キッコーマン しょうゆ博物館

 
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歴史

しょうゆの歴史

1. 「醤」(ひしお)の時代

■日本の調味料、しょうゆ

江戸時代、狂歌師・大田蜀山人は、

世を捨てて 山に入るとも味噌醤油
酒の通ひ路 無くてかなはじ

と詠みました。古くから日本の味をつくり、日本人の食生活になくてはならなかったしょうゆ。ここでは、そのルーツと発展の歴史を探っていきます。

■しょうゆのルーツ、中国の「醤」

しょうゆは日本で発展した発酵調味料ですが、そのルーツを探ると、中国の「醤」(ひしお)にたどりつきます。人々は食物を塩に漬けて保存するうち、発酵・熟成して旨みを持つことを体験的に知りました。それが醤の起源です。
醤についての最初の文献は、中国の古書『周礼』(しゅらい:紀元前11世紀頃、周王朝初期の記録書)とされています。また、孔子の『論語』(紀元前6世紀)にも、「その醤を得ざれば食らわず」(食物それぞれに適した醤が手に入らなかったら食べない)と記されています。

<歴史のこぼれ話>
中国以外にも古代ローマには、ガルムという一種の醤があったといわれますが、魚の塩漬けの汁を凝縮したものという以上のことは、わかっていません。また『聖書』にも、これに類したものがみられます。しかしその後、ヨーロッパの醤は早々と姿を消してしまいます。気候風土の違いや食生活の違いなど、様々な要因が考えられます。

■肉醤・魚醤

中国の古書『周礼』によると、政府の宴会用として、醤が百二十甕(かめ)備えられていたと記されており、なくてはならないものだったことがうかがえます。しかしここに書かれている醤は、鹿・うさぎ・鳥・魚などの肉を原料とした塩辛の類であり、大豆を原料としたものでなかったようです。文献でみる限りこの頃の醤は、肉醤(ししびしお)または魚醤(ししびしお)だったということです。


■肉醤・魚醤から、穀醤へ

穀醤(こくびしお)が最初にあらわれるのは、中国湖南省から出土した紀元前2世紀(前漢時代)のとされています。そして紀元1世紀(後漢時代)『論衡』に豆醤の記述が、さらに6世紀中頃(南北朝時代)『斉民要術』のなかに大豆にコウジを加えて醤をつくる方法が述べられています。
このように周時代から前漢以前までは、肉醤または魚醤、前漢時代からは穀醤が併用され、以後穀醤が主流を占めるようになりました。

<歴史のこぼれ話>
肉・魚醤よりも穀醤が多く用いられた背景としては、次のことが考えられます。穀醤となる大豆は肉・魚に対して比較的安価であり、大量生産も可能でした。また輸送・保存も容易で、食味、特に香味に優れていたせいでしょう。

■日本の「醤」〜縄文末期・大和時代

日本では醤のたぐいが、縄文時代末頃からあったといわれています。果物・野菜・海草などを材料とした草醤、魚による魚醤、穀物による穀醤の3種があったようですが、やはり本格的に醤がつくられるようになったのは、中国からの「唐醤」(からびしお)や、朝鮮半島からの「高麗醤」(こまびしお)の製法が伝えられた、大和朝廷時代頃のことでした。

<歴史のこぼれ話>
果物・野菜・海草などを材料とした草醤は、後に漬け物に発展し、魚による魚醤は塩辛の原型となりました。秋田地方の「しょっつる」や能登半島の「魚汁=いしる」なども、「魚醤」の流れをくむものとされています。また、日本各地にある「押し鮨」も「魚醤」がルーツと考えられています。

■奈良・平安時代

奈良時代の『大宝律令』によると、醤院(ひしおつかさ)という役所が設けられ醤を専門につくっていました。また醤の種類もふえ、原料も大豆、米、麦などが用いられ、市場で売られていたこともわかります。

