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東本高志氏への反論 [2010-03-30 00:00 by kollwitz2000]
在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利を(も)強調すべき――朝鮮学校排除問題 [2010-03-24 00:00 by kollwitz2000] ただ「言ってみただけ」の佐藤優の主張(2) [2010-03-20 00:00 by kollwitz2000] 第6回口頭弁論期日報告 [2010-03-18 00:00 by kollwitz2000] ただ「言ってみただけ」の佐藤優の主張(1) [2010-03-16 00:00 by kollwitz2000] ブログ紹介:「博愛手帖」 [2010-03-15 00:00 by kollwitz2000] 朝鮮学校排除問題をほぼ黙殺する『世界』と『金曜日』 [2010-03-13 00:00 by kollwitz2000] 朝鮮史研究者・川瀬貴也氏への回答と要求:④川瀬氏への要求 [2010-03-10 00:03 by kollwitz2000] 朝鮮史研究者・川瀬貴也氏への回答と要求③:内田樹の「寛容」論と川瀬氏 [2010-03-10 00:02 by kollwitz2000] 朝鮮史研究者・川瀬貴也氏への回答と要求②:<佐藤優現象>を推進するリベラル・左派との共通性 [2010-03-10 00:01 by kollwitz2000] 朝鮮史研究者・川瀬貴也氏への回答と要求①:はじめに [2010-03-10 00:00 by kollwitz2000] どの口が言えるのか?――佐藤優の朝鮮学校に対する「寛容」論 [2010-03-04 00:00 by kollwitz2000] 1.
前回記事「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利を(も)強調すべき――朝鮮学校排除問題」に対して、東本高志氏よりご批判をいただいた(「金光翔さんの朝鮮学校排除問題についての論攷について」)。東本氏は、朝鮮学校排除問題をブログで熱心に取り上げておられ、各種声明・発言の紹介などの参考になる情報を集めて下さっている(前回記事で、そのうちの一つの声明へのリンクを貼らせていただいた)。その活動に敬意を表するとともに、東本氏はこの批判を、自己のブログだけでなく、各種メーリングリストにも投稿しているようであり、一定の影響力があると思われるので、その批判が根拠のないものであることを指摘しておく。 以下で取り上げる東本氏の批判文は、CMLというメーリングリストに投稿されたものに依拠している。http://list.jca.apc.org/public/cml/2010-March/003439.html 2. まず、東本氏は以下のように主張している。 「上記の金さんの論攷の指摘には肯えるところも少なくありません。が、金さんが左記の指摘をする問題提起の作法、あるいは論文の書き方の作法といってよいものに私は少なくない違和感を持ちます。 「日本人リベラル・左派」の朝鮮学校排除問題についての論の欠落点を指摘する上記の金さんの論攷は400字詰め原稿用紙にしておよそ16枚分ほどになり、ブログ記事としてはいささか長文です。しかし、長文であること自体が別に問題なのではありません。冗長ということでもない限り、自身の論の展開に必要ということであればどんなに長くなってもよいわけです。問題は、「日本人リベラル・左派」の論とはこういうものではないか、と自らが仮定したいわば架空の論でしかない論を「こうした『戦略』は、何重にも間違っている」などとして、その長文の大半、というよりほとんど全文を費やして反論、批判する金さんの執筆姿勢です。 金光翔さんは、「日本人リベラル・左派」が見落としている/欠落させている論点は「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」という視点であるとした上で、その「日本人リベラル・左派」の見落とし、あるいは欠落させている視点が仮に「意図的(「戦略」的)なものであるならば、それは極めて問題である」、として持論を展開していきます。金さんはその論攷の最後で「歴史的経緯に触れずに外国人の一般的権利の問題として捉える反対論が、意図的な(「戦略」的な)ものではなかったことを願う」という但し書きを挿入してはいます。が、仮定の「日本人リベラル・左派」の視点の欠落がある論を前提にした上で、その論をほとんど全文に渡って批判していく、という論文の書き方の作法は、マッチポンプ的な論文作法として強く批判されなければならない姿勢だろう、と私は思います。」 実は、東本氏が何をもって「強く批判されなければならない姿勢」と言っているのか今ひとつよく理解しがたいのだが、「マッチポンプ的な論文作法」という語句に留意すれば、恐らく、金がありもしない「「日本人リベラル・左派」の視点の欠落がある論」を想定した上で、それを批判する作業を行っていることが問題だ、と言っているのだと思われる。この解釈で正しければ、朝鮮学校排除への反対論において、私が指摘したような「「日本人リベラル・左派」の視点の欠落」が実際に存在すれば、「強く批判されなければならない姿勢」ではないということになる。 東本氏の文章の引用を続けよう。 「そして、私の見るところ、「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」の問題についての視点の欠落が、金さんが「仮定」として指摘するように「日本人リベラル・左派」の側の「有力な反対論のほとんど」が「意図的(「戦略」的)なもの」である、ともいえないように思います。また、金さんの左記の認識は事実としても誤っているようにも思います。」 東本氏は、「「日本人リベラル・左派」の側の「有力な反対論のほとんど」が「意図的(「戦略」的)なもの」である、ともいえないように思います。」と言うが、そのように言う根拠を示していない。いずれにせよ、東本氏は「金さんの左記の認識は事実としても誤っているようにも思います。」とも述べているので、「事実として」誤っていることが示されれば、「意図的(「戦略」的)なもの」云々はそもそも問題として成立しない。したがって、ここでの争点はやはり、日本の「有力な反対論のほとんどが、在日朝鮮人社会の形成の歴史的経緯・必然性に触れていない」という私の指摘が、「事実として」誤っているかどうかである。 3. そして、東本氏は、以下のような理由を挙げ、「事実として」誤っていると主張している。 便宜上、挙げられている資料に、番号を振らせていただく。 「たしかに日弁連、また単位弁護士会や地方自治体議会などの要請書には散見した限りにおいて「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」の問題は触れられていないようです。しかし、左記は、議会や弁護士会という組織としての声明の性質によるものというべきでしょう。私のブログにまとめている「朝鮮学校排除問題」のリストの声明や見解を一覧しても「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」の問題について言及しているものは少なくありません。たとえば、 ■(※①)「資料:朝鮮学校無償化除外問題(2) 師岡康子弁護士インタビュー」 http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/199945.html 「彼女(筆者中:師岡弁護士)は《在日朝鮮人に対する日本政府の差別及び日本社会の差別的態度を見ると、北朝鮮に対する外交問題という「仮面」をかぶっているが、本質的には植民地時代から続いている植民地主義に根を置いた民族差別だ》と言った」 ■(※②)「資料:朝鮮学校無償化除外問題(10) 「子どもはお国のためにあるんじゃない!」市民連絡会声明」 http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/204827.html 「言うまでもないことですが、戦後日本政府は朝鮮半島出身者を「朝鮮籍」としました。祖国が分断された後も、「どちらかを選ぶことはできない」と、韓国籍を取得せず、朝鮮籍のままでいる方も多くいます」 ■(※③)「資料:朝鮮学校無償化除外問題(12) 外国人学校・民族学校の制度的保障を実現するネットワーク要請書」 http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/213010.html 「朝鮮学校は、戦後直後に、日本の植民地支配下で民族の言葉を奪われた在日コリアンが子どもたちにその言葉を伝えるべく、極貧の生活の中から自力で立ち上げたものです」 ■(※④)「資料:朝鮮学校無償化除外問題(14) 「韓国併合」100年 日韓市民ネットワーク・関東要請書」 http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/213337.html 「また、今年2010年は、「韓国併合」100年に当たる年です。鳩山首相は、昨年11月にシンガポールで開催されたAPECで、「この地域では、ほかならぬ日本が、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた後、60年以上がたった今もなお、真の和解が達成されたとは必ずしも考えられていない」と演説されました。(略)そうであるならば、なおのこと高校授業料無償化政策から朝鮮学校の生徒を除外するなどということがあってはならないと考えます」 ■(※⑤)資料:朝鮮学校無償化除外問題(29) 文科省申入れ報告と要請書 「韓国併合」100年-2010年運動(2010年3月20日) http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/611612.html 「「韓国併合」から100年を迎える時点に、日本政府は朝鮮半島との不正常な関係を正し、過去を清算して和解・平和・友好関係を築くよう積極的に取り組むべきでしょう。それを真に望む朝鮮半島の人々は、今回の高校無償化法案をその試金石として注視しています」 など。 各声明や見解におけるこの問題についての指摘は上記に見たとおり短いものですが、これもやはり声明や要請書という文書の性質によるものというべきだろうと思います。金さんが「日本の任意の反対声明を、韓国の『真実と未来、国恥100年事業共同推進委員会声明』と比べてみれば」、日本の反対声明が在日朝鮮人社会の形成の歴史的経緯・必然性に触れていないことは「明らかであろう」という韓国の声明(※⑥)の該当部分も「日本が朝鮮を強制併合して100年を迎える時点に、日本政府はアジアでの過去清算に先立ち、内部的な過去清算に積極的に取り組むべきだろう。植民主義清算を真に望む世界の人々は、今回の高校授業料無償化政策をその試金石として注視している」という短いもので、日本の声明や見解が特に短いというわけでもないように私は思います。やはり声明や要請書という文書の性質がそうさせるのだろう、と私は思います。」 東本氏が挙げている資料のうち、①はそもそも韓国の京郷新聞に掲載されたものであって、日本の反対論とは言えない。②に関して東本氏が引用している文章は、「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」とは関係がない。③に関して東本氏が引用している文章も、植民地支配と在日朝鮮人(社会)の形成の関係に言及しているものではないから、「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」について言及しているとは言えない。④も、表現が漠然としており、「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」について述べているとは言えない。唯一、⑤が「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」と関連しているように読める表現となっているが、これもやや漠然としていて、言わんとすることは一般の人々には伝わりにくいだろう。 したがって、①~⑤を⑥と比較すれば、やはり、違いは「明らか」と言わざるを得ないだろう。⑥に関して東本氏が挙げる「該当部分」は、短いものであるが、⑥の「該当部分」はここだけではない。⑥に関して、私見に基づく「該当部分」を引用する(原文は、http://www.oktimes.co.kr/news/articleView.html?idxno=1303 。以下は私の訳だが、私の趣味で、なるべく元の漢字語を残した)。 「日本政府は敗戦直後から在日朝鮮人の民族教育を露骨に抑圧したが、朝鮮学校の構成員たちは抵抗を放棄しなかった。その結果、28の都道府県で各種学校として認可を受け、今も民族教育を行っている。朝鮮学校は日本の制度に合わせた学制を取っているし、私立学校施行規則による各種の行政的な義務も充足している。さらに、民族の言葉と文および歴史科目以外は、日本の正規学校(1条校)と違いのない内容を教えている。それだけでなく、日本の国立大学を含めた大学が、朝鮮高級学校の卒業生に受験資格を付与しており、卒業生の進学率は 60% 以上に達している。 このような状況で、高校無償化対象に含まれる 10余個の朝鮮高級学校に対して支援をしないことは、朝鮮学校の学生たちを日本の構成員と認めないとする、そして在日朝鮮人に関する歴史性と現実性をみな無視する、差別的な仕打ちにほかならない。私たちは日本総理や政府の一角のこのような矛盾した発言を見るにつけて、このような試みが、現在果てしなく墜落している政府与党の支持率を引き上げようとする安易な考えから始まったのではないかと疑わざるを得ない。また、鳩山総理の発言は、植民地民族差別時代に逆行する発言と言えるものであり、鳩山総理が公言している過去事清算と東アジア共同体論議に関する真正性さえ否定されざるを得ない。 日本が朝鮮を強制併合してから100年を迎える時点で、日本政府は、アジアでの過去清算に先んじて、内部的な過去清算に積極的に踏み出すべきであろう。植民主義清算を心から望む世界の人々は、今回の高校授業料無償化政策を、その試金石として鋭意注視している。朝鮮学校を高校授業料無償化対象に直ちに含めることを、日本政府に促しかつ求める。」 ⑥が、今回の問題を植民地支配という歴史的経緯の観点から捉えていることは明らかであろう。また、今回の排除問題と密接に関連する、戦後一貫した民族教育への抑圧にも言及している。⑥にもまだ足りない点はいろいろあろうし(「東アジア共同体」云々も余計だが)、 短さの点では日本も韓国も同じ、などとして共通点を見ようとするよりも、むしろ、率直に相違点を見る方が生産的なのではないか。 また、東本氏は上の引用文中で、「たしかに日弁連、また単位弁護士会や地方自治体議会などの要請書には散見した限りにおいて「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」の問題は触れられていないようです。しかし、左記は、議会や弁護士会という組織としての声明の性質によるものというべきでしょう。」と述べているが、「日弁連、また単位弁護士会や地方自治体議会などの要請書」は、社会的影響から鑑みて、私が問題にしている「有力な反対論」である。東本氏は、「しかし、左記は、議会や弁護士会という組織としての声明の性質によるものというべきでしょう。」と、これらの声明や要請書をあまり問題にしていないようであるが、なぜこの理由であれば問題にならないのかわからない。むしろ、「議会や弁護士会」のような、社会的影響力が大きい「組織」の「声明」ならば、より「有力」と言うべきであろう。東本氏が、このような社会的影響力の強い声明については等閑視した上で、遺憾ながらそれらに比べればはるかに「有力」ではない団体等の発言を引いてきて「事実としても誤っている」などとわざわざ主張すること自体が理に合わない。 