妙光寺開山法燈国師 京都妙光寺 (1)
2009年12月28日(月)
妙心寺の北門から出て、少し北西に歩くと京福電鉄北野線の妙心寺駅に着く。ここから2駅西に行くと宇多野駅に着く。そこで電車を降り立ち、500メートルほど北に登ると臨済宗建仁寺派 妙光寺がある。
妙光寺は、弘安2年(1285) 内大臣藤原師継(もろつぐ) が夭折したわが子を悼み、山荘を改め、無本覚心(法燈国師) を開山に迎えて、亡き子の法名「妙光」を寺名として創建したのが起源とされる。花山院家の広大な土地を占めて壮大な伽藍を擁する妙光寺は、室町時代には「京都十刹」の第八番目に列せられた由緒ある禅寺であった。
南北朝以降は南朝とのゆかりが深く、亀山、後醍醐、後村上の三帝の勅願寺となった。吉野に逃れた後醍醐天皇も、一時この寺に宿泊したと伝える。しかし応仁の乱を始め度重なる戦乱で、壮大であった伽藍は焼失した。江戸時代に入って寛永16年(1639) 豪商打它公軌(うだ きんのり) の支援を得て再建され、江戸時代文人の文化サロンとして機能したらしい。打它公軌の商号は糸屋十右衛門といい、本阿弥光悦、俵屋宗達、野々村仁清、尾形光琳、尾形乾山、小堀遠州、等当時の代表的文化人たちとの交流の記録が残っている。また幕末期には勤皇志士たちの密議の場となったと伝える。
開山の法燈国師は、この寺の開山としてだけでなく、さらにふたつの点で有名である。
ひとつは、法燈国師が全国に拡がりをもつ虚無僧宗門 普化衆の始祖である、ということである。法燈国師は、宋から尺八を法器とし托鉢行脚する普化宗(ふけしゅう)を伝えた。
もうひとつはこの法燈国師が、わが国にはじめて味噌と醤油の醸造法を伝えたということである。法燈国師は、43歳のとき宋に留学し、霊洞山護国寺の無門慧開禅師に師事した。あわせて宋から味噌の醸造法を学び、帰国後紀伊国西方寺(後の興国寺)で、穀物を原料として味噌・醤油を醸造する技術を伝授したのが、わが国の味噌・醤油の始まりであるといわれている。
(つづく)
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2009年12月28日 07時47分
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