イスラム |
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今年(2000年)の2月、モスクワのモスクでイスラムに改宗しました。
モスレム・ネームはシャミルです。 |
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私は無神論者になりたかった。でも、なれなかった。神を否定し去って、自分ひとりで世界を律して、その世界で生きてゆける人がもしいるのなら、その人は強いと思うし、羨ましいと思います。しかし、私には唯一にして絶対のもの、永遠に変わらぬもの、決して滅びないもの、座標軸にできるものを信じることが必要でした。それに自分を委ねることで初めて、私は自律した自由な存在となり、自分自身の支配者となれます。
無神論者崩れなだけに、他のモスレムには批判されるかもしれないけれど、イスラムが他の宗教に比べて特別なものだとは思えません。だから私はモスレムだけでなく、真摯なキリスト教徒や仏教徒にも、無神論者にも共感できるものを感じます。
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イスラムは無神論を全面的に否定し、イスラム以外の宗教を信じる人たちよりも罪深いとしていますが、実はイスラムと無神論は「紙一重」の部分があります。モスレムにとって一番大事な根本教義は「アッラーのほかに神はなし」というひとことに言い尽くされます。注意していただきたいのは、「アッラーだけが神である」という、通常の肯定文の形ではなく、わざわざ「神はなし」で終わる否定文になっていることです。
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人間の能力は有限であり、無知蒙昧な存在です。そんな人間に、神がなにものであるかを真に理解できるはずがありません。神の本当の姿は、人類の永遠の謎です。だからこそ、イスラムは神の姿を像にかたどることを禁じてきました。人間にできるのは、本当の神ただ一人を見分けて信じることではなく、せいぜい、神ではないと判断できるものを何一つ信じないことだけです。
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ですから、イスラムはときとして一見、傲岸不遜にさえ見えます。神でないなにものにも従わないからです。国家も、君主も、軍隊も、警察も、資本家も、労働者の団体も、私たちに指一本触れることも、強制することもできません。アッラーと私たちの間には、いかなる仲介者もありませんから、政治家も、大学教授も、文豪も、歴史上の偉人も、法皇も、司教も、牧師も神父も、イマームも、イスラム法学者も、私たちの権威とはなり得ない。私たちは私たちがアッラーに与えられた自由意志だけに従って、善悪を判断し、行動を選択していかなければならないわけです。
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非モスレムの間では、イスラムは不自由で堅苦しい教えと考えられていることがあります。ときとして、モスレム自身がそう思い込んでいることもあります。確かに、お酒を飲まないことや、豚肉を食べないといった些細なことを不自由と感じる考え方では、イスラムは不自由な教えです。でも、アッラーの教えだけに従って生きればいいということは、裏を返せばアッラーの定め以外のなにものにも従わなくていいということで、世の中のあらゆる拘束から解放されることでもあります。
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無神論の世界は、神すら存在しない宙ぶらりんの自由空間です。この方が自由ではないかという人もいるでしょうが、自由落下中の人が自分の体を自由に操れないのと同様に、人は存在の不安と恐怖から、なにもない世界では自由になれません。アッラーに守られてある私たちは、アッラーに与えられた自由意志を完全に行使できるようになり、真の実存を手に入れられるようになるんです。キリスト教社会に現れた哲学者サルトルは、「もしも神があるなら、どうして私が実存できようか」と、無神論者としてのスタンスを表現しましたが、イスラムはそれ自体、アッラーのもとの実存主義です。
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