後述の理由で具体的な名前は挙げないが(挙げること自体は簡単である)、多くの反対論が、在日朝鮮人社会の形成の歴史的経緯・必然性に触れていないことはこの問題に関心を持っている人間には明らかである(東本氏も部分的に認めている)。そして、東本氏は、日本の「有力な反対論のほとんどが、在日朝鮮人社会の形成の歴史的経緯・必然性に触れていない」という私の指摘を否定するに足るほどの、「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」に言及している日本の反対論を示し得ていない。 4. 以上から、東本氏が挙げる根拠によっては、日本の「有力な反対論のほとんどが、在日朝鮮人社会の形成の歴史的経緯・必然性に触れていない」という私の指摘が、「事実として」誤っているとは言えないということを示し得たと考える。したがって、私の東本氏の文章への理解が正しければ、私の記事について、「マッチポンプ的な論文作法として強く批判されなければならない姿勢」であるとは到底言えないだろう。 念のために書いておくが、前回記事でも書いたように、私は、植民地主義の問題が触れられていないから駄目だ、と言っているのではなく、反対声明の表明等の行為については一定の敬意を払っている。また、前回記事で何度も強調したように、この問題を、外国人の一般的権利の侵害として捉えること自体は正当である。 そもそも朝鮮学校排除への反対論自体が、社会的に見れば大変貴重な状況である中で、私としては批判的と取られるような発言をあまりしたくないのであるが、東本氏のような批判があれば、私も自身の主張の正当性を示さざるを得ない。東本氏の私の主張への批判が、「日本の市民運動・左派は悪くない。間違っていない」という動機に基づいたものでないことを願う。 朝鮮総連の高校無償化排除への日本での反対論を見るにつけて、それらに一定の敬意は払いながらも憂慮せざるを得ないのは、有力な反対論のほとんどが、在日朝鮮人社会の形成の歴史的経緯・必然性に触れていない点である。反対論の主な論拠は、外国人の教育権の擁護、差別禁止といった、一般的な権利論であり、それら自体はもちろん重要な論点であるにしても、植民地主義の問題はほぼ全くといっていいほど触れられていない。日本の任意の反対声明を、韓国の「真実と未来,国恥100年事業共同推進委員会声明」と比べてみれば、そのことは明らかであろう。
念のために言っておくが、私は、植民地主義の問題が触れられていないから駄目だ、と言っているのではない。私は、反対声明の表明等の行為については一定の敬意を払っているし、この問題を、外国人の一般的権利の侵害として捉えること自体は、もちろん間違っているわけではない。 だが、以下に述べるとおり、反対論においては、在日朝鮮人社会形成の歴史的経緯、植民地主義の問題も言及されるべきだと私は考える。また、歴史的経緯についてほとんど触れられていないという事態が、意図的(「戦略」的)なものであるならば、それは極めて問題である。 歴史的経緯に触れずに外国人の一般的権利の問題として捉える反対論が、仮に意図的な(「戦略」的な)ものであるとするならば、そこでの意図(「戦略」)は、次のようなものであるはずである。 「在日朝鮮人社会の形成が、日本の侵略と植民地支配の結果である以上、在日朝鮮人の民族教育権は保障されて当然、などと言えば、そのような歴史的経緯に関心がない人には主張が伝わらない。そうではなくて、外国人一般の問題、今後の国際化の問題として捉えれば、歴史的経緯に関心がない多くの人からも共感を得られるだろう。だから、歴史的経緯の問題は言及せずに、外国人一般の問題、今後の国際化の問題として特化させた方がよい」 だが、こうした「戦略」は、何重にも間違っていると私は考える。 まず確認しておかなければならないのは、日本人がそのような「戦略」を企てる権利はない、ということである。上の「戦略」を、(在日)朝鮮人が企てるならばまだ分かるが(間違ってはいるが)、それを日本人が企てるならば、それこそ在日朝鮮人の歴史的経緯を否定する行為である。こんなことはわざわざ言うまでもないことではあるが、「在日」に関する問題に関心を持つ日本の左派の一部(多く?)は、この辺の感覚が完全に麻痺しているから、「善意」でこれに類することを平気で唱えるので、あえて記しておく。 また、上とも絡むが、二つ目の問題点は、こうした主張が、在日朝鮮人が直面している問題を外国人一般の問題としてのみ描くことで、在日朝鮮人を、侵略と植民地支配という歴史的経緯によって日本に定住することになった存在と捉える表象が、日本社会において弱まることである。ネット上の左右の争いや知識人レベルではいざ知らず、社会的な大きな争点として、朝鮮学校の問題が取り上げられることなどほとんどないのであるから、こうした決定的な時点での言説は、それ以外の時にはほとんど関心を持たない多くの人々に対して、大きな影響があると私は考える。 高校無償化排除問題の件で本質的な問題である「普遍的権利」とは、外国人としての民族教育権だけでなく、植民地支配の結果として宗主国に定住せざるを得なくなった民族が、宗主国の国民と同等の社会的・文化的権利、生活権を享受する権利を有する、という権利である。それが実定法で規定されているかどうかは基本的に関係ない。「普遍的権利」を問題にするならば、後者をも問題とすべきである。 三点目として、外国人一般の問題に還元した方が支持を得られる、ということは恐らくないことである。 JNN世論調査(3月5日)や、FNN世論調査(3月20~21日。Q6)の結果を見ると、高校無償化から朝鮮学校排除に賛成する人の方が多いが、反対している人も多い。では、反対している人々の多くは、外国人の権利の擁護という観点から反対しているのだろうか。ここは見解が分かれるところであろうが、以前、教育基本法改悪反対の論理の件で述べたように(「「思想・良心の自由」による反対論の陥穽」)、大多数の大衆は、そのような抽象的権利に基づいて政治的判断をしないと私は思う。むしろ、朝鮮学校や朝鮮学校(卒業)生との交流や接触、在日朝鮮人の歴史的経緯への一定の配慮などに基づいて、排除に反対している人の方が多いと思う。支持を得られないから抽象的権利を主張すべきでない、とは私は全く思わないし、むしろ逆に、支持とは無関係に抽象的権利を擁護するよう主張すべきと考えているが、「戦略」として抽象的権利の擁護が有利だと考えるのは間違っていると思う。 そもそも、在日朝鮮人を外国人一般として説明しようとするならば、大衆レベルでは、「外国人といっても、あいつら、言葉も文化も日本人と変わらないじゃないか。じゃあ、帰化して「民族教育」など捨てろ。「民族教育」などと、外国人としての権利などと言うならば、「特別永住」資格(「在日特権」)を捨てろ」という反発を引き起こすことになるだろう。歴史的視点抜きには、こうした反発の論理には対抗しがたい。私は、外国人一般の問題に還元するという論理は、ある程度リベラルな知識層にしか訴求力がないと思う。そして、そうした人々は、恐らく初めから排除に反対しているだろう。 四点目として、外国人一般の問題に還元した方が支持を得られる、という主張が、日本における「拉致問題の解決」論の本質(「「拉致問題の解決」の本質」ではない)への理解を決定的に欠いていると思われる点である。 周知のように、朝鮮学校の排除を推進する人々は、タテマエはさておき、拉致問題の進展のための強硬姿勢の顕示の必要性を主張している。では、こうした人々やその主張を支持する人々に対して、それは「拉致問題の解決」につながるどころかむしろ遠ざけるものであること、日本の「国益」に反することを説得的に示せば、こうした人々は朝鮮学校も無償化の対象にしよう、と言うようになるのだろうか。そうはならないだろう。 「拉致問題の解決」に向けて強硬姿勢を主張する論者たちやそれを支持する人々(一部の右派だけではなく、国民の少なくとも半数以上である)の言動、そしてそのような言説に支配されている<空気>は、そのような強硬姿勢が、植民地支配責任とそれをめぐる戦後補償という問題を葬り去り、道徳的・倫理的な引け目や罪悪感を払拭してくれる、という(無意識的な)心情によって支えられている。念のために言っておけば、植民地支配責任の免罪のために拉致問題を利用する人々が問題、ということではない。そもそも日本における拉致問題に関する言説の構図自体が、植民地支配責任の免罪のためにこのような状態になっているのである。 「拉致問題の解決」への強硬姿勢を主張する人々、支持する世論は、植民地支配とそれに関連する問題への日本の責任について、一般的にはほぼ完全に否定するか、一切言及しないかのどちらかである。だが、これは、彼ら・彼女らが問題の所在を理解していないことを意味しない。そうではなくて、植民地支配の問題が極めて重要であるがゆえに、日本人も、「拉致問題の解決」に向けた強硬姿勢を手放さないのである。和田春樹や太田昌国は、この関係性を全く理解していない。「拉致問題の解決」および日朝国交正常化に向けた、「国益」重視の日本の「ハト」派による、強硬姿勢一本槍に比較すればより合理的と思われる立場(経済協力方式。私は支持していない)が、大衆的な支持をあまり得られない理由も、ここに帰着する。インテリ(左右を問わず)や政策決定者、マスコミ、富裕層らにとってみれば、植民地支配などというものは大昔の、大した問題ではなく、経済協力方式で済むならば適当に謝るなどしておけばいいではないか、ということであろうが、特に「下層」の日本国民にとっては大きな問題なのだと思われる。植民地時代の朝鮮に渡った人々や、日本で在日朝鮮人と接触のあった人々は、中産層から下の階層の人々が多い。こうした体験や語り継がれる記憶、祖父母らを正当化したいとする衝動は、思われているよりも広範かつ強力に存在していると思う。 朝鮮学校に対する戦後一貫した日本政府の差別的取り扱いは、日本国内において、自律的な形で在日朝鮮人社会が成立・発展することを阻止するために行われたものである。日本政府の政策決定者が愚かにも排外主義に感染していた、ということではない。これは排外主義に基づいた「合理的」施策なのであって、この差別的取り扱いの結果として、朝鮮学校の発展は阻止され、民族教育を受ける在日朝鮮人が減少し、孤立化していった結果、在日朝鮮人の全般的同化が既成事実化したのである。もちろん朝鮮学校や朝鮮総連自体の問題は山ほどあるだろうが、大枠としては上記の通りである。その意味では日本政府の施策は「成功」したのである。アイデンティティや脱アイデンティティがどうたら、などと自分語りを行う在日朝鮮人(女性)知識人たちに萌える日本人リベラル・左派は、本来日本政府に感謝してしかるべきである。 在日朝鮮人(社会)が可視的な形で層として日本社会に存在することは、日本人の歴史認識にまつろわない異物が層として存在することを意味するから、それらの人々を、帰化させるか、自分から「日本への愛」を語るなど媚びる存在に化させるかすることが、日本国家・日本社会の戦後一貫した欲望または必要性だったと私は思う。そのような背景の下で、戦後の朝鮮学校への差別的取り扱いは維持されてきたのである。「拉致問題」言説の前景化が、植民地支配責任の問題や贖罪感等を払拭させたことにより、日本国家・日本社会は、、在日朝鮮人(社会)が可視的な形で層として日本社会に存在することを阻止しようとする欲望と政策を、正当化させることができるようになったのである。したがって、高校無償化問題において、朝鮮学校を差別しないということは、在日朝鮮人(社会)が可視的な形で層として日本社会に存在することを阻止したい人々(念のために言うが、国民の過半数以上である。リベラル・左派の一部も含む)にとってみれば、歴史の進歩への逆行と映るだろう。 ひょっとすると、、外国人一般の問題に還元した方が支持を得られる、という主張も、上に近い認識を前提として出されたものなのかもしれない。植民地主義について語ることは逆効果だ、と。だが、排除を支持する大多数の人々の潜在的な欲望は、日本人の歴史認識にまつろわない異物が層として存在することを否定し去りたいというものであって、恐らく「拉致問題の解決」とは何の関係もない。したがって、この枠組みの下では、橋下府知事のような言いかがりを延々とつけられ、まつろう存在であることを証明させられるものとなるだろう(そして、その「証明」の強要には際限がないだろう)。また、前述のように、外国人一般の権利という抽象的問題と、北朝鮮という「不法国家」の関連団体に便宜を図ることを天秤にかければ、大衆は後者をより重要だと見なすというであろうから、効果を期待することは難しいだろう。 また、朝鮮学校排除を支持する大衆に対しては、国連等の海外からの批判は、あまり有効ではないだろう。それは、日本国民が近年「内向き」になっているから、といったよく言われる理由よりも、むしろ、この問題が、植民地支配責任の否認という(無意識的)衝動に支えられており、国民としての歴史的アイデンティティに関わるものであるからである。 したがって、排除に反対する側は、外国人一般の抽象的な権利だけではなく(繰り返すが、それを主張することを否定しているわけではない)、在日朝鮮人の民族教育権の根拠となる歴史的経緯を強調し、植民地支配責任の否認という<空気>に対抗することで、その<空気>に感染している周辺の人々(コアの層は、何があっても排除支持の立場を変えないだろう)を立ち止まらせるべきだと思う。問題の本質的な焦点は、拉致問題の進展の可否ではなく、戦後一貫した、より構造的なものである。 歴史的経緯に触れずに外国人の一般的権利の問題として捉える反対論が、意図的な(「戦略」的な)ものではなかったことを願うとともに、今後は、高校無償化からの排除を受けないことが、在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた当然の権利によるものであることを(も)、強調していただきたく思う。 論文「<佐藤優現象>批判」(以下、論文と略)が佐藤の発言を「曲解している」などと、佐藤優が主張している件の続きである。佐藤が「曲解している」として挙げている9箇所について、今回、7・8・9箇所目を挙げることで、ようやく全部紹介できたことになる((1箇所目、2箇所目、3箇所目、4箇所目、5・6箇所目については既に述べた)。以前述べたように、この「曲解している」とする9箇所と、「人民戦線」云々という「言っていないこと」を挙げて、佐藤は私の論文について、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。」と『週刊新潮』で発言しているのである。なお、「人民戦線」云々については、第6回期日で安田好弘弁護士により、改めて論じられている。すこぶる興味深い内容なので、後日紹介する。
