどうですか?」
笑い出した先生たちがね。おもしろいことを言う学生だ。わけわからん話だけど、やってみるか。
ということで僕の発明を実現するプロジェクトチームができたということであります。
そのときに、人生50ヵ年計画を立てました。
これです。
そのときの研究員、左側にいる毛むくじゃらのおじさん。彼が僕のプロジェクトチームのメンバーの一人ですね。ほかは世界的に有名な大学教授。
彼らが僕に「ボス、つぎ何をやればいいんだ?」僕から指示を仰いでいる。摩訶不思議な関係でした。
そんときに僕は人生50ヵ年計画を立てました。19歳のときに。
20代で名乗りを上げる。
自分の事業を興す。自分の業界に名乗りを上げる。
30代で軍資金を貯める。軍資金は、1000億2000億数える規模じゃなきゃいけない。
40代でひと勝負をかける。
一兆円二兆円と数える規模の勝負をかける。
50代である程度事業を、ビジネスモデルを完成させる。
自分のライフプランとしてのモデルを50代で完成させる。
60代で、次の経営陣にバトンタッチをする。僕の次の経営陣について、ちょうどいまから10数年、皆さんの世代です。
皆さんの世代の人たちから次の経営陣が出てくる、ということになるんだと思います。
そういう大まかに分けて、5つのステージ。20代30代40代50代60代、その5つのステージのライフプランを、一度も変えてません。
19歳のときに立てた、僕自身のライフプラン。一回も変えてない。
そのときはお金は1円もないですよ。1円もないけども、自分のアイディアを思いついて、設計図を書いて、特許にする。
設計図を書いて特許にする、そこまでは僕がやった。特許に出した設計図を具体的に試作機を完成させるのはさっきの教授陣と一緒にやった。
お金はないけれども、でも、志しだけはもうはっきりしてた。何かでっかいことをして、何百万の人々に役に立つ。そういうことをしたい。もしそのときに自分が持ってる技術、知識、情熱、そういうものが役に立てばいいなあ、と。
いうことで、20代で名乗りを上げました。
それが、ソフトバンクの設立であります。
大学を卒業して、日本に帰ってきた。
日本に帰ってきて、僕が大学を卒業するちょっと前に。アメリカでは優秀な学生はたいてい大学院に行く。大学院で博士号まで。僕のクラスメイトも優秀な学生はそういう人が多かった。
僕が大学4年のときには、過去むちゃくちゃ勉強してましたから、大学院の中でもハーバードだとか、スタンフォードだとか、バークレーだとか、MITだとか、そういういくつものところから、月謝はいらないから、学費・入学料もいらないから、うちの大学院の博士号課程に来ないか? そういう招待状がいくつもの大学院から。そのくらいむちゃくちゃ勉強していて教授からも推薦状が出てました。
でも僕は全部お断りして、おふくろと約束した、大学を卒業したら日本に帰ってくると。ということで約束どおり帰ってきた。
すでにアメリカにいるときには会社を興してました。
19歳で発明して特許をとって、実際は1年半で1億7000万ほど稼ぎました。
その最初にやった発明の、教授も一緒にやったヤツ、シャープに売り込みました。特許を売り込みました。1億8000万円もらいました。
もうひとつ、コンピューターのゲームを、そちらも1億5000万くらい。
僕は19歳の学生のときに1年半で当時のお金で3億以上、3億9千万円。
最初にたてた目標、1日5分働いて1000万円ぐらい稼ぎたい。
実際には1日5分働いて1年半で3億9000万稼いだ。
今の貨幣価値で言えばもっと大きいですね。
いまの何倍かの価値があると思いますが、そのままずっと発明を目指す、町の小さな発明家という人生の選択肢もありました。
でも僕はそうじゃなくて、もっとでかいことをやりたい。いうことで会社を興そうと。
日本に帰ってきて、会社は売却しました。
僕が学生のときにつくった会社は売却しました。
そして日本に帰ってきて、ソフトバンクを興すことになったんですが、でも日本に戻ってきて1年半、悩みに悩み続けました。
きっと今の皆さんもですね、大学卒業して、これから自分の人生どうすごそう、いろんな意味で悩んでるんだろうと思います。就職難でもありますからね。ソフトバンクの孫正義の話を興味半分、野次馬半分でですね、今日は来たと思いますが、きっと悩んでると思います。
自分の人生これからどうすごそうかと。
どういう人生にしようかと。
いろんな選択肢があるんだと思います。僕も悩みました。大学を卒業して日本に戻ってきて、1年半、悩み続けました。
でも、安易に決めたくない。たまたまぶちあたった、たまたま親が、たまたま何かのご縁で、そういう安易なことで決めたくない。
