HOOKSOFTも今年で100周年。

  この区切りの良い年に、今までの出来事を振り返っておきたい。




 



  明治43年、今の日本とは似ても似つかない、もちろんインターネッツも無い時代。

  断髪令から40年程度、もうマゲを結う人もいなくなった時代。

  そんな時代にHOOKSOFTは産声を上げた。


  大正デモクラシーなど、自由主義の空気に押されて

  4月1日*1、文芸誌「白樺」の創刊に便乗して、ジョン・タロウ・フジワラ*2、中野太一、

  川波宗佑、菅原一之助の4人で結成。


  結成当時は、資料から見ても目的が曖昧であった事が散見される。

  ジョン・タロウ・フジワラの家系が祖父の代からの豪商であることから

  投資事業の一環であったとも思われるが、

  収益が出ている記録がないことから、この説は疑わしい。


  川波宗佑の好物は「ライスカレー」であったとされるが、当時カレーは高級品であったため

  この記録も疑わしい。*3


  4人の担当(原画、シナリオ、音楽など)が詳しく残されていないため、憶測の域を出ないが

  ジョン・タロウ・フジワラがプロデューサー、川波宗佑がディレクターであった可能性が高い。






 



  1923年の関東大震災にも負けず、ひたすらに生き続ける設立当時の4人も、

  この頃になると後進に道を譲って隠居していたと思われる。


  詳しい資料がないのは、1944年の大空襲などの被害によって、

  その大部分が失われた事による。


  当時の資料は大変貴重であるが、

  HOOKSOFT資料収集家として有名なトムジュリー・バーベラ氏*4協力の下、

  その当時の事務所であると思われる写真を入手。


  右の写真がその事務所の写真であるが、人物が写っていないため、

  生活、制作活動などをうかがい知ることは出来ない。

  写真裏に1946年5月の記入があるので、

  戦後の復興時期の事務所であると思われる。


  当時の状況から見て、この頃のHOOKSOFTは

  紙芝居などの物語、絵などを制作していたのではないだろうか。


  資料によると、この頃一度半解散状*5態に陥ったようだ。





 



  1945年の終戦後、復興の道を辿る日本と平行するように、

  HOOKSOFTも復興を遂げる。


  この頃になると紙芝居にかわり、漫画などが流行りだした。

  それに便乗するように漫画などの制作もしていたようだが、

  鳴かず飛ばずだったようだ。


  資料に残る当時の原稿を見ると、紙芝居も制作していたようだが、

  完成品が残っていない*6事が悔やまれる。


  右の資料には、袈裟を着ている人物が見て取れる。

  着色、仕上げが行われる前の原画だと思われるが、

  どの様な物語だったのだろうか。


  当時のメンバーの名前等は、ディレクターの川波潤一郎以外資料に残っていない。

  資料には無いが、川波潤一郎は川波宗佑の息子だと思われる。*7






 



  1990年、人材流出による二度目の解散の危機が迫るが、

  ADF(ALEX and David Foundation)によるM&Aにより危機を脱した。*8


  ADF主導による事業の併合等により、紙媒体の製作から紙の自主生産へ、

  さらに広報媒体の取り扱いなど、事業が多岐にわたるようになる。


  90年代の資料に現在のHOOKSOFT第一弾「雨あがりの猫たちへ」に

  よく似た企画書が残っているが、当時と現在のスタッフで共通の人間が居ないことから、

  直接の関係はないと思われる。


  1999年、大予言による地球最後の年に、現在のスタッフが集まり始める。

  現在のHOOKSOFTの歴史は 「_summer」特典の「HOOK VISUAL BOOK」などに詳しいので、

  割愛させてもらう。


  現在、新社屋の建設が始まっている。

  これをバネにHOOKSOFTはさらなる高みを目指して羽ばたいていくことだろう。



  早足で現在までの歴史を追ってみたが、いかがだっただろうか。

  もう少し詳しく解説をしたかったのだが、それは又の機会に取っておくことにしよう。


  今回の特集はここまで。

  ではまた次の機会に。



















 



01

上段右からジョン・タロウ・フジワラ、川波宗佑、中野太一、下段で調子こいてるのが菅原一之助。


















 




 

入り口の扉が外れてしまっている。かなり荒れているようだが、ここで制作活動が行われていたのだろうか。
右下のロープの用途も気になるところ。
























 



 

当時の原画。かなり痛んではいるが、残っている資料の中では比較的保存状態が良いほうだ。人物が来ているのは袈裟だろうか?



















 



 

HOOKSOFT新社屋完成予想図。 グループの大半を収容する大規模都合施設としての運用が期待される。 なおHOOKSOFT開発室は第三層に設置される予定。
 


























*1
資料では4月1日の結成当時に「ハレー彗星の尾から運命を浴びた4人、ココに集まる」と書かれている。しかしながら、ハレー彗星の接近は5月19日であることから、当時からのねつ造癖が伺える。


*2
ジョン・タロウ・フジワラ(1883〜1952)
藤原家の次男。
よく誤解されているが彼は純粋な日本人でありジョン・タロウ・フジワラは筆名である。。本名は藤原丈太郎。


*3
廉価のライスカレーが当時8銭であった。当時の日雇労働者の日当が平均1円63銭であったことを考えると、高級品である。






























*4
トムジュリー・バーベラ(1964〜)
有名なHOOKSOFTの資料収集家。父は「明日の記憶」などで有名な作家テッド・バーベラ。
















*5
1949年当時の資料に、その記述があるが、詳しく書かれていないので理由は不明。






























*6
原画は数枚残されているが、完成品は一枚も残されていない。











*7
当時は親の仕事を次ぐことが当然のように行われていたと思われるので、資料には無いが、他のスタッフも創業メンバーの子孫であった可能性は高い。











*8
ADF代表のアレックス・リョウゾウ・フジワラはジョン・タロウ・フジワラに名前が似ているが、全くの他人である。
100th