さて、今回は7・8・9箇所目を紹介することになるが、前回紹介した5・6箇所目と同様に、これらは、ほとんど論点らしきものがなく、佐藤側も恐らく「言ってみただけ」というもののようにすら思われるものである。 7箇所目(被告準備書面(2)では2番目に挙げられている)から紹介しよう。佐藤側の主張、被告準備書面(2)の該当箇所を紹介する(下線強調は原文)。 --------------------------------------------------------- (2)「論文」128頁下段17行日~129頁下段2行目 原告は「日米開戦の真実一大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」(小学館、乙4号証)から被告佐藤の日本の近現代史に関する自己の歴史認識が開陳されていると称する部分を引用しているが、引用が恣意的である。被告佐藤は同著240頁で以下のようにも書いているが、この部分は引用されていない。 「ここでの大きな問題は、『他の諸国から収奪されているあなたの国を将来解放したいのだが、今は私に基礎体力が欠けるので、当面、基礎体力をつけるために、期間限定であなたから収奪する。それがあなたのためになるのだ』という論理は、収奪される側からは、まず受け入れられないにもかかわらず、当時の日本人には見えなかったことである。他国を植民地にし、そこから収奪しているという認識があれば、やりすぎることはない。やりすぎで、相手をあまり疲弊させると収奪できなくなってしまうからだ。それに対して、われわれの目的は収奪ではなく、あなたの国を植民地支配から解放することだという基本認識で、期間限定の基礎体力強化のために、『協力していただく』という枠組みを作ると、相手に対して与える痛みを自覚できなくなってしまう。」 --------------------------------------------------------- この箇所については、佐藤側の主張はこれで全部である。以下は、私の反論(原告準備書面(2))である。 --------------------------------------------------------- (2)「論文」128頁下段17行日~129頁下段2行目 被告は,「原告は「日米開戦の真実一大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」(小学館,乙4号証)から被告佐藤の日本の近現代史に関する自己の歴史認識が開陳されていると称する部分を引用しているが,引用が恣意的である。」と主張している。 だが,引用の元の箇所(甲41号証)が示すように,引用した部分は,被告佐藤の「日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳」したものであって,引用が恣意的との非難は何ら当たらない。 また,被告は,同書で原告が引用しなかった箇所を挙げているが,それは上記の引用部分の論旨を否定するものではなく,上記の引用部分が被告佐藤の「日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳」したものである以上,原告の引用が「恣意的」で,被告佐藤の主張を「曲解」しており,「言ってもいないこと」をさも被告佐藤の主張のように言っていることに当たらないことは明白である。被告の主張は失当である。 --------------------------------------------------------- 次に、8箇所目(被告準備書面(2)では3番目に挙げられている)として、佐藤側の主張、被告準備書面(2)の該当箇所を紹介する(下線強調は原文)。 --------------------------------------------------------- (3)「論文」129頁下段14行目~20行目 《さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに例えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢に戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。》との記述がある。 しかし、この引用は上述の「新帝国主義の選択肢」(乙2号証)の途中からのもので、「狭義の外交力、すなわち政治家、外交官の情報(インテリジェンス)感覚や交渉力を強化し、」という部分が抜けている。原告はこの部分を引用せずに、当然被告佐藤にとっては戦争が視野に入っていると結論づけているが、これは曲解である。また、ここで問題にされているのは北朝鮮が行ったミサイル発射及び核実験であって、それによってごり押しを行う北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに例えているのに、原告はそれとは直接関係のない「拉致問題の解決」と無理矢理結びつけている。被告佐藤による記述は以下のとおりである。 「帝国主義の時代では、各国が自らの国益を露骨に打ち出し、折り合いをつける勢力均衡外交が基本になる。その場合、ごり押しをする国家についても、当該国を戦争でたたきつぶすことと妥協して均衡点を見いだすことを天秤にかけて、妥協の方が有利になるという見積もりになれば、結果としてごり押しをする国家が得をする。 1938 年のミュンヘン会談でイギリス、フランスから妥協を取り付けてチェコスロバキアからズデーテン地方を獲得したナチス・ドイツを同じような「成果」を現在、北朝鮮が獲得している。 このような状況に「ケシカラン」と反撥しても時代は改善しない。狭義の外交力、すなわち政治家、外交官の情報(インテリジェンス)感覚や交渉力を強化し、新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる。これは良いとか悪いとかいう問題でなく、国際政治の構造が転換したことによるものだ」(乙2号証)。 --------------------------------------------------------- この箇所については、佐藤側の主張はこれで全部である。以下は、私の反論(原告準備書面(2))である。 --------------------------------------------------------- (3)「論文」129頁下段14行目~20行目 被告は,原告による,被告佐藤の《さらに,現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに例えた上で,「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては,北朝鮮の「拉致問題の解決」においても,戦争が視野に入っているということだ。》との発言の引用について,「この引用は上述の「新帝国主義の選択肢」(乙2号証)の途中からのもので,「狭義の外交力,すなわち政治家,外交官の情報(インテリジェンス)感覚や交渉力を強化し,」という部分が抜けている。原告はこの部分を引用せずに,当然被告佐藤にとっては戦争が視野に入っていると結論づけているが,これは曲解である。」と主張している。 だが,仮に「狭義の外交力,すなわち政治家,外交官の情報(インテリジェンス)感覚や交渉力を強化し,」という部分が入っていたとしても,被告佐藤が「帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」と明言している以上, 被告の「当然佐藤にとっては,北朝鮮の「拉致問題の解決」においても,戦争が視野に入っているということだ」という指摘は,何ら曲解ではない。被告の主張は失当である。 また,被告は,「ここで問題にされているのは北朝鮮が行ったミサイル発射及び核実験であって,それによってごり押しを行う北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに例えているのに,原告はそれとは直接関係のない「拉致問題の解決」と無理矢理結びつけている。」などと主張している。 だが,被告佐藤は,論文「対北朝鮮外交のプランを立てよと命じられたら」(甲40号証)において,以下のように発言している。 「対北朝鮮外交における日本国家の原理原則とは何なのだろうか。筆者は拉致問題の完全解決と思う。拉致問題が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)という国家による日本人の人権に対する侵害であることは論を俟たない。それと同時に,北朝鮮の国家意思に基づいて工作員が主権国家である日本の領域に不法侵入し,日本国民を拉致したという日本国家の主権に対する侵害でもある。日本国家の国権と日本人の人権が侵害された複合的な事案であり,拉致問題の完全解決は日本として譲ることのできない国家としての原理原則問題だ。拉致問題を疎かにするようでは日本国家が内側から崩壊する。逆に現在,日本外務省が北朝鮮に対して毅然たる対応をとらず,戦略的外交を展開して北朝鮮を追い込めていないのは,日本の国家体制が内側から弱体化していることの現れなのかもしれない。」 このように,被告佐藤は,「対北朝鮮外交における日本国家の原理原則」を「拉致問題の完全解決」とした上で,日本外務省に対して「拉致問題」の件で「北朝鮮を追い込めていない」ことを批判しており,かつ,甲40号証の発表日から乙2号証の発表日(2007年6月6日)の間に,被告佐藤が「拉致問題の解決」が果たされたと認識するに至る案件が生じたとは言えないから,被告佐藤は,乙2号証の発表日時点においても,「拉致問題の解決」が実現していないと認識していると解されるべきである。前述のように,被告佐藤が,「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」と明言している以上,原告が,「戦争が視野に入っている」とした問題の対象として,「拉致問題の解決」を挙げていることは,「無理矢理」ではなく,十分な根拠があり,正当である。被告の主張は失当である。 --------------------------------------------------------- 最後の9箇所目(被告準備書面(2)では4番目に挙げられている)として、佐藤側の主張、被告準備書面(2)の該当箇所を紹介する。 --------------------------------------------------------- (4)「論文」129頁下段20行目~130頁上段3行目 原告は、上記の《当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ》との結論を補強するために、続けて、《『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている》と書くが、この『金 曜日』の記事で被告佐藤は、原告の引用箇所に続いて、もし戦争になれば日本を含む周辺国に大変な害が及ぶので、「問題を平和的に解決する算段を最後の最後まで考えることが日本の国益に貢献する」と書いているが、原告はこの部分を引用していない(乙3号証)。 --------------------------------------------------------- この箇所については、佐藤側の主張はこれで全部である。以下は、私の反論(原告準備書面(2))である。 --------------------------------------------------------- (4)「論文」129頁下段20行目~130頁上段3行目 被告は,「原告は,上記の《当然佐藤にとっては,北朝鮮の「拉致問題の解決」においても,戦争が視野に入っているということだ》との結論を補強するために,続けて,《『金曜日』での連載においても,オブラートに包んだ形ではあるが,「北朝鮮に対するカードとして,最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている》と書くが,この『金曜日』の記事で被告佐藤は,原告の引用箇所に続いて,もし戦争になれば日本を含む周辺国に大変な害が及ぶので,「問題を平和的に解決する算段を最後の最後まで考えることが日本の国益に貢献する」と書いているが,原告はこの部分を引用していない(乙3号証)。」などと主張している。 だが,被告佐藤が,《「北朝鮮に対するカードとして,最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている》こと自体は事実であり,その後の部分を引用していないことは「曲解」でもなんでもない。被告の主張は失当である。 --------------------------------------------------------- どうであろうか。上で取り上げた3箇所に関する佐藤の主張が、いかにとってつけたものであるかは明らかだと思う。特に真ん中の8箇所目については、我ながら、このようなつまらない主張によくこれだけ長々と付き合ったものだ、と書き写しながら改めて思った。 ここに挙げた、こうした無内容な主張まで行なって、「曲解している」とする箇所を増やそうと佐藤がしてくること自体が、「人民戦線」云々だけでは「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容」「言論を超えた私個人への攻撃」とする説得力を欠いている、と佐藤が認識していることを示していると思われる。 以上、佐藤が「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書」いたと述べた根拠として挙げてきた、「言っていないこと」「曲解していること」の全ての箇所に対して、反論を行なった。この反論により、佐藤の主張が何らまともな根拠のないものであったこと、また、『週刊新潮』の記事が、私への人身攻撃であること、また、『週刊新潮』の記事が、私の社会的評価を低下させることにより、論文「<佐藤優現象>批判」の信頼性の低下を企図したものであることが明らかにされたと考える。佐藤は私の論文への反論を回避するために、このような「言論封殺」行為を行なったと思われる。 対『週刊新潮』・佐藤優裁判の第6回口頭弁論期日が終わった。東京地裁第708号法廷にて、3月17日10時15分から、約10分間開かれた。
今回は、被告側(岡田宰弁護士・杉本博哉弁護士・安田好弘弁護士)により、原告(私)が第5回に陳述した準備書面への反論がなされた。また、『週刊新潮』の当該記事に関する取材経緯が説明された。また、被告側から、岩波書店労働組合への調査嘱託が申立てられ、私も同意し、裁判所も採用した。これらについては、山のように論じる点があるので、後日詳論する。 多忙でなかなか作業が進まないのだが、近日中に、これまでの裁判の全貌がわかる形で、新サイトを公開する。 なお、次回は、原告による反論等が行なわれる。次回期日は、4月28日10時より、東京地裁第708号法廷で開かれる。 急ぎで書かなければならないテーマが多かったためかなり間隔が空いてしまったが、佐藤優が被告準備書面(2)において、論文「<佐藤優現象>批判」(以下、論文と略)が佐藤の発言を「曲解している」などと主張している件の続きである。続きをお待ち下さっていた読者には、掲載が遅れたことをお詫びする。今回は、この佐藤が挙げている9箇所のうちの5箇所目・6箇所目を紹介しよう(1箇所目、2箇所目、3箇所目、4箇所目については既に述べた)。