なぜならば、自分で決めた自分の職業、自分で決めた自分の仕事、これコロコロ変えるわけにはそんな簡単にはいきません。
だいたい決めたらその道にほぼ行く可能性が高い。その決めたことをフラフラするということは、効率悪いんです。
自分のエネルギーをどこについやしたらいいのか。
自分が登りたい山は何なのか。
自分の志ってなんなのか。
自分の成したい事ってなんだろう。
これを決めることが大切だ。
ということで、この一文を僕は覚えています。
登りたい山を決める。
これで人生の半分が決まる。
いうことであります。
これはその当時僕が大学を卒業して日本に帰ってきて、1年半の間、このことを思い続けたんです。
自分で登りたい山、これを決めなきゃいかん。
これを決めることで、人生半分決まってしまう。
自分のテーマ、人生のテーマ。
人生の志、自分にとっての志。
もう一度、龍馬のほうに戻ります。
何を成すために自分は生まれてきたのか。
事を成す、その事ってなんなのか。
自分にとっては、事業家になりたい。自分の人生、一生をかけるのに
そういう仕事ってなんなのか。
40ほど考えました。新しい事業を考えた。
人々がやってないこと、新しいこと、人の役に立てること、一番になれること。儲かること。
自分が継続して好奇心を持ち続けられること。
意欲を持ち続けられること。
多くの人々に役立つこと。
常に何か技術革新があって、そういうような業界じゃないと、自分の心が熱くならない。
情熱さめてしまいます。
冷めない情熱を一生持ち続けられる、それって何だろう。
ということで考え続けました。
私にとっての事を成す、その事ってなんだろう。私自身の決断が「デジタル情報革命」であります。
事を成す。
デジタル情報革命を通じて、多くの世の中の人々に、世界中の人々に、知恵と知識を共有できるような、そういう何かでっかいネットワーク、プラットフォーム、そういうサービス、っそういう事業を作って、人々の知恵と知識がすごい大きなデータベース、ネットワーク、そういうものに収められて、それをみんなで共有することができて、人々がより幸せになれる。
より幸福になれる。より仕事の生産性があがる。たのしくなる。病気の人が助けられる。
そういうような仕事、それであれば、人生を賭けるにふさわしい、というふうに思ったわけですね。
その志が、「よし、これだッ! ワシの人生を賭けるのはこの志だ。この志だ。このためにワシは生まれたんだ。このために人生を賭けるんだ」
いうことで、決意をして、会社を興しました。
それが、ソフトバンクであります。
日本ソフトバンク。
福岡の小さな町、雑餉隈(ざっしょのくま)というところで会社を興しました。
資本金1000万円。アルバイトの社員を2人雇って、僕とアルバイトの2人で会社を興した。
で、彼らに、これからソフトバンクという会社を興して、立派な事業を興すぞ。情報革命だ!
コンピューターを使った、コンピューターの力で。マイクロコンピューターがデジタル社会、デジタルの、情報革命を起こすんだ。
そう1時間くらい、最初の朝礼でブチました。
2人のアルバイト社員を前にして、みかん箱、当時みかん箱っていうのは木の箱でした。この箱の上に乗ってですね、30年後の我が社の姿を見よ! ということで朝礼をブチました。
少なくともソフトバンクは30年後には豆腐屋さんのように、数の単位を一兆(丁)二兆(丁)と数えるぞ。
一兆二兆以下はものの数ではない!
1000億5000億はものの数ではない
一兆二兆と数えて初めてものの数だ!
そういう規模の会社にするぞ。
世界中の人々に情報革命を提供するんだ!
いうことで会社を興した。
ということであります。
そしたら1週間たったら二人とも辞めちゃいました。
「この人おかしい」「気が狂ってる」と。
こんなちっちゃい福岡のエアコンもない扇風機だけブーンと回ってるむさくるしい暑いこの部屋に、また熱い話を聞かされて、これはちょっと気がおかしいんちゃうか。
ということで二人とも辞めてしまいました。
また僕1人になりました。
でも僕の心は一瞬もひるまない。
一回も変わらない。
創業してすぐに勝負に出ました。
人生二発目の勝負であります。
創業一ヶ月後の大勝負。
資本金1000万円の会社です。
私がアメリカで学生のときにつくった会社は当時のナンバー2の副社長に売却しました。
お金は後払いでいい、とカッコつけて言ってしまった。
だから手元には金がない。
彼はまだ会社をアメリカでやってる。
続きはこちら
孫正義、【志】を語る。「孫正義 LIVE 2011」書き起こし(その2)
テーマ : Twitter
ジャンル : コンピュータ
タグ : [twitter] [孫正義] [ソフトバンク] [ustream] [孫正義live2011]