きょうのコラム「時鐘」 2010年4月4日

 頭部を切断された遺体遺棄事件は、容疑者が地元在住者で、分別があるはずの60歳だったことが、衝撃の度合いを深くする

殺害についても認め、「あやめた」「手に掛けた」などと供述しているという。年若な者ならば、「やった」「殺した」と言うだろう。いささか古風な言い回しに、砂をかむようなむなしささえ覚える

人を「あやめる」のは、畜生にも劣る卑劣な振る舞いである。「手に掛ける」という行為は、大きな悔いが心に深く残って癒えぬものという。60年を生きる人間なら、言葉の持つそんな奥行きもわきまえているだろう

だから、出頭して自らの卑劣さを責め、癒えぬ後悔の念を吐いたのかもしれない。が、そうしたところで、奪われた命も、死者に対する尊厳も戻っては来ない。いっときの激情が、思慮分別という垣根を越えてしまった無残さである

悪を懲らしめる時代劇では、善良な人を「あやめる」たくらみが登場する。殺伐とした犯罪ドラマでは、「手に掛けてしまった」と犯人が号泣する。作り話の世界でなく、身近な現実でそんな言葉に出合うと、心が重く沈んでしまう。