ただ、お読みいただければお分かりになると思うが、これまでの4箇所と違い、以下掲載する5~9箇所は、大した論点がない。佐藤側も恐らく「言ってみただけ」というもののようにすら思われる。なるべく読者の関心を引きそうなテーマから掲載するが、むしろここでは佐藤が「曲解している」と主張するその理由のつまらなさを鑑賞していただいた方がよいのかもしれない。 なお、以前報告したように、明日3月17日10時より、東京地裁第708号法廷で第6回口頭弁論が開かれる。恐らく短時間(10数分)で終わってしまうことと早朝ということで、来場をお勧めしにくいが、関心がある方はいらしていただければ幸いである。安田好弘弁護士も見ることができる(笑)。 さて、5箇所目(被告準備書面(2)では8番目に挙げられている)から紹介しよう。佐藤側の主張、被告準備書面(2)の該当箇所を紹介する。 -------------------------------------------------- (8)「論文」150頁註(6) 《なお、『獄中記』では、「北朝鮮人」(一四頁)、「僕は韓国語でなく、朝鮮語を勉強した」(三七八頁)という表現がある。佐藤は、「韓国語とは語彙や敬語の体系が違う「朝鮮語」」(「即興政治論」『東京新聞』二〇〇七年九月一八日)とインタビューで答えているので(恐らく、朝鮮語のカギカッコは記者だろう)、佐藤は本気で「韓国語」と「朝鮮語」を別物としたいのだろう。この規定は、以下のような「国益」上の判断から来ていると思われる。「僕(註・佐藤)は、朝鮮半島が統一されて大韓国ができるシナリオより、北が生き残るほうが日本には良いと思う。統一されて強大になった韓国が日本に友好的になることはあり得ないからね」(く緊急編集部対談VOL.1佐藤優x河合洋一郎〉雑誌『KING』(講談社)ホームページより)。植民地支配・冷戦体制固定化による民族分断への責任を無視する、帝国主義者らしい発言である。》との記述がある。 しかしながら、原告自身が引用している通り、被告佐藤が朝鮮語と韓国語を分けているのは、語彙や敬語の体系が違うという言語学上の理由からである。《朝鮮半島が統一されて大韓国ができるシナリオより、北が生き残るほうが日本には良い》かどうかは、ここでは何の関係もなぐ、原告の単なるこじつけとしか言いようがない。 ------------------------------------------------ この箇所については、佐藤側の主張はこれで全部である。以下は、私の反論(原告準備書面(2))である。 ------------------------------------------------ (8)「論文」150頁註(6) 被告は,原告の「論文」の《なお,『獄中記』では,「北朝鮮人」(一四頁),「僕は韓国語でなく,朝鮮語を勉強した」(三七八頁)という表現がある。佐藤は,「韓国語とは語彙や敬語の体系が違う「朝鮮語」」(「即興政治論」『東京新聞』二〇〇七年九月一八日)とインタビューで答えているので(恐らく,朝鮮語のカギカッコは記者だろう),佐藤は本気で「韓国語」と「朝鮮語」を別物としたいのだろう。この規定は,以下のような「国益」上の判断から来ていると思われる。「僕(註・佐藤)は,朝鮮半島が統一されて大韓国ができるシナリオより,北が生き残るほうが日本には良いと思う。統一されて強大になった韓国が日本に友好的になることはあり得ないからね」(緊急編集部対談VOL.1佐藤優x河合洋一郎〉雑誌『KING』(講談社)ホームページより)。植民地支配・冷戦体制固定化による民族分断への責任を無視する,帝国主義者らしい発言である。》との記述について,「原告自身が引用している通り,被告佐藤が朝鮮語と韓国語を分けているのは,語彙や敬語の体系が違うという言語学上の理由からである。《朝鮮半島が統一されて大韓国ができるシナリオより,北が生き残るほうが日本には良い》かどうかは,ここでは何の関係もなぐ,原告の単なるこじつけとしか言いようがない。」と主張している。 だが,「朝鮮語」と「韓国語」という呼称が,社会通念上,同一言語の呼称上の違いと見なされていることは明白であって,被告佐藤が両者を別の言語とすることを,朝鮮半島の南北分断が日本の国益上は望ましいとする,被告佐藤の政治的見解に起因すると解釈することは,文意解釈上極めて自然であって,「曲解」ではない。ましてや原告は,被告も「原告自身が引用している通り」と認めているように,被告佐藤自身は「語彙や敬語の体系が違うという言語学上の理由から」両者は別だと主張していることを明示しており,また,原告が上記の解釈を述べるにあたっても,「「国益」上の判断から来ていると思われる」と,それが解釈であることを明示している。したがって,この記述が,被告佐藤が「言ってもいないこと」をさも被告佐藤の主張のように言っていることに当たらないことも明白である。被告の主張は失当である。 -------------------------------------------------- 次は、6箇所目(被告準備書面(2)では7番目に挙げられている)として、佐藤側の主張、被告準備書面(2)の該当箇所を紹介する(下線強調は原文)。 -------------------------------------------------- (7)「論文」149頁上段5行目~12行目 《ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。 日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の防衛、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。》との記述がある。 しかしながら、これも曲解である。 被告佐藤は、フジサンケイビジネスアイ「地球を斬る」2007年7月4日「愛国心について」(乙7号証)において、「日本の現状に対して、怒りや嘆きは当然ある。しかし、愛国心とはそれの別の位相から出てくる感情である。かつてイギリスの作家ジョージ・オーウェルが「右であれ左であれわが祖国」と言ったが、筆者もそう思う。一部の有識者からおしかりを受けることを覚悟した上で書くが、仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べており、右派・左派を問わない、愛国心という感情についで述べた箇所であって、自らの政治信条について述べている訳ではない。 ---------------------------------------------------- この箇所については、佐藤側の主張はこれで全部である。以下は、私の反論(原告準備書面(2))である。 ---------------------------------------------------- (7)「論文」149頁上段5行目~12行目 被告は,原告の「論文」の《ところで,佐藤は,「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても,筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。 日本国家,同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で,自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている。佐藤は,リベラル・左派に対して,戦争に反対の立場であっても,戦争が起こってしまったからには,自国の防衛,「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。》との記述について,被告佐藤は,原告の引用元の文章である「フジサンケイビジネスアイ「地球を斬る」2007年7月4日「愛国心について」(乙7号証)」においては,「右派・左派を問わない,愛国心という感情について述べ」ているにすぎないのであって,「自らの政治信条について述べている訳ではない」のであるから,原告の記述は「曲解」であると主張している。 だが,被告佐藤の主張は,日本国家と日本国民が「正しくない」戦争の道に進んで行っている時に,ある人物が,その戦争に反対であるという「正しい」意見を持っていたとしても,「自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択」をとるのはやめて,「日本国家,同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で,自分が「正しい」と考える事柄の実現を図」るべきだ,という意であるから,その主張を,「佐藤は,リベラル・左派に対して,戦争に反対の立場であっても,戦争が起こってしまったからには,自国の防衛,「国益」を前提にして行動せよと要求している」と解釈することは,文意解釈上極めて自然であって,「曲解」ではない。ましてや,原告は,被告佐藤の発言をそのように解釈するにあたって,その基となる被告佐藤の発言を明示しているのであるから,被告佐藤が「言ってもいないこと」をさも被告佐藤の主張のように言っていることに当たらないことは明白である。被告の主張は失当である。 検索結果からみてあまり知られていないように思われるので、最近私の注目しているブログを紹介しておく。
紹介したいのは、hakuainotebook氏がやっておられる、「博愛手帖」というブログである。 http://hakuainotebook.blog38.fc2.com/ 氏は社会主義者のようなので私とは立場は異なるが、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」にも署名してくれている。 特に、最近アップされた二つの記事は大変面白い。最新記事「「あらゆる必要な手段を用いて」行われる便乗商法氏」では、荒このみ『マルコムX――人権への闘い』(岩波新書、2009年)による、オバマはマルコムXから大きな影響を受けているという主張が、荒のオバマへの過剰な思い入れによるものでしかなく、マルコムの主張を「人権」に還元してしまうことがいかに問題の多いものであるかが極めて説得的に論じられている。 また、その前の記事「アリエル・シャロンとワルツを」では、「反戦映画」すら許容する「“表現の自由”が約束された社会」というイスラエルの自己意識が、パレスチナ人虐殺と何の矛盾なく共存していること、また、そのように許容される類の「反戦映画」の内容的問題が、鋭く指摘しされている。 それ自体としても興味深いが、例えば、前者の記事は、「日本のオバマ」たる姜尚中がこのところ自らの立場の正当化のために、「在日一世の記憶」を恣意的に持ち出してくるということを頻繁に行なっていること、後者の記事は、日本の特にリベラル・左派の、中国・朝鮮民主主義人民共和国への「体制の優位性」を誇る姿勢、保守派に簡単に回収される質の社会批判、といった具合に、日本の状況に対しても示唆的である。 それにしても、こうした批評性を持った記事が載っている左派雑誌は一誌もないし、出てくる可能性もなさそうだから、そりゃ左派雑誌なんてカネ出して買わんわな、と思う。 在特会の桜井誠へのインタビュー(しかも桜井に批判的ですらない)掲載など、もうまともに取り上げる気すら起こさせない『金曜日』だが(15年前くらいの、終刊間際の『新雑誌21』に誌面の雰囲気が似てきている)、最近の特徴として一点指摘しておくと、朝鮮学校排除問題をほとんど取り上げていないことが挙げられる。前々号(2月26日売)では皆無、前号(3月5日売)では編集後記で編集部員の一人が若干触れたのみ、今号でようやく取り上げられたが、「金曜アンテナ」の欄でごく短く触れるのみで、それも、「彼ら彼女らの声(注・朝鮮学校生徒)を政府関係者は聞くべきだ。「もっと朝鮮高校のことを知ってほしい。大歓迎します」と笑顔を見せるのだから。 」という末尾からもわかるような、微温的なものである。「人権」の擁護を謳う雑誌が、この問題を取り上げないで一体何を取り上げるというのだろうか。
これは、『金曜日』に限らない、『世界』の最新号(4月号。3月8日売)も同じである。『世界』に至っては、言及すらされていない。月刊誌だから問題が表面化した時点では校了日を迎えていた、と思われるかもしれないが、大田昌秀・佐藤優対談「沖縄は未来をどう生きるか」では、2月24日の沖縄県議会による普天間基地の県外・国外移設を求める意見書可決について、2人でやりとりを行なっている(この意見書可決については、松本剛「沖縄産業復興に尽くしたアメリカ人」(197頁)も言及している)。中井洽拉致問題担当相が朝鮮学校の排除を文科省に要請したことの第一報は2月21日朝であり、それ以降次々と、政権内部で排除論が有力になりつつあることが報じられていた。したがって、もし『世界』がこれを重要な問題だと見なしていれば、例えば「世界の潮」欄(時事ニュースを扱う欄)で取り上げるなど、何らかの措置は可能だったはずである。また、24日以降に書かれたはずの、同号の岡本厚『世界』編集長による「編集後記」にも、朝鮮学校排除問題は言及されていない。要するに、『世界』はこの問題を重要だとは見なしていないから、あえて取り上げるようなことはしなかった、ということである。 私は、2月24日にアップした記事「朝鮮学校排除問題と<佐藤優現象>」で、以下のように書いた。 「「就学支援金」支給対象から朝鮮学校を外そうという動きが、差別的であることは明らかだが、これは、<佐藤優現象>と同質のものであり、またその帰結でもある。そして、リベラル・左派メディアに、仮に朝鮮学校排除に対してそれなりに真っ当な批判が掲載されるとしても、当該メディア全体の枠組みとしては、レイシスト的な、排外主義的なものにならざるを得ないだろう。リベラル・左派メディアのそのようなものへの変質は、既に終わっている。 これは在特会問題とも通じるが、朝鮮学校排除案の成立阻止が最優先であることはもちろんであるが、それとともに、朝鮮学校排除案を成り立たせているような土壌――その象徴が<佐藤優現象>である――自体が問われなければならないだろう。今回の排除案こそが、佐藤が主張していたことの現実化であり、<佐藤優現象>の政治的可視化なのであって、そのような姿勢で今後の展開を見ていく必要があると思う。 」 だが、結局、『世界』や『金曜日』は、「それなりに真っ当な批判」すら(『世界』に至っては、単なる批判すら)掲載しなかったのである。「今回の排除案こそが、佐藤が主張していたことの現実化であり、<佐藤優現象>の政治的可視化」という私の主張を裏書きしてくれているようなものだが、この両誌の実質的沈黙は、この問題が2月21日以来、政治的焦点になっており、朝日・毎日・読売ですら排除に一応は反対している現在、極めて異様に映る。 では、これはなぜなのか。多分それは、この両誌が、日刊ゲンダイと並び、左右を問わず現在のメディアの中で突出して民主党政権を擁護していることと関係があると思う。 まず考えられるのは、民主党政権への風当たりを少しでも弱めるために、実質的な沈黙を選んだ、ということであろう。また、仮にこの問題で排除反対の論陣を張れば、民主党政権が朝鮮学校排除でいくと決まった場合、今後、政権を擁護していくことがやりにくくなってしまうという点もあると思う。 上の推測とも関連するが、もう一つ考えられるのは、小沢一郎ら民主党幹部への遠慮である。今回の排除の背景に、参議院選への効果を狙った小沢の意志が働いていると見るのはそう荒唐無稽でもないだろう。 ところで、今号の『金曜日』で佐藤優は、国民新党の下地幹郎衆議院議員を批判している。また、3月6日発売の『創』4・5月号の連載では、創価学会への擦り寄りぶりをエスカレートさせて、以下のような発言まで行なっている。 「公明党は、宗教政党であるという批判を恐れるべきでない。池田氏が強調する「国家主義というのは、一種の宗教である。誤れる宗教である」という基本線に立って、公明党が一日も早く、民主党連立政権に加わり、権力の内側から民主党のファッショ化を阻止する砦になることが、日本国家の暴走を防ぐ現実的処方箋であると筆者は考える。(2010年2月22日脱稿)」 佐藤の「ファッショ化を阻止」云々は口実だからどうでもよいが、こうした佐藤の発言は、民公連立を念頭に置いているものだと思われる。以下はそれこそ「陰謀論」めくが、これは多分、民主党内あるいは小沢の政治的意志として民公連立の声がかなり強くなりつつあることを佐藤が知っていて、民公連立政権においても存在感を維持するために先んじて自己宣伝をやっている、ということではないかと思う。佐藤が知っているということは、当然、岡本編集長や佐高らも知っているということであろう。 社民党が切られれば、リベラル・左派ジャーナリズムの政権への影響力(といってもしれているが)は大幅に低下するから、リベラル・左派ジャーナリズムは是が非でも民公連立を避けたいだろう。せっかく政権上層部と人脈を築き上げたにもかかわらず、自分たちがここで騒げば、小沢や民主党幹部たちに自分たち左派は切られてしまう、という思いがあるのではないか。したがって、そのためには、小沢ら民主党幹部を窮地に追い込み、不興を買うような真似は絶対にしてはいけない、ということになる。そこから今回の両誌による、朝鮮学校排除問題への実質的な沈黙という事態が生まれたのではないか、と私は推測している。 政府は、4月当初段階では、朝鮮学校を支給対象から排除する方針を固めたと報じられている。右と「左」の争いで、右が勝利したわけだ。私の上述の推測が正しければ、これで、小沢や民主党幹部が社民党との連立解消を企てる危険は遠のいた、と両誌の編集者たちは内心安堵しているのかもしれない。それどころか、排除の方針が確定しさえすれば、「朝鮮学校の排除に憂慮する」などと、「良心派」らしく振る舞えるわけだ。よかったですね! 8.