さらに平安時代には、貴族の宴会では手元の皿に塩、酢、酒と並んで醤がおかれ、『四種器』と呼ばれて貴重な調味料だったと推定されます。そして平安京の東の市には醤店、西の市には味噌店が設けられ、醤に漬けた各地の魚も売られていたそうです。また役人の給与の一部として、醤が支給されたともいいます。

<歴史のこぼれ話>
「醤」のなかでも、直接しょうゆに結びつくのは「穀醤」ですが、特にその製法が唐から伝わった「唐醤」は、大豆からつくると解されています。『倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)の醤の項目には、「別に唐醤あり、豆醢(まめびしお)なり」と記され、大豆を加熱処理した後、麹、塩、水を加えて粥状にし、発酵させたものと考えられており、初めはしょうゆとみそがはっきり分かれていなかった、と推測できます。 また、平安中期に書かれた『延喜式』では、「末醤」「味醤」を「みそ」と呼び、醤(ひしお)が発展したものと考えられます。末醤はその後16世紀に「味噌」(噌は日本の造字)となった、といわれています。

2. 「醤」から「溜」(たまり)へ

■鎌倉時代

鎌倉時代になると、しょうゆの元になったと考えられる調味料「溜」(たまり)が現れます。1249年(建長元年)信州の禅僧、覚心が宋に渡って修行し、1254年(同6年)帰朝して「径山寺(金山寺)みそ」の製法を持ち帰り伝えたとされています。

その製法を紀州・湯浅の村人に教えているうちに、桶の底に分離した液(上澄みとの説もあり)が溜まり、それで食べ物を煮るとおいしい、ということを発見したといわれています。

<歴史のこぼれ話>
“桶の底で分離した液”は、湯浅で売り出されたということですが、この時代、まだしょうゆとみそは完全に別物ではなかったようです。現代の紀州・湯浅しょうゆは、この系統をひくものと伝えられています。また、しょうゆの発祥については、奈良とする説もあります。



■室町時代

室町時代初期になると、京都五山僧徒の間で発達した割烹調理の法が、奥秘として四条・大草両家に伝わり、みそからつくる溜しょうゆ状のもの、つまりしょうゆ様の調味料が使われはじめます。色利(いろきき)・垂れみそ・薄垂れ・ひしおいり、などがそうです。

なかでも代表的な「垂れみそ」は、「みそ一升に水三升五合をまぜ、煮詰めて三升とし袋に入れ、それを締めて垂らした液体」という記述が残っています。

<歴史のこぼれ話>
鎌倉から室町前期にかけて登場した、「溜(たまり)」「垂れみそ」「薄垂れ」などの塩味の調味料は、いずれもしょうゆに似ていますが、まだ「醤油」という名は使われていませんでした。またこの時代の溜が現代のものと同じであるかどうかは明らかではありません。


3. しょうゆの出現

■室町時代中期以降

日本の文献のなかに、初めて「醤油」という文字があらわれたのは1597年(慶長2年)に刊行された『易林本 節用集(えきりんぼん せつようしゅう)のなかです。このころになるとしょうゆは、各家庭にも広まってきたと考えられます。

<歴史のこぼれ話>
『節用集』は室町時代に成立した国語辞典のたぐいで、通俗、簡便で実用向きという特色があり、これに「醤油」がとりあげられているということは、みそから分化したしょうゆが、庶民的な調味料になっていたことがうかがえます。しかし残念なことに、この時代の製法を伝えた記録がなく、「溜」「垂れみそ」「薄垂れ」など、製法上でどのような違いがあるのか確認することはできません。 いずれにしても『節用集』にあげられた醤油は、現代の「濃口しょうゆ」とは違い、かなり「溜しょうゆ」に近いものだったと推定されています。


■江戸時代〜上方しょうゆの発達

江戸時代になり人々の生活や食生活も豊かになるにつれ、しょうゆは各地で工業的に生産され売られるようになってきましたが、はじめは上方ものがはばをきかせていました。

江戸の初期、上方しょうゆは米の3〜4倍はする高価な商品でしたが、堺や大坂から船で大量に江戸に送られ、関東しょうゆの倍近くの値段で売られていたという記録もあります。そのころの江戸はまだ発展途上にあり、食生活を含めた文化の中心は上方だったのです。