川瀬氏の発言の検討を続ける。 ③「@mythrim 佐藤氏と一緒に批判されるくらいの大物になったと喜ぶべきでしょうか(笑)?僕は今学校で「朝鮮学校を差別するな」っていう署名集めてるんですけどね・・・。 」 川瀬氏は、「佐藤氏と一緒に批判されるくらいの大物になったと喜ぶべきでしょうか(笑)?」と発言しているが、私は川瀬氏の発言を「典型」としたまでであって、佐藤優と同質の問題を含んでいることを指摘しているが、同列には扱っていない。 また、「僕は今学校で「朝鮮学校を差別するな」っていう署名集めてるんですけどね・・・。 」と川瀬氏は発言しており、これも何とおりもの反論が可能である。 そもそも、川瀬氏がどのような活動を行なっていようが、発言とは何の関係もない。 また、川瀬氏は「今学校で「朝鮮学校を差別するな」っていう署名集めてる」ことを、私の前回記事発表時まで、私が容易に知り得る形で明らかにしていないのであるから、そのような情報なしに発言を評価することは何ら問題がない。 また、川瀬氏が「「朝鮮学校を差別するな」っていう署名集めてる」ことは、上で指摘した、「寛容」論に基づく反対論の社会的効果(悪影響)についてどのように考えるか説明することが、その立場からして、より強く要求されることになるだけの話であって、反論にすらなっていない。そもそも私の文章は、「国益」上の問題、あるいは「寛容」の問題として朝鮮学校排除問題を位置づける論理が、朝鮮学校排除への反対論の主流にならないよう警戒を呼びかけたものであるから、そのような運動を行なっている人々に特に呼びかけていることは明らかであって、この意味からも、川瀬氏がなぜこれが反論となると考えているか謎である。 また、普遍的権利の否定と「朝鮮学校を差別するな」という主張が両立することは、戦前の皇民化政策期をとっても明らかである。この人は本当に朝鮮史研究者なのだろうか? ④「@Marukusu_hakase 僕は逆説的な言葉遣いをしたつもりなんですけどね・・・。そもそも、朝鮮学校いじめは「象徴的暴力」であって、現実の北朝鮮には痛痒も与えないでしょ?そんな「ゲーム」を批判したつもりです。」 「つもり」という言葉が二度使われている点に注目しよう。そのように読解するには途方もない飛躍が必要なのだから、私の「誤読」ではなく、川瀬氏の問題であることを示唆している。それにしても、自身の内面を救い出すことが好きな御仁である。 また、「象徴的暴力」なる用語を使って、何か意味があることを言ったつもりになっているらしいのもイタい。 ⑫「で、僕の上のコメントを見ても、そういうことをおっしゃるわけですね。じゃあ、対話じゃないや。それに、そもそもこれが橋下知事を思いっきり罵っているエントリってことは理解しています?ただ、あなたの僕への批判で「マジョリティの権益の上にあぐらをかいている(意訳)」というのは当たっていると思います。そのことを多少自覚するがゆえに、どう動こうか、とモヤモヤ考えているこちらの事情も少しは分かって欲しい、というのもマジョリティの傲慢さだ、といわれればそれまでですが。」 この「マジョリティの権益の上にあぐらをかいている(意訳)」というのは当たっていると思います。どう動こうか、とモヤモヤ考えているこちらの事情も少しは分かって欲しい」というのは何なのだろうか。これは、「マジョリティの傲慢さ」以前の、川瀬氏個人の問題であって、「モヤモヤ考えているこちらの事情」というのが、まだ結論が出せていないといったことであるならば、社会的な発言などするなよ、というだけの話である。川瀬氏には、評価の対象となるのは発言だけ、という言論人としての常識がなく、内心やら「今までの生き方」やら、驚くほど幼稚な発言が目に付く。甘えるな、としか言いようがあるまい。 9. さらに発言の検討を続けるが、以上の私による川瀬氏への反論について、川瀬氏が回答するかしないかは、もちろん川瀬氏の自由である。 だが、以下の川瀬氏の発言は、私に関する虚偽の記述であって、私の社会的評価を低下せしめるものである。したがって、発言の根拠となる具体的な私の文章を提示した上で、それらの文章からなぜ、川瀬氏の発言のようなことが言えるか、理由を説明することを要求する。川瀬氏には、この要求に答える社会的義務がある。念のために書いておくが、私の文章内で川瀬氏からすれば不当ととられる表現があるかもしれないが、それらはすべて具体的な根拠に基づいた「論評」である(もちろん、川瀬氏がそうではないと主張するならば、具体的に問題となる表現を挙げてもらえれば、根拠を示す)。これに対して、以下の川瀬氏の発言は、具体的な根拠すら挙げない、虚偽に基づいた誹謗中傷である。 ⑧「不寛容な「味方」って厄介だな。原理原則、理想論は重要。でもそれに拘泥して向こう岸にいる「敵」よりも目前の「味方」を攻撃するってのは勘弁してもらいたいね。「倫理的にどれだけ自分が優位か」を味方内で競うゲームばかりに夢中になっている連中とは、デモは一緒にするけど酒は飲めないな(笑)。 」 ⑨「@Marukusu_hakase, @RAHIEM, まさにこういうのを批判したのが内田樹先生なので、僕の批判者が「この内田のエピゴーネンめ」と言ったのは実は正しいのです(笑)。でも「お前は俺が認めるほどピュアじゃない」って言われてもなー。方向性は一緒なのにね。 」 ⑩「@o_tsuka もうちょっと歩み寄れないものですかね。「利敵行為」とか、そういう扇情的な言葉は使いたくないんですけどね。繰り返しますが、社会運動についての僕のモットーは「小異を捨てて大同につく」です。 」 川瀬氏はここで、私について、 A.「原理原則、理想論」に「拘泥して向こう岸にいる「敵」よりも目前の「味方」を攻撃する」人物 B.「「倫理的にどれだけ自分が優位か」を味方内で競うゲームばかりに夢中になっている連中」の一人 C.また、「お前は俺が認めるほどピュアじゃない」と川瀬氏を批判している人物 として描いている。これらの記述は、川瀬氏が仮にいかに弁明しようとも、それこそ「文脈上」、私を指したものとして読者が受け取ることは明らかなものであり、そのように扱うべき記述である(判例上も、ある名誉毀損表現について、出版社や著者が「この表現は貴方を指しているのではない」と弁明したところで、「一般読者の普通の注意と読み方」からすればその人物を指していると思われるのであれば、名誉毀損は成立する)。 私が川瀬氏の発言を批判したゆえんは、そもそも原文で明らかだと思うのだが、これまでの記述で改めて説明したとおりである。そして、上記A~Cのような行為は一切行なってない。川瀬氏の記述は、私の言論活動を歪曲して描き、私の言論内容への読者の信頼性を低下させようとする極めて悪質なものである。したがって、川瀬氏が、私について、A~Cのように判断するに至った根拠を公的に明らかにするよう要求する。 また、「利敵行為」とは、私の行為の何を指しているのかも具体的に明らかにされたい。 ⑤「@NaokiKashio 批判はいいんです。こうしてウェブ上に発言しているんだから、それなりの「覚悟」はありますけど、思いこみや誤読だと、消耗しちゃうなあ、という愚痴です。 」 ⑥「@mythrim そう、彼は結構いい事も言っていると思うんですが、ブログから判断するに、思いこみがどうも激しいみたいですね。僕はこういう運動に関しては「小異を捨てて大同につく」ことを心がけていますので、「朝鮮学校差別反対」のところでは連帯すると思います。彼が嫌がろうとも。 」 川瀬氏は、私が川瀬氏の発言を取り上げた文章について、「思いこみや誤読」だと発言している。そうではないことは既に説明した。 これに加えて川瀬氏は、「ブログから判断するに、思いこみがどうも激しいみたい」などと発言している。自分の発言の責任を私の「思いこみや誤読」にすり替えておいて、私が「思いこみ」が激しい人間だと中傷することで、自らを正当化しようとしている。ここで川瀬氏が「思いこみ」という言葉を、私が、自説に固執するあまり、現実とは懸け離れた主張を展開している、という意味で用いていることは明らかである。この発言も完全な虚偽であって、私の言論活動を歪曲して描き、私の言論内容への読者の信頼性を低下させようとする極めて悪質なものである。 したがって、川瀬氏が、「ブログから判断するに、思いこみがどうも激しいみたい」なる発言の根拠となる、私のブログにおける具体的な記述例を挙げた上で、なぜその記述例が現実とは懸け離れた「思いこみ」であるかを公的に説明することを要求する。もちろん、その際の記述例は、単なる勘違いなどの軽微なものではなく、私について、「思いこみがどうも激しいみたい」という一般化が可能な程度のものでなければならない。 10. 川瀬氏は、自著に関する小倉紀蔵による書評について、「大変好意的な書評をしていただき、感謝の言葉もありません。ありがとうございました。」などと書いているから、この書評の内容は、川瀬氏の著書の言わんとすることから外れていない、と見てよいだろう。私は川瀬氏の論文や著書を読んでいないし、積極的に読む必要も感じないので、この書評をその内容紹介として話を進める。 小倉によれば、川瀬氏はこう主張しているとのことである。「支配者の言説としては〈凡庸〉ともいえるほど典型的な高橋の植民地主義的規定に、朝鮮人は同意して自己改造したり逆に反発したりするが、反発する朝鮮人が「朝鮮独自のものがある」というときにも、支配者の論理に呼応する声なのだから、両者は「共犯」関係にあるのだ。」 この手の主張は植民地研究では陳腐化した言説である。「両者は「共犯」関係にある」ことをわざわざ言いたがる姿勢は、「だからどうしたの?」というだけの話だ。「両者は「共犯」関係にある」などと言って何か意味があるように思える主張は、「民族主義というのは、フィクションであって、本来的なものではない。だから、対抗の機軸として、民族主義を持ち出すのは無意味」「民族主義それ自体が、フィクションであって、それ自体が排外主義の元凶」といった主張に結びつきやすい(念のために言うが、川瀬氏がこう言っているわけではない)。こうした主張はよく見かけるが、これこそが、国際人権A・B規約の第1条でもそれぞれ規定されている、民族の権利を否定する排外主義である。 以前にも指摘したが、日本のリベラル・左派(特にアカデミズムのそれ)は、レイシズムや排外主義というものは、無知な大衆や「民族主義者」や右派がウィルスのように感染するもの、もしくは、そうした人々が宗教のように信仰しているものと捉えているように見える。でも私たちは、理性や、民族主義は社会的に構築されたものという教養があるから、レイシズムや排外主義に感染しませんよ、と。そうではなくて、民族の権利を否定する行為・言説こそがレイシズム・排外主義なのであって、発話者が主観的に「良心的」であることは、何の関係もない。日本のアカデミズムのリベラル・左派が、話が分かり合える仲間以外の多くの人間を不愉快にさせるのは、自分たち(だけ)は「民族主義」や「ナショナリズム」のゲームから逃れられている、「良心的」な人間だ、と言いたげな点にある。これは、他の欧米諸国も似たりよったりだと思う(韓国も最近はこの傾向がある)。欧米の人種主義関係の翻訳書の大半がつまらないのは、人種主義をウィルスか何かと捉えている点にある。 前置きが長くなったが、今回川瀬氏の主張を検討して思ったのは、日本で90年代以降流行した国民国家論の本質は、川瀬氏によってよく引き継がれているのではないか、ということである。日本では、国民国家論は、主としてリベラル・左派の知識人によって受容されたために、何か左派的なものとして流通しているが、日本の文脈で考えれば、結果的にはそれは保守的なものとして機能したのではないか、と思う。1980年代後半頃から、日本の侵略と植民地支配の加害責任を追及する声が日本の周辺諸国で強まり、それにまともに向き合って日本国内でも「日本国民としての責任」を果たそうという声が一部で広がった(念のために言うが、加藤典洋の『敗戦後論』などは、「加害責任を追求する声」にまともに向きあったものではないから、これには含まれない)。高橋哲哉の『戦後責任論』など、その成果も一定存在する。だが、国民国家論は、リベラル・左派論壇や戦後補償関連の市民運動圏内で流行したがゆえに、萌芽的に市民レベルで現れた「日本国民としての責任」論を結果的に解体し、周辺諸国からの批判は「ナショナリズム」として否定的に見る傾向を、結果としてはもたらす機能を果たしたと思う(もちろんそれが唯一の理由ではない)。 川瀬氏が内田樹に私淑しているというのは、左派からみれば、「おかしい」ということになるだろう。だが、むしろ、民族主義批判の植民地研究者は、内田のようなリベラル・ナショナリストと親和的なのではないか、というのが最近の私の考えである。実際に、リベラル・左派ジャーナリズムの論調が、<佐藤優現象>という形でリベラル・ナショナリズム化している一方でも、ポストコロニアリズム系の左派はそれと共存している。戦前と戦後の連続性を批判し、日本国家の過去清算を要求するような人々だけが、リベラル・左派ジャーナリズムから消えていっている。 川瀬氏の「知り合い」らしい、與那覇潤の新刊『翻訳の政治学』を読んで思ったのだが、このところどうもポストコロニアリズムの右旋回が定着化しきったようである(與那覇は自らをポストコロニアリズム系として括られることを否定するだろうが、広義にはそうである)。與那覇の本においては、極めて陳腐な形でリベラル・ナショナリズムとポストコロニアリズムが融合され、恐らく無自覚なまま保守イデオロギーとして打ち出されている。 その意味で、川瀬氏がリベラル・ナショナリズム的な「寛容」論と極めて強い親和性を持っているのは、その意味では不思議でもなんでもない。また、川瀬氏による私への反論が露呈させている、責任をとることの回避や「立ち位置」調整、「内面」がどうであるかを政治的に意味あるものとする姿勢は、ポストコロニアリズムの特徴である。その意味で、川瀬氏の問題は、90年代以降、日本のアカデミズムや市民運動圏、左派ジャーナリズムを席巻した、国民国家論やポストコロニアリズムについて考えるよい材料になると思う。川瀬氏の反論を期待する次第である。もちろん、その私の「期待」とは別に、「9」で述べた私の要求に、川瀬氏は答える義務がある。 6.
以上で、川瀬氏の発言に関する総論を終えることにする。では、以下、川瀬氏の発言を順次検討していこう。 ①「やっぱ、twitterでの発言は、文脈(今までの生き方も含む)と切り離されて一人歩きして解釈される危険性があるなあ、と実感。いや、数日前の発言を批判されたんですよ。俺からすれば誤読だけど。」 ②「@yamaguchiM いやあ、敢えて「国益」的な立場だったとしても、という意味なんですけどねえ。普遍的人権と思ってるに決まってるっつーの(笑)。リアルポリティックスとか言うなら、それくらいの「外交手腕」を見せろよ、というつもりだったんですけどね。 」 川瀬氏はここで「やっぱ、twitterでの発言は、文脈(今までの生き方も含む)と切り離されて一人歩きして解釈される危険性があるなあ、と実感。」と発言している。ということは当然、川瀬氏は、今回の私の文章を、川瀬氏の発言を「文脈(今までの生き方も含む)と切り離」して「一人歩きして解釈さ」れたものと捉えているということになる。 だが、川瀬氏がここで言う「文脈」の意味が、私にはさっぱり分からない。私が前回の記事でとりあげた川瀬氏の発言は、2月25日午後3時1分付のものである。そして、その前後において、twitter上だけでなく川瀬氏のブログにおいても、川瀬氏は今回の朝鮮学校排除問題についてこれ以外に発言しているのは、私が前回記事を発表した3月4日時点では、3月3日の橋下発言への川瀬氏の苦言だけである。この苦言と2月25日の発言だけで、いかなる意味において「文脈」が構成されうるのか謎である。 私が言っているのは極めて単純な話であって、自分の発言の責任をとれ、ということだけだ。川瀬氏は、まともに反論すればよいだけの話にもかかわらず、ありもしない「文脈」を持ち出して、「誤読」だ、などと発言の責任を回避しているにすぎない。どこまで破廉恥な人物なのだろうか。 また、川瀬氏は、「普遍的人権と思ってるに決まってるっつーの(笑)。」などと言って、反論したつもりになっているようだが、前述のように、川瀬氏の「内心」はどちらでもよいのである。そして、「 いやあ、敢えて「国益」的な立場だったとしても、という意味なんですけどねえ」という論理こそ、私が批判した当のものであるから、「誤読」であるはずもない。意図的な歪曲または基礎的な文章読解力の欠如である。 また、言うまでもないが、朝鮮学校排除問題を普遍的人権の問題であると「内心」思うことと、政治的見解としては「寛容」論を表明することとは両立する。したがって、「普遍的人権と思ってる」ことは、そもそも反論にすらなっていない。 また、川瀬氏は、自らの「内心」をここで説明している。これは、自らの「内心」は違う、という川瀬氏の主張に則ったとしても(言うまでもないが、川瀬氏の「内心」が別途仮に表明されていたとしても、私は「寛容」論という論理を批判しているのであるから、私の批判の論旨は影響を受けない)、私がとりあげた文章においては説明不足だった、ということを認めたことを意味する。だから、川瀬氏の、自分の「内心」は別、という反論にならない反論を仮に認めるとしても、問題は私の「誤読」ではなく、川瀬氏の説明不足および文章表現の誤りが問題だった、ということになる。川瀬氏は、自分の過誤をよそに、私の「誤読」を主張しているのである。これで教育者の資格があるのだろうか。 ここで、「文脈(今までの生き方も含む)」という発言を見よう。前述のように、川瀬氏の前後の発言においては、それらしき「文脈」はないから、川瀬氏は恐らく、このカッコ内の「(今までの生き方も含む)」に力点を置いて、「文脈」と主張しているのだと思われる。だが、前述のように、この「(今までの生き方も含む)」というのは、より珍妙な主張である。川瀬氏の「今までの生き方」をどこまで理解してあげれば、私は批判する権利が得られるのだろうか?一般的に、ある人物のある発言を批判する際に、「今までの生き方」を知っておかなければならないはずがない。そもそも私は川瀬氏に「今までの生き方」について多くを知らないが、だからといって発言を批判する権利がなくなるはずもない。私たちは<本当の川瀬さん>を知らない限り、川瀬氏を批判できないのだろうか。私たちは川瀬氏の母親や恋人ではない。 7. また、川瀬氏の「今までの生き方」も含めて「文脈」だと考えれば、川瀬氏が自分自身の主張ではないとする「「こっちから寛容さを示して道徳的な優位性を保つ」姿勢は、むしろ、川瀬氏自身の主張として理解した方がよいように思われる。 そのことを考える上で、まず、川瀬氏が私淑していることを再三表明している、内田樹の見解を見てみよう。発言⑨からも垣間見れるが、川瀬氏は自らのブログで、内田樹を「内田樹先生」と敬称をつけて呼び、たびたび内田樹の発言・著作に対して極めて好意的に言及している。 http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/archive?word=%C6%E2%C5%C4%BC%F9 以下、二つ目と三つ目の引用は長くなってしまったが、このポストコロニアル系の朝鮮史研究者が内田に私淑する理由を考える上で、なかなか示唆的なものだと思うので引用した。ご寛恕いただきたい(強調は引用者)。 「私はウェブサイトを開いて三年近くになりますが、そのあいだに掲示板にきびしい批判の言葉が書き込まれたことはほとんどありません。その数少ない例外が、在日コリアンの問題に言及したときです(たいしたことを書いたわけではありません。「在日外国人が、そのナショナル・アイデンティティに固執するかぎり、共生への道は遠いだろう」という持説を述べたのです)。」(内田樹「在日と共生」、内田樹・鈴木晶『大人は愉しい』ちくま文庫、2007年8月、212頁) 「「強い敵」とは誰だって共存せざるをえない。潰したくても潰せないから「強い」と言われるわけで、とりあえず共存するか従属する以外にこちらの選択肢はない。 しかし、「弱い敵」については、その生殺与奪の権は私たちの側に属する。私たちはそれを排除することも迫害することも差別することもできる。 しかし、それを自制し、「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことをオルテガは市民の基本的な構えであると書いているのである。 私はこのような考え方が今の私たちの社会にもっとも欠けているものではないかと思う。 私が「愛国心」という言葉を間くときに、いつも考えてしまうのは、「私は愛国者だ」と自称する人々にはオルテガ的な意味での「市民」の資格があるのだろうか、ということである。 私たちの社会には自らの「愛国心」をことさらに誇り、「国旗を掲げろ、国歌を歌え、皇室を敬愛しろ」などとまわりの人々にも愛国の身振りを強要する人々がいる。しかし、そのときの「国」とは何のことなのだろう? 彼らはことあるごとに「日本の国益」について語るが、そのときの「国益」というのは誰の利益のことなのだろう? 日本の「国益」を論じるときに、彼らは「自分たちの意見に反対する人間」を「日本人」にカウントしない。自説に反対する人は簡単に「非国民」と切り捨ててしまう。彼らにとっては、「自分に賛成する人間」だけが「日本国民」で、彼らに反対する人間はその利益を守るベき「日本国民」に含まれていない。(中略) 「国益」とか「公益」を規定することが困難なのは、自分に反対する人、敵対する人であっても、それが同一の集団のメンバーであるかぎり、その人たちの利益も代表しなければならないという義務を私たちが負っているからである。反対者や敵対者を含めて集団を代表するということ、それが「公人」の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた「自分の支持者たちだけ」を代表する人間は「公人」ではなく、どれほど規模の大きな集団を率いていても「私人」にすぎない。 自分の意見に反対する人間、自分と政治的立場が違う人間、自分の利益を損なう人間であっても、それが「同じ日本社会」の構成員であるかぎり、その人は「同胞」であり、その権利を守り、その人の利害を代表することが私の仕事であると言い切れる人間だけがその語の厳密な意味における「公人」、すなわち「市民」であるとオルテガは考えており、私はその考えを支持する。(中略) しかし、すべての「他者」がフレンドリーなわけではない。 私たちの「同胞」である「他者」の中には、「私の意見に反対する人間、私と政治的立場が違う人間、私の利益を損なう人間、私の自己実現を阻む人間」が含まれている。 「同胞」とは、自分と政治的意見を同じくする人間だけでなく、また「私」の自己中心性を審問し、私を倫理的に高め、私のコミュニケーション感度を改善してくれる教化的な「他者」ばかりでなく、私たちに何の「善きこと」も贈ってくれないばかりか、むしろことあるごとに私たちの生活の邪魔をする「不快な隣人たち」をも含んでいる。 「不快な隣人たち」。それが「弱い敵」という言葉にオルテガが託した具体的な意味だ。 そのような「不快な隣人たち」と共生し、その利益を配慮し、その権利を擁護すること、それが「市民」の条件であるとオルテガは言っているのである。 「私人」としては不愉快でも、「市民」としてはやらなければならないことがある。その矛盾に耐えることが「公私の別」をわきまえるということである。 保守派であれ、多民族共生派であれ、「正しさ」を主張する人々に共通しているのは、「不快な隣人」を勘定に入れたがらないということである。 彼らはいずれも「正義の執行」を本質的に「快適なもの」として構想している。(中略) だが、この二種類の人々はいったいいかなる根拠があって、「正しい」ことの実践はそれ自体が「快適」であり、「正しいこと」の成就は「快適な社会の実現」であると信じていられるのであろう。 オルテガが暗に言っているのは、「市民として正しくふるまう」ということは、ほとんどの場合、「不快」に耐えることだ、ということである。 法規を守り、良俗美風に服し、私利の追求を自制し、欲望の実現を抑制するのが市民としての「正しいふるまい」である。そして、その「我慢」の最たるものが「弱い敵」との共生なのである。 どう考えたって、それが愉快な経験であるはずがない。 それは私自身に例えて言えば、靖国神社に額ずく人々の心情を配慮し、それと同時に、金正日に忠誠心を抱いている在日朝鮮人の権利も尊重しないとまずいわな、というような面倒な気配り仕事を意味している。 「私人としての私」にとって、彼らはいずれも「不快な隣人」である。しかし、残念ながら、彼らはまぎれもなく私の「同胞」である。それゆえ、「市民としての私」は彼らのイデオロギー的な歪みを含めてその心情を尊重し、彼らの政治的誤りを含めて、その政治的自由を保障しなければならない。オルテガが私たちに求めているのは、「そういうこと」である。」(内田樹『子どもは判ってくれない』文春文庫、22~27頁) 「 尹氏(注・尹健次)はだから日本が過去の植民地支配の犯罪性を「反省」しないかぎり、「北朝鮮の現在の政治体制の犯罪性」を糾弾する資格は日本にないと考える。私はこの論法によって日本国民を説得することはむずかしいだろうと思う。それは、同罪刑法的思考の根本的矛盾に尹氏がおそらく気づいていないからである。 「殴られたら、殴り返す」というルールは、それが人間同士の殴り合いの場面に適用されるならば、「痛み分けがなされた」という「痛みの相称性」の実感をもたらすことができる。しかし、これは「時間」というものを関与させていない場合にだけ成立するある種の「空論」である。 国際政治の場合には、「殴る」行為と「殴り返す」行為のあいだにしばしば何十年という長い時間差が介在する。抗争の当事者世代が死に絶えたあとも、まだ「殴り返し」が果たされないということも起こる。その場合、被害者の側では「殴られた痛み」の経験は執拗に語り継がれるが、「殴ったL加害経験はふつう次世代には語り伝えられない。 すると、一定時間が経過したのちには、被害者の側のリアリティと、加害者の側のリアリティのあいだに有意な差が生じることになる。被害者側に「私たちには殴り返す権利がある」と言われても、加害者側に「加害の実感」がないということが起こるのである。 現在の日本人のほとんどは直接的に植民地支配に関与したこともないし、アジア人民を殺傷した経験も迫害した経験もない。その私たちが「植民地支配を今ここで清算せよ」と言われても、それを心理的に受け容れることはむずかしい。そのむずかしさをクリアーして、私たちに「加害者意識」を徹底させるためには一つの論理的な架橋を行わないといけない。 それは、「国民国家は永遠不滅である」というイデオロギーを介入させることである。 つまり、どれほどの歳月が経っても、加害者世代が全員死に絶えても、日本国民のナショナル・アイデンティティは揺るぎないものであり、その出来事から一世紀経とうと十世紀経とうと「日本人は未来永劫に日本人であらねばならない」という国民幻想を賦活することなしには、「同罪刑法」を適用できる場は担保しえないのである。(中略) 同罪刑法的な「過去の清算」理論を述べる人たちは、いわば無時間的なモデルのうえで国際関係を構想している。だから、その主張そのものが当事者両国の国民国家幻想の「永続化・恒久化」という「時間的現象」を呼び寄せてしまっているという事実について十分な自覚がないのである。 誤解してほしくないが、「国民国家の犯した歴史的犯罪についての謝罪や反省を求めるべきではない」というようなことを私は述べているのではない。そのようなモラルハザードは国民国家幻想の永続化よりいっそう有害である。 私が言いたいのは、ほんとうに実質的な「過去の清算」を果たしたいと望むならば、被害者も加害者も、同罪刑法的モデルに基づいて問題を考える習慣をそろそろ廃すべきではないか、ということである。 私たちとアジアの人民のあいだに「時間」というファクターを含めた友愛と連帯の関係を構築するためにはどうすればよいか。問題はそのように立て直されるべきではないだろうか。 そのためには、かつてわが国民国家が犯した国家的犯罪の謝罪と清算は、そのようなエゴサントリックな国民国家幻想を私たち日本人自身が空洞化・無害化し、より開放的でより寛容な共同体を未来志向的に形成してゆくことそのものを通じて果たされる、という考え方をとることが必要であると私は考えている。それは、賠償請求や公的謝罪は「する必要がない」という意味ではない。しかし、賠償請求や公式謝罪が「同罪刑法」のロジックの枠内で論じられているかぎり、その議論は必ずや国民国家とナショナリズムをいっそう強化し、硬直化させる危険な反作用をもたらすことになるだろうと申し上げているのである。 論理的には「過去の清算」「痛みと屈辱のトレードオフ」こそが「正義」である。しかし、歴史が教えるように、これまでほとんどすべての「加害者」は、これは「殴り返し」であるという言い訳によっておのれのふるう加害的暴力を正当化してきた。日本のアジア侵略は主観的には「生命線の死守」として遂行されたし、太平洋戦争は「ABCD包囲網」への反攻であると正当化されていた。 あらゆる「加害の行動」はその前史として「被害の経験」を有しており、そのトレードオフとして発動する。そして、私の知るかぎり、同罪刑法のルールを適用しながら、「加害被害の因果関係をこれ以上以前には遡及しない」ということについて、関係者全員を合意させることに成功した政治家はこれまで存在しない(その端的な例が中東紛争である)。 「過去の清算」を原理とする「正義」は効果的に「正義」を実現することができない。これは私たちが歴史的経験から学んだ厳然たる事実である。 そのうえで私たちは、このまま同罪刑法的思考にこだわり、「過去の清算」「痛みと屈辱のトレードオフ」の成就を求め続けるか、それとも、このロジックからの転換をはかるかについて熟慮すべきときに来ていると私は思う。私は、同罪刑法的思考はもう限界に来ていると考えている。繰り返し言うように、それが「正しくない」からではなく、「実効的でない」という理由からである。 アジア人民との連帯と共生を志向する国民的合意の形成こそを私たちの国民的目的に設定すべきであり、そのプロセスで「戦争責任戦後責任の引き受け」は「負債の清算」というかたちではなく、「よりよい関係の構築」というかたちで果たされるだろう。そのような未来志向的な様態に切り替えるほかに、同罪刑法的無時間モデルの行きづまりを超克する方途はない。私はそう考える。」(前掲書、244~248頁) どうであろうか。私には、川瀬氏の元の発言、「朝鮮学校だけ除外、こういうのを「ケツの穴が小さい」というんだよ。こっちから寛容さを示して道徳的な優位性を保つって判断くらいできないのかね、情けねえ。 」という発言は、内田の上記の見解に極めて親和的と思われる。内田の主張においては、「植民地支配の過去清算問題はどうなるのだろうか」という疑問は、「同罪刑法的モデル」なる方法の放棄と「未来志向」の提言として、クリアされている。「寛容な共同体」たる日本国家が、北朝鮮に対して「道徳的な優位性」を継続すべきという立場は、内田の論理を今回の朝鮮学校排除問題に適用すればそのようになるもの、とすら言えるかもしれない。 なお、内田の主張は、一応、在日朝鮮人の権利の尊重は謳っているものの、民族教育権等の普遍的権利の擁護、という論理構成ではない。「金正日に忠誠心を抱いている在日朝鮮人の権利」が、「靖国神社に額ずく人々の心情を配慮」することと同列に論じられていることがそれを示唆しており、また、在日朝鮮人が「そのナショナル・アイデンティティに固執するかぎり、共生への道は遠いだろう」とすら発言している。内田の主張は、在日朝鮮人が「「同じ日本社会」の構成員」であるかぎり、その人は「同胞」」であるがゆえに、権利が守られねばならない、という論理構成になっている。逆に言えば、これは、「「同じ日本社会」の構成員」たる「同胞」という社会的(法的ではない。内田は外国人一般と、在日朝鮮人を分けている)基準に合致しなければ、権利の尊重の対象には基本的にならない、と言うことでもある。 内田の主張の論理(これと相反する私の主張は「イデオロギーの終焉(中)」参照)は、「左」「右」を問わず、朝鮮学校排除問題に関する現在の主流メディアの言説を支えているものである。kscykscy氏が鋭く指摘しているように、朝日新聞は朝鮮学校の教育「課程」にとどまらず教育「内容」にまで踏み込んで、教育「内容」の精査の必要性を自明視する言説を醸成させている。朝日は、朝鮮学校が日本人の「同胞」たる在日朝鮮人が通うものとしてふさわしいことを示そうとしているわけである。橋下知事が提示した「同胞」の基準は、朝鮮総連と結びつきを持たないことだ。要するに、朝日から橋下までの違いというのは「同胞」として認めるべきハードルの高低に過ぎない。それならば、多くの大衆は、朝日よりもむしろ橋下の「同胞」の基準を支持するだろう。 また、川瀬氏は、自身のtwitterの今年1月26日付の発言で、以下のように述べている。 「別に中島岳志さんの真似するわけないけど、もうちょっと「右翼」という思想をちゃんと考えようよ。僕の考える「ちゃんとした右翼」の見分け方は簡単。それは、中国人、韓国人、台湾人の親友がいること。今朝の朝日新聞の中曽根元首相のインタビュー見て、ますますそう思ったぜ。」 この定義からすれば、韓国や台湾の右派と大変交流が深い中井洽国家公安委員長や産経の関係者たち、その他、今回の高校無償化問題で精力的に朝鮮学校の排除を主張している多くの右派たちは、「ちゃんとした右翼」になる。だとすれば、普遍的権利としての在日朝鮮人、外国人の教育権など視野にすらない、中井や産経その他の主張も、レイシストたちによる論外の主張ではなく、「ちゃんとした右翼」による発言ということになるから、「普遍的権利」論よりも、「寛容」論の方が親和的である。 また、川瀬氏は、自身のブログの2008年12月13日付記事のコメント欄で、私が以前批判した、東浩紀による在日朝鮮人への差別容認論について、「端的に東君が愚かだったな、とは思っています(歴史問題や在日問題に、なぜああ脇の甘い発言をするのか、僕には全く理解の外です)」とはしつつも、「東君にしても、大屋さんにしても、僕はその頭脳を尊敬していますが、彼らにも苦手な分野がある、というシンプルな事実があるだけだと思っています(二人とも、そこで地雷を踏んだわけです)。」などと片付けている。ここからも、川瀬氏が、在日朝鮮人への人権侵害を恒常的に容認しうる発言について、それほど深刻なものと受け止めていないことは明らかである。 以上より、川瀬氏が主張するように、「今までの生き方」も含めて「文脈」と考えるべきという前提をとるならば、川瀬氏が自分自身の主張ではないとする「「こっちから寛容さを示して道徳的な優位性を保つ」姿勢は、むしろ川瀬氏自身の主張として理解した方が説得力があると思われる。したがって、「4」で述べたように、私の元の文章は川瀬氏が<本心では>どのような見解を持とうが無関係なものだが、川瀬氏が言い張ろうとしているように、仮に私の文章が川瀬氏の<本心>を問題にしていたものであったとしても、この時点で川瀬氏が「普遍的権利」論を主張しておらず、また、以上のようにそのように主張する十分な根拠があるから、何ら「誤読」ではない。 そして、「こっちから寛容さを示して道徳的な優位性を保つ」姿勢に対して、川瀬氏が少なくとも肯定的に評価していることは元の文章からも明らかであるが、以上で示した川瀬氏の公開されている記述は、川瀬氏が「こっちから寛容さを示して道徳的な優位性を保つ」姿勢について、自らの立場または大きな共感を持つ立場と見なしていることの根拠たりうるものであり、川瀬氏の発言に関する私の記述の正しさを裏付けるものである。したがって、私の記述は「誤読」であるはずもなく、問題は一に川瀬氏にある。 最低限、川瀬氏は、私の指摘を「誤読」だと主張する根拠となる、「文脈」とはどのようなものか、また、川瀬氏の発言を批判する際に川瀬氏の「今までの生き方」を私が知っておかなければならない理由は何か、また、今回の件で、上記「文脈」を構成する川瀬氏の「今までの生き方」とは何かを示すべきである。もちろん、そこで提示されるはずの「今までの生き方」は、私が上で挙げた川瀬氏の「今までの生き方」が有する「寛容」論への親和性を凌駕するほどのものでなければなるまい。 4.
では、以下、川瀬氏の反論を検討していこう。 そもそも、この件に関する論点は、実は単純なはずである。川瀬氏が(後に示すように)肯定的に評価する「こっちから寛容さを示して道徳的な優位性を保つ」姿勢について、私は、二つの問題点を指摘した。 一つ目は、「寛容」論という論理の問題性である。「朝鮮学校排除問題は、在日朝鮮人、外国人の教育権及び人種差別禁止という普遍的権利の問題」であって、「「国益」上の問題、あるいは「寛容」の問題として朝鮮学校排除問題を位置づけること」は、それが反対論の主流になれば、危険な結果をもたらしかねない点である。「北朝鮮と関係する朝鮮学校以外の外国人学校には「寛容」だが、朝鮮学校は「寛容」の対象外、とする人々は数多く存在するわけであるから、この種の主張はそうした人々に簡単に否定されるだろう」し、また、「マジョリティの恣意的な「寛容」の程度によって在日朝鮮人、外国人の教育権が左右されるということならば、情勢次第で簡単に在日朝鮮人、外国人の教育権は否定されることになる」からである。 二つ目は、「道徳的な優位性」という主張の問題性である。私はこれに対し、「なぜ「寛容さ」を示せば「道徳的な優位性を保つ」ことになるのかは不明」、「植民地支配の過去清算問題はどうなるのだろうか」と述べている。 したがって、川瀬氏が本来行なうべき反論は、一つ目の論点に対して、「寛容」論が朝鮮学校排除反対論の主流になったとしても、私が憂慮するような事態が生じるはずがないことを示すこと、または、在日朝鮮人、外国人は、マジョリティによる「寛容」論を是認すべきと説得的に主張することである。後者については、例えば、「国民国家においては、外国人の権利は国民のそれに対して制限されるべきであるのだから、「普遍的権利」などというものは在日朝鮮人を含めた外国人の主張は考慮されなくともよい。外国人の権利は、マジョリティ側(国家)の裁量次第の不安定なものであることは当然であって、マジョリティの「寛容」に依拠する以外に、外国人の権利の実現はあり得ない」という前提に立ったものとなろう。 また、二つ目の論点に対して本来行なうべき反論は、例えば、「「植民地支配の過去清算問題」なるものは、日朝平壌宣言で解決済みであるのだから、問題になりえない。したがって、問題は、両国の体制の優位性に還元されるのであって、国民を恐怖と抑圧の下に置く北朝鮮の政治体制に対して、日本国家が外国人、特に、在日朝鮮人に対してすら高校実質の無償化を認めれば、以前から継続していた、北朝鮮への「道徳的な優位性」をさらに継続させることができることは自明である」といった形のものがありうるだろう。 上記の反論例は、あくまで仮定であるが、論点自体はこの二つのはずである。ところが、川瀬氏のとった行動は実に奇妙であって、一つ目の論点については、金の「誤読」かつ「思いこみ」あり、自分はそうは思っていないなどと主張し、二つ目の論点については何ら言及していないのである。 一つ目の論点に関する川瀬氏の見解を見てみよう。 「いやあ、敢えて「国益」的な立場だったとしても、という意味なんですけどねえ。普遍的人権と思ってるに決まってるっつーの(笑)。リアルポリティックスとか言うなら、それくらいの「外交手腕」を見せろよ、というつもりだったんですけどね。 」(②) 「要するに、僕が府知事や大臣だったら、内心はどうあれ(ここ重要)、寛容な態度を取って、「向こう」に好き放題言わせないくらいのずるさは発揮するのにな、ということです。本心からでなくてもそういう態度は結局朝鮮学校の生徒の利益になるだろ、ということですよ。」(⑪) 川瀬氏は②で、自分自身は「寛容」論の立場に立っていないと主張している。だが、私の元の文章、「川瀬貴也の以下の発言などがその典型である」、「こうした「国益」論的な枠組みに基づいた「寛容」の論理--川瀬のブログによれば川瀬が大ファンらしい、内田樹がまさにこれである--は、今のところそれほど目立っていないから放置しておいてよいとしても、リベラル・左派メディアがいかにも好みそうな論理であるため、反対論の主流にならないよう注意しておく必要がある。」といった一節からも明らかなように、私は別に川瀬氏が<本心では>どのような見解を持っているか、など問題にしていないのである。川瀬氏が肯定的に評価している「寛容」論という「論理」を問題にしているのであって(後述するように、私の元の文章が、川瀬氏自身が本心からこのような見解を持っている、と見なしているものだとしても、何ら問題はない)、川瀬氏が<本心では>どのような見解を持とうが行論には何の関係もない。しかも、後述するように、私がとりあげた発言の前後で川瀬氏は「普遍的権利」またはそれに該当する発言を一切行なっていないのであるから、何をかいわんやである。 そして、⑪で、「寛容」論の姿勢を肯定的に評価している。したがって、私の元の文章は「誤読」でもなんでもなく、川瀬氏が肯定的に評価する「寛容」論への批判であるのだから、一つ目の論点に対して川瀬氏が肯定的に評価するゆえんを説明すればよいだけの話である。そのような反論の責任を「誤読」だと言い張ることによって回避して、あたかも自分は第三者であるかのように振る舞っているのが奇妙なのである。 この川瀬氏の態度は、冒頭で指摘した、川瀬氏の反論が私や読者一般に向けてなされた形のものではないことと関連しているように思われる。両方とも、発言の社会的責任をとることを(できる限り)回避しようとする姿勢であって、前者では、川瀬氏自身の「内心」を救い出し、後者では、twitter上の友人に<川瀬さんは悪くない>と慰めてもらうことによって、自らの内面に<癒し>を施して、内面を救い出すことが志向されているように見える。また、私には、川瀬氏においては、朝鮮学校排除問題をめぐる言説上の「立ち位置」確保が優先されており、その「立ち位置」と矛盾するような発言の社会的責任をとることが拒否されているように見える。 