元禄時代に上演された近松門左衛門の浄瑠璃に「うどんと切麦、汁は同じ醤油」とか「吸口は、何を、醤油か」「いやさっと薄味噌で」などとあるように、大坂の町人衆の間ではすでにしょうゆは日用品でした。しかし、しょうゆが江戸の調味料として広く一般に使われるようになるのは、文化・文政期になってからのことでした。

<歴史のこぼれ話>
当時、清酒やしょうゆ、塩から雪駄に至るまで、上方のすぐれた産物が江戸に送られていました。それらは「下り酒」「下りしょうゆ」などと呼ばれて珍重されました。反対に品質のよくないしょうゆは、下ることができなかったといわれています。つまらないモノやコトを「下らない」(江戸弁)というのは、この時代の名残です。また地元の酒・しょうゆは「下りでない」ということから「下らない」となった、という説もあります。


■江戸時代〜関東しょうゆの台頭

江戸時代中期を過ぎると、関東の常陸・下総・上総・相模などで、しょうゆづくりがさかんになり大きく発展します。味も江戸の人々の嗜好に合わせて、今日の濃口しょうゆに近いものが生産されるようになりました。そして次第に上方からの下りしょうゆは駆逐され、江戸のしょうゆは関東ものが占める状態になっていきます。


もちろん「量」だけではなく「質」の面でも、関東ものの評価が高まります。しょうゆの品質向上には、製麹(せいきく=しょうゆ麹をつくる)、もろみ熟成ともろみの管理、圧搾(あっさく=もろみを搾る)などの様々な技術がかかわってきますが、原料に限っていうと、小麦の使用比率を高めることが製法の完成課程といえます。

1697年(元禄10年)刊行の『本朝食鑑』には「等量の大豆と大麦で麹をつくる」とありますが、1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』では「大麦麹と小麦麹の二種があり、市販されているのはみな小麦を原料にしている」と記されています。それまでの大麦にかえて小麦を使うことで、より江戸の人々の嗜好に合った、今日の濃口しょうゆに近いものとなりました。

<歴史のこぼれ話>
関東のしょうゆ生産地でもっとも中心となったのは、下総の野田と銚子でした。ここは気候的にしょうゆづくりに向いているうえ、利根川・江戸川を利用して江戸との交通の便(船)がよく、また周辺には原料となる大豆・小麦を産する平野がひらけていました。さらにもうひとつの大切な原料である塩も、江戸時代中期までは江戸川の河口、行徳で大量につくられていました。(その後は赤穂の塩が主流となりました。)



幕末の1864年(元治元年)、幕府がインフレ対策として物価の四割引き下げを強行しました。その際、「最上醤油」として価格の据え置きを許されたのは、野田のキッコーマン、キハク、ジョウジュウ、銚子のヤマサ、ヒゲタ、ヤマジュウ、ジガミサの7ブランドでした。

それをさかのぼる1840年(天保11年)、江戸市場での売れ行き順位を相撲番付に見立てた「醤油番付」が残されています。 これらのつくり手が当時すでに番付上位にあるのがわかります。


■江戸末期〜明治時代

「品質の向上により、下り物をみごとに追い越した地廻り物の例がある。他ならぬ醤油である」(竹内誠『江戸と大坂』)の指摘通り、江戸時代後半から関東しょうゆは、日本のしょうゆの代表としての地位を固めはじめ、維新前後には関東しょうゆは完全に上方を圧倒するまでになりました。

そして明治以降、しょうゆは急速に生産量を増していきます。


大正期以降はしょうゆ製造の近代化が進みました。そして現在、海外、特にアメリカなどでは、ごく普通にスーパーマーケットで売られ、家庭の食卓にのぼっています。

※近世以降の詳しいしょうゆの発展については「しょうゆの国際化」項をご参照ください。