また、ここに、<佐藤優現象>と結託するリベラル・左派との共通性も見取ることができよう。私はかつて、編集部内での中国人差別発言に対する岡本厚『世界』編集長の対応に関連して、以下のように述べた。 「岡本氏やA氏には多分、「進歩的」で「良心的」な、「日本唯一のクオリティマガジン」の担い手である自分たちが、差別発言などするはずがない、という大前提があるである。自分たちの発言が差別発言のはずがないのだから、それを差別的だと感じたり不快に思ったりする方が異常であり、非常識である、という図式だ。」 「この差別発言に関する岡本氏とのやりとりは、『世界』が自発的には、佐藤優を使い続けることをやめるはずがないことを、よく示していると思う。佐藤を使い続ける(使い続けてきた)ことへの批判は、「岡本厚『世界』編集長の「逆ギレ」」)で書いた、岡本氏による私への電話対応と同じように、徹底した憎悪を持って返されるだろう。自分たちのような「進歩的」で「良心的」な、「日本唯一のクオリティマガジン」の担い手が、佐藤と組んでいるからといって、社会に悪影響を与えるような雑誌であるはずがない。こんなに「良心的」な誌面を作っている(作ってきた)のだから、自分たちにそのような悪意があるはずがない。批判するのは、自分たちの思いを理解しようとしない、非常識かつ異常な輩である、と。」 私や「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」の署名者たちが問題にしているのは、佐藤優を起用することの社会的効果(悪影響)であるが、岡本編集長ら<佐藤優現象>を推進する人々はこの社会的効果(悪影響)への批判について何らまともに答えず、自分たちの「内心」は違うとしている。これは、「寛容」論の社会的効果(悪影響)について何らまともに答えず、自分の「内心」は違うとしている川瀬氏の態度と大変似ている。川瀬氏が私について、「ブログから判断するに、思いこみがどうも激しいみたい」(⑥)、「不寛容な「味方」って厄介」(⑧)、「倫理的にどれだけ自分が優位か」を味方内で競うゲームばかりに夢中になっている連中」(⑧文脈上、「これは金を指していない」という弁明は成立し得ない))、 「利敵行為」(⑩)などと罵っているのも、岡本編集長を彷彿とさせる「逆ギレ」である。こんなに「良心的」な自分にそのような悪意があるはずがない。批判するのは、自分の思いを理解しようとしない、非常識かつ異常な輩である、と。 ある意味では、川瀬氏は「正直」または「素直」なのだと思う。それが、①の「「やっぱ、twitterでの発言は、文脈(今までの生き方も含む)と切り離されて一人歩きして解釈される危険性があるなあ、と実感。」という発言によく現れている。 私はこの「今までの生き方」なる一節(これについては後ほど詳細に論じる)を見て目が点になってしまったのだが、佐藤優を結託するリベラル・左派の人々も、内心では同じようなことを思っているように思う。「今までの生き方」においてこんなに「良心派」として頑張ってきているのだから、佐藤優起用が何らかの「悪意」に基づいたものであるはずがないではないか、と。川瀬氏との違いは、後者の人々が一応は大人であるため、そのように「今までの生き方」で正当化しようとすることが、かなり恥ずかしいことであり、かつ説得力を欠いていることを自覚していると思われるがゆえに、大っぴらには発言しない点にある。 こうした同型性は、川瀬氏が、佐藤優の本を少なくとも2009年12月初頭までは「手に取ったこともなかった」 がゆえに、極めて興味深いのである。 5. また、川瀬氏の⑨の発言は、その友人の「セクトとか内ゲバとかの論理と似ているね。」という発言への賛同として述べられている。どうも川瀬氏は、私を、「倫理的にどれだけ自分が優位か」を競うために、「敵」よりも「味方」を攻撃する、「内ゲバ」をもたらす「セクト」的な人間、と描こうとしているようである。そのことを示す川瀬氏の発言を改めて列挙しておこう。 「僕はこういう運動に関しては「小異を捨てて大同につく」ことを心がけていますので、「朝鮮学校差別反対」のところでは連帯すると思います。彼が嫌がろうとも。 」(⑥) 「不寛容な「味方」って厄介だな。原理原則、理想論は重要。でもそれに拘泥して向こう岸にいる「敵」よりも目前の「味方」を攻撃するってのは勘弁してもらいたいね。「倫理的にどれだけ自分が優位か」を味方内で競うゲームばかりに夢中になっている連中とは、デモは一緒にするけど酒は飲めないな(笑)。 」(⑧) 「でも「お前は俺が認めるほどピュアじゃない」って言われてもなー。方向性は一緒なのにね。 」(⑨) 「あなたが僕にとっては「厄介な味方」であることは確認できました。僕の側からあなたを「排除」することはありません(あなたの側からされるかも知れませんが、こっちの知ったこっちゃありません)。」 (⑬) 何から反論してよいやら迷うのだが、まず、本来は川瀬氏が、二つの論点について反論すべき問題であるにもかかわらず、それをしないどころか、私に関する歪曲した像(そもそも「お前は俺が認めるほどピュアじゃない」などという発言は、該当する一節すらない)を描いてデマを垂れ流し、自分への批判を封じるという、社会人としておよそ信じ難い行為を行なっている点が指摘できよう。 川瀬氏のように、「敵」と「味方」の自らの線引きを勝手に他人に押しつけ、自らへの批判を「敵」に対する「利敵行為」などとする態度こそ、典型的に「セクト」的なものであることは言うまでもない。川瀬氏が何かの政治活動に関与していたようには見えないのだが、行動様式(だけ)は愚劣な左翼のそれを忠実に引き継いでいる点が興味深い。 また、私の元の文章が、なぜ「向こう岸にいる「敵」よりも目前の「味方」を攻撃する」ものになるのかもさっぱりわからない。私の元の文章は、「「国益」論的な枠組みに基づいた「寛容」の論理は、今のところそれほど目立っていないから放置しておいてよいとしても、リベラル・左派メディアがいかにも好みそうな論理であるため、反対論の主流にならないよう注意しておく必要がある。」と述べているように、「寛容」論と朝鮮学校排除論の論理の近似性を指摘しつつも、排除論より優先的に「寛容」論を叩くべき、としているものではない。これは後で、川瀬氏が私淑する内田樹の議論を取り上げる際により詳しく論じるが、「寛容」論が反対論の主流になれば、まともに対抗できないだけではなく、普遍的権利に依拠した反対論が弱まる結果、今後より酷い施策すらもたらされかねないことを指摘したものであり、だからこそ「寛容」論が反対論の主流になることに警戒しておくべき、としたものである。意図的なのか単に読解力がないのかは知らないが、川瀬氏は、問題を「敵」と「味方」の二項対立に問題を過度に単純化している。私は川瀬氏の歴史論文を読んだことがないが、こんな認識でまともな歴史論文が書けるのだろうか。 以下の発言も、同質の問題を孕むものである。 ⑪「僕の発言は、「普遍的人権」を信じているからこその発言なんだけど(敢えて右も左もみんな大好きな「国益」から考えるとしても、という文脈なんだけどね)、批判者及びこれを引用してきた誰かさんは僕という人間を判っていらっしゃらないとしか言えないですね。要するに、僕が府知事や大臣だったら、内心はどうあれ(ここ重要)、寛容な態度を取って、「向こう」に好き放題言わせないくらいのずるさは発揮するのにな、ということです。本心からでなくてもそういう態度は結局朝鮮学校の生徒の利益になるだろ、ということですよ。」 ここで川瀬氏は、自分は、「府知事や大臣」が「ずるさ」から「寛容な態度」をとることが「結局朝鮮学校の生徒の利益」になると言ったに過ぎない、と反論している。だが、このような反論のあり方自体が、印象操作または基礎的読解力の欠如である。「府知事や大臣」が「ずるさ」から「朝鮮学校の生徒の利益」になる「寛容な態度」をとるならば、それが良いことであることは当たり前の話である。 私が問題にしたのは、そのような説得力がほとんどない(その理由は後述する)論理が反対論の主流になることである。ここでの川瀬氏の発言は、あたかも私を「府知事や大臣」が「ずるさ」から「寛容な態度」をとること自体を否定しているような、「「倫理的にどれだけ自分が優位か」を味方内で競うゲームばかりに夢中になっている」人物であるかのように描くものであり、極めて悪質であると言わざるを得ない。 そもそも、ここでは「ずるさ」などという用語を使いながら距離を置こうとしているが、川瀬氏の元の発言は、「府知事や大臣」が「ずるさ」から「寛容な態度」をとることと川瀬氏自身の政治的立場を截然と区別したものとして打ち出されたものではない。「批判者及びこれを引用してきた誰かさんは僕という人間を判っていらっしゃらないとしか言えない」などと言うが、川瀬氏の「内心」は違う(これも後述するように、極めて疑わしいのだが)ということを仮に認めたとしても、元の発言はそのようなものではないのだから、「僕という人間」など知りようがないではないか。したがって、川瀬氏の「内心」は違うということを仮に認めたとしても、問題は川瀬氏が主張するような私の「誤読」ではなく、川瀬氏の説明不足、文章表現の過誤にある。むしろ、ここでの印象操作または基礎的読解力の欠如、責任のすりかえ、押しつけといった点に、「僕という人間」(川瀬氏)の本質がよく表れていると思う。 また、そもそも「敵」と「味方」という区分を自明視し、「味方」(自分)への批判を「利敵行為」として封じるという川瀬氏の態度は、社会人として、また言論人として異常である。市民の社会的活動や、政治的意見の形成の前提において、自由な言論の交換が不可欠であることは自明であって、批判に対しては、反論するなり無視するなりすればよいだけの話である。組織的なプロパガンダならば別だが、単なる一市民の批判で打撃を受け、「利敵行為」などとヒステリックに主張するような「運動」など、その体質はさておき、脆弱すぎて政治的に無価値だろう。自由主義社会というのはそのような前提の下で成り立っている社会であって、川瀬氏の、社会常識の欠如に呆れざるを得ない。 川瀬氏のこのような認識の背景には、市民の自由な意見交換への否定があるが、それは端的に愚民観であり、時代錯誤な左翼エリートの世界観そのものである(前述のように、川瀬氏が奇妙なのは、川瀬氏自身は「左翼」ではなさそうであるにもかかわらず、体質だけは濃厚に引き継いでいる点である)。 そもそも、私は別に、川瀬氏が「味方」だと主張するであろう左派向けに文章を発表しているわけではなく、一般読者向けに書いているのであるから、なぜ川瀬氏のような時代錯誤な党派的な論理に従わなければならないのかさっぱりわからない。ついでに言うと、「味方」「敵」という区分を用いるならば、むしろ、「味方」相互でこそ言論の応酬と意見交換が活発になされるべきであることは自明である(念のために言うが、川瀬氏の発言への批判も含めた私の一連のリベラル・左派批判は、こうした考えに基づくものではない。「味方」と見なしているわけではないので)。 また、川瀬氏が批判を控えるべきだとする「味方」というのはどの範囲まで広がるかもさっぱりわからない。川瀬氏の主張を適用すれば、読売新聞は社説で朝鮮学校排除に反対しているから、「味方」ということになるだろう。また、「敵」を在特会に絞れば、今回の朝鮮学校排除には賛成している人々のうち、多くの人々も「味方」ということになるだろう。川瀬氏が言う「味方」「敵」という区分の範囲は、ことほどさように曖昧なものであって、ほぼ無意味である。このような恣意的な「味方」「敵」区分を楯にとった批判の封じ込めが、自らが批判された場合に用いられる常套句であるように、川瀬氏のこうした発言も、つまるところ、「俺を批判しないでくれ」という(後述するように、川瀬氏の発言の随所に見られる)幼児性の発露に過ぎないように思われる。 また、⑥や⑬のように、金は嫌がるであろうが、「「朝鮮学校差別反対」のところでは連帯する」などと改めて強調するのも奇妙である。川瀬氏が何を指して「連帯」と言っているのか不明だが、川瀬氏の元の文章のように、「寛容」論の立場で「連帯」しようと言うのであれば、少なくともそれは私の批判に答えてから言うべきであろう。川瀬氏は予想される私の「拒否」を、私に関して歪曲化した像に基づいた、私の性格上のものとした上で、それに対して自分を優位に立たせようとしている。「寛容」論が孕む外国人の客体化という論理を、当の在日朝鮮人に押しつけることの問題性が、全く分かっていないらしいのである。どこまでこの人物は独善的かつ傲慢な人物なのだろうか? ところで、これらの川瀬氏の発言は、北村肇『金曜日』編集長が、佐藤優起用の問題点について質問された際に答えたらしい回答と、極めて似ていると思う。ブログ「ヘナチョコ革命」によれば、北村編集長はそのような質問に対して、「「味方の中に敵をつくらず、敵の中に味方をつくる」が私のポリシー」、「異論を排除しない。排外主義ゆえ戦後の左翼・革新運動は力を持てなかった」、「自説は控える(「味方の中に敵をつくる」ことになりかねないので)」といった要旨の回答を行ったらしい。 http://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/25801123.html http://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/25820537.html 「敵」「味方」という単純な二項対立の自明視と、それに基づいた「味方」陣営内の批判の封殺、自らが行っていること(佐藤優の起用、「寛容」論の肯定的評価)の社会的効果(悪影響)は一切無視する姿勢、自由な言論の交換への否定的態度など、川瀬氏そのままである。川瀬氏の問題は、川瀬氏個人の性格的なものだけではなく、現在のリベラル・左派内においてかなり共有されている心性が露呈したものとして、捉えるべきではないかと